表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

第9話

 リリー、アーシャ、ユラの三人は、リーリエ王国の軍隊に連れられて、予定通りゲルテハルト国に戻った。

 しかし、飛び込んできた景色は、目を疑うようなものだった。

 あれだけ長閑で美しく、ゆとりのあった街並みは今となっては焼け焦げた廃墟しか残っておらず、石畳だけが、ここに街が、文化があったことを示す物となっていた。それ以外の人工物は見渡す限り破壊されている。まるで、そこには最初から何もなかったかのように。

 国境を越えてすぐの小さな集落は辛うじて生き長らえていたが、アーシャが一時の住まいとし、ルーメイが業務に追われ、日々メイドたちが働いていたあの建物はもうなくなっていた。そこには瓦礫だけが積みあがっている。

「約束通り……戻ってきましたよ。師団長」

「……そうね。約束通り、戻って来たわ」

 ルーメイの所在をリーリエ王国の兵士たちに尋ねたが、全員が首を横に振った。

 街道を歩けば見えるのは、焼け焦げた廃墟と崩落した住居、そして殺害された罪なき人々。左右から啜り泣くような声が聞こえ、その声は途切れることなく街中まで続く。

 住宅街、官公庁街であるリヒスタグ、かつての国の独立と繁栄を示していたモニュメントという名の巨大な建物は全てが破壊され、整然と並ぶ石畳だけが残されていた。瓦礫が道の左右を埋め、巨人が砂遊びの感覚で建物をつぶしてしまったような痕跡のようになっている。

 その日の夜。行く当てがなくなった彼らは、リヒスタグから少し離れた場所にあった建設予定だったはずの建物を宿とした。

 内装は非常に美麗で、今までのゲルテハルト国に残っていた長い歴史を感じさせるような木の床ではなく、切り出された美しい石材が床として使われている。外観はほぼ完成しており、今までの文化からは考えられないような新しい建築様式だった。

 そんな新しい時代の芽吹きともいえるこの建物の中で、彼女らは暗がりの中蠟燭を灯し、状況を整理する。

「まず、先ほどすれ違った部隊からの情報によれば、街は部隊が到着したときには既にこのような状態だったとのこと。敵軍が急激に進軍した挙句補給状況は悪く、それを利用して首都を奪還し、今はゲルテハルト国の領土回復に努めているとのことでした」

 部隊を取りまとめる一人が地図を指さしながらアーシャに説明する。

「反撃が成功したのならそれで構わないのだけど、民間人が無差別に攻撃されているようだけど、その点については?」

 アーシャは間を置かずにそのことを聞く。

「ええ。その点については生存者からの証言があり、少数が暴力的な行為を働いて街を去っていったと」

 アーシャは、街中で見かけた市民のことを思い出す。

 花柄の服に赤い血を滲ませ、子の名前を叫び続ける母親。貧相な服に傷のついた身体で歩き回り、涙に息を詰まらせながら親を探し求める幼い幼児。道の上に横たわった遺体の手を優しく持ち上げ、口を近づける者。華奢な腕に鋭い木片が突き刺さり、手当てを受けることができずに道端に座り込む女児。壊れた家の前で、涙をこらえながら親の帰りを待つ男児。正しく処理を行わなければ毒物になりかねない食料にかじりつく者。

 二度と手に入ることのない赤子を失い、二度と見つけることのできない母親を失い、二度と出会うことはないであろう愛する人を失い、何ら罪状がないにもかかわらず、不要な苦痛を受け、生きていくうえで必要とするものを何から何まで奪われ、今日明日の命をつなぐための食べるものもない。

 失い、奪われ、痛み、苦しむ。

「私の……私の息子はどこに!」

 喉が壊れてしまうのではないかというほど叫ぶ。

「おとうさん。おかあさん。どこにいるの……?」

 手を差し伸べてしまわなければ今にも消えてしまいそうなか弱い声。

「ああ……どうして……」

 血に塗れた冷たい手を取り、涙に揺らぐ声。

「痛い……痛い……」

 知らなくていいはずの苦痛を味わい、喉を締め上げられるようなつぶれた声。

「…………」

 昨日まで出入りしていた自宅は、扉も骨組みも跡形もなく消え去り、言葉を失う。

「…………」

 シャキシャキと爽やかな音を立ててかじりつくのは、処理が行われていない穀物。本能がその毒物の接種をやめろと言わんばかりに手に力を入れ、引き離そうとする。しかし、その男はその本能を食欲によって制し、毒物を口にした。

 文明が衰退したわけでも、荒廃して消え去ったわけでもない。

 しかし、一時の超大国であったゲルテハルト国の命運、そして隣国たる騎士団国シュマイジ、リーリエ王国、そしてレルカーリア国の命運も同時に岐路を迎えていることはこの状況を見るまでもなく明らかだった。

 この現況を容認し、苦しむ民を横目に見るのか。

 はたまた人を殺して領土と主権を回復し、ルブエール共和国に応分の賠償を求めるのか。

「……炊事ができる人はどのくらいいるかしら。もちろん、私も手伝うわ」

 アーシャは囲むように立つ兵士たち、そしてリリーに目配せをしながら自身の服の袖を整える。

「私はもちろんできますよ」

 自信ありげに長らく連れ添ってきたリリーはアーシャに目を向ける。

 その場にはいなかったが、後に部隊が連れ添っていた炊事や物資補給を専門とする兵士たちがその後に名乗りを上げた。

「ああ。被害を受けた国民への支援は我々も必要だと認識しているところです」

「それは良かったです」

「我々は食料に困っている国民のために、補給部隊からは別途、食料配給を受けております。それを活用して被害者の支援に当たれと命令がありました」

 かき集めた食糧で、その場にいた数十人分は賄えるであろう簡単な食事を作り、鍋に火をかけながら温かいうちに集まってきた人々に提供した。食料保管庫についても破壊され、敵軍に持ち去られた今となっては、「料理」として提供される食事は大変貴重なものとなる。

 何度も感謝の言葉を受け取りながら、一人分の量こそ少ないが、老若男女問わず食料を配給した。

「ここで一つお願いがあるのですが……」

「何かしら?」

 配給の手伝いを終えたアーシャは、リーリエ王国の補給部隊の担当者と話をしていた。

「レルカーリア国は土地の面積的には小さいですが、肥沃な土地を多くお持ちだと聞いたことがあります。我々に貸与いただければ、さらなる食糧生産を行い、困っている人々にお届けできると思うのですが……いかがでしょうか? というのも、我が国はここ最近雨が少なく、生育した木に十分栄養がいきわたらず、このままでは不作となる恐れがあるのです。もともと備蓄用として生産されている食料ですが、これを機会に転用できないかと思いまして」

 補給部隊の担当者は、自国の景色を顧みるように、机の上で揺れる蝋燭の日に目を向けた。地面がひび割れるほどではないが、その植物の生育には不十分な雨量であり、例年と比べて果実が小さい状態だという。

 高度な技術を持ったリーリエ王国では、木をそのまま掘り起こして別の場所に植える植栽の技術が発達しており、さらには薬品による成長促進も可能だと補給担当者は話す。さらには、これから収穫期を迎えようとしているため、少し時間は要するが完全に新たに土地を開拓して一から収穫を待つよりはずっと早く、十分な食料を国民の元に届けることができる。

「自由に使ってもらって構わないわ。細かい処理は終戦時に行うことにしましょう」

 事実上の国を治める立場であるアーシャは即断即決で取り決めを行い、図書館にある地図を参考にして土地を使うように勧めた。肥沃な土地とそうでない土地が区分けされた農業用の地図や、農業の技法が書かれた書物ももちろん蔵書されている。

 アーシャが図書館を後にする際に、終戦までの間はリーリエ王国の所轄とすることにし、終戦後に返還するという取り決めを行った。そのため、今はリーリエ王国の技術者たちによる図書館の調査が行われている。

 補給部隊の担当者は嬉々として礼を言い、部下にすぐ指示を出した。一人は馬に乗って本国まで伝令に向かい、他の数人はこちらで調達できそうな苗や種となりそうなものなどを探すために夜の街へと向かった。

「最近の夜は晴れ続きね」

「そうですね。星がいつもよりも多く見える気がします」

「息つく暇があればやるべきことをやらないといけないのだけど、どうしても耽ってしまうようね」

 アーシャは満天の星空を見上げて言う。

「もう少し落ち着かれてもよいのですよ」

「そうね……」

「では、この飲み物を飲みきるまでは、休憩ということにしましょう」

 リリーは窓枠に飲み物の入った陶器を置く。カタンと音を立ててその場に置かれたそれは、ほんのり甘い香りがした。

 リーリエ王国の兵士からもらった茶葉に花の蜜を混ぜたものだとリリーはいう。

 陶器を少しだけ傾けて喉に流すと、その飲み物は鼻腔に花の香りを残して、体に一つのぬくもりを宿した。

「旅に出たと思えば、ルーメイさん、ユラさん、そしてメイドのみんなと出会い、落ち着いたと思えば戦争が始まって、図書館に行って帰ってきたら国が滅びかけているんだもの。時間の流れは無慈悲にも早いものね」

「私も、ついていけている気がしません。でもこうして生きていられるのも、不思議だなと思います」

「そう思う時は、誰にでもあるのかもしれないわね……」

 アーシャは遠いまなざしで夜空を見つめる。薄い雲に簡単に隠れてしまう星もあれば、それだけでは隠れないといわんばかりに強い輝きを放つ星もあった。

 また一口、茶を口に含む。

「あくまでも私の推測にすぎませんが、忙しいという状態が終わることはないのだと思います。きっとアーシャ様は今も終戦までのこれからも、終戦時の講和会議においても、その後の戦後処理においても、レルカーリア国の復興という面においても、これからしばらくの間は、多忙な日々を過ごされることでしょう。決して、大変な苦労をするという意味で申し上げているのではありません。ある意味で、そのすべてがアーシャ様の人生を象る事象であり、負の側面というのは僅かだと私は考えます」

「もちろん、私だって悲観的に考えているわけではないわ。レルカーリア国の唯一の貴族として果たすべき使命は山ほどある。そして、私はできる限りその使命を果たしたいと思っているもの。今回の食糧支援だって、その一環だと私は考えているわ」

「その信念の強さこそが、いまのアーシャ様を築いたのかもしれませんね」

「この世に生を受けてから十余年、決していいことばかりではなかったけれど、多くのことを学んで今の私があるのは揺るぎのない事実よ」

 アーシャがそう強気に言い切ると、リリーもそれに同調するように優しく、深く首肯した。

 そうこう話しているうちにアーシャは注がれた茶を飲み切り、陶器を置いた際にはカタンと軽い音が響く。飲む前は紅く透明な液体が月明りに照らされ、それを満たしていたが、今はただの白い陶器だけが残っている。

 アーシャは僅かに残った茶を口の中に注ぎ入れた。

「少し早いけど、私はそろそろ寝ようかしら」

「さようでございますか。それでは下げさせていただきますね。おやすみなさいませ」

「ええ。おやすみ」

 翌朝。リーリエ王国からの更なる増援部隊の伝令兵が彼女らの寝泊まりする建物を訪れ、リーリエ王国政府とゲルテハルト国首脳部のやりとり等、様々な情報を残して戦場へと向かっていった。

 新たに明らかになった事実は街中に散らばる瓦礫の数ほどあるが、その大半が軍の兵士に宛てた命令の内容であり、アーシャの元に届いたのは直接関係している情報のみだった。

「まず、第一に図書館で捕虜として扱っていた女性兵士はこちらの言語に堪能であり、スパイとして活動していたそうです。現在は事情の聞き出しを行っていると。第二に、ゲルテハルト国は現在南北に分断されており、首都陥落時に政府幹部の大半と軍の指揮官の大半が拘束、処刑された模様で、現在北側では残存軍が敗走を続けているとのこと。第三に、リリー様に対して招集命令が出ております」

「私に……ですか?」

 書類の整理をしていたその手を止めて、リリーは声のする方向を振り返る。

 兵士は静かにうなずき、少し厚紙で、押印された召集令状をリリーに押し付けるように手渡した。

 その紙には招集されるリリーの使命と、集合場所、そして与えられる任務が記されており、軍からの命令に背くことのできないリリーは、この命令を飲むほか選択肢は存在しない。

