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九、名刺と黒電話(4)

 なるほど、そういう事だったのか。

 許嫁なんて今時珍しい家の事情だと思っていたけど、(わたる)ちゃんのご両親と金原穂の実家の間の軋轢を埋める代償だった、ってことだ。

「親戚一同が集まった中で一筆書かされてね。ためらいもあったけど、実家の助けがなければ、生まれてくる子が生きるか死ぬかの瀬戸際だったから、どうしようもなくて」

 ご両親にとっては、十年二十年先の航ちゃんの将来よりも、その時生まれてくる子の安全が優先だというのは理解できた。


「でもね。実際航が生まれてからは、それがきっかけで親戚づきあいも元に戻ってね。怖かったお爺様も、晩年にはすっかり丸くなって。夫の実家とも、今ではしがらみもなく仲良くやっているのよ」

「信介さんは、親戚一同敵だ、みたいに言ってましたけど」

「信介君からしたらそう見えるのかもしれないわね。勝手に航との話を進められて、本家からは期待をかけられて。お義姉さんも航が行くと喜んでいろいろ言っちゃうから」

 お母さんはまたくすくす笑った。


「本当はね、もう許嫁の話なんて無くても、実家との縁が途絶えることなんてないと思うの。お爺様の最期のわがままだから、表立って取り消そうとはしないだけでね。――でも航はこのお話を聞いてから、変に責任を感じちゃってるみたいなのよ」

「責任、ですか」

「婚約を破棄したら、またお父さんとお母さんが金原穂の実家からいじめられる、って」


 なんだそりゃ。

 航ちゃんは、とっくに意味がなくなった昔の約束にこだわって、かたくなに自分の将来を固定しちゃってるってこと?

「ご実家との関係はほんとに問題ないんですか? 航ちゃんがお嫁に行かなくても大丈夫なんですか?」

「ええ。それは間違いないわ。それも航には事あるごとに言ってるんですけどね。もう自由に進路を決めていいのよ、って。でも航はああ見えて頑固で。誰に似たのかしら」

 それは間違いなくお母さんですよ。

 と言いかけたのを、私は寸前で思いとどまった。


「よくわかりました。貴重なお話、聞かせてくれてありがとうございます」

「いいえ、聞いてくれてありがとうね」

 お母さんにしてみれば、過去の自分の恥をさらすような話だ。娘の友達とはいえ、赤の他人の私を信用して包み隠さず、ごまかしもなく話をしてくれる決断をしたのは、本当に勇気がったことだろう。

「おばさんね、朔子ちゃんのこと大好きなのよ。あなたと知り合ってから、航は毎日いきいきしてて、幸せそうなんですもの。――これからも娘とお友達でいてくれる?」

「はい、もちろん」

 他のことはともかく、それだけは自信をもって確約できた。



 本山家では普段、テレビを見ながら食事をしないよう母から厳命されているのだが、日曜の夕食に限っては例外的に、大河ドラマを見ながら食べることが許されていた。

 今年の大河は太平洋戦争中のアメリカ日系人社会の苦難を描いた意欲作で、私としても興味があるテーマだったし、脚本も役者さんたちの演技力も素晴らしいものだった。

 今日の夕食のメインはテーブルの真ん中に山盛りになったかつおのたたきで、副菜としてキュウリと笹かまの酢の物と、冷奴ひややっこの小鉢が添えられていた。


 今朝と比べて、すっかり機嫌が直った様子でテレビの画面を見ている私に、父や崇一郎そういちろうがそれとなく、何があったのか探りを入れてきたが、私は具体的なことを何も言わずにはぐらかした。

 家族からはそれ以上の追及はされなかった。


 ドラマと食事が終わった後も、他の家族は引き続き茶の間でテレビを見ていたが、私は部屋に戻り、展示会の時に作った二号戦車の仕上げにとりかかった。ホチキスで仮止めしていた履帯を焼き留めして巻き直し、気になる合わせ目の隙間に爪楊枝つまようじの先でパテを盛る。


 わたるちゃんからの電話がかかってきたのは、夜の九時を過ぎてからだった。

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