一、麦藁帽とサンバイザー(4)
世の中に「航」と書いて「わたる」と読む名前の女子がいても、もちろんおかしくない。
なのに先入観とは恐ろしいもので、私はすっかり「佐浦航」が男子だと勝手に思い込んでいた。
そうではないことを本人から明かされた今に及んでも、なぜか少し混乱したままだ。仮想敵にしていた謎の天才少年モデラ―、サウラ・コウのイメージがガラガラと崩れ去っていく。
そこで孝美が無言でちょんちょんと私のわき腹をつついてきたので、ハッと正気に戻り、少し落ち着いた。
「さうらわたる……さん?」
私は改まって、確かめるように彼女の名を呼んだ。
「ありがとね、褒めてくれて」
「いやあ、こっちこそ!」
「女子でこの趣味って大変だと思うけど、お互い頑張ろうね」
私がそういうと、航ちゃんはこれでもかってくらいに勢いよく首を縦に振り、その後、両手で握ったままの私の手を上下にブンブン振って、興奮気味の表情で「おおおおお!」と謎の雄叫びをあげた。
「…………なんだこれ」
ぼそっと孝美がつぶやくのが聞こえた。
しばらくの間、佐浦航さんと私は、一緒に「模型のかとう」の棚を物色した。
「クラスで趣味の合う女子って少なくてさー。ショーケースで本山さんの名前見た時、ボク、ほんとに嬉しくて。――びっくりさせちゃってごめんね」
「ううん、いいよ。私も気持ちはわかる」
身に覚えのある話だ。第一小学校でも女子モデラ―事情は同じらしい。
あと、自分のことをボクって言うの、かわいいな。
「しかも、まさか当の本人がお店に来てるなんてね。もうこれは運命だ」
「今日飾ってもらったとこなんだよ。――ねえ、航ちゃん、て呼んでいい?」
「うん。じゃあ、ボクも朔子ちゃんて呼ぶね」
模型屋の陳列棚の前で、女子二人でこんなにもプラモの話に花を咲かせることができるなんて。つい三十分前には想像するのも難しかった。
そして、私はタミヤ製の三十五分の一動物セットを、航ちゃんはエルエス製百四十四分の一F―4EJファントムをそれぞれ購入して、店外に出た。
初対面だというのに、航ちゃんは私にも孝美にも物おじせず話しかけてきた。自分も結構遠慮なく話す方ではあったが、ここまでにはなれない。
学校でも男子たちに交じって遊んだりする、という話も聞いた。さっき店にいた口の悪い男の子たちとも知り合いらしい。
とにかく、二人で話していると話題が尽きることがなかった。内容的にも好きなプラモの話題やら最近のアニメについてやらなので、見栄を張ったり知ったかぶりしたりせずに乗っていきやすかった。
ついてきてた孝美は、モデラ―同士の会話にはついていけないと悟ったようで、気を回して途中から口を挟まずもっぱら聞く方にまわっている。
私はそれに気づいて、小声で言った。
「孝美、ごめん。先に帰っちゃってていいよ」
たぶんだけど、本当はもっと急いで帰りたかったのに違いない。悪いことをした。
「ごめんね、つき合ってくれたのに」
「ううん、全然。――じゃあ、お言葉に甘えて先に帰るね」
交通事故には気を付けるのよ、とお母さんみたいな一言を言い残して、孝美は途中離脱した。
模型店の前から国道に出る近道は、第一小学校近くの児童公園の中を通るルートだ。私と航ちゃんは、その公園で一休みすることにした。
雑草だらけの土の地面の上は、舗装道路の上よりは少し涼しい気がする。
二人のほかには、低学年ぐらいの子たちが三人、回転遊具で遊んでいるだけだ。強い日差しに晒されて熱をはらんだ鉄のフレームをつかむたびに、「あっちい!」と騒いでいた。
私たちは葉桜の木陰にある、ペンキの剥げた木のベンチに二人並んで座った。
荷物を下ろし、近くの自販機で買ったばかりの缶ジュースを開封する。航ちゃんはファンタオレンジ、私はスプライトだ。外れたプルタブを指輪のように指にかけて、缶に口をつけた。
喉を通っていく炭酸の泡の刺激が、心なしか体の表面温度まで下げていくような気がした。
「ぷはー、最高!」
ビールを飲むお父さんのようなことを言いながら、航ちゃんは缶から口をはなした。
「ねえ、孝美ちゃんて、帰しちゃってよかったの?」
「え? ああ。気にしなくていいよ。ああ見えてしっかりしてるから、帰り道に迷ったりしないよ」
「ふうん。あの子もプラモデル作るの?」
「まさか。腐れ縁で付き合いがいいだけ。趣味は合わない」
「そうなんだ」
「孝美のおかげで、学校ではいろいろ助かってるけどね」
私はベンチの上で伸びをして、麦藁帽を団扇がわりに顔を仰いだ。
「今日は一生分プラモの話をした気がするわ」
「ボクも! いやあ、趣味の話が通じるっていいね!――中学は東中いくよね? 一緒だよね?」
「そうだけど、気が早いんじゃない?」
「そうかな? 二学期になったらもう、卒業式の練習とか始まるじゃん」
「あー、言われてみればそうか」
卒業まで八か月足らず。そのあとはもう中学生なのだ。
「中学生って、昔はすんごい年上な感じがしてたなぁ」
「わかる。でも、ホントにもうすぐだよ」
航ちゃんは、ベンチから立ち上がって手を大きく上に伸ばした。
「一緒のクラスになれるといいな。そしたらさ、教室でもプラモの話しようよ。きっと楽しいよ!」
彼女はそのまま顔を上に向け、ファンタの缶を両手で高く掲げて逆さに持ち、缶底に残る僅かな雫を飲み口の縁にためてから、口の中に落とした。
その一瞬、爽やかな風が木陰を吹き抜けていった。
サンバイザーの透明な影。
揺れるポニーテール。
オレンジの一滴が彼女の唇を濡らすまでの刹那が、スローモーションのように感じられた。
揺れる木漏れ日が彼女の汗ばんだ肌をキラキラと輝かせて見せた。
――夏の妖精。
その所作があまりにも様になりすぎていて、私は一瞬呆けたように、彼女の横顔を見つめたまま黙り込んだ。
私がベンチに座ったままで、彼女を見上げる形になっているのもあるが、羨ましいくらい大人っぽく見える。背丈は私とさほど変わらないのに、腰が高くて全体にすらりとしている。胸のあたりの発育は私の方が先行しているけれど、その控えめな感じがかえって品位を保つのに一役かっていた。
同学年の女子に見惚れるなんて、初めてのことだった。