 紙を裏返したが、それ以外には何も書かれていない。

 本来であればより形式的な文体かつ決まった書式で送付されるが、指揮系統が崩壊した今、指揮官となりうる存在を探し求めていると兵士は続ける。

 リリーは書類を見ながら口を噤む。

召集令状を持つその手は確かに力が入っていたが、微かに震え、力が抜けそうになるのをこらえているようにも見えた。その紙を見つめる瞳は、何度もその文章を目で追う。

「リリー」

 アーシャはペンを持つ手を止め、優しく名を呼ぶ。

 リリーは瞳の色を変えて手に持っていた書類を指先に持ち替え、整った姿勢、真剣な眼差し、一使用人としての佇まいをして、

「何か御用でしょうか?」

アーシャの方を向いた。

「迷っているようね」

「なんのこと――」

 リリーが召集令状を服の内側に静かに忍び込ませようとしたその時、アーシャが召集令状を指さす。するとリリーは、再びその紙を手に取って、もう一度その内容を見た後、目を合わせた。

「……私は、確かに士官学校使用人専攻科を卒業しました。師団長や参謀にはなれなくても、それを支えられたら、と」

 リリーは揺るぎない声を出そうと身体のこわばりを抑えるが、それが帰って緊張を引き起こし、ひきつった声で話す。

「戦術は、学んだのよね?」

「もちろんです」

「そう……。前線の兵士は、今も休むことなく戦っているわ。政府が崩壊しようとも、軍の指揮系統が崩壊しようとも、愛する祖国のため、愛する家族、恋人、友人、見ず知らずの人のため、戦っている」

「……見捨てるつもりはありません」

「では、理由を聞かせてもらおうかしら」

 集合すべき場所にたどり着くまではそう時間はかからず、時間にも相応の余裕があった。敗走した存在するかどうかもわからない軍の司令部が彼女らの事情を考慮したとはとても思えなかったが、アーシャはその時間を存分に活用することにした。

 リリーはアーシャと二人だけの部屋で、自身が部隊を指揮することによって、部隊の誰かが命を失い、自らが部隊の指揮官という責任を全うできるとは思わないという理由を口にした。

 もちろんこれは軍の命令であり、逆らえば軍事裁判で刑罰を下される可能性があるため、最終的には受け入れるつもりでいるとも話し、腹をくくっている様子だった。

 しかし、その恐怖は簡単に払拭できたものではない。

 周囲の説得があろうとも、自らの指揮により数百人単位の人生にピリオドをつけてしまう可能性がある以上、そう簡単に引き受けられたものではなかった。

 それもそのはず、育成過程こそ師団長やその他高級将校と同様の過程を経て卒業しているものの、よほどのことがない限り使用人の過程を卒業した人材が指揮を執ることはない。そのはずだった。

 国家存立の危機に立たされた今、迷う理由も、そこから逃げる道も、存在しないに等しかった。

 生まれ故郷であるこの国を守り、盟友と共に反撃する。

 もちろん、簡単なことではない。

「一度始めた戦争は、どちらかが大敗を喫するまで、どちらかが辛勝するまで永遠に、際限なく続けられる。だから、新たな秩序を築くその礎として、犠牲を捧げなければいけない。おかしな話だけど、戦争が始まってしまった以上、そうするしかない。どれだけ平和を願ったって、終わらせなければやってこないものよ。そして、国を超えた平和、そして独立を実現する責任は、国民から信託を得た私たち政府と軍にある。リリー、あなたはその一翼を担わなければならない」

「……そうですね」

 私たちが矢面に立たなければ、私の望むものは手に入らない。

であるのならば、退路を断ち、矢面に立つ必要がある。

 リリーは瞳の色を変えてそう言うと、準備を整えるために自身が寝泊まりする小さな部屋へと戻り、遠出する準備を整え始めた。

 もう戻ることはないかもしれない。何かに巻き込まれて戻ってくることができないかもしれない。地獄のような戦場から生きて帰ることは、容易なことではない。もちろん、傷一つなく帰ることの方が珍しい。

戦争で負った傷は、祖国を守った証である。

誰かがそう言った。

しかし、本当にそうだろうか。

祖国を守るために、傷を負わなければならないのか。

祖国を守るために、愛する家族を、友人を、恋人を、見ず知らずの同胞を、失わなければならないのか。

そんな悲痛なことは、あってはならない。

家を出て、家に帰る。そのことが当たり前である日常を回復しなければいけない。

「それでは、行ってまいります。しばらくの間お傍を離れますが、いつの日か必ず戻って参ります。アーシャ様、お気を付けて」

「ええ。リリーも気を付けてね」

 今まで自らを体現するかのように着用し、愛でていたメイド服を部屋に置き、軍服の装いに身を包み、リリーはそのことを実証するべく、仮住まいを後にした。


 体を動かせば汗ばむような陽気の中、アーシャはリーリエ王国の補給部隊と共に被害を受けた街の復興支援に全力を尽くした。

 軍事パレードのために用意されていた乾燥した食料やお菓子を有効活用してそれをしばらくの間は配布し、栽培できた果物や穀物が届き始めると、それをユラが試験的に利用していた濃縮調味料と混ぜて国民に提供した。行き届いているのはほんの一握りでもあったが、毎日の食事を希望として、日を追うごとに笑顔を取り戻す人も増えていった。


 戦局も季節の進行とともに好転しているように思われたが、これからは本格的に気温が上昇し始め、南方の高地から雪解けが始まる。ゲルテハルト国内に目立った山脈があるわけではないが、雪解けが進むと川の水量が多くなり、付近の土はぬかるみ、渡河が非常に困難になる。

 そのことを考えれば、大河川を如何にして渡河するかは両軍にとっての懸案事項だった。

 国内を流れる大河川は数本あり、敵は撤退時に自慢の兵器で橋を破壊して撤退すると予想されるため、仮の橋梁を架けることになる可能性も考慮しなければならない。

その懸念を払拭したのは、リーリエ王国の誇る騎兵隊だった。

 数十年前、現在あるゲルテハルト国、騎士団国シュマイジ、リーリエ王国を一つにまとめていたゲルミタス帝国と呼ばれる巨大な国家が存在した。対するのは東側にあるルブエール帝国連邦。

 その国家の間で発生していた大規模な戦争のルカリーレ丘陵の戦いと呼ばれる丘での戦闘で、リーリエ王国の騎兵隊は戦局を一転させるほどの大きな戦果を挙げた実績がある。

 以来、リーリエ王国は過去の栄光に縋ることなく、次々に新技術を導入し練度を高めた。そして初の実戦となるのがこの戦争であり、両軍の参謀本部だけではなく、国民からも大きな期待を寄せられている。

 顔の全面を覆う重厚な兜に、柔軟性に富んだ革と鉄の素材を組み合わせた鎧。馬には垂れ幕のような金属の細い鎖を大量につなげたものがかぶせられ、馬の本来の姿が見えなくなる程にその密度は高かった。武器は長い金属製の槍であり、個人の特性に応じて剣を選ぶこともできた。

 優れた鋳造技術や加工技術によって成しえたこの鎧には、王家の紋章が模られ、国の威信をかけた部隊ともいえる。

 この重量のある装備を身に纏いながらも馬は力強く地面を蹴り、鎖がこすれる軽い金属音を響かせながら主要な道路を駆け抜けていった。

 野を越え、丘を駆け下り、しばらく川沿いを矢の雨を華麗によけながら駆けた。そして辛うじて残っていた橋を見つけると馬と騎手の装備重量に任せて橋の上に築かれた敵の防衛陣地を踏み荒らして強引に突破し、その先に橋頭堡を築く。近くで待機していた兵士たちがその後に続き、騎兵隊が孤立しないように後方から援護を行う。騎兵隊が通過したその跡地は、焼き払われた市街地とそっくりの形相を呈していた。

 指揮官を失って敗走していたゲルテハルト国軍の兵士も少なからず混じり、その威勢の一つとなる。

 一週間後、怒涛の反撃はその手を緩めることなく、北方の部隊と南方から攻め入った部隊が合流し、突出した敵に対する包囲網が完成した。

「アーシャちゃん。北からのお手紙だよ」

「繋がったのね」

「そうみたい」

 その次の日の夜、ユラが差し出したのは、北部からの手紙。

政府は北部に首都機能を移転し頑強に抵抗を続けていた。

男女問わず、すべての成人が徴兵され、リーリエ王国軍と共に防衛を続けているという。形式的な封筒の中身を開けると、最初にその内容が示された紙が入っていた。

しかし、政府は南部の首都を放棄したため、政府としての機能は十分に果たせておらず、軍の指揮系統も回復できていない。そのため、士官学校を卒業した全員を部隊指揮官あるいは参謀本部の人材として起用し、立て直しを計っている。

それまでの間は、リーリエ王国軍が全面的に領土回復に努めるという。

「……ルーメイからの手紙はなかったよ」

 アーシャがひとしきり読み終えると、ユラは目線を下げて首を振った。

「……そうね。なかったわ」

「どうしてるんだろう」

「あの人のことだから、きっとどこかで今も戦っているんじゃないかしら。少なくとも、そう信じるしかないわね」

 ユラはその言葉に納得のいかない様子で黙り込む。

「……悔しい」

 そう言い残して、アーシャから返された手紙を手に取って、彼女は自室に帰った。

 二週間後、包囲されて以降も強く抵抗していた敵軍は、全滅するまで戦闘を続けた。食料もなく戦い続けた兵士たちの姿は頬に影を作るほどやつれており、とても剣を振るい、民家を焼き払い、罪なき国民を殺害した集団の一味とは思えない、見るも無惨な姿で地面に横たわっていた。

 さらに、捕虜となった生存者の証言によれば、補給が追い付かず、これまで通りの火力も出せないという。あの新兵器についても、効果的な運用が難しい状況だと話した。

 この情報を得た両軍は、もう一歩踏み込んだ作戦に出ることとした。

 両軍の参謀本部を統括する組織を設立の上、反撃作戦を立案、準備を整えて反撃の日を待つ。

 それまでの間、アーシャが主に担っていた困窮した国民生活の立て直しも最低限必要な物資は安定的に供給できるようになり、供給する地域を日に日に拡大し、今日では首都の全ての地域に食料を配給することが可能となった。

 さらに、図書館から発見された建築技術に関する書物を用いて、大量に素早く建築できる仮の住まいを提供し、よりどころを作った。

「まさか建築技術書がここで生きるとはね」

「さすがあのでっかい図書館を作るだけのことはあるね」

 二人の目の前にあるのは、官公庁街から少し離れたところにある、新しく建築された大量の住宅を一つの建物としてまとめた新しい建物。

 従来の建築技法では、三階建て以上の建築を行う場合には石材を積み上げて柱とし、それを支えに床を張る必要があったが、今回見つけた技法の中には木材の接続部分に特殊な凹凸の加工を加えることによって木造建築でも石材構造に匹敵する堅牢さを持つことができるようになった。

木材の加工も自国で行うことができ、戦費増大により低迷する経済の雇用創出にもつながることから、アーシャは自主的にその企画を推進した。

政府機能が崩壊した現在となっては本来あるはずの承認も必要なく、同盟国からの支援として一定の権力を持っているため、それを利用した企画だった。

そうして完成したこの建築物。

壁は白く、窓は大きく、敢えて柱を目立たせるようなデザインのため、枠のついた四角い白い箱をいくつも繋げたような見た目をしている。簡素な構造のため二階以上の住民はベランダが利用できないものの、出窓を開けることができ、南向きのため一日を通して明るく、広さも十分だった。

基礎の部分は石で固められ、高床式かつ複数階層の建築になっている。

 デザインはユラが担当した。

「私たちはちょろいものでね、一塊として認識できたら勝手に美しく思うものだよ」

「デザイン……と言っていいのかしら」

「他の仕事しながら急いで作った建物にしてはよくできた方でしょ。専門じゃないんだからそんな求めないで」

「それもそうね」

 アーシャは優しい笑みを浮かべながら完成した建物を見る。

 各住戸がつながる廊下の先、つまり建物自体の出入り口には、小さな花壇が設置され、住民が日替わりで世話をすることになっている。

黄色、赤色、紫色、水色。住民が選んできた思い思いの花が並べられており、自然にありふれた色をこの狭い場所一つに凝縮して一度に楽しむことができそうなほどに色とりどりだった。

