九、名刺と黒電話(5)
「夜分にすみません、佐浦というものですけど、朔子さん――」
「航ちゃん? 私」
電話を取ったのは私自身だった。
電話機に一番近かったから出ただけで、待ち構えていたわけじゃないけど、すぐに話ができたのは嬉しかった。運命はまだ私たちをつなげてくれている。
航ちゃんの声を聞くのは昨日の別れ際の挨拶以来だ。まる一日と数時間ぶり、といったところなのだけど、感覚的にはもう何日も会っていないような気がした。
「声きけて良かった」
「朔子ちゃん、遅くなってごめん! 電話して来てくれたってお母さんにさっき聞いて」
「いいよ、急に電話したの、こっちだもん。航ちゃんのお母さんにもいろいろお話聞けたし」
「え? 変なこと言われなかった?」
「ううん、素敵なお話を聞けたよ――今日ね、信介さんにも偶然会った」
「ええ?」
「昨日の帰り、泣いてたんだって?」
「えええ! 恥ずかしいな、ちょっと。ボクの友達に何話してんだよ、信介さんは、まったく」
「大事にされてるみたいじゃない」
「……うん」
顔は見えないが、電話の向こうで航ちゃんが頬を染めるのがありありと想像できた。
生まれた時から決められていた許嫁に対する思慕の情というのは、私や孝美のへたくそな恋心とは違うものなのかもしれないけれど、大きな括りで異性への好意ではあるのだろう。信介さんも罪な男だ。
「今日はね、そんな航ちゃんを大事にしてる人たちから、私の知らない航ちゃんのお話をたくさん聞けた。それでね、私の方はもう大丈夫だから。もしまだ昨日のこと気にしてるんだったら、もうその必要はないよ、って伝えたかった」
その言葉自体は嘘ではなかったが、全部を正直に言ったわけでもない。ほんの少しだけ良心の呵責があった。
受話器の向こうの航ちゃんの息遣いから、彼女が安堵のため息を漏らしたのが伝わってきた。
「そっか。……ありがとう。正直ね、今日ずっとそのことが気になっててさ」
「あのね」
私は勇気を振り絞って、次の一言を紡いだ。
「もしこれからも、今まで通り遊んでくれるんなら、次の土曜日にでも、また一緒に作らない?」
「もちろん!」
航ちゃんは一も二もなく私の誘いを快諾した。
「明日でもいいよ?」
「残念。実は明日から三日四日ぐらい、家族で両親の実家に墓参りに行くから、私の方が予定ダメなんだ」
「ああ、関西なんだっけ?」
「そう。ごめんね」
「いいよ。分かった! 次の土曜日、ボクからまた電話するよ」
そのあと少しの間、私たちはいろんな話をした。
展示会の時の気になった作品の話とか、孝美とプールで会った時の話とか。この一日でできてしまった二人の隙間をパテで埋めるように、幾つもとりとめのない会話をしてから、ようやく電話を切った。
やっぱり電話越しにでも、航ちゃんとの会話は楽しい。
一息ついて、私は部屋に戻った。
まずは、作戦の第一段階は成功、というところだろうか。
いつも通りに製作会に誘うことはできた。
もちろん私の方は、昨日の出来事を無かったことにして「今まで通り」に戻るつもりなんてさらさらない。今はそれでごまかせても、いつかその時――中学の卒業が近づけば再燃する問題だろうし、時間が経てばたつほどに、航ちゃんの心は頑なになっていくに違いないのだ。
私と航ちゃんの未来の可能性について、この夏の間にある程度ハッキリさせておきたかった。
問題は、会った後どうするかだ。
何を話すかだ。
真正面から直截的に「許嫁は無意味だから解消しよう」なんて提案しても、腹を立てるにせよ笑ってごまかすにせよ、航ちゃんは聞き分けないだろう。彼女にはそうする理由が無いし、航ちゃんのお母さんが言っていたように、責任を感じている、というならなおさらだ。
それに信介さんの方はともかく、私の願いは許嫁の解消そのものではない。正直なところ、金原穂家の事情なんてどうでもよかった。
弱みを握って言うことを聞かせるとか、ぶん殴って強制するなんていうのは論外だ。そこで私たちの関係は終わってしまう。
そういう前提で、それでも航ちゃんの心を開いていかないといけない。
七月の末ごろに出会ってから、このたった二週間の間に、航ちゃんはその存在だけで、孤独感に閉じこもっていた私を変えてくれた。
孝美との友情をつないでくれた。
私が初恋に七転八倒して泣いたり笑ったりするのを、やさしく受け止めてくれた。
楽しい時には一緒に笑って、寂しい時には寄り添って、私の心を支えてくれた。
私が迷っている時に、やさしく背中を押してくれた。
そんな航ちゃんは、私よりもずっと大人に見えた。無敵に見えた。私が困った時に颯爽と現れるヒーローみたいに思ってた。
けど、あの子だって同い年の女の子なのだ。そして私の大事な友達だ。
友達ならば、立場は対等であるべきだ。
だから――。
航ちゃんが私を変えてくれたように、私も彼女を変えたい。
信介さんは、あの子にとっては最初から人生の選択肢が一つしかないのだと言っていた。
だったら、二つ目は私があげよう。




