七、パイプ椅子とヴィネット(2)
そもそもの発端は、我が本山家の次兄、理博が、いきつけの電気店から持ってきた一枚のチラシだった。
「朔子、いるか?」
昨日の朝、ラジオ体操から私が帰ってきたあと、理博が私の部屋のふすまを叩いた。
「今着替え中」
その日は登校日で、二学期から使う教科書をもらいに昼から学校に出かけなければならなかった。体操着から通学用の私服に着替えていて、折悪しくパンツ一丁になったところで、理博が来たのだ。
「そうか。入るぞ」
「入るな!」
私は少しキツ目に言って咎めた。
よりによって、入ってこられたらシャレにならない恰好のときに言っていい冗談じゃない。
手早く上下の身支度を整えてから、理博にあらためて入室の許可を与えた。
「おはよう、朔子」
二人目の兄は半袖のワイシャツと夏用の学生ズボンを着ていたが、シャツの襟はボタンを二段目まで外してランニングシャツの襟が見え隠れしており、裾もズボンに入れていない。我が家は暑いのでしょうがないとはいえ、少々だらしなく見える。
しょうゆ顔の二枚目で、中学時代は面食いの女子生徒たちにモテていたらしいけど、その彼女たちがこういう姿を見たらどう思うだろうか。
背中まで伸びた暑苦しいロングヘアは頭の後ろで結ばれていた。つるつるの崇一郎と足して二で割ったらいいのにといつも思う。
「なによ、朝っぱらから」
先ほどののぞき未遂の件で少し腹を立てたまま、私は訊いた。
「今日はいかないの? パソコン」
理博は夏休みに入ってから毎日のように、朝食が終わるなり出かけて行って、近所の家電店の二階にあるパソコンコーナーに入り浸っているのだが、今日はこの時間になってもまだ家にいるので、何かあるのかなとは思っていた。
この兄がパソコン――というかマイコンに入れ込み始めたのは昨日今日の話ではない。「パソコン少年」なんていう安っぽいマスコミ用語で括るのが憚られるくらいだ。
きっかけは数年前のある日、父がTK―80という電子工作のキットを買ってきて作り始めたことだった。
小学生だった理博はそれに興味を示し、部品の半田付けなどを覚えて手伝っていた。
今思えばそれは黎明期のマイコンで、父にしてみれば電子工作趣味の延長線上のものだが、兄にとってはコンピュータの世界の原体験だった。
一昨年あたりから、ホビー用のパソコンがいい値段で電気店の店頭に並び始めた。
その頃、漫画家のすがやみつる先生が描いた『こんにちはマイコン』という入門書を入手して刺激を受けた兄は、プログラミングに目覚める。
むさぼるようにプログラミング関連の大人向けの書籍まで読みあさり、BASICを理解した後は低水準言語の勉強も始め、またパソコン趣味の最新情報が掲載された雑誌を定期購読するようになった。
理博が通い詰めている電気店では、どういう意図での経営方針なのかは知らないけど、一般客に迷惑がかからない限り、展示用のパソコンに客がプログラムを打ち込み、走らせることを許可してくれていた。自分のパソコンを持っていない兄にとっては、そこが修行の成果を試す場となっていた。
今年の春に街場の高校に入学してからは、その通学経路上にある駅裏のパソコン専門店に場を移していたが、夏休みのため地元の古巣に出戻っている、ということらしい。
私もかつて少しだけ興味を持って、理博兄についてその店まで行ったことがあったが、たむろするパソコン趣味のお兄さんたちの異様な熱気に気圧されて二の足を踏み、深く立ち入るには至らなかった。
「今日も行く予定はある。けど、その前に朔子にこれを渡しておこうと思ってね」
と、理博は一枚のチラシを私に手渡した。
A4サイズの緑色の紙にコピー印刷された手書きのチラシで、上の方には大きく「笠高模型同好会定期展示会開催のおしらせ」と書いてある。
笠高というのが、本市唯一の県立高校である笠神高等学校の略称なのは言うまでもない。
でも笠高に「模型同好会」なるものがあったのは知らなかった。
場所は少し遠いが自転車で行けない距離ではなかった。開催日は――
「土曜日? 明日やん」
「電気屋に置いてあったんだ。興味があるかと思ってな」
「どういう風の吹き回し?」
兄の通う電気店の一角に、地元のコミュニティのチラシなどを置くことができるパンフレットラックがあるのは知っているが、そこから私のために一枚持ってきてくれる、という行動は不可解だ。理博らしくなかった。
理博はフッと笑って、
「このまえのボーナス会議のとき、篤志にしてやられたからな。僕も朔子に媚びを売っておいた方がいいかと思ったまでさ」
「あー……」
あの時は航ちゃんの家に泊まることになったため、ファミコン購入を希望していた篤志に電話で入れ知恵して、親の財布でパソコンを買わせようとしていた理博の目論見を砕いたのだった。
具体的には、兄の持っていたパソコン雑誌の付箋紙が挟まれたページがエッチなゲームの広告だったことを指摘する、というもので、マンガやアニメの美少女CGが並ぶ表紙とあいまって、両親の心象を悪くするのに極めて有効な策だったと思う。
理博の口ぶりからして、それが私の献策だということはすでにバレているようだ。
先だって我が家に無事ファミコンが迎え入れられた後は、理博も篤志と一緒に同軸ケーブルのつけなおしを手伝ったり「マリオブラザーズ」を遊んでいたりしてたから、しこりは残っていないものと思い込んでいたが、どうやらまだ根に持たれていたらしい。
「まあ、そういうことなら遠慮なくいただいておくけど――代わりに何かしてほしいとか?」
「まさか。かわいい妹への、兄の無償の愛だよ、愛」
なんだか受け取りたくなくなってきた。
理博は時々恥ずかしげもなくこういう歯の浮くような物言いをするけど、顔がよくて似合ってしまう分始末が悪い。
まあ愛はともかく、情報として有益なものだったのは確かだ。
私はそのままチラシをありがたく受け取ってから、学校に行った。
学校で会った孝美に展示会の話をすると、
「その日は特に予定がないから付き合うよ」
とのことだった。
孝美は最近、私の趣味に文句を言わなくなった。航ちゃんというもう一人の女子モデラ―と知り合えたことで、考えを改めたのだろうか。
久しぶりに背負った赤いランドセルに、新しい教科書をいっぱいに詰めて帰宅した後、その航ちゃんにも電話をかけて誘った。
「知らなかった! 行くいく! 現地集合でいい?」
航ちゃんは受話器の向こうから、はしゃいだ声で参加を表明した。
こうして私たち三人は、笠高模型同好会主催の展示会を見学しに行くことになったのだった。