少し歩けば同様の形の住宅が建設途中であり、その奥にもまだ続いている。

「ここだけ切り取れば、とても戦時下とは思えないわね」

「ここだけなんか別の国みたい」

 木造の戸建てが主流の国に集合住宅という新たな様式が流入してきた以上、ユラの発言も無理はなかった。

 しかし、住民からはそれなりに評判がよく、外装のデザインはもちろんの事、娯楽を楽しむ国民性を持つ国民にとっては、すぐに隣人と関わることができるという点においても好評だった。

 アーシャはその点は予想していなかったようで、そのことを聞いた時は目を丸くしてそのことを聞いていたが、「楽しめるならそれ以上のことはないわね」と最終的には納得した様子だった。

 そうして仮設の住宅は数を増やし、二か月後には大きな被害を受けた大半の住民に仮の住居を提供することができた。

 活気を取り戻しつつある国内と比べ、前線の状況はあまり芳しくない。

 晴れる日が多くなり、泥濘地帯に草花が生い茂るようになったことで著しい足止めを受けることはなくなったものの、敵軍の数が未だ足枷となり、前線の停滞を引き起こしている。

 国土はこのわずかな期間でほぼすべてを回復したが、撤退するまでの間に捕虜を強制労働させ、元の国境線に敵軍が長大かつ頑丈な要塞線を何重にも渡り建築しており、進撃を続けていたリーリエ王国軍も犠牲の拡大を考慮して一旦攻撃を中止することとなった。

その突破口が見えなければ戦線は動かすことができず、無暗に攻撃しようものなら大量の犠牲を覚悟の上で行わなければならなかった。


「ここの師団をこの浅瀬から登らせるのはどうでしょう」

「そこは数日前に弓兵がいるとの報告があったようですから、危険ではないでしょうか」

「予備の兵力があればそれで目を引きつつ多方面攻撃を仕掛けるのですが……」

「我が国には現在、遠距離武器を持つ兵士がおりませんから。どうなさるのでしょうか」

 仄暗い地下室で、地形が細かに描かれた作戦立案用の地図を見ながら頭を抱えるのは、参謀本部の人間ではなく、各師団長の元で勤務していた使用人。

 現在のところ各師団長が生存しているかどうかも不明であり、やっとの思いで参謀本部を移設したそこまでは良いものの、指揮を執る人間がおらず、結果として士官学校を卒業している使用人が代行で招集され、作戦の指揮を担当することとなった。捕虜の証言によれば、参謀本部の司令部ごと吹き飛ばしたため生存者はいないだろうと証言する者もいるという。

 使用人という職業上、女性が多い上に言葉遣いも非常に丁寧であることから、丁寧な言葉遣いとは裏腹に話されている内容は殺伐としたものだった。

 その使用人の中でも一際存在感があったのがリリー。

掟破りかつ自由な性格で知られているルーメイの師団で勤務していたというその実績に大きな信頼を寄せられ、今は反撃作戦立案の全責任を負う立場として、毎日地図を指さし、地図に線を引き、こめかみに手を当てながら日々刻々と変わる戦況に立ち向かっている。

そしてリリーは、地図にもう一本赤い線を書き足し、他の使用人たちが詰めている部屋へと向かった。

「お待たせいたしました」

「それでは、我が軍とリーリエ王国軍の共同反撃作戦についてご説明いたします」

 リリーが丸めた地図を机の向こうに向けて転がすと、そこには何本、何色もの線が引かれていた。下から上に伸びる線、上から下に伸びる線、途中で交わる線もあり、その内容は非常に複雑なものだった。一部の人々は、地図のとある部分を指さして何かを囁きあっている。

「単純明快かつ確実な作戦を提案すべきことは重々承知しておりますが、物量、火力で劣る我々にとっては、これが最善策であると私は判断いたしました」

 リリーはこの地図を見た人々の反応を伺いながら、細長い棒を手に取り、説明を始める。

「まず、現在の戦況を説明いたします。我々は先日まで敗走を繰り返していましたが、盟友リーリエ王国、騎士団国シュマイジの協力もあり、降伏文章を突きつけられる、すんでのところで国土回復に成功しました。そのため、戦前に我が国が保有していた国土の全ては政府の統治下にあります」

 リリーは元の国境線を細長い棒の先端でなぞる。現在はその国境線にほぼ沿うような形で戦線が形成されており、押されてそれを押し戻すまでの間に、要塞が建築されてしまったが故、戦線が停滞している。

「この要塞線を如何にして突破するか、先日までリーリエ王国軍の参謀本部と協議しておりました。まず、あの要塞を木端微塵に破壊できるような兵器は我が国もリーリエ王国も所有しておりません」

「では、どのようにして突破を?」

 別の使用人が疑問を投げかける。

 リリーはその質問に瞬きをして頷き、答えた。

「この度、古典的な方法ではありますが、投石器を用いて、浸透遅延型火炎壺を敵の要塞線に投げることとしました」

 浸透遅延型火炎壺。ユラが長らく研究していた兵器の試作型。

それが遂に完成し、今まで軍が使用してきたものよりもより激しく燃え上がるように薬品の配合を変更し、さらには燃焼材料を固体から液体に変更することによって、壺が割れれば燃料が広がり、一定時間の経過後、激しく燃えるように設計が変更された。

敢えて燃焼までの時間に遅延を設けているのは、敵の要塞内に流れ込み、隙間に浸透するまでの時間を考慮してのことである。

「噂の新しい兵器がついに完成したのですね」

「ええ。盟友、騎士団国シュマイジより派遣された技術支援員の力によって、この度開発に成功しました。さらに、兵士が携帯して運べる大きさのものも用意され、敵に投げつけて使用することができます。さらに、軍服の素材の違いを考慮して、我々の軍服には着火しにくく、敵軍の軍服には着火しやすくなっているそうです」

「そこまで考慮できるとはさすが技術立国ですね」

「私も詳しい原理はわかりかねますが、これを有効活用したのが本作戦です」

 この火炎壺については秘密裏に生産が始められており、リーリエ王国とレルカーリア国の鉱山資源を利用して加工を行った上で国内に運び込み、組み立てを行っている。すでに要塞線の突破に必要とみられる数は十分に揃えられており、前線の兵士たちも新しい兵器を使うその日を心待ちにしていると前線から伝令があった。

「つまり、本作戦を行うにあたり、要塞線は燃やすことにより無力化を試みます。部分的に夜間奇襲を行った偵察部隊からの報告によれば、敵の要塞線は急いで作られたため構造に抜けている部分が多く、本兵器も一定の効果が期待できるとのことでした」

 それからリリーは、本格的に作戦の内容を説明した。

本来なら口にすることのなかったであろう軍事的な専門用語を頭の中の辞書から引っ張り出して使い、ただのメイドとしてではなく、一人の軍人、一人の国を背負う人間として、綿密に練られた作戦の内容を口にした。

「この作戦には、我が国が持ちうる全ての国力を結集し、必ず勝利を勝ち取らねばなりません。我が国の特色ある文化は荒廃し、一つの文明が、一つの文明に消し去られてしまうこととなります」

 リリーは地図から目を上げる。

 周囲の人々の目線はリリーの方を向いており、また彼女はそれにこたえる形で、決意を固めたように話し続けた。

「本作戦における全責任は、立案者たる私が負うこととなります。本作戦により、多大な犠牲が生じるのは明らかです。しかし、国民より信任を得た政府により組織された我が軍は、国防というただ一つの責務を今、果たさなければなりません。国民から得た信を我が軍の矛とし、もって、その責務を果たすべく、皆様のお力添えをいただければと思います」

「一週間後、午前六時。戦場に太陽よりも先に、我が国に新たな一日の訪れを知らせる眩い光を見ることができるでしょう」


 日が昇る直前の午前五時五十分。

 前線では着々と準備が進められていた。各兵士に必要な時に使えるように一人三個の壺が支給され、南北に分断されていた頃には二人に一本だった剣の所有率も、今は予備の剣をしのばせることができるように補給状況も大きな改善を見せている。

 百年以上前に使用されていた投石器をもう一度製造し、大きな壺をくぼんだ場所に入れて、準備は完了した。

 来たる午前六時。各地で一斉に壺が投擲され、要塞線に壺が投下されると、大きな音を立てて壺が割れ、中から大量の液体が流出して土や石の僅かな隙間を伝い、要塞の中に侵入する。

 一分ほどが経つと、東の空が大量の蠟燭が灯されたように明るくなり、それを合図に前線で待っていた兵士たちは鞘から剣を引き抜いた。

 目指すは遥か東、ルブエール共和国の首都であるクワス。

 普通に旅をしようものなら一か月はかかるこの距離を、僅か二週間で駆け抜けるという一見して無謀な作戦は、快晴の空が見守る今日、始まった。

 リリーはその時点で作戦の指揮権を自身から現場にいる最高位の兵士に移管し、それぞれが適切な判断を下し、犠牲を最小化できるように試みた。

 用意できた兵士は決して多くはない。戦前には十七万人強いた正規軍も、今となっては五万人弱である。予備役を加えれば十数万人程にはなるが、リーリエ王国から派遣された正規軍八万人を加えても、敵軍の数にはおよそ勝てる見込みはなかった。

 しかし、この要塞線の無力化により数千、あるいは数万の戦力を削り取ることができ、一時的にではあるが戦力差は埋まるとリリーは仮定した。

 その隙をついてリーリエ王国の騎兵隊が戦線に穴をあけ、歩兵が後に続き、騎兵隊が包囲されぬように援護を行う。そして数日もすれば投石器が到着するため、防御を固めることができる。

 雪なだれのように衝撃力を持って敵陣に強引に食い込むこの戦法は、ルーメイが得意とした三段攻撃の戦法を発展させたものだった。

 翌日。完全な要塞線を無力化。

一週間後。建造されたすべての要塞線の制圧が完了した。

 リリーは報告が上がるたびに地図を書き直し、適宜作戦の修正を指示した。突出部と突出部を結ぶようにして敵軍を包囲し、部隊を細分化してより必要に応じた柔軟な部隊再編を可能にするなど、手元に来る何枚もの報告書を見ながら昼夜問わず修正を続ける。細かい部分は現場に一任しながらも、戦局を決定づけるような戦闘や進軍には、兵士の名簿まで参照して作戦を立案した。

 晴れの日には歩みを進め、雨の日には兵士に温かい食事を出し、曇りの日には火炎壺を投げる。

 そんな一日を幾度となく繰り返すこと六日。

 戦闘中も再建を続け、戦闘を続けてきたゲルテハルト国軍と、リーリエ王国軍は怒涛の勢いで進撃を続け、敵の首都を目前にして、一旦歩みを止めた。

「いい天気だな」

「ああ。旨い肉が食いたくなる天気だ」

「どんな天気だよ」

 そんなことを言い合いながら、配給された戦闘糧食を口にする前線の兵士たち。

 彼らの目的地である敵の首都は、小高い丘を越えたその先にある。

 清々しいほどの晴れ間の中、双眼鏡を使えば首都にある民家や建物、人々がどのような暮らしをしているかすらも覗けそうなほどに澄んだ空気だった。

 この丘はルカリーレ丘陵と呼ばれており、なだらかで均一な傾斜が長く続いたのち、崖のように急な坂があることが特徴であり、先の戦争で、最も多く犠牲を払った場所でもあった。

 そして今回も、その場所に軍を進めた。ここを乗り越えなくては、敵の首都にたどり着くことはおろか、この戦争を終結させることもできなかった。

 現在、その丘はゲルテハルト国軍の兵士たちが占領しており、命令一つあれば、首都に攻撃をすることも十分に可能な距離である。

 前線の兵士たちは、なぜ攻撃の命令が下されないのか不思議に思いながらも、戦闘糧食にかじりつく。

「これ終わったらどうするんだ?」

「いやぁ。それがまだ決まってなくてよ」

 口の中に入れた戦闘糧食で声をこもらせながらその兵士は話す。

「早めに決めといたほうがいいぜ。俺は地元にある会社で働くって約束してから出てきた」

「用意周到だなお前。俺はとにかく国が危ないからでてきちまった」

「それもそれで、かっこいい理由だな」

 一方の兵士は、余った戦闘糧食を味方に投げ、味方はそれを受け取るとわざわざ空に投げて口で挟むようにして受け取り、飲み込む。

 柔らかなベッドのように心地の良い丘に身を横たわらせると、ほんのりと甘い花の香りが彼らの鼻をかすめる。深く息を吸えば、甘く優しい香りが胸いっぱいに広がり、兵士の心を落ち着かせた。

