八、アイスコーヒーとチョコレートサンデー(5)
主菜を食べ終わったところで、食器が下げられ、ウェイトレスさんはチョコレートサンデーとアイスコーヒーを持ってきた。
バニラアイスの上からたっぷり流しかけられたチョコソースが、パリパリに冷え固まっているのを、スプーンで割りながらすくって食べるのは至上の悦楽だ。脇にさされたウェハースはふにゃふにゃにならないうちに外して、先に食べておくのが私の流儀だった。
「誤解があるといけないから、ハッキリ言っておくぞ。僕は航が嫌いだから結婚したくないってわけじゃないんだ。むしろ、大事に思ってる」
「それはわかりますよ。お話聞いてたら」
「だからこそ、航には後悔のない人生を送ってほしいんだ」
信介さんが私をたばかろうとしているわけではないことは、ひしひしと伝わってきた。
航ちゃんを私の前から連れ去っていこうとするロリコン伯爵ではなく、真摯に彼女のことを考えてくれる、年上のいいお兄さんだ。
チョコレートサンデーで懐柔されたわけではないけれど、正直、この人となら航ちゃんも幸せになれるのではないかと思えるほどだった。
しかし、信介さん自身がそれを望んでいないとなると、事態はややこしくなってくる。
「なあ、朔子ちゃん。君は、この許嫁がどうのって話、聞いた時に正直どう思った?」
信介さんは急に核心をついてきた。
向こうがここまで打ち明けた話をしてくれているのだから、こちらも誠実に行かねばなるまい。私はあの時感じたままを素直に言葉にした。
「ひどい話だと思いましたよ。考えが古臭いし、それより何より、私と一緒に高校に行けないとか言われてショックでした」
「うん。だとしたら、僕は君の味方になれると思うんだけど、どうだろう」
「味方、ですか?」
信介さんはうなずいて、アイスコーヒーを一口すすった。
「じつは、僕には大学に入ってからできた彼女がいたんだけどね」
「結婚前から浮気してたんですか」
「そう。浮気……じゃなくて、真剣に付き合ってたんだ。今年で二年目だった。卒業したら結婚することも考えてた。で、筋を通すためには航との許嫁をとり消す必要があるだろう? 卒業前のこの夏休みに、彼女を実家に連れてって、この人と一緒になるから航とは結婚できない、って言ってやるつもりでいたんだ……けどね」
「けど?」
「小学生の許嫁がいるから、婚約解消するために実家に付き合ってくれって彼女に言ったら、別れ話の言い訳だと勘違いされてフラれた」
「あちゃあ」
ほとんど笑い話だったが、笑わせようとしているのかどうなのか、彼の意図が微妙につかみづらかったので、なんとか吹き出すのを我慢した。
「いや、笑ってくれていいよ。とにかくそれもあって、許嫁の約束なんてバカバカしいと改めて思ったんだ。爺さん婆さんたちがなんて言おうとね」
「それで? 具体的には何か考えがあるんですか?」
「とどのつまり、話は簡単なんだ。航の合意が無ければいい」
「というと?」
「ほんとのことを言うと、僕が合意してないって時点で、もう裁判でも起こせば法的は勝てる話だ。でもそれをやったら佐浦家との親戚づきあいにしこりが残る。親戚一同を納得させて八方丸く収めるには、二人とも合意していないってことをちゃんと表明するのが分かりやすい落としどころなんだ」
「つまり、航ちゃんの意志を変える、ってことですか?」
「そう!」
信介さんは強くうなずいた。
「ただ、それが一番難しい。――と、さっきまでは思ってた」
「さっきまで?」
「君と会うまではね」
「私ですか?」
そう言われましても。私に何か期待されても困る。たかが小学校の女子児童で、魔法も超能力も北斗神拳も使えなければ、金も権力も持っていないのだ。
しかし信介さんには、何か思うところがあるようだった。
「昨日の帰り道に、航が泣いていた話はしただろう?」
「ええ、さっき車で」
「今まではね、どれだけ僕が、結婚なんてしないで高校に言った方がいいって説得しても、あの子は笑って拒否して、心配しなくても信介さんのお嫁さんになるから、って言ってたんだ。何の迷いもなく、あっけらかんとね」
「はあ……」
「さっきも言ったけど、これまで航にはそれしか選択肢が見えてなかった。だけど昨日はそうじゃなかったんだ」
なるほど、そういうことか。
私が、一緒に高校生になって模型同好会に入る話をしたことで、彼女は気づいてしまった。自分の思いもしなかった、予定にない選択肢がまだ存在する可能性に。
今朝の食卓で母が言っていた言葉を思い出す。
――嫌やったら、あんたがその子本人にちゃんと話して、こうしてほしい、ああしてほしい、って言うたげなあかんのちゃうの?
――だとしたら。
「自分が何をしたらいいか、少しわかった気がします」
私がそう言うと、信介さんは安心したように、ふう、と息をついた。
「同盟成立ってことでいいかい?」
信介さんは右手を差し出した。
「ええ」
私は信介さんと、テーブルの真ん中、アイスコーヒーとチョコレートサンデーの間で、文字通りがっちり手を組んだ。




