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九、名刺と黒電話(3)

 半身を起こして、手元に落ちてしまっていた信介さんの名刺を拾ってポケットに仕舞い、意を決してロフトベッドの梯子を降りた。そして、航ちゃんと出会ったあの日に買った、三十五分の一動物セットの箱を押し入れから引っ張り出すと、そこに大きな字で書かれた電話番号を確かめた。


 うちの電話はまだ、電電公社から借りているダイヤル式の黒電話だ。

 私は受話器をあげてダイヤルを回した。呼び出し中の音が流れるのを聞きながら、相手が出るのを待つ。

「もしもし、佐浦です」

 電話に出たのは、航ちゃんではなくお母さんの方だった。


「本山です。こんにちは」

「あら、朔子ちゃん。こんにちは。ごめんね、航はまだ帰ってないのよ」

「え、出かけてたんですか?」

「そうなの。模型屋さんに行くっていってね、それっきり」

「かとうさんのお店には今日行ったんですけど、午前中に帰ったって聞きましたよ?」

「そうそう。そのあと一回うちに帰ってきて、お昼食べたあとにもう一回出かけたの。たぶん塩釜の模型屋さんに行ったのね。いつも通りなら、帰って来るのは六時ごろかしら」


 なるほど、隣町まで遠征したってことか。私は市内の模型店以外にはあまりなじみがないけど、ゼロ戦を買ってきた時にもそんな事を言ってたから、たぶん航ちゃんにとってはいつものことなのだろう。

「帰ってきたら電話するように伝えておくわね」

 お母さんはそこで通話を終えようとした。


「ちょっと待ってください。航ちゃんのお母さんにも、すこし伺いたいことがありまして」

「あら、なあに?」

「航ちゃんの許嫁の話です」

「あらまあ、そんな事までお話してるのね」

 お母さんは少し驚いたように言った。

 あまりにも特殊なプライベート事情だし、昼間の男子たちの様子から見て、学校などでも航ちゃん自身からあえて話すことはないのだろう。

「お母さんは、どう思ってるのか知りたいです」

 私は単刀直入に訊いた。


 お母さんは、電話が切れたかと思うくらい長い間沈黙してから、少し息をいて言った。

「そうね。朔子ちゃんになら、事情を話しておくべきかもしれないわ」

「事情、ですか?」

「そうよ。朔子がどうして、信介さんと許嫁になんてことになったのか」

曾祖父ひいおじいさんが決めたって、信介さんから伺いました」

「そこは知ってるのね。――でも元をただせばね、おばさんのせいなのよ」

 ここでいう「おばさん」というのは、親戚の伯母さんとか叔母さんという事ではなく一人称、航ちゃんのお母さん自身のことだろう。若く見えるから、全然「おばさん」て感じはしないのだけど。


 それにしても。

「どういうことですか?」

 因果関係が良くわからない。

「ちょっと複雑な話になるんだけどね。航にも前に同じ話したことがあるから、それと同じように、ちゃんと話すわね」

 そう前置きして、彼女は航ちゃんが生まれる前のことから話し出した。


 おばさん――航ちゃんのお母さんは、信介さんのお父さんの妹で、旦那さん、つまり航ちゃんのお父さんは、同じ地元の高校の先輩だったそうだ。

 高校時代に少しお付き合いがあったけれど、深い関係にはならないまま、先に旦那さんの方が高校を卒業してしまい、心残りがあるまま、二年後に自分も高校卒業の日を迎えた。

 そこで、彼女の卒業と同時に、例の曾祖父ひいおじいさんから、付き合いのある代議士の御曹司との縁談が持ち込まれたのだそうだ。


「私も顔見知りで、いい人なのは知っていたんだけど、お見合いが嫌でね。それに、お父さん――私の夫ね。彼のことが忘れられなくて、家出して東京の彼の家に転がり込んだの」

 さらりととんでもないことを言われた。

 おばさん(よわい)十八の時の話だ。すごい行動力だな。お見合い嫌がりすぎだろ。


 一方で航ちゃんのお父さん――になる筈の人は、そのころ東京の商船大学に通っていて、下宿暮らしだったそうだ。二人で『神田川』に歌われてるみたいな同棲生活を続けて、一年ちょっと経ってから、おばさんのお腹に命が宿った。

 早い話、それが航ちゃんだ。


「赤ちゃんができたのが分かって、おばさんたち、実家に仲直りにしに行ったの。学生結婚だったし、とてもじゃないけど育児しながら十分生活できる暮らしじゃなかったから、どうしても実家の助けが必要だったのよ」

「勝手なもんですね」

 いろいろ苦労もあったのだろうけど、結果だけ聞かされたらそういう感想になってしまう。率直に言いすぎて気を悪くされるかと思ったけど、航ちゃんのお母さんは悪びれるでもなく「そうね」と応じて、クスクス笑った。

「航にも同じことを言われたわ。若気の至りで、お恥ずかしい限りよ。それで、結局お爺様――航にとっては曾祖父ひいおじいちゃんね。金原穂の大旦那様に頭を下げて、結婚を認めてもらうことと、赤ちゃんのためにお金を出してもらうことをお願いしたの」


「それ、許されたんですか?」

 ここまでの話を聞く限り、それは難しそうな気がした。

「もちろん、最初はこっぴどく怒られたわよ。けど、航のお父さんはきちんと不義理を謝って、おばさんのことを絶対幸せにするって堂々と宣言してくれて、ようやくお爺様の怒りは収まったの。カッコよかったのよ、その時のお父さん」

 一瞬混乱したが、ここでいう「お父さん」は自分のじゃなくて航ちゃんのお父さんのことだろう。

 なんだ、惚気のろけか。


「でも、条件があったの」

「条件――あ、それがひょっとして?」

「そうよ。許嫁の約束。生まれてくる子が女の子なら、信介君のお嫁さんにして実家に戻す、って」

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