「……最後、生きて帰れるかなぁ」

 自由に空を泳ぐ雲を見上げて言う。

「……弱気なこと言うなよ。戦争が始まって以来、ずっと生き残ってきたんだ。俺らはそうやわじゃない」

 兵士は鞘に納めてある剣を握り、その存在を確認する。その剣は確かに鞘に納められており、これまで兵士、そして国を守ってきたものでもあった。そんな剣を、自らの飼い犬のように撫で、愛おしく想う我が子であるかのように鞘越し触れる。

「途中で新しくなったこの剣、軽いし、よく斬れるからいい」

「リーリエ王国でもシュマイジでもないほかの国による支援って上官が言ってた」

「そうなのか? そりゃ感謝だな」

「昨日の話くらい覚えててくれよ……」

 兵士は息を零すように笑う。

 兵士の持つ装備一式は、軍の再建に伴って入れ替えられた。

 レルカーリア国の持つ製鉄技術を輸入し、窮地に立った最中でも極秘裏に生産が続けられており、まとまった数が用意できたため、作戦の実行直前にすべての兵士の装備を入れ替えた。剣の長さも持ち手の素材も同じものを使用したため見た目、使い心地に変わりはないが、軽量化と鋭利さの両立は相当な技術と設備がなければ成しえないものだった。

「……俺にはこいつがいる。きっと帰れるさ」

「そうか……そうだよな」

「俺はこの戦争が終わったら、可愛い子と結婚して添い遂げる未来が見えてる」

「そうなることを願うよ。……心から」

 空の先に何かを見る兵士と、寝返りを打つようにしてその兵士を見つめるまた別の兵士は、風が草を撫でるその音を聞きながら、作戦開始の命を待った。

 リリーは現地の偵察により得られた地形と市街図を眺め、綿密な侵攻計画を練った。少ない犠牲かつ短時間で占領するという二つの目標を達成するために、政治システムを司る官公庁街を集中的に攻撃し、要人を全員捕虜にする。

 その間に首都郊外で待機する軍は、補給と増援を絶つために左右に分かれて、両翼から包囲を試みる。さらに外側にいる軍には弱い攻撃を長時間仕掛け、戦線から離脱しないように気を引く陽動作戦が命じられた。

 また、今回の作戦において重要視されたのは、民間人への無差別攻撃を行わないことだった。自身の苦い経験から、罪なき民間人は殺害されるべきでないという当たり前のことを再び肝に銘じ、作戦初期に行われた投石器を用いた広範囲攻撃は行わないことが決められた。

「では、ここの七番街通りを右に行って、間にある地下水路を通って直接、官公庁街に出ましょう。封鎖されていたら上に出て大通りの一本隣を行くように伝えていただけるかしら」

「承知いたしました」

 書記はリリーの言ったことを一言一句漏らさぬよう、手を忙しく動かして、紙に書き留める。

「あとは敵がどれだけ防御を固めているかだけど、情報を基にするなら、官公庁街で最後の戦いを挑むことになるようね」

「その線が濃厚だと思われます」

「そうね。……であるなら、作戦はこれで決定よ」

 書かれた内容をもう一度見返して、中央上部に作戦の名前を記すと、封筒に詰める。蠟を溶かして封をすると、すぐ傍で待機していた伝令兵に手渡した。

 リリーが現地へ出向くように指示すると、伝令兵は敬礼をしてから部屋を後にした。コツコツと軍靴の音が響き、やがてそれは小さくなり消えていった。

 リリーは大きくため息をつき、一面に地図が広げられた自分の執務机と向き合う。一本一本の線が国にとっての生命線であり、この線のどれか一つが欠けてもこの作戦は成功せず、この国に明日はない。

 そんな地図を見つめていた彼女の瞳は焦点を失う。

「リリー様……?」

 書記の女性が体の傾きに反応して立ち上がる。

 リリーは薄い目で書記と目を合わせたかと思うと、ガタンと大きな音を立てて椅子ごと床に倒れこんだ。

「だ、誰か! リリー様! 大丈夫ですか!」

 悲鳴にも近しい声で書記の女性は叫んだ。


 作戦の実施日は、三日後の雨の日に行われることとなった。移動の大半を地下水路に頼るため、移動において雨の影響はあまり大きくはないと予想され、敢えてこの日が選ばれた。

 他方、敵の抵抗がどの程度なのかは全く見当がついておらず、敵の増援を断ち、いつでも支援に駆け付けられるよう、先に首都の包囲を終わらせた。また、敵の方面に通じる地下水路はすべて意図的に崩落させ、虚しく水だけが外に漏れ出している。

 中隊長が管轄する兵士を一か所に集め、全員にコップ一杯ほどの水を渡した。

 すると兵士は水を飲み干し、中隊長の前に整列する。

「諸君。首都包囲は完了した。最新の情報によれば、敵は老若男女関係なく武器を握らせ、強制的に動員して首都を防衛する気らしい」

 雨の降りしきる中、中隊長は声を響かせる。兵士の鎧や兜は雨に濡れ、分厚い雲の暗い光を鈍く反射していた。冷たい鎧に落ちる雨粒は鎧の色に溶け、景色を歪ませる。

「我々は、戦争が始まって以降、様々な戦いを経験してきた。この中には新人もいれば、経験を豊富に積んだ腕利きの兵士もいる。これまでの犠牲が、これまでの別れが、そして今からの犠牲、そして別れが無駄だったと思わぬよう、諸君にはより一層の努力を求めたい。我が国、そして盟友の興廃はこの一戦にある。よいか」

 兵士たちは靴をそろえて音を立て、その声に答える。

「最後に言っておく。民間人と思わしき人々は自身に危害のない範囲で攻撃をするな。我々の目的は首都の制圧、敵政府の降伏であり、民間人を標的としたものではない」

 またしても兵士たちは、兜の僅かな隙間から除く眼光で答えた。

「それでは、諸君の健闘を祈る。全員戦闘配置につけ。三分後、突撃の合図をする。解散」

 号令がかかると、兵士たちは確かな歩みで元の場所に戻り、装備品を一通り確認して、その合図を待った。

 ひたひたと鎧に降りかかる雨と、音を立てて草木にあたる雨。兜の中で聞こえる雨の音は海岸のさざ波のように途切れることがなく、その音だけが兵士の心に寄り添い、気を確かなものにさせていた。

「ついに終わるんだな」

「ああ。終わらせよう」

 地面に伏せて、敵首都を眺める二人。

「戦争が終わって無事帰れたら、またどこかで会えるといいな」

「ああ。必ず帰ってこよう」

「おうよ」

 それ以上の会話はなく、二人はただ地面に伏せ、すぐに立ち上がれる体勢のまま、合図を待つ。

 戦争開始から一年未満。一時期は窮地に陥ったゲルテハルト国は、盟友の協力を経て、今日ここに戦線を築いた。そして今、笛が鳴る。

 戦線を動かすために。首都を占領するために。敵の政府を降伏させるために。明日を、未来を変えるために。国を守るために。責務を果たすために。生きて家に帰るために。

 各自が思い思いの志を持ち、それを我が剣に託し、丘を駆け下りる。気づいたときには、二人は別々の方向へ走り去っていった。

 雨の中に響く兵士の雄叫びは、森の中に反響した。

 水たまりを踏み、岩を踏み、草を踏み、石畳を踏み、地下水道に足を下ろす。

 所々にある地上とつながる階段を無視して、官公庁街の方面へと暗いトンネルの中を歩みを進めてゆく。

 時折響く、トンネルを震わせる程の轟音。

 味方のものか敵のものかはわからない。

 不安要素は一歩を踏み出すごとに増していくばかりだが、それでも彼らは長いトンネルを歩き続け、出口を探す他なかった。

 ひたひたと常に水が張っている近い水路を、水音を響かせながら歩くこと数十分。水路の先に大きな段差がついていた。もちろん昇降用の階段など用意されているはずもなく、兵士たちは重い鎧に足をくじかないように壁を支えにしながら飛び降りた。

「もうそろそろだ。気を引き締めていけ」

 構造の変化から何かを感じ取った先頭を歩く兵士は、後続の兵士に伝える。手に握るランタンから漏れる光は、弱弱しくも確実に彼らが進むべき道のその先を示していた。

 さらにもう一つ大きな段差を降りると、地上や周辺からの圧力を支えるための構造が変わり、より重たいものを支えるためにトンネルの直径も少しばかり小さくなった。

「ここか……? ここだな」

 ランタンを高く上げると影とともに浮かび上がったのは、小さな階段。狭い通路が上まで続いでおり、その通路は水路を逸れるようにして別の方向へ向かっている。そして、トンネルのその先はこれ以上進めないように太い鉄の棒が並べられて柵になっており、その奥からは身を震わせるような水の立てる轟音が反響していた。

 崖を上るような角度でついている小さな階段から足を踏み外さないように上り、通路を進むと、上から光がさしている箇所が遠くに見えた。

 先を歩く兵士はランタンの光を消し、後続の兵士たちをその場に待機させ、その光の場所まで進んだ。

 見上げてみればそこは網のようになっており、少し力を加えると容易に動いた。音を鳴らさないように網をずらして下に落ちていた小さな石を隙間から投げ、周囲の音の反響と人の気配を確かめる。

 恐る恐る頭を出し、周囲を見渡す。

 そして味方に合図を送り、自身に続くように指示をした。

 兵士たちが地下水路から出た先は、大きな建造物の中の一角のように思えた。左右には壁が広がり、すべて、石が積み上げられてできた石造り。また、前後に大きな扉で封じられた出入り口があり、官公庁街を取り囲む壁だと予測して、兵士たちは二手に分かれてその壁の中を歩いていく。

 次第にその予測は確信に変わった。

 採光窓からのぞける景色には進行方向右手には大きな建物が、左手には小さな住宅街が映った。

 周囲は痛いほどに静かで、石を踏み割るその音すらも、敵の攻撃かと勘違いしてしまうほどの静寂さだった。

 そして壁伝いに歩きたどり着いたのは、最終目的地である官公庁街の中でも最も大きな建物。恐らくここに立てこもっていると考えられている。

 ほかの部隊とも合流し、首都の安全を確認してから現場にいる指揮官たちが打ち合わせを行い、現況に沿った計画を練った。

 建物は頑丈な構造のため破壊することは不可能であり、構造上出入り口が一か所しかなく、正面突破を試みる他に策がなかった。一か所しかない入り口に対して内部構造は非常に複雑であり、気を抜けば矢が隙間を縫って飛んでくる恐れがあることも、事前の調査で把握できていた。

「厳しい戦いになるな……。多方面から攻撃を仕掛けられない以上我々が全滅すれば攻撃は失敗に終わる」

「そうですね。気を引き締めていきましょう」

「ああ。それでは、ご武運を」

 軽く敬礼をすると、小走りで指揮官たちは各兵士の元へと散った。

「諸君。それでは、始めよう」

 指揮官は懐から笛を取り出す。

 大きく息を吸い、口に当てて息を吹き込むと、目の前にいた兵士たちは雄叫びを上げながら建物の中へと後ろを顧みることなく突撃していった。その笛の音はどこまでも遠く響き、そして建物に反響してこだました。

「ああ! クソっ」

「おい! 後ろだ!」

「わかっている! だがこっちも手いっぱいだぞ!」

「早く手を打て、死ぬぞ!」

「前へ行け……早く!」

 上から薄く光の差す建物の中に入るや否や、吹き抜けとなった広場に出された兵士たちは、二階の弓兵から歓迎されるように弓矢の雨を浴びせられた。至近距離のため盾を構えて鎧を信じるしかなく、壺を投げて敵を燃やしながら弓矢の雨に耐え、進むしかなかった。下から見上げた場合は空からの光が逆光となり、視界を妨害する。

 列を成して盾を傘のように使い進む彼らの中には、何かを切り裂くように鈍い音が聞こえることがあり、その音の発生源は誰も振り返ることがなかった。それでも無視できない悲鳴は建物の中に響き、壺を投げて火だるまになった敵軍もまた、同じような悲鳴を上げ、建物の中は悶え、苦しむ声に溢れた。

