四、紙飛行機とジャガイモ(4)
考え始めたところで、茶の間の方から下手なギターの音が聞こえてきた。
兄が歌い始めたのはチューリップの『虹とスニーカーの頃』だ。
私の部屋と茶の間はコンクリートの壁一枚で隔てられている。普段は茶の間の音などほとんど聞こえないが、しかし今はどちらの部屋も窓が開いており、崇一郎の騒々しい家庭内リサイタルは丸きこえだった。
崇一郎は高校のフォークソング研究会に所属している。
フォーク研という割には、歌っているのはニューミュージックばかりで、最近はチェッカーズやら女性アイドル歌手の曲なんかもレパートリーにしている。歌は上手くて、去年の文化祭の舞台は私も見に行ったけど、堂々としたものだった。
だけどギターがてんでダメだった。名曲が台無しだ。そもそもチューニングが合ってないのではないか。
しばらくは我慢できていたけれど、いいかげん頭が痛くなってきた。このままだとM4の車体が歪んでしまいそうだ。
私は作業の手をとめ、茶の間に踏み入って「うるさい!」と兄を一喝した。
「そういうのは駅前とかでやんなさいよ!」
「練習やん。家でやるしかないやろ?」
「何年団地に住んでんのよ。野中の一軒家ちゃうねんで! 近所迷惑!」
「近所て、将人くんは俺のファンやぞ?」
「ファン一人やんか。近所に何件ある思てんの?」
私の猛抗議に折れて、崇一郎は不承不承、ギターをケースに仕舞った。
「あーあ、赤間さんの誕生日までに何とかしたいんやけどなあ……」
誕生日プレゼントに歌うつもりだったのか。せめてオリジナルにしろ。
「そういえばさ、崇一郎と赤間さんて、どっちから告白したの?」
ふと気になってそう訊ねると、兄はにやりと笑みをこちらに向け、すぐに口をすぼめて「ひゅー」と鳴らした。
「とうとう朔子も、そういうお年頃か?」
ノーコメントだよバカ兄貴が。
「そういうのええから。どっち?」
「うーん、俺だったかなあ。よく覚えてないけど」
「覚えてないもんなの?」
「人によるやろ」
あまり参考にならなかった。
「で? お年頃の朔子ちゃんは、気になる男でもできたんか?」
兄はまじめな口調になって訊いてきた。
「いや、そんなんじゃなくて。人づてにね、昔の同級生で、私のこと好きだった奴がいるって、今頃きいてさ――うん。いろいろ気になったというか」
もやもやしている心の内実をできるだけ正確に、論理的に説明しようとしたけど、どうにも行き届いたものにならない。しゃべり方もおぼつかなくなっていく。
「それだけじゃなくて……なんて言えばいいのか」
「ほーん」
にやけたような、とぼけたような相槌を返した後、兄はまたすっと真顔に戻った。
「ほんで、朔子の方は正味どうなん? そいつのこと好きなんか?」
ストレートに訊かれ、一瞬言葉に詰まった。
――自分の気持ち、か。
浅野くんと実際に友達付き合いをしていたのは二年も前の話だ。友達だったんだから、その時点で嫌いじゃなかったとは思うけど、それが男の子への特別な好意だったかというと、何とも言えない。
私も浅野くんも子供すぎた。
でも彼の方では、私のことが密かに「好き」だったらしい。
その知るはずのなかった好意を、今日たまたま時間差で知ってしまった。
知った時、少し嬉しかったのは確かだけど――
今の私が浅野くんをそういう意味で「好き」かと問われると。
「――よくわかんないや」
小さな声で、私はそう答えた。
午後三時を過ぎたところで、ドアチャイムが高い音で響いた。
M4A3の車体の箱組が終わって、砲塔に手を付けようかという頃合いだ。
玄関に出てドアスコープを覗くと、魚眼レンズの視界の中で、孝美と将人が二人並んでいるのが見えた。
「はーい、なに?」
チェーンを外して鉄扉を開けると、孝美はあきれたような目で私を見ながら、
「今日、うちで花火大会の打ち合わせするって言ったじゃん」
と言って、ため息をついた。
「ああ、忘れてた」
そういえば、こども会の行事でやる花火大会の段取りについて、今日の午後から話し合うことになっていたのだ。
「ほらな。来てよかっただろ?」
将人は孝美にしたり顔を向けた。
すこしイラっとしたが、忘れていたのは事実なので言い返せない。
「しっかりしてよね」
孝美はなんだかカリカリしている。虫の居所が悪い感じだ。いつもなら文句をたれつつも許してくれるのだけど。
「朔子ちゃんも一応、副リーダーなんだから」
「へーい」
気のない返事をすると、孝美は「もう!」と頬をふくらせた。
公務員団地のこども会は、棟ごとにグループ分けされている。私たちのグループのリーダーは孝美。副リーダーが私と将人ということになっていた。
好んで立候補したわけではなく、この棟の六年生が三人だけなので、必然的にそうなってしまった。
偉そうな肩書だけど、ほとんどの場合、町内会のこども会担当者から来る通知を、棟の小学生たちに周知するだけの役割だ。
花火大会もこども会主催ということになってはいたが、大枠は出来上がっていて、私たちでやることと言えば、当日の役割分担を決めるぐらいだろう。
「孝美ん家だっけ?」
「そうだよ。筆記用具持ってきてね」
私は急ぎ足で部屋に戻り、ペンケースとメモ帳をポシェットに突っ込むと、崇一郎にひと声を掛けてから玄関を出た。




