九、名刺と黒電話(2)
「純粋、ですか」
私はかみしめるように、その言葉を復唱した。
「そう。何も代償を求めず、ただ愉しみのためだけに時間と資源を使う。趣味としての純粋さだよ」
紫煙が細く夏の空にたなびいて、消えていくまでの少しの時間、沈黙が二人の間を通り過ぎた。
「その純粋さに対して、僕は真剣に向き合うことができなかった。受験勉強の成功と引き換えに、趣味としてのプラモを自分から踏みにじって、裏切ってしまったのさ」
「…………」
「だからね、航や君がまっすぐに趣味を貫いてるのをみると、少し羨ましいよ」
私はプラモデル製作という趣味そのものについて、信介さんほど深く考えたことはなかった。
ただ作りたいものを作りたいときに作る。
でもきっとそれが、彼の言うところの「純粋さ」につながるものなのだろう。
心の内側にある、純粋な製作衝動。
たぶん一度プラモデルを捨てたことで、彼はそれを外側から見ることしか出来なくなってしまったのだ。
「でも信介さん、それってちょっとストイックすぎじゃないですか?」
誠実なのはわかるけど、私はそこまで自分を追い詰めなくてもいいんじゃないかという気がした。
「難しい言葉を知ってるね。――そうかもな。もっと気楽に続けられてりゃよかった。けど今はまだ罪悪感が強くてね。そういう性分なんだ。とてもじゃないけど、無邪気にプラモ趣味に戻ろうって気にはなれない」
たぶん信介さんは、作るのが上手いだけじゃなくて、そういうモデラ―としての心意気とか矜持のようなものも大事にしているのだろう。航ちゃんが師匠と仰ぐのもわかる。
彼がプラモをやめてしまったのは残念だけど、飽きたからとか嫌いになったとか、そういうわけじゃないらしいのが分かって、なんとなく安心した。
いつか彼がまた以前のように、プラモデル製作を楽しめる日が来てほしい。
「航ちゃんは待ってますよ、信介さんが戻って来るのをずっと」
「そうか」
「あ、そういえば」
私はふと、あることに気づいた。
「信介さんの作品、一つだけ残ってるんじゃないですか?」
「残ってないよ。さっき言ったろ。全部捨てたって――」
「航ちゃんと一緒に作った紫電改。大事にされてましたよ」
そう言うと、 信介さんはハッとしたように顔を私に向けて、相好を崩して笑った。
「……ああ、そうか。そうじゃないか! 忘れてたよ。ハハ……なんてこった。まだ、ちゃんとあったじゃないか、僕の作品――」
サングラスの奥で、彼の目元にすこし光るものが見えたような気がした。
信介さんはなにかが吹っ切れたような表情で、颯爽と愛車に乗り込んだ。
私は運転席の方にまわって、窓越しに信介さんに別れの挨拶をした。
「すみませんでした、私のわがままで」
「いいさ。それより、航のことは任せたよ」
「はい、任されました!」
「ありがとな。――君と話ができて、本当によかった。十年たって彼氏ができてなかったら、またデートしようぜ」
「やですよ。航ちゃんに嫌われちゃいます。あと、他に好きな人いるので」
「はは! そいつは残念だ。――じゃあな」
信介さんは優しい顔で窓から手を振って、私が一歩離れたのを見計らってエンジンをかけ、ファミレスの駐車場から国道の彼方へと去っていった。
開けっ放しの部屋の窓から、涼しい空気が流れ込んできて、私は目を覚ました。
ベッドの上で考えごとをしながら、うとうとしてしまっていたらしい。机の上のデジタル時計の表示は午後四時を過ぎている。
航ちゃんが合意しなければ、許嫁なんて解消される、と信介さんは言っていた。
それは昨日からずっと、自分に何ができるか悩んでいた私にとって、ありがたい言葉でもあった。どんなに大きな力が動いていようとも、航ちゃんを私が翻意させることができれば、事態は動くかもしれない。
私にはやるべきことがあった。
同盟を組んだ後、信介さんの方では、親戚筋を行脚して根回しをしてくれると言っていた。私の役目は航ちゃん自身の説得だ。
孝美と確かめ合った通り、航ちゃんが金原穂家に嫁に行ったとしても、あの子との付き合いが途絶えることはないと思う。けど疎遠になることは避けられないだろう。
でも。できれば、もっとずっと一緒にいたい。
そのためには、彼女が何を思って許嫁の話を受け入れているのかを、時間を作ってきちんと本人から確かめる必要があった。
それでなくても、あの日以来彼女とは直接話をしていない。航ちゃんと会って話したかった。話す必要があった。