 味方であろうと、敵であろうとその声に振り返ることはしない。

 兵士たちはただひたすらに前に進み、犠牲を顧みず、目標である建物全体の占拠に向けて各所に散っていった。

 各所で突撃を繰り返し、占領している範囲を次第に広げていく。

 中庭を占拠したところで、指揮官は壁の裏に書かれながら各班に状況報告を求めた。

「各員……状況報告を」

「一班、二名です」

「二班、三名です」

「三班、一名です」

「四班、五名です。……五班は、全滅しました」

 各班の定員は五名。早くも兵士を九人失い、このままでは戦力とはならずにただの烏合の衆にしかなりえない。他の部隊の指揮下に入ろうにも連絡が取れず、聞こえてくるのは阿鼻叫喚だけ。

 指揮官は大きくため息をつくと、各班の定員をできる限り満たせるように再編を命じた。

 指揮官の後に続く兵士の兜には大きくへこんだ部分があり、足には矢が刺さろうとした形跡もある。その兵士は足を引きずりながら指揮官の後に続き、そしてまた新たな戦いで新たな傷を作り、新たな犠牲を生むのであった。


 そして、一夜を超えて二十時間近くに及ぶ休みない死闘の末、翌明朝に、敵国の旗が降ろされた。敵国の旗は、朝日を見ることなく、焼失した。

首都防衛にあたっていた正規軍を降伏させることに成功した一方、ゲルテハルト国軍の損害も甚大であり、作戦開始当初に配備された人数の二割五分ほどしか生存者がおらず、勝つことができたのは正に奇跡としか言いようがなかった。

 敵国の首相は首相官邸内で自殺していることがのちに発覚し、敵軍の参謀が全権大使として、降伏文章に調印することとなった。

 講和会議に併せてレルカーリア国の独立に対する採決が行われることとなり、戦時下においてはゲルテハルト国の高度な自治区として併合されていたものの、かつての約束通り独立を果たすことが取り決められることとなる。

 講和会議はリーリエ王国の首都にある宮殿で行われ、リーリエ王国政府、騎士団国シュマイジ政府、ゲルテハルト国軍参謀、ルブエール共和国軍参謀、加えて、アーシャに招待状が送付された。

「……ついに、終わったのね」

 アーシャは講和会議の招待状を眺めながら言う。

 その平和を知らせる手紙は、水色の封筒に包まれてやってきた。

「そのようですね」

「帰ってきた兵士は驚くことでしょう。この有様に」

「そうね……」

 戦後、残された景色はとても悲惨なものであった。

 アーシャやユラ、リーリエ王国軍の協力により一定程度の生活の復興は成し遂げられたものの、瓦礫や建造物の残骸、兵士の死体などは至る所に集積されている有様であった。

 死体は火葬する場所もなく悪臭を放ち、瓦礫はやっとの思いで積み上げたものが今にも崩れそうになっている。家々は焼かれて失われ、石造の建物は跡形もなく破壊され、汗水流して建築された国家の威信ともなっていた官公庁街も、面影を残して形がなく、物寂しく感じられた。

 不自然に広い空をぼうっと眺めていたアーシャは、担当者に名前を呼ばれるとそちらの方向に歩きだし、荷物を持って講和会議へと向かう。

 そして、平和のための扉を押し開けた。

 

 薄曇りの昼下がり。

 終戦を知らせ、武器を置く合図の鐘が広く響き渡った。


 講和条約では、戦勝国であるゲルテハルト国、騎士団国シュマイジ、リーリエ王国の三国からなる通称、西方勢力圏同盟は、敗戦国であるルブエール共和国に対して、いかなる領土の割譲、金融制裁、賠償金の支払いを求めないことが明記された。さらに、今後の戦争においては軍人を除く人々を理由なく殺害してはならないことも明記された。

 講和会議の中で、ルブエール共和国軍の代表者は、国内の経済状況が不安定な状態が長期化したため、当時の政府はその国民の鬱憤を諸外国に向け、戦争が始まったと説明した。国民を長時間勤務させて強引に開発した兵器が、西方勢力圏にとって恐れられたかの新兵器だったという。

 しかし戦争が長引くにつれ、軍の補給状態が悪化し、国民に厭戦感情が広がり始めたことから士気が下がり、反政府的な意見が世論の大半を占めるようになった。それは軍の内部でも同様であり、対西方勢力圏強硬派と、和平を目指す穏健派で二分されるようになり、実質的に戦力は半減していたと述べた。

 その状況を鑑み、西方勢力圏政府は、貿易や共和国の国内産業への投資を通して、双方の経済的な結びつきを強化するとともに、共和国内の経済状況の安定を図ることが地域一帯を安定させる鍵になるとした。そのため、すべての面において制裁は課さないこととなった。

 もちろん、各国の強硬派などはこの戦争で犠牲となった兵士たちへの冒涜ではないかという声もあった。

 しかし、過度な制裁や賠償金の支払いを命じても、その厳しさの余り対決姿勢を煽るだけであり、将来的な平和に結びつくものではないとして、交渉に当たった幹部らはその意見を一蹴し、未来志向な条約の締結を目指した。

 そして条約の最後には、レルカーリア国の独立が規定され、ゲルテハルト国、リーリエ王国、その他国境を接する国との間に新たな国境線が引かれた。

 各国政府はこの条約を、「幸福と正義と自由のための条約」と銘打って発表し、正式な条約名には、リーリエ王国の首都の名を取って、「フロワ条約」との名がつけられた。


 戦時中、誰もが待ち望んだ、「戦後」という未来世界は、現実となった。

 決して華やかなものではなかった。

 此度の戦争が残した傷跡は非常に大きく、一部地域は復興までに十年以上を要する地域もあり、首都の官公庁街に至っては復興が不可能として、別の場所を新たに開拓し、その場所に新たに建築することとなった。

 増大した戦費に国内経済は疲弊しており、経済規模はこの戦争を経て戦前の七割ほどまで縮小し、国債の返済には数十年を要する計算で、西方勢力圏一位の座をリーリエ王国に譲ることとなった。

 後に公表された犠牲者リストには、政府要人の名前と軍幹部の名前が記されていた。

 そのため軍のみならず行政も相当な被害を受けており、行政の担う業務の再開までは相当な期間を要する。

 講和会議の終わりは戦後処理の始まり。

 アーシャは大量の書類を抱えて用意された自室の扉を開いた。

「お、お待ちしておりました……?」

 部屋の中に立っていたのは驚いた顔をした背の低いメイド。自信なさげで、俯きながらそう言った。そのメイドは静かに細い両手を差し伸べ、自身に書類を手渡すように促す。

 アーシャがゆっくり百枚以上の紙の束をその両腕に乗せると、そのメイドの手は幾分か高さが下がり、腕で釣り上げるようにして重量を分散しながら、机の開いているスペースに置く。その後姿はメイド服がなければ母親の手伝いをする子供のようにも見えた。

「ええと……。確かルーメイさんのところで働いていた……」

「わっ、覚えていらっしゃったのですか……?」

「ええ。いつも撫でられていたから、お気に入りなのだろうなと思って印象に残っていたわ」

「あ、ありがとうございます……」

 顔を紅潮させて手先を絡める。

 何かを忘れたように言葉に詰まり、凛とした瞳で見つめてくるアーシャにあたふたしていると、急に人が入れ替わったかのように再び拙い言葉遣いで話し始めた。

「あの、えっと、私の名前は、ミンカといいます。ルーメイ先生のところでお仕事、していました」

 話す内容を忘れたのか、ミンカはメイド服のエプロンに取り付けられたポケットからナイフではなく小さな冊子を取り出し、ペラペラと捲ってとあるページで細い指先で言葉をなぞる。

「ルーメイさんから、アーシャ様のメイドになるようにって言われたんです」

「私のメイドに……? 私には既にリリーがいたはずだし、私はもうゲルテハルト国の所属ではなくなってしまったから……こういうのも苦しいけど、メイドも不要よ」

「……ですが! ルーメイさんからの命令なんです」

 困惑した表情でそういうアーシャに、ミンカは駄々をこねるように声を張った。

「……そうなのね。なら、細かいことは後回しにして、少しだけついてきてもらおうかしら」

「はっ、はい。どこまでも……」

「それじゃぁ早速、頼んだわよ」

 アーシャは自室に置いてあった短剣を鞘ごとミンカに託し、自身はツヴァイヘンダーを背負って、とある場所へ向けてリーリエ王国の宮殿を翌日の朝早くに後にした。

 思いの外ミンカの目覚めはよく、アーシャが心配して部屋の中に様子を見に行ったところ、すでに準備を整えて律儀に椅子に座ってアーシャのことを待っていた。その妙な礼儀正しさとこだわりに仄かな笑みをこぼすと、ミンカは静かに立ち上がり、身の丈の割に大きな鞄を抱きかかえるようにしながらアーシャの背中を追いかけた。

 宮殿を出て、新たに引かれた国境線をまたぐ。東へ進めば進むほど、戦争の傷跡が色濃く残るようになり、今でも煙が揺れる場所が丘の上からは見えた。

 そして、元々アーシャが住んでいた家から湖と川を何度もまたいだその先に、目的地はあった。

彼女らを出迎えたのは、少し茶色味を残した砂のような石が積み上げられて作られた石造の二階建ての建造物。一階部分の正面にはアーチ状の枠が三つ並び、左右の枠はアーチより下の部分が四角い窓で、上部のアーチの部分はその形状に沿うように白い窓枠が並べられ、それぞれに硝子が当てはめられている。中央の枠には白い観音開きの扉が設けられており、そこから伸びるようにしてアーシャたちの足元まで石畳が伸びていた。

正面に構える三つのアーチから少し奥に行くと、一階部分はアーチの部分と同じ色の石を、二階部分は赤茶色の石を積み上げた建物が同じく左右にあり、こちらは一階も二階も同じ形の窓がはめられていた。一方で、二階の窓枠は木ではなくアーチ部分と同じ石材で造られた窓枠が複雑ながらも美しい並びで窓枠をかたどっていた。

アーチの上の二階部分は一階から伸びる四角い石柱の枠の中をさらに区切るように窓枠が設けられており、左右の部分は日当たりの良いベランダになっていた。

そしてその建物の上に乗るのは、直線的なデザインの青銅色の屋根。

いくら良い佇まいの建築とはいえ、持ち主が去ってから長い年月が経つと、煤や埃、蜘蛛の巣がいたるところに張られ、蓄積していた。

「お久しぶりね。……ここは私が生まれ育った家よ」

「おっきい……」

 ミンカは目線の低さからか、アーシャよりも建物を大きく感じていた。

「実際に暮らしてみれば、案外簡素で狭いものよ」

 アーシャはそういうものの、ミンカはその言葉が信じられず、大きな家に迷わないか心配していた。

「中は単純だから。ミンカの部屋もあるから、埃だらけだけど、どうぞあがって」

 ミンカは先に足を踏み入れたアーシャの後に続いて、一段高い家に足を踏み入れた。

 中には木製の家具が多くあり、そのどれもが煤や埃を被った程度で、目だった劣化や損傷、誰かに侵入された形跡はなかった。

 ひとまずアーシャの部屋に荷物を置き、ミンカが当分の間寝泊まりすることになる部屋と主に使う部屋の片付けと掃除をして、椅子に腰を下ろすことができたのはその日の夜のことだった。

「ミンカ、疲れてない?」

「あっ、いえ、お気遣いなく……」

 大きく首を振ると、岩のように固まったまま机を見つめるミンカ。

「そう。ならいいけど、無理しないでね」

 ミンカは背丈が低く、アーシャなら背伸びすれば手が届く範囲のものでも、ミンカはアーシャに持ち上げられなければ手が届かなかった。できることは床と机の掃除、食器や書類の整理整頓がやっと。しかし、ミンカは背丈の小ささを生かして掃除しにくい低い場所を掃除するなど、華奢なその身体から出てくるとは思えないほどの怪力で重たい荷物をすいすい運ぶなど、家の清掃に大きな役目を果たした。

