三、夕焼けとゆびきり(5)
風呂から上がった私は、航ちゃんのお母さんが用意してくれていた草色のパジャマを借りた。
今日出るときに着てきたTシャツは汗だくになってしまって、今は洗濯機の中で回っている。
今夜も熱帯夜だろうし、夜通し干しておけば、明日の朝までには乾いているだろう。
パジャマは遠慮なく、今夜一晩着させてもらおう。
航ちゃんの部屋に戻ると、なんとプラモデルの初心者講座が再開されていた。
「そーそー、ピンセットで保持して、点付けで一本づつ丁寧に接着していけば大丈夫」
「はい!」
布団を敷くために卓袱台は脚を折って仕舞われていたが、航ちゃんの勉強机の上で肩を並べてやっているようだ。孝美のアッガイは、難関だったの爪のパーツの組み立てが終わったところのようだった。
「あとは――あれ、朔子ちゃんもうあがったの?」
航ちゃんがこちらに気づいて、声を掛けてきた。
「うん。ただいま」
「お風呂どうだった?」
「ゆっくりできたよ。ありがとう」
「よし! じゃあ今日のプラモ講座はここまでにして、孝美ちゃんも浸かってきなよ」
「うん。いってくる」
作りかけのアッガイを箱にしまってから、孝美はピンクのバスタオルを片手に階下に降りていった。
「――今日はありがとね」
孝美がいなくなった部屋で、私はごく自然にその言葉を口にした。
「もうちょっとで、友達なくすとこだった」
「いいってことよ」
航ちゃんは背を向けたまま、道具類や資料を片付けながら芝居がかった口調で言った。
「実はさっき、孝美ちゃんからもお礼言われてさ。ちょっとくすぐったい感じなんだよね」
なるほど、ずっとこっちを向かないのは照れ隠しか。
「実際、ボクが仲直りのために何かしたってわけじゃないし」
「ううん、航ちゃんが励まして、背中押してくれたから」
「いや、もともと朔子ちゃんと孝美ちゃんは仲良かったのにさ、ボクのせいで喧嘩しちゃったのが気になって、つい言っちゃっただけだよ。余計なお世話だったかもしれないし」
「そんなことないよ」
私は首を横に振った。
「近くにいすぎて、長く付き合いすぎて、ほんとに仲がいいのかわからなくなることだってあるんだよ。航ちゃんのおかげで取り戻せたんだ。私たちの時間。――もう一回言うけど、ありがとね」
航ちゃんはまだ後ろを向いたまま、照れくさそうに頭を掻いた。
孝美の後、航ちゃんも入浴を済ませて、青いパジャマで部屋に戻ってきた。
私たちは部屋の電灯をつけっぱなしにして、昼間のお菓子の残りを食べながら、三人でかなり晩くまでおしゃべりをした。
それはプラモデルの話にかぎらず、学校の話だったり、それぞれの家族の話だったり。
かと思えば、最近聞いているラジオ番組についてだとか、アイドル歌手の流行り廃りについてとか。
私たちの団地に、そのうち航ちゃんを招待しようという話もした。
「ところでさ」
航ちゃんは自分の椅子に私たちの方を向いて座り、学習机に片肘をついたまま、それまでの話題を変えるように水を向けた。
「孝美ちゃん、プラモデル作りの楽しさがよくわからないって、今日言ってたでしょ?」
「ああ、そういえば」
私はうつ伏せの姿勢で、腰までタオルケットをかけて、航ちゃんから『エリア88』の単行本を借りてつらつら読みながら答えた。
「そうだね。色々教えてもらったけど、今もやっぱり、ちょっとわかんないよ」
孝美は正直にそう言った。
彼女はピンクのパジャマを借りて、布団の上にちょこんと座っている。
「孝美ちゃんと話をしてる中でなんとなくその理由に思い当ったんだけど――まず、ガンダムを知らないじゃない?」
「うん。知らない」
「そもそも孝美、あんまりアニメ見ないもんね」
低年齢向けのアニメを、それ相応の年齢の頃に視聴していたとは思うけど、小六ともなればもうそんなものを見ている歳ではない。私みたいに男の兄弟がいるわけでもないから、マニア向けのリアルロボットアニメなんて見てる筈もない。
「なら仕方ないなって思うんだ。模型でどんなものを再現しているのか知らなかったら、完成形のイメージは弱くなるよねって」
「完成形のイメージ?」
「うん。大事なことなんだ。それが無いと、作品への思い入れが薄くなるから」
航ちゃんは、作り掛けのF―4EJの胴体をつまみ上げるようにして、自分の目線より高い位置まで持ち上げた。
その手をひらりと動かすと、ファントムは飛んだ。
一瞬、そんな幻視が見えた。
「例えばさ。ボクがこのファントムを作ってる時は、『ファントム無頼』のセリフを思い浮かべながら作ったりするんだ。カンクリが掛け合い漫才しながら百里から発進して、大活躍。頭の中でブンドドするんだよ。――朔子ちゃんはどう?」
頭の中で、ブンドド……。
「……なんとなく、わかる。畦畔林でタイガーに遭遇したらひとたまりもないぞ! とか想像しながら、シャーマン作ってた」
「ええと……戦車戦の場面を思い浮かべてるってことでいい?」
「うん」
「だよね――でも孝美ちゃんはどう? このモビルスーツが作中で誰にどう使われたかも、組み立て説明書の説明でしか知らないでしょ?」
「うん。ていうか、今の二人の会話の九割くらい、なに言ってるかさっぱり」
孝美はお手上げ、といった風に両手のひらを肩口に上げ、天井を見上げた。
「そうだよね。それで楽しい? って訊かれたら、よくわかんない、ってなるよ、そりゃ」
なるほど、確かにそうだ。
ノルマンディーの潮風に、あるいはクルスクの泥土に、エル・アラメインの砂塵に、履帯の軋む音に、鋼鉄の砲声に、空想の翼を羽ばたかせながら作るからこそ、何十個もある似たような形の転輪パーツの整形だって完遂できる。
作る時はいつも、手を動かしながら、頭の中でブンドドしてる。
デザイン的にどんなに優れていても、どんなに作りやすいキットでも、自分が何を完成させたいのかが分かっていなければ、作っていても楽しくないだろう。
プラモのことも、孝美のことも、私の想像力が欠けていた。
今日の初心者講座は、最初のアプローチからして間違っていたのかもしれない。
「孝美」
「なあに?」
「次、一緒に作る時はさ、ブンドドしよう」
「ぶんどど?」
「うん」
そして、いつかきっと、孝美にもプラモデル作りを楽しいと言わせてやろう。
そのあと電灯を消して、布団に入った後も、三人でたくさんの話をした。
とりとめなく、とめどなく。
あの秘密基地で過ごした頃のように。
いつしかまぶたが自然と落ちてゆくまで、その幸せな時間は続いた。
夜が明け、目が覚めても、二度と忘れない夢――。
朝になって、私は干してあった元の服に着替えた後、孝美と一緒に朝食のサンドイッチをいただいてから帰る準備をした。
「そろそろお暇します。ありがとうございました」
お礼を言ってから、玄関を出る。
強い日差しに、一瞬目が眩む。
今日はまた快晴で、ひどく暑くなりそうだった。
玄関先で身を乗り出して大きく手を振る航ちゃんに、私は同じくらい大きく手を振り返す。
自転車を路上に引き出した私は、振り向いて孝美に声をかけた。
「じゃあ、いこうか」
「うん!」
後からピンクの自転車を曳いてきた孝美は、私にとびきりの笑顔を見せてくれた。
「――いっしょに帰ろう!」




