三、夕焼けとゆびきり(3)
しばらくの間、お互い言葉を交わす余裕さえなく、三人を乗せた二台の自転車は縦列を組んでひた走りに走った。
孝美にも航ちゃんにも言いたいことはたくさんあるけど、まずは逃げ切ってからだ。
坂道は丘のてっぺんを過ぎて、下りにかわっている。昼間に来た時と同じように途中で左折して、住宅地に続く、白い手すりが張られた崖沿いの道をゆく。
「もう大丈夫そうだね」
航ちゃんが後方を確認し、不良がもう追ってきていないのを見て一息吐いた。
「いやー、危なかったねー。ちょっとスリルだったよ」
彼女はおどけた調子で笑ったけれど、もし一歩遅かったらと思うと本当にぞっとする。
孝美は、私の背中で半べそをかいていた。
私との喧嘩を思い出しているのか、不良が怖かったのか、そこまではわからない。
「今日はさ、二人ともボクんちに泊っていきなよ」
航ちゃんは自分の自転車を私たちの横に並走させつつ、右手の親指を立てた。
「いいの?」
「遅くなっちゃったし。帰り道にまたあの不良みたいなのに遭うかもだし。――それにさ、まだ二人と話したいこと、いーっぱいあるしさ!」
航ちゃんは、一瞬だけハンドルから手を離して両手を広げて見せた。
「それじゃ、お言葉に甘えようかな」
「朔子ちゃんがいいなら」
「よし、決まりだね!」
そう言うと、彼女はペダルを強く踏んで私たちを追い越した。
「じゃあ、先に帰ってお母さんに伝えてくるから。二人とも気をつけて来てね!」
赤いBXMはそこからまた急加速して、たちまち私たちを引き離し、先へ行ってしまった。
たぶん、いつでもそうすることが出来たに違いなく、不良が追って来ないことを確認するまで、私たちの速度に合わせてくれていたのだろう。
「航ちゃん、いい子だね」
人心地がついたのか、泣き止んだ孝美がぽつりと言った。
「――気を使ってくれたんだよね」
「そうだね」
二人には二人だけの、仲直りの時間が必要だった。航ちゃんはその時間をくれたのだ。
ペダルに足をかけたまま、時折踏み込んで、傾斜に任せてゆっくりと進む。
道路の右手の崖下には、住宅地の瓦が幾重にもつらなって見える。
ふいに、雲の下から低く沈みゆく夕日がのぞいて、強い光で視界がオレンジ色に染まった。
孝美が顔をあげ、呆けたような声で「きれい」とつぶやいた。
自転車のスピードを落として路肩に寄せて停め、私はサドルを降りて、手すりの向こうの西の空を見た。
孝美も荷台から降りて、私の隣に立つ。
「これで貸し借り無しだから」
私は孝美にだけようやく聞こえるような小声でそう言った。
「え?」
「秘密基地の時の借り。覚えてるでしょ?」
「覚えてるけど……朔子ちゃんの方は、忘れてると思ってた」
「今朝思い出したんだよ。変な夢見て」
「……そっか」
孝美はふふっとほほ笑んだ。
そして、少し目を伏せてつぶやいた。
「実はね。もう追いかけて来てくれないじゃないかって、ちょっとだけ思った」
「ごめん」
私はあらためて孝美に向き直り、頭を下げた。
「さっきはごめんね、孝美」
孝美はあわてたようにかぶりを振った。
「ううん。こっちこそ。嫌味なこと言っちゃってごめんね」
「それは私もだよ――あと、昨日のことも。一緒に帰れなくて、ごめん」
「いつものことじゃない」
「違うよ――「いつも」は、違う」
「え?」
私がきっぱりと否定したので、孝美はやや当惑したようだった。
「どこかで気が付くべきだったよ。将人の練習が遅くなる日も、ファンクラブの他の二人は練習が終わるまで出待ちしてたのに、孝美は私と一緒に帰ってくれてたよね」
「それは……うん」
「私が図書室に入り浸って帰りが遅くなった日も、ずっと待っててくれてたし」
「うん」
「他の女子グループとの付き合いもあるのに、孝美はいつも私の時間に合わせて、帰ろうって言ってきてさ。――正直ちょっと鬱陶しかったんだけど」
「…………」
「でもさっき、あの約束のことを思い出した。――絶対一緒に帰ろう、って、約束してたんだ、あの時」
昨日は気づけなかった。
そうなんだ。
一緒に家に帰れなかった日は、たいてい私の方が「約束」を破った日だった。孝美はいつ何時も、「一緒に帰ろう」と言ってくれた。
――朔子ちゃん、ひとりだと危ないから、これからは絶対いっしょに帰ろうね。やくそくだよ?
わかってしまえば、なんと幼く、なんとも小さな、他愛のない約束だろうか。
あいまいで、おぼつかなくて、壊れやすくて。
切り出したばかりのパーツみたいに不完全な。
そんなものを何年も大切に、可能な限り守り続けようとしてくれていた孝美は、他の女友達が離れていった私にとって、大袈裟かもしれないけど、この世に命をつなぎとめてくれる、かけがえのない幼馴染だった。
あの時、あのゆびきりを交わした日と同じような夕焼け空を、また二人で見上げている。
「バカだよ、孝美は」
私なんかのために。
「ほんと、そうだよね」
孝美は、私の背中から肩に飛びつくように両腕を回してきた。
二人で足を止めて、沈む夕日を見る。
「朔子ちゃんは絶対忘れてるってわかってたし。――でもね、帰り道は一緒にいたかったんだぁ」
「…………」
「学校から帰る時も、一緒に遊んで帰る時も。今日は楽しかったね、って言いあって。朔子ちゃんと一緒の帰り道を歩きたかったの」
「そう」
「うん。――約束だからってだけじゃなくて」
孝美は私の耳に口を寄せた。
「朔子ちゃんが、大好きだから」
私はそのささやきで、微熱とともに頬が紅くなっていくのを自覚した。
その紅潮が、朱に染まっていく夕焼け空にまぎれて、孝美にわからなくなってしまえばいいのにと思った。
絶対にわかられてしまうだろうことを確信しながら。