 よく言えばいつも通り、悪く言えば様子のおかしいミンカをしばらく見つめた後、アーシャはその特性について聞いた。

「ねぇ、ミンカ」

「はい……?」

「前からそういう性格だったの?」

「わっ、私は……生まれてからずっとこうで、う、うまく喋れなくて」

 そのことを負い目に感じているように、目の前のコップに入っていたお茶を一気に飲み干す。

「なるほど。そうなのね」

 アーシャがミンカのコップにお茶を注ぐと、申し訳なさそうな目で俯いた。

「め、メイドになるための士官学校も……無理やり卒業させてもらいました……」

 瞬間的に目を合わせたその時、メイド服の襟もとに光る士官学校を卒業したことを示す勲章が月明りに輝いた。

「ルーメイさんに?」

「はい」

「そこまでしてミンカのことが欲しかったのね」

 あのルーメイさんが、とアーシャが軽く笑うと、ミンカは照れくさそうに両手を足に挟み、黙り込む。

 アーシャが息継ぎをするようにお茶を飲むと、ミンカは冒頭の一音だけ声を張って、自身の過去を話し始めた。

「えっ、と……。私、生まれた時にはもう親がいなかったんです。通りすがりの人に拾われて、そこで育てられて……。それで、その育て親と喧嘩して、家を出たんです。……夜中に泣きながら歩いていたら、酒を飲んでいたルーメイ先生に拾われました。その時、は言葉が話せなかったんですけど、ルーメイ先生は、頑張って私に、言葉を教えてくれました。そしてそのままそこで働くことになって、士官学校を一応は卒業して、以来、掃除をしてお仕えしてきました。怒ることがなくて、いつも笑顔で……」

 ミンカは子供向けの絵本を読むように過去を思い返し、その度々、別のエピソードを口にした。夜が更けてくると一層話す速度は遅くなったが、それでもアーシャは根気強くミンカの話に耳を傾け、ミンカの昔話を聞いていた。

 そして月明りが傾いてきた頃、ミンカは話している途中で眠りについてしまった。

 しかし、その口元は優しく笑っていた。

「夢の中でたくさん語っているのでしょうね……」

 アーシャはミンカを起こさないようにそっと持ち上げ、肩に手を添わせ、膝の内側に手を入れると、半開きだった扉を自身の身体で押し開け、整えられたベッドにその身体を置いた。

 その幸せそうな寝顔は、何にも勝ることのできない心の静けさを与えた。

 夜の海、不思議な空の色の下で眺める静かに波打ち、輝く海の景色を見ているときのような心の穏やかさは、何にも代えられない。

「おやすみなさい。ミンカ」

 薄い布を一枚だけ肩を覆う程度までふわりと乗せると、アーシャは静かに自室に戻ってろうそくに火をつけ、積み上がった業務に向き合った。


 条約発効日からおよそ一週間。依然としてレルカーリア国の行政はアーシャとミンカの二人だけが担っている状況で、日々を忙しく過ごし、復興に向けて尽力している最中のことだった。

「こんにちは。ゲルテハルト国軍の者ですが……!」

 窓の外からそう声をかけてくるのは、茶色い帽子と制服を被った男。ミンカに対応を依頼すると、ミンカは木の階段を駆け下りて、元気よく玄関の扉を開けてその男から大きな箱を軽々しくアーシャの部屋に戻ってきた。

 ゲルテハルト国軍からアーシャに宛てられた手紙はその名を冠した大きな木箱であり、中を開くとハードカバーの小さな冊子が大量に入っていた。

 ざらざらとした触り心地の布が貼られたその表紙には、金色の箔押しがなされており、中央上部には鳥が一輪の花を口にくわえた絵が箔押しされていた。

題名には、「第二次東西戦争犠牲者名簿」と書かれている。

『祖国のために命を捧げた兵士、民間人に捧げる、平和の誓い』

 最初のページには横書きでそう書かれており、次のページには目次が書かれていた。最初はルブエール共和国の兵士の犠牲者名簿が、その次には西側諸国の犠牲者名簿が収録されており、一ページで百名程の名が書かれているその冊子は、ページ数を数えると気が遠くなるほどの分厚さだった。

 一冊でさえ辞書のような分厚さであるにも関わらず、似たような厚みの本がいくつも入っており、そちらも全てが犠牲者名簿だった。

 最後の冊子には、この戦争における戦死者の推計が記載されており、その数は軍人と民間人の犠牲者合わせて百七四万人。実にその半数以上が民間人の犠牲者であったとされている。

 この冊子には兵士の階級関係なく同じ文字の大きさで記載されており、並びは頭文字の早い順番で並べられていた。

 アーシャは知っている人の名前を思いついた順番で全て調べた。

 サンタリア・イル・マーレ。

 エーリカ・ミトン。

 ローレ・ワルデ。

 カラル・ロー。

 エーレンフリート・グアイス・ケルテ。

 ルーメイ・エレナ・クラリト。

「…………ミンカ」

「お呼びでしょうか……?」

 少し大きな声で名前を呼ぶと、コツコツと軽い音を響かせながらミンカは部屋に入ってきた。

 椅子に座ったアーシャが手招きをしてミンカをすぐ近くに呼び寄せると、静かにルーメイの名前が書かれたページを開いたまま彼女に渡した。最初は小さな文字がたくさん並んだ難しい本だと勘違いして、難しい顔をして、アーシャにさりげなく本を返そうとした。

「ミンカ。あなたなら読めるわ」

そう言われてミンカはもう一度その本に目を落とす。そして一つ一つ読み解いていくと、それが人の名前であることが分かった。

並ぶ人の名前を目で追い続けること数分。

ミンカが、「先生」と呼ぶ人の名前が彼女の目に留まった。

「この本は、この戦争……この戦いで犠牲になってしまった……死んでしまった、命を奪われた人たちの名前が書かれた本よ」

 アーシャは、この本の示す意味を伝える。

「……先生……先生は?」

 ミンカはその名に手を触れる。

 幼きミンカを拾い、育て上げ、士官学校を卒業させた、生みの親以上の親のような存在。そんな存在が、この世から消えたことを、ミンカはその文字、そしてその並びを通して知った。

「先生は、国を守るために戦ったのよ」

「そんな……! うそ……」

 ミンカの声はみるみるうちに陰りを見せ、暗闇の中でたった一つの出口に通じる扉を探すような、暗闇に覆われた声だった。

 力の抜けかけた手からアーシャは本を抜き取り、ミンカの肩を抱く。開かれたまま置かれた本は元の形に戻ろうとページを戻し、最初のページで止まった。

『祖国のために命を捧げた兵士、民間人に捧げる、平和の誓い』

「平和のちかいを……みんなが幸せに……暮らすために、どうして……っぐ……先生がっ、死なないといけないの?」

「……戦争はね、幸せを願った結果なの。みんな、同じものが欲しくて、人は争い、しんでゆくの」

 アーシャは諭すように、無意識に涙を零す彼女の耳元で囁く。

「そんなの……! ただのわがまま! そんなわがままな人なんていなくなっちゃえばいい!」

「そうだね……。私もそう思う」

「こんなのありえない! ありえない……」

 アーシャは確かに、腕に抱くミンカの身体からこわばりを感じていた。アーシャが優しく包んで抑えられる程度の、ほんの少しのこわばり。ただ、そのこわばりは、単なる怒りではなかった。

 希望を失ったような瞳で、その本、そのページを見つめ、力の抜けた身体を、アーシャに抱き留められている。

 それでも、彼女の身体はほんのわずかに、力が入っていた。

 これが戦争に対する怒りなのか、人を殺したことに対する怒りなのか、人が死んだことに対する怒りなのか、「先生」を失ったことに対する悲しみなのか、「先生」を殺した人に対する怒りなのか、あるいはその全てなのか。

 そのこわばりの正体は、きっと誰にも分らない。

 生まれてから長らく、「先生」を追いかけてきた瞳が流す涙は、あたたかく、やわらかな涙だった。

 そんな涙が、頬を伝って身体を支えるアーシャの手に落ちる。

「先生……」

 その言葉を最後にして、ミンカは叫ぶように泣いた。

 心に今もなお傷を負わされている、その痛みを声にしたように。

 先生に会いたい。その気持ちを叫ぶように。

 大切な人を失ったその涙は、夜が更けるまで止まることはなかった。

 そんな彼女の姿を、アーシャは言葉をかけるでもなく、何かをするでもなく、自身の座る椅子の隣に椅子を置き、そこに座らせた。そして、その小さな手に、「先生」の名が記された冊子を置く。

「……ただひたすらに、想うといいわ。……先生のこと」

 静かに泣く彼女を横にして、アーシャは潤い、揺れる瞳を瞑って手を当て、目の前に積んである事務仕事に手を付けた。

 その翌日。夜通し泣いていたミンカは自室で起きることなく眠り続けている。今日も日々業務を消化し続ける日々だったアーシャは、先日と同じように家の外から声を聴いた。

「すみませーん。国際郵便局の者ですが……」

 窓ガラス越しに外を見ると、茶色い制服を着た郵便局員が大量の封筒が入っているだろう、大きなカバンを抱えて立っていた。椅子を静かにずらして立ち上がり、玄関を出て郵便局員が立つ場所へ向かう。

「住所、宛名にお間違いございませんか?」

「ええ。大丈夫よ」

「ありがとうございます。それでは失礼いたします」

 その封筒には、いささか不思議な点が多かった。この手紙の送り主はユラだったが、騎士団国シュマイジからゲルテハルト国、リーリエ王国を経由して、今日アーシャの家に届いたこととなっている。封筒の表面に押された印がそれを示していた。

 自室に戻りながらその封筒を当てると、力の抜けた、流れるような文字で書かれた一枚の便箋が入っていた。

『どこにいるかわからないから、元の住所に送る。リリーちゃんが危ないからできれば来てほしい』

 書かれている内容はそれだけ。それ以外はアーシャの名前とユラの名前しか書かれておらず、時間のない中手っ取り早く書かれた手紙であろうことはその文章の短さと文面から感じ取ることができた。

 優先度の書類だけ先に片付け、ベッドの上で気力なく横になっていたミンカの肩をゆする。

「……何か御用ですか」

 目の下にクマと涙の跡をつくり、メイドとしてアーシャに向き合う。

「酷な話だけどね……リリーが病気になってしまったみたいなの。……お見舞いに行く?」

「……また私……」

 ミンカはぼそっと何かを口にする。

「もう一度言ってもらえる?」

「また……また私は、大切なものを……失わなければならないんですか……?」

 瞳を覆い隠すその前髪の隙間からは、黒々しい目線がアーシャを見つめていた。

「……死んでしまったわけじゃないわ。まだ生きてるのよ」

「……でも、身体に詳しいユラさんからお手紙が来たなら、きっとよくないことがあります」

 アーシャはそう言うミンカに少しの時間を与え、自分で判断するように言い残し、彼女の部屋を後にした。

 先日はルーメイの訃報に触れ、今日は同僚と呼ぶべきメイドの体調が芳しくないという知らせに触れた。たとえリリーがまだ生きていたとしても、元気な姿を見ることができないというのは、ミンカにとっても、アーシャにとっても酷な話だった。

 結局ミンカは同行することに決め、手短に準備を済ませてから、アーシャと共にリリーが休養している場所へと一晩かけて向かった。

 その休養所はゲルテハルト国の首都移転先にあった、高級将校向けの休養所。現在は戦傷者向けの病院として使われている。自然豊かな森を背にした小高い丘の上にあり、麓から曲がりくねった道が建物の入り口までつながっていた。

 受付を担当している軍人に要件を告げるとその軍人は、二階に上がって右に出て一番奥の部屋で、自分で歩いていくように言う。

 誰もがせわしなく薬品や包帯の類を持って歩き回るその建物の中は、窓が開けられていたが、消毒液や様々な薬品の匂い、さらには血生臭い鼻が曲がるような空気が立ち込めており、居心地の良い場所ではなかった。

リリーが眠る部屋に近づくにつれその薬品の匂いは強くなった一方で、消毒液のように鼻の奥を刺す、反射的にのけぞるような不快な香りではなく、心を落ち着かせるような柔らかな香りが漂うようになった。

 アーシャが扉を叩くと、白衣のようなユラらしくない服装をしたユラが二人を出迎えた。その白衣には血痕を思わしきものが大量に付着して乾燥しており、命をつなぎとめるために払った努力は尋常ではないものだと二人に気づかせた。

