五、クーラーボックスとスケッチブック(2)
私たちは校舎寄りの隅っこに陣取って、遠足で使うようなビニールの茣蓙を敷いた。
クーラーボックスを下ろして一息ついたところで、昇降口の方から、クラスメイトの氏家さんがぴょこぴょこ駆け寄ってきた。
「会長、遅くなりました」
「おはよー、なっちゃん」
孝美が笑顔を返す。
氏家さんの下の名前が確か奈津子さんで、なっちゃんは愛称だ。
クラスで一番背が低く、度の強い銀縁眼鏡をかけ、細くきれいに結われた三つ編みをおさげにしている。前髪もきっちり真ん中で分けられ、広いおでこが見えていた。
彼女は、孝美が五年生の時に作った将人のファンクラブの一員だった。成績優秀で算数が得意な才女だが、将人に対する盲信傾倒っぶりは孝美に勝るとも劣らない。
そして同級生なのに、なぜか敬語で接してくる。
「おはようございます」
と、丁寧にお辞儀をした後、氏家さんは私を一瞥して、あからさまに不快感を顔に出した。
「なんで本山さんがいるんですか?」
「孝美に誘われて」
私が事実を述べると、彼女は憤然として、
「!――会長!」
と孝美に詰め寄った。そして私の方をちらちら見ながら、小声で何か耳打ちする。
孝美は困ったように首を傾げた。
「そうかもしれないけど――今日だけ特別。ごめんね」
「……わかりました」
氏家さんは釈然としない様子だったが、話はついたようだった。
なんで氏家さんが怒っているのか、およその察しはつく。ファンでもないのに将人と親しく話すことのできる立場の女子なんて、目の敵にされて当然だろう。来る前から予想できたことではあった。
将人のファンクラブは、孝美と氏家さんと、もう一人、千葉さんという同級生三人組で構成され、会長は孝美ということになっている。
主な活動内容としては、練習や試合の応援、会員報の定期的な発行がある。
会員報は、将人の練習風景を詳細かつ主観的に取材して広報するガリ版の一枚刷りで、一部三十円で他のファンに売って、収益を将人のドリンク代などに補填しているそうだ。
試合を応援する時には、将人の名前の刺繡が入ったおそろいの鉢巻きや法被を作って持ち寄り、着用している。
私はもちろん、会員報を買ってもいなければ試合の応援にも基本行ってない。
「歓迎されるとも思ってなかったけど、ほんとに私なんかが来て良かったの?」
「うん、もちろん」
孝美はカンロ飴の袋を開けて、私と氏家さんにひとつづつ渡した。
「言ったでしょ。今日は初心者講習だって」
孝美が先日のプラモ初心者講習になぞらえてそう言ってるのは、言われなくてもわかる。
確かに、恋愛に関しては孝美の方が先達だ。いつもなら私がいない筈の場所で、孝美が将人にどう接しているのかを見れば、私の気持ちが恋なのか、客観的に見られるようになる――のかもしれない。
なるのだろうか。なればいいなあ。
折角お膳立てしてくれた孝美には悪いけど、時間の無駄になりはしないかと、だんだん不安になってくる。
グラウンド上では、ミーティングと準備体操の後、ランニングが始まっていた。
そのあとの練習はポジションごとに分かれて、短距離ダッシュのタイムを計ったり、キャッチボールをしたり、素振りをしたり。各々決まりきった動作を何セットかこなしては小休止を入れ、次のメニューに移る、といった感じのようだ。朝練では試合形式の練習は無いらしい。
将人はピッチャーなので、野手の練習にはあまり加わらない。コーチからフォームをチェックしてもらったり、五年生のキャッチャーと二人で投球練習をしたりしている。
一区切りついたところで給水タイムが入った。
孝美は立ち上がり、スポーツドリンク入りのスクイズボトルを持って、将人に駆け寄っていった。
残された氏家さんは、A4サイズの樹脂製クリップボードを片手に持って、そこに挟んであるプリントに、何かをボールペンで書き込んでいた。
気になって、体育座りのままこっそり首を伸ばし、彼女の手元を覗こうとしたが、すぐ気づかれて、また睨まれた。
「見ないでください」
「なんなのそれ?」
「練習投球の内容を記録してるだけです」
「氏家さんは、将人のとこにいかないの?」
「給水なら、会長一人で十分でしょう」
氏家さんはつっけんどんに言った。
「抜け駆け禁止じゃなかったっけ?」
「ファンクラブにも仁義はあります」
仁義?
――ああ、わかっちゃった。
「つまり、将人のファンクラブは孝美のファンクラブでもあるってこと?」
「ノーコメント。察してください」
孝美は用意していた冷やしタオルを両手に持って、将人の横顔をじっと見あげながら、ドリンクを飲み終わるのを待っていた。
どう見ても恋する乙女の表情だけど、肝心の将人がそれを見ていない。
飲み終えたボトルを渡されると、タオルを将人の頬に押し付けるように渡し、将人は笑いながらそれを受け取った。
いったい何を見せられてるんだ。
「辛くない?」
横目に氏家さんの仏頂面をちらりと見る。
「好きなんでしょ?」
「もちろん、少し心が痛みます。わたしだって、高尾くんのことが好きですから。たぶん、会長と同じくらい」
たぶん、か。自信がないということなのだろうか。
「なら、どうして?」
「だからこそ高尾くんには、彼にふさわしい女子と幸せになってほしいのです。千葉はどうか知りませんが、少なくとも、わたしはそう思っています」
「ふさわしい女子、ね」
こうして二人で笑いあってるところを傍から見ていれば、確かに在りし日の南ちゃんと和也くんも斯くやの、お似合いのカップルではある。
「でもさ、もし万が一、将人が本当は氏家さんのことを好きだったりしたらどうするの?」
「ありえません」
「そこは断言なんだ」
「バレンタインの時に、回答はいただいているので」
バレンタイン?――ああ、例の二月にチョコ渡して告白するやつか。急にイギリスの歩兵戦車の名前を出されたのかと思ってびっくりした。いつの間にか妙な風習が定着したものだ。
口ぶりからすると、その時にちゃんと将人に想いを伝えたってことだろうか。さすが、優等生は恋にもまじめだ。あと、抜け駆け禁止は有名無実というのも分かった。
「なので今は、他の女子からあの二人を守ろうと決めてるんです」
そのための「ファンクラブ」か。なるほどねえ。
そっぽを向いた氏家さんの横顔は悔しさをにじませながらも毅然としていて、私なんかが中途半端に同情したり憐れんだりするのは失礼に思えた。
孝美が戻ってきたので、そこで氏家さんとの会話は終わった。
朝練が終わるまでの間で、彼女と言葉を交わしたのは、結局そのときだけだった。




