三、夕焼けとゆびきり(1)
「あーあ、ほんとに出て行っちゃったねえ」
航ちゃんは何とも言えない声色で、残念そうに言った。
開けっ放しになった部屋の扉。
さっきまであの子が座っていた座布団。
飲みかけの麦茶。
菓子盆の中のカンロ飴。
卓袱台の上に残された、作りかけのアッガイの脚部。
視界のそこ此処に、孝美が残していったものが映る。それを一つ一つ確かめるうちに、沸騰していた私の脳みそが次第に冷えてきた。
なんで孝美は泣いたのか。
――私が邪魔って言ったからだ。
なんで孝美は出て行ってしまったのか。
――私が出てけって言ったからだ。
私のせいだ。誰がどこからどう見ても。
「どうするの?」
航ちゃんは責めるわけでもなく、急かすわけでもなく、ただ静かにそう訊ねた。
考えてみれば、彼女は来客が一人増えたのにも関わらず、気安く迎え入れてくれたのだった。その厚意をも、私は踏みにじってしまったことになる。
自分のやったことが恥ずかしくて、今すぐ消えてしまいたくなった。
「…………」
だんだんと伸し掛かってくる罪悪感にさいなまれて、私は何も言えず、うなだれたままかぶりを振った。
「ショック受けるくらいなら、言わなきゃいいのにさ」
「だよね……今のは、どう考えても私が悪い」
「あ、ええと。悪いとかじゃなくてね」
航ちゃんはあわてて立ち上がり、私の傍に寄って、こっちを向いて座りなおした。
「今のは、お互いに興奮しちゃってたし。よくあることだよ」
「うん……」
「いい? 昨日も言ったけど、ボクはね、昨日朔子ちゃんと出会えたのは運命だと思ってるんだ。同じ市内に、同じ趣味の、同い年の女の子がもう一人いるなんて思ってなかったから」
「うん」
それは私も同じことを思っていた。
「だからこの運命を、ずっとこれからも大事にしていきたいと思ってる。ボクと朔子ちゃんは、プラモで強くつながってる。――けど逆に言えば、今はまだそれだけだよね?」
「――え?」
「プラモデルが好きってこと以外、ボクたちお互いのことを知らないじゃない。なーんにも」
航ちゃんが、わざと突き放すような言い方をしていることはすぐわかった。
「そう……だね……」
「でも、あの子は違うんでしょ?」
「――――!」
そうだ。
孝美は、私のことを誰よりも知ってる。何もかも知られている。
私だって、誰より孝美のことを知っている――はずだった。
そのつもりだった。
「昨日の帰り道でさ、孝美ちゃんが途中で帰っちゃったじゃん。あの時、あの子がすんごく寂しそうな顔してたの、見えちゃったんだよね」
航ちゃんは天井を見上げた。
「ボクがちょっと気まずくなるくらいだった。でも朔子ちゃんはあんまり気にしてなかったから、あれ? って思ったんだ。ひょっとすると、その辺りからもう、二人の間でボタンの掛け違いがあったんじゃないかな」
私は確かに、その時の孝美の顔なんてよく見ていなかった。
彼女がガンプラを買っていたことも知らなかった。
航ちゃんと知り合えたことがうれしくて、趣味の話に夢中で。他の何も見てなかった。
あの子はあの時、私の後をついて来ながら、どう思っていたんだろう。
彼女が私を想うほどに、私は彼女を想えていただろうか。
「ホントのところは、本人に訊かないとわかんないけどさ」
「どうしよう……」
顔から血の気が引いた。
取り返しのつかないことをしてしまったかもしれない。
堪えきれず、涙がぽろぽろこぼれてくる。
ふとそこで、今朝見た懐かしい夢のことが、フラッシュバックのように脳裏をよぎった。
秘密基地の夢。
あの幼い頃の約束が。
そして――思い出した。
航ちゃんは私の目元に手を伸ばし、人差し指で私のこぼれる涙をすくった。そしてまっすぐに、やさしい目で、顔をあげた私の目を見て言った。
「朔子ちゃんは、どうしたい?」
「追いかけなきゃ」
私は決然と立ち上がった。
航ちゃんも私に合わせるように腰をあげて、我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「いこう!」
彼女は私の手を取った。
玄関を出たところで、航ちゃんはちらりと駐車場の方に目をやった。
「見て。自転車は置いていってる!」
つまり孝美は徒歩で駆けて行った。自転車をとばせば、今からでも追いつける可能性がある。
「先に行ってて。ボクも自転車出して後から追うから」
「わかった」
私は自分の自転車に跨ると、ペダルを強く踏んだ。