「遠くからお疲れ。まぁ座ってよ」

 ユラは汚れた白衣を脱ぎ、窓枠の日の当たる場所に置く。

「そんなことはないわ。……そんなことより、大丈夫なの?」

 リリーはベッドに横たわり、様々な箇所に包帯がまかれていた。

 ミンカは何かをリリーの耳元でささやいて、反応がないかを試している。

「見てわかるとおり。大丈夫じゃない」

「具体的には?」

 アーシャがそう尋ねると、ユラは眠るリリーを一瞥してから、アーシャの方に向き直った。

「身体を動かせないみたいで。傷の治りがものすごい遅かったからその時点でおかしいとは思ったんだけど、傷が治らないし身体が動かせないからできる治療も限られてて。最近はずっと痛そうな顔をしていたから、本人に説明したうえで眠らせてる」

 リリーの治療は他の同業者の意見を聞きながらユラがすべて担当しているらしく、独自に配合した薬品や、開発中の薬品などを自分で飲んで実験してから投与するというまさしく研究者らしいこともしていた。

 そうした懸命な治療にも関わらず快方に向かうことはなかったどころか、体調は悪化の一途をたどり、外に出ることすら難しくなってしまったとユラは話す。原因不明の病は伝染するものではないと仮定している現段階では、リリー自身の内部で何らかの病気が進行している可能性があるとさらに考察した。

 ユラは話を誘導してリリーが目を覚ました時のために、何かしらの食事を持ってくるように指示をして、病室にはアーシャとユラ、そしてリリーの三人だけが残された。

「本題なんだけどね」

 何か話題を持ち掛けられたような雰囲気ではなく、アーシャが眠り続けるリリーを見つめていた時、ユラも彼女に目を向けて話し始めた。

「正直、もう回復の見込みはない。手は尽くした。面倒くさいとかじゃなくて、本当に」

「……どうするの?」

「私たちの手で、命を奪う」

 ユラは机の上に置いてある小瓶をつまみ上げ、アーシャに渡した。

 その小瓶の中は致死性の高い薬であり、元々は暗殺用に作られた薬だった。そのため苦しむことなく命を仕留めることができ、スパイの間では愛用されていた。その薬を改良したのがこの小瓶の内容物で、極力副作用を抑え、より確実に死に至らせることができるよう、ユラが独自の改良を加えた。

「……これは、人を殺すんじゃない。苦しみから解放させてあげるための、一つの手段」

 ユラは自分に言い聞かせるようにそう言った。

「……とは言え、賛同しかねるわ。生きている人の命を私たちの手で奪うなんて……。私には、考えられない」

「よく、考えてほしい。ずっと眠らせたままであっても、彼女は何もできないし、夢の中でも鈍痛を感じているかもしれない。にもかかわらず何の意思表示もできない。そんな彼女をそのまま眠らせておいていいと思う? 私はそうは思わない。最期くらい、楽になってもいい。私はそう思う」

 リリーに対して尽くせる手は、尽くした。

 病状の回復が見込めない患者に対して、死に向かい続ける患者に対して、どう向き合うのか。アーシャは一夜の間に決断するよう、ユラに迫られた。

 丁度明日の朝早く、睡眠薬の効果が切れる。そのタイミングで鎮痛剤を投与して、本人から意見を聞いた上で、アーシャとミンカの意見を加味して最終的に判断するという。

「本人の意思は、最も尊重される。一人の人として、意見を聞かせてほしい」

 病室を後にする直前、ユラはそう言った。

 夜遅くになり、アーシャが気を散らすために作業に手を付けていると、ミンカが寝泊まりしている隣の部屋から物音が響いていた。本来なら星空が夜を染めるこの時間にはねているはずのミンカ。

 アーシャが様子を見に部屋に行くと、部屋は嵐が通り過ぎた後のような有様だった。書架の本は全て床に落ち、机は天地が逆転したようにひっくり返され、ベッドのシーツも乱雑に捲られている。

 開かれた窓が、乱れたシーツにぱたぱたと波を作っていた。

「ミンカ……」

 夜の静かな空気が抜ける部屋の入口でそう声をかけると、頭の上に持ち上げていた椅子を静かに床に置き、アーシャの方へと向き直る。

「なん、ですか。何の、用ですか」

 その顔は引きつっている。しかし、瞳はどこか遠くの深淵を眺めているように暗い。誰かに操られているように不自然な表情だった。

 向き直ったミンカの腕は鋭い物でひっかいたような血痕ができており、腕や顔の複数個所に痣ができていた。

「寝れない……そうじゃないの?」

「アーシャ……様も、そうじゃないんですか」

「まあ……そうね。寝れないわ」

 この状況で寝る方がおかしい。

 ミンカはそう言い放つと、アーシャが預けた短剣を取り出した。

 その短剣の先端は、僅かに血に塗れていた。

「やっぱり寝れないですね……」

 その刃先を、傷口に近づける。

「自ら痛みを感じれば、この先感じる痛みを先取りして、眠りにつくことができるでしょうか」

 そして傷口に、刃先を触れさせた。先端が突き刺さったまま、ゆっくり自身の肩の方に向かって動かしていくと、一滴、また一滴と床に血が滴る。

 ミンカは短剣が刺さっている方の手のひらを強く握り、顔を歪ませながら痛みに耐える。漏れ出る声を歯を食いしばって抑えながら、涙が顔を伝ってもなお、傷口をなぞるのをやめなかった。

そして、途切れることなく腕が血を伝う。

「ミンカ」

 ミンカはその声に呼応して短剣を強く握りしめ、腕から剣を抜く。

 小刻みに震えるその手は、月明かりをぼんやりと反射していた。

「常にメイドであれなんて、誰も言っていない」

「でも、先生がっ、先生が……」

 ほろほろと瞳から零れ落ちる涙。

 いくつかの思惑の間に揺れるように、彼女の瞳も涙に揺れ、そして潤んでいた。

「先生は、ミンカにとっては大切な人だものね。その人の言ったことを、簡単に破れるはずがないわ。無理に破ろうとしなくてもいい。……だけど、たまにはその言ったことから背いても、きっと先生なら怒らない。そんな優しい人だった。……私は、そう思うわ」

 ミンカは手に握った短剣を自身の服で拭い、鞘にしまう。

 そして、持ち主であるアーシャに手渡した。

「……ごめんなさい」

「これからも、同じように痛みを感じることはたくさんあるわ。残念だけど、先取りはできない。そして、今目の前に広がる状況を、ひたすらに受け止めるしかないの。ミンカが自分を傷つけたのは、その状況を、どうにかして受け止めようとしたから」

 ミンカは、自分の作った傷の上に手を重ね、強く握る。絞り出されるように血がしたたり落ち、彼女の腕にまた新たな血の川を作った。

「……悪い人だったら、誰が死のうと自分さえ幸せであればいい。そう思うはずよ。だけど、ミンカは大切なものを失い、亡くすそのことを、痛いと感じて、その痛みに立ち向かおうとした。その結果、傷を作ったの。だから決して、自分で自分のことを傷つけた今日のことを悪いなんて思わないで」

 ミンカは予想外の言葉に動揺しながらも、涙に揺れる瞳をアーシャに向けた。

 そして、一歩、また一歩とスカートから伸びる足を動かして、アーシャに近寄る。一歩、また一歩と近寄るたびにミンカはアーシャに触れるように手を伸ばす。まるでそれは長い旅路の途中に迷い込んだ暗く寒い森の中で焚火を見つけ、生きる希望に手を伸ばしているようだった。

暗闇の中に突然現れたぼんやりとした光に触れようとしているように、ゆっくりと手を伸ばす。

 アーシャはミンカよりも目線が低くなるようにしゃがみ、ゆっくり歩み寄ろうとするミンカを待った。

 ミンカの手がアーシャの肩に回される。

 そして、アーシャも優しくその小さく傷んだ体を抱き寄せた。

 ミンカの抱える痛みを吸い取るように、腕についた血がアーシャの服に染み込んでいく。

「……い」

「うん?」

「いた、い……」

 ミンカは唇を震わせながら、声帯に空気を通して声を発した。とても薄く、聞き逃せばだれも拾わず、消えてしまいそうなその声にアーシャは耳を傾ける。

「そうだね……いたいよ」

「痛い……痛い、痛い」

「たくさん痛くてもいい。痛いのは、ちゃんと生きてる証拠だから」

 アーシャはミンカと目を合わせ、零れ落ちる涙を指で拭った。

「ミンカは、ちゃんと生きてる」

 ミンカは、静かにすすり泣いた。

 リリーも、先生の一人。

 ミンカは、自らそう説明した。

 ルーメイの元にやってきて、ルーメイに言葉と文字を教えてもらう中で、リリーはその勉強に仕事の傍らずっと付き添っていた人の一人だったという。また、メイドとしての立ち振る舞いや、丁寧な言葉遣い、複雑な構造をしたメイド服の着方などを教えてくれたのもリリーだったと語った。

「私の隣には、まいにち、ルーメイ先生か、リリー先生がいました」

 偶然にも夜更かしをしていたユラに傷口の手当てをしてもらい、整えなおしたベッドに横になったミンカは言う。

 二人は、ミンカ自身にとってなくてはならない存在であり、今もその二人に支えられて生きている。だから、その二人がいなくなってしまえば、私が消えてしまうんじゃないか。

 もちろん、第一にその人を失うことに対する恐怖がある。しかし、それと同じくらいに、自身を形成するその一部を失うのが怖いのだと。

 ミンカは涙ながらにそんな旨の言葉を紡いだ。

 翌朝、予定通りにリリーの目が覚めた。鎮痛剤を投与して意識を保てる状態にした上で、ユラは二人を病室に呼んだ。

「お久しぶり、リリー」

「……いつぶりでしょうか。ご無沙汰しております」

 リリーは、窓際の椅子に座ったまま、自然に微笑んだ。

 何か、自分にできる仕事はありませんでしょうか。今にもそう聞いてきそうな瞳で、アーシャのことを見つめている。

 リリーはアーシャの隣にいる少し小さいメイドにも目線を移した。

「……ミンカね。おはよう。元気だった?」

「元気……ですよ」

「そう……それならよかったわ。ちゃんと、本は読んでる?」

「少しずつ、読んでいます」

「そう。ちゃんと言うことを守れるのが、ミンカの強みだものね」

 リリーは震える手をゆっくり持ち上げ、ミンカの頭の上に置くと、優しく撫でた。

 幸せそうにする彼女を横目に、リリーは今日の日付を聞く。

「……一週間くらいかしら」

「今日の夜でちょうど一週間」

 ユラはテーブルの上に置いた自身の手帳で日付を確認する。

 薬品で体内の活動を最低限に抑えていたため、長い間飲まず食わずの状態で眠りにつくことができていたという。その薬が尾を引いているため、今は物を持ったり、何か能動的に行動するには本人にとって大変な労力が必要であった。

 ユラが簡単に二人が来た経緯を離すと、リリーは瞬きで同意の意を示し、ゆっくりと二人の方を向いた。

「本当はもっと、お仕事をしていたいものだけどね。軍人じゃなくて、メイドとして」

 息を吸って、再び話す。

「だけど、この体じゃ何の役にも立てない。そして、治療もできない。私が足手纏いになるのは、メイドとしても軍人としても、人としても、私の本望ではない。だから私は、自分で命を絶とうと決めたの。……二人が来る前にね」

「それで、本当はその日にやろうとしたけど、私が止めた。最後に二人に会わないかって」

「本当は、私はもういいって思ってた。ずっと痛くて気が狂いそうだったもの。……だけど、お仕えしている身、教えている身として、このまま命を投げ出すわけにはいかないと思ってね」

 リリーは軽く笑う。

 その笑いでさえも乾いた声で、一文字口から話すごとに、命のかけらが底のない深淵に吸い込まれていくように、生気を失っていった。

「自ら命を絶つつもりでいるのね」

「ええ」

 やけに自信満々な答え方だった。

「私たちは、早かれ遅かれいずれは死に至る生き物です。ですから、私は後悔のないようお仕えして参りました。メイドとして、ルーメイ様とアーシャ様にお仕えできたこと、そして、娘のように愛せる存在であったミンカがいたこと、大変うれしく思っております。お仕事のお手伝いができないのはとても残念ですが……」

 リリーは自由に動かすことのできない手を眺め、ペンを握って書類を書くような動作をした。

 ユラは先日と意思に変わりはないか尋ねると、静かにうなずく。

 するとユラは薬の調合を行うために部屋を後にして、部屋の中にはユラを除く三人が残された。窓際の暖かな陽気に包まれたリリーは、窓の外で自由に揺れる木々を眺め、それをどこか羨ましそうな目で見つめていた。

