五、クーラーボックスとスケッチブック(5)
隣市との境界線上にある国鉄下馬駅は、団地の最寄り駅で、小学生でも自転車をとばしていけば然程の時間はかからない。
九号棟の裏手から駄菓子屋の坂を上がり、スーパーの駐車場を横切っていく。バス通りに出てしまえば、あとは国道までほぼ一本道だ。
脇目もふらず、私は孝美が貸してくれたピンクのママチャリを馳せた。
バス通りが国道と合流する交差点は広く、歩行者用信号の待ち時間も長い。
「なんでよ、もう」
横断歩道の手前でちょうど信号が赤に変わり、私は電柱を拳で殴りつけて悪態をついた。
そこに彼がいるかもしれない。
ただそれだけで、心がはやる。焦る。
行ったところで何も確かめられないかもしれないのに――。
「落ち着いて。信号無視して事故にあったら元も子もないよ」
航ちゃんは自分の自転車を私の方に寄せて、軽く背中を叩いてくれた。
なんてことない声掛けだったが、それで私は冷静さを取り戻す。
駅は市境の高台の上にある。国道の横道から下馬駅前までの間にある、カーブの付いた長い急坂が最後の難関だった。
私の脚力では自転車をこいで行くにはキツい傾斜角だ。最後の方は降りて押すことになった。
「先に行って切符買っとくよ!」
航ちゃんはペダルを強く踏んでぐんと加速し、軽快に私を追い越していった。
最初からそこまで考えてついて来てくれたんだろう。
航ちゃんが隣市の模型店に行ったのは昨日が初めてではないと言っていたから、この駅も勝手が知れているようだ。
私がようやく追いつくと、駅舎の前で待っていた航ちゃんが、買ったばかりのこども料金の入場券を一枚手渡してくれた。
私はそれを受け取ってから、駐輪場に自転車を置いて施錠した。
ホームには今来たばかりの上り列車がまだ止まっている。
「昨日ボクが乗ってきた電車の一本前だよ。きっと間に合う」
航ちゃんはそう言うと、右手の指を広げて、顔の横に掲げた。何をしたいかはすぐ分かった。
「いっておいでよ」
「うん。ありがとう」
私も自分の右手をひらいて、航ちゃんの右手に、ぱん、と打ちつけた。
「行ってくる」
改札で切符に鋏を入れてもらって、プラットホームに出たところで、ちょうど発車のベルが鳴った。間に合うだろうか?
浅野くん――まだここにいるの?
またしても、はやる気持ちが不安を増大させる。
毎日来ているのかも、同じ時間にいるのかも確証がないまま、勢いだけで来てしまったけど。
本当に会えるの?
航ちゃんの証言では、浅野くんらしき人物は電車に乗り込むまで待合用の椅子に座っていたというが、今はそこに誰もいない。
――どこ?
ともかく、スケッチブック。
スケッチブックをもった男の子。
今の時間、昇降客はそれほど多くない。そんな目立つ特徴、見たらわかるはず。
きょろきょろと周囲を見回しながら、長い一番線ホームを彷徨う。
そしてふと、吸い寄せられるように、跨線橋の柱の方に視線を移した時。
――いた。
ほんとにいた。
刹那、時が止まった気がした。
彼との想い出が脳裏に次々と甦る。
趣味のグループで騒いだ日々が。
放課後に見た大人びた横顔が。
紙飛行機を一緒に作った時間が。
お別れ会の泣き顔が。
遠目に見える姿だけでは、誰なのかまではまだわからない。記憶の中の浅野くんよりも、ずっと背が高いように見える。けど、沢口くんや航ちゃんから聞いた通りの、スケッチブックを小脇に抱えた少年が、今まさに電車に乗り込もうとしているところだった。
「あさのくーん!」
私は思わず、人目をはばからず大声で彼の名前を呼んだ。
スケッチブックの少年は、出入り口に一歩足をかけたところで、振り返って私の来る方を向いた。
見覚えのある顔。間違いない。
驚いた表情で、浅野くんは何かを言おうとした。
しかしそこで、後ろに並んでいた他の客に急かされるように、電車に押し込まれてしまった。
「浅野くん、待って!」
駆け寄って、車両の出入り口にたどり着くすんでのところで、無情にも両開きの自動ドアがシューっと音を立てて閉じた。
発車します、お下がりください、という駅員の声が、スピーカーから私の次の一歩を咎め、目の前で列車は走り出す。
閉まったドアの窓の向こうで、浅野くんは困ったような笑顔でこちらを見て、小さく右手を振った。
列車の動きに合わせて歩を進め、こちらも同じように手を振り返す。
ホームの尽きるところまで私はそのまま追いかけて、最後は立ち止まり、遠く線路の果てに去っていく浅野くんに、両手を大きく振った。
やがて列車は見えなくなった。
私の目にだけ映る白い紙飛行機が、線路の上を地の果てまでずっと飛び続けていく。
その幻視を見続けながら、私はしばらくぼんやり立ち尽くしていた。
いったいどのくらい、そうしていたのだろう。
「間に合わなかった?」
いつのまにか航ちゃんが私の隣に立っていた。
「ううん、会えたよ」
あれで会えたと言えるのだろうか。
自問してみるが、答えはイエスとノーが半々だ。
言葉を交わすことも、想いを伝えることも、彼の想いを確かめることもできなかった。
でも浅野くんは間違いなく、私のことを覚えていてくれた。
そしてもう一つ、確かなことがある。
「私、やっぱり恋をしてたみたい」
だって――だって今、こんなにも胸が苦しい。
きっとあの紙飛行機を一緒に作った日から。まだ恋なんて知らない頃から。ちゃんと彼が好きだった。
この気持ちは、確かに恋だった。
「帰ろっか」
航ちゃんは、いつも通りの優しい声でそう言った。
「うん……」
踵を返し、改札に向かって歩きだしたところで、急に目が熱くなった。
堪えきれなくなった涙が、ひとすじ頬を伝うのを自覚した。
「どうしよ。ハンカチ、忘れてきちゃった」
「残念、ボクもだ」
航ちゃんはそう言うと、私の頭の後ろに手をやって、自分の胸に掻い抱くように、やさしく引き寄せた。
彼女のシャツに、私の顔が埋まる。私の涙がしみ込んでいく。
「ごめんね、航ちゃん」
「すぐ乾くよ」
航ちゃんの指が、私の髪をそっと撫でつづけてくれていた。
私が泣き止むまで、ずっと。