「……先生は、怖くないんですか」

「……死ぬことが?」

 リリーは机の上の埃を払う。

「私は、特に怖いとは思わないわ。だけど、怖いときもあったわね。ユラ様から、治る見込みがないと言われた時は、そのことを拒んだり、自ら命を絶とうとしたり、怒ったりしたこともあったわ。……でも今は、もうこれでいいかな、と思ってる」

「やはり……先生は強いんですね」

 リリーは意外そうな顔をしてミンカの方を向いた。

「私なんて強くも何もないわよ。軍からの召集令状が出た時はどうしようかとアーシャ様に泣きついたもの」

 アーシャとリリーは目を合わせると、くすくすと小さく笑い合った。

「いい? ミンカ。人は誰も弱みを抱えているものよ。だけど、同じくらい強くもあるの」

「……だけど、私は強くないです……」

 諭すような目線と口調でリリーはミンカに語り掛けた。

 しかし、ミンカは椅子に座ったままうつむき、スカートに埋もれる手先を遊ばせていた。

「ミンカは力持ちでしょう。私が羨むほどに」

 確かにミンカはその体躯からはありえないほどの力を発揮する。その身のこなしたるや先生であったルーメイも驚くほどで、ルーメイの剣はミンカの身長ほどあったが、剣に振り回されることなく、しっかり根元を掴み振るうことができていた。そんなエピソードをリリーは語った。

「確かにそうね。本をなん十冊も抱えてちぎれない腕が不思議だわ」

「ほら、ミンカ。ミンカが強いのは、みんな知ってる。力だけじゃない。お手伝いもできているのよ」

 アーシャの意見に相乗りするように言う。

「……ですが、それは、『あたりまえ』のことだと先生は言いました」

「当たり前のことが、当たり前にできることは素晴らしいことよ。ミンカ」

「……そうなんですか?」

 疑問を呈すミンカであったが、リリーはそれを無理やり黙らせるように頭の上に手を置き、再び撫でた。

「生きていくうちにわかるわ。当たり前というのが、どれほど尊いものかを」

 不思議顔のままリリーがミンカを撫でていると、薬の調合を終えたユラが調剤室から戻ってきた。ミンカが手を握れば隠すことができるくらいに小さいその小瓶の中には、透明なさらりとした液体が入っている。そしてその小瓶は、木のトレイに白い布をかぶせたその上に小さく乗せられていた。

「持ってきたよ」

「こんなに微量で……」

「規定量の四倍か五倍で無味無臭」

 その言葉を聞いてアーシャはもう一度液体の量を確認した。雨の日に小瓶を外に数秒置けば貯まるであろうその量。雨にしてたったの数滴で、苦しむことなく心臓を止めることができるという。それも数秒以内に。

「……人を殺すことは悪いこと」

 ミンカはその薬の小瓶を割ろうと手を触れようとした。

 その瞳は誰かに意識を奪われたように彷徨い、どこにも焦点を合わせず、ただ誰かに言われるがままに行動しているように、気のない言葉だった。

 ユラは華麗にトレイを引き上げ、ミンカの届かない位置まで高さを上げる。そして、ユラは短剣を取り出してミンカに向けた。

「大人しくして。これは人を殺すんじゃない。今、目の前にある苦しみから解放するための一つの術」

「いのちは、なくなる」

「そうだよ。命はなくなる」

「よくない」

 単調なやりとりを淡々とユラと交わす。

 薬の小瓶に手を伸ばし続けるミンカ。その腕を下げるように手を添えて、アーシャは耳元でこう囁いた。

「ミンカは、人を苦しめたまま生かしておくことが、本当に正解だと思う?」

「生きるのは、いいこと」

「そうね」

 ミンカはアーシャを押しのけてユラに飛びかかろうと必死にもがく。それに応じるように、アーシャも手を押さえつける力を強めた。

「でも、人の意見を、人の選択を。自分の我儘でダメと言い続けるのは、よくないことでもあるわ」

 瞬間的に、ミンカの身体から力が抜けた。

「ミンカ。傍にいたいのは、みんな同じ。でも、これはリリーの選択で、決断で、意見なの」

 それでもミンカは、抵抗を続けた。

 優しい困り顔でミンカを見つめていたリリーは、口を開く。

「……ミンカ。先生の言うこと、聞ける?」

 ミンカは動きを止める。

「……今は難しいかもしれない。自分を傷つけるほどの、その強い優しさを、正しい形で人に向けられるようになりなさい。そして、人を人として理解できるようになりなさい。人に生きていてほしいと思うのは当然の事よ。でもね、ミンカ。これ以上生きていたって仕方のない人もいるの。……事実、腕や足を失ってもなお生かされている人がいる。愛する人を、家族を、友人を、恋人を、帰る場所を、家業を失った人がいる。いざ、そういう人に出会ったその時に、生きる希望を見だすのと同時に、その人の抱える苦しみ、そして痛みを理解してあげてほしい。……生きることに執着するのも悪くないわ。だけど、それと相対する存在である死そのものに目を向けることができれば、ミンカにとってもいい学びになるはずよ」

 啞然とした様子で話を聞くミンカ。瞳だけをただリリーに向け、交錯した目線で、リリーはそのことを目線で、言葉で語った。

 リリーは幼少期、生きることに必死だった。

 生んだ親は行方が分からず、途中までの育て親もまともな教育を受けさせることなく、彼女がルーメイに引き取られるまで、飢餓、暴力、強姦、誘拐といったような、生きることとは反対の、死という大きな脅威と戦ってきた。その脅威は計り知れず、彼女の心に今も残り続けている。

 ミンカが生きることに執着し、死に対して許すことができないのも、至極当然のことだった。

「もちろん、そんな気持ちを一人で背負い、乗り越えることはできないわ。だけど、ユラ様やアーシャ様は、きっと一緒に考えてくれる。ミンカが悩んだ日も、泣いた日も、自分の身を投げた日も、一緒に悩んでくれる」

「人生を共にする中で、ミンカが学ぶことはとても多いはずよ。これからは、教えられるのではなく、自ら学ぶようになりなさい」

 リリーは薬を手に取る。

 ミンカは声もなく涙を流しながら、アーシャに身体を抑えられていた。

「大丈夫よ。ミンカ。私は、ミンカが生きた日々をちゃんと見てきたもの。そしてこれからも、ずっとあなたの傍にいる。ふとした時に思い出してくれれば、きっと私が喜ぶわ」

 リリーは、自らの襟元に着けていた士官学校を卒業した証である勲章を手渡した。

 ミンカの勲章にはない、二本の剣が勲章の上部で直交するように重なり合っている。

 その勲章は傷や汚れこそ多かったが、ミンカはそれを受け取ると、自らの手で強く握った。

「……私はもう、何者でもない。だけど、ミンカ。ずっと傍にいるから」

 先ほどまで勲章のついていた首元に手を触れる。

 そして、姿勢を正して二人の方を向いた。

「アーシャ様。ユラ様。私は勝手ながら、使用人としての役目を終えさせていただきます。今までの数々のご無礼をお許しください。……このご無礼が、最後ですから。そして、私のこのお願いを、聞いていただけますでしょうか」

 ユラとアーシャは静かに首肯した。

「……ありがとうございます。それでは、またお仕えできる日を心待ちにしております」

 リリーは、小瓶に口をつけた。

 さらりとその液体は口の中に流れ込む。薬が効くまでは数秒とないはずだった。

 しかし、その時間が途方もなく長く、三人には永遠の時間のようにも感じられたのだった。そして、ユラに抱えられてリリーは隣のベッドに移された。

 その日の夜。ユラは死亡診断書を提出した。

 

「ねぇ、ユラさん」

「ん」

 ミンカが寝静まった後の深夜、蠟燭の揺れる部屋で、耳を傾けながら黙々と作業を続ける。

「一つ提案なのだけど」

「なあに」

 ユラはゆっくりと用件を聞いた。

「私のお手伝い……というわけではないのだけど、図書館長として、働いてみるつもりはない……? 人手がまだ戻ってきてなくてね」

「うーん」

 ユラはペンを走らせるその手を止めて、ペンを顎に当てた。目を上げたその窓越しには、煌めく星々が浮かぶ夜空が広がっている。しばらく悩んだ後、彼女はアーシャを横目にするように後ろを向いて答えた。

「なかなか悩ましい提案。いい意味で」

「もちろん、国立図書館の名を冠しているだけあって、待遇はそれなりにあるわよ」

「それもそうだけど、あの書庫の文献全部勝手に読めるんでしょ?」

 ユラは意地悪な笑みを浮かべる。

「まぁ……常識の範囲内で?」

 苦笑いしながらアーシャが答えると、再び机に向き直り、頬杖を突きながら考え始めた。片手にはお酒の入ったグラスを片手に。

「引き受けようか。その仕事」

「本当にいいの……?」

 アーシャは驚いたような顔をしてユラのことを見つめる。グラスを何度か傾けていたせいか、ほんのりと顔が赤くなっていた。気づけばそのグラスは空になっており、カラコロとグラスの中に入った氷が音を立てるばかりで、いくら傾けようともお酒は見えなかった。

「その代わり、条件がある」

「できることなら飲むわ」

 どのような条件が提示されるのかと身構えていたアーシャだったが、提示された内容はいとも簡単かつ単純なものだった。

「メイドさんを一人つけて。私、めんどくさがりだから」

「研究には熱心なのに?」

「だからだよ。熱心すぎて手が回らないの。蔵書が一冊増えると思ってさ」

 ミンカはすでにアーシャが手伝いを頼んでいるため兼任することはできないが、新しくメイドを探すのはそこまで難しいことではなく、知る人をあたって人を貸してもらうだけで済むごく簡単な話。特に、ゲルテハルト国軍の士官学校の使用人課程を卒業した卒業生は全員が軍の元で働くとは限らないため、人材の獲得も容易に可能だ。

 アーシャはその条件を飲み、メイドが用意でき次第、また手紙を書くことを伝えて、椅子から立ち上がる。

 部屋から去ろうとするアーシャを引き留めるように、ユラは口を開いた。

「悪いね。お酒飲みながらで」

「いいえ。……問題ないわ」

 二人は顔を見合わせると、どちらも優しい笑みを浮かべた。


「数日家から離れただけなのに、なぜか数年ぶりに帰ってきたような気がするわね」

「そう、ですね。お久しぶりです」

 ミンカは初々しくお辞儀をした。

 軍関係者及び、戦没者追悼式は、戦後復興がひと段落した後、改めて執り行われるため、それまでの間はしばらく時間に余裕が持てる。リリーと別れた二人は、数日前に出た自宅に再び戻ってきた。

 ミンカに窓を開けるように言うと、家の奥まで歩いていき、やがてスカートが揺れる。

「アーシャさん、飲み物なら、私が、用意、します」

「いいの。座ってて」

 アーシャは乾燥した茶葉を握って荒い粉末状にして、そして小さい布袋の中に詰める。そしてそれを、グラスに移し替えられた井戸水の中に落とした。

 陽光に照らされた井戸水は、茶葉から染み出す鮮やかで優しい色を広げていき、ひとたび混ぜると、透き通った宝石のようにクリアで赤茶色の飲み物が完成した。

 白い木のテーブルが飲み物の暖かな色に染まり、揺れる液面に呼応するようにその光も揺らぎ、様々なグラデーションを見せる。そしてアーシャは、それに少しの調味料を加えて、ミンカに手渡した。

「ルミエ茶よ」

「ルミエ、茶……?」

「レルカーリア国の名産品の一つなの。棚の中に運よく二人分の茶葉が残っていたわ」

 古くから親しまれてきたルミエ茶は、国内外問わず、明るく透き通った赤茶色と、爽やかな味わいが高く評価され、最盛期には周辺国の貴族や宮廷に輸出もされていた。薬にも調理にも使われる葉が原材料であるため、その用途は幅広い。

 そんなルミエ茶は、飲む宝石とも言われることがあった。

「それじゃぁ、いただきましょうか」

「はい」

 ミンカはその水のように透明なルミエ茶を不思議そうにじっと眺め、グラスを持ち上げる。

「ようこそ。レルカーリア国へ」

 何かを巻き上げるように吹いたその風は、ルミエ茶の透明感、爽やかさを、より一層引き立てるような、そんな風だった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