『人喰い水』
祖父はどこか孤独な人でした。
山奥の村にひとり暮らし。近所付き合いは最低限していたようでしたが、世間にはあまり興味がないようで、個人的な友人はいないようでした。
孫の私も小学生のころに会ったきりで、ろくに連絡もとっていなかったんです。そのせいで私は、彼がどんな人だったか、すっかり忘れてしまっていました。
爺ちゃんのことは好きだったはずなのに………どうしてもっと関わらなかったんでしょうか。
祖父は若いころから猟師として鹿やら熊やらを撃って暮らしていて、猟友会ではベテランとして尊敬を集めていたそうです。70歳を超えていましたが、体は全然衰えた様子がなく…………亡くなる数日前でも、村の自治体の草刈りに参加するくらいには元気だったそうです。
だから祖父が亡くなったとき、父の反応は『ぽっくり逝けたようでよかったよかった』でした。
脳いっ血だったそうです。風呂の最中に頭の血管が切れてしまったそうで…………老人にはよくある亡くなり方でした。町内会の見回りの方が見つけてくださいました。夏場でしたし、風呂に入っているときのことだったので……酷い状態だったみたいです。葬儀よりも先に火葬が必要になるくらいの……。
そのころ私は高校生でした。
忘れられない……1990年の夏休みの出来事です。
私は岐阜県の、祖父の住む山のふもとの街で暮らしていました。"将来は東京に出たいなぁ"とか漠然と考えているような子供でした。暇さえあれば科学雑誌を読みふけって……両親からはこんな根暗で大丈夫なのかとよく心配されていました。
祖父の葬儀のあと、2週間経ったころでしょうか。
私は両親とともに、数日、祖父がいた家に泊まることになりました。遺品整理のためです。家で留守番しててもよいとは言われましたが、(おそらくこれが祖父の家に行く人生で最後の機会になるかもしれない)と思うとしのびなかったので、同行させてもらうことにしました。
祖父の家は、車で山道を一時間くらい上ったところにある村の外れでした。他の家々からすこし離れた……まるで孤独な祖父そのもののような立地で、周りは木々に囲まれていました。
家の裏手はすぐ森深い山になっていまして、大きく枝葉を広げたクヌギたちの影になって、昼間でも薄暗いんです。それが私、小さい頃からずっと不気味に感じていて………正直言って、この家自体はあまり好きな場所ではありませんでした。
おまけにそんな場所ですから、ひとたび風が吹けば木々の枝葉がざわざわと擦れて、すごくうるさいんです。ジー! ジー! というアブラゼミの大合唱すらかき消してしまうほど…………山の真ん中なのに、まるで荒れた海辺にいるような騒がしさが、どうにも落ち着かない土地でした。
運転していた父が門のすぐそばに車を停めてくれ、私は母とともに降りました。母がカギで門を開けて敷地内に入り、私もそれに続きました。
門から玄関までは敷石が続いています。母は『暑くてかなわん! 冷房冷房!』と言いながら、さっさと建物の中へ入ってしまいましたが、私は敷石の途中で足をとめ、建物をあらためて眺めてみました。
祖父の家は古い木造二階建てで、戦前に建てられたものを、代々改築しながら使っていたものでした。そのために正面の門構えにはどっしりとした趣がありましたが、家屋そのものを少し横から見たら、壁の一部だけが明らかに色が違っていたり、和風の作りにあとから足された電気やプロパンガス関係の機械設備が、雰囲気に馴染まず浮いているように見えました。
つぎはぎだらけのいびつな家…………そんな印象を抱いていたのを覚えています。
(本当はとっくに死んでるのに、手術で無理やり生かされているみたいだ………)私はそう思いながら建物を見上げていました。
「もう誰も住んでないし、爺ちゃんと一緒に燃やしてしまえばよかったんだ」とつぶやいたとき、背後から肩を叩かれました。
ふりかえると、父でした。彼は荷物の入ったバッグを脇に抱え、カンカン帽を団扇代わりに扇ぎながら、「言ってくれるな、こんなでも俺の実家なんだぞ」と額に汗を浮かべて笑っていました。
私もばつが悪く苦笑し、父と一緒に玄関を潜りました。
板張りの廊下が白熱灯で照らされると、小学生のころにここで過ごしたときのできごとが思い出されました……廊下の床板のひんやりした気持ちよさにべったりと寝ころんでいるのを、通りがかった祖父に叱られたのです。
祖父は私に対して何か怒鳴りましたが、もう何年も前のできごとですから、内容はもうすっかり忘れてしまっていて…………祖父の声すら思い出せないことに、ふと寂しさを感じました。
両親は居間で遺品整理の段取りぎめをやるというので、私はなにもすることがありませんでした。だからあてもなくフラフラと家の中を歩き回って、小学生のころ泊まったときの思い出を懐かしんだりしていましたが、そのうち喉が乾いたので、台所で水を飲むことにしました。
ステンレスの流し台の前に立ち、蛇口をひねると、透明な水が出てきました。戸棚からガラスのコップを取り出して、軽く全体をすすぎます…………夏場の熱を水道管のなかで吸収した、生ぬるい水でした…………生き物の体液を連想するほどの。
でもひと口飲むと、やはり身体の求めるところには逆らえず、ゴクゴクと飲んでしまいました。2杯お代わりして、飲みきれなかった分を流し台へ捨てると、水はぐるぐるとうずを巻きながら排水口へと流れていきます。
私はその様子をぼんやり眺めながら、(風呂で死んだ爺ちゃんもこうやって流れていったのだろうか)と、嫌な想像が頭をよぎるのを感じました……。
夏の風呂場で温められ続け、腐敗してドロドロに溶けた老人が、茶色い液体となって排水口に流れていく様子……。
自分の想像に気分が悪くなり、私はコップを片づけました。
でもそんな想像をしてしまったものですから、風呂場の存在を意識せずにはいられなかったんです。この家の1階の片隅にある風呂場……………祖父が液体になった風呂場……………。
そこからなるべく離れたくなって、2階ヘ上がることにしました。
玄関わきすぐの階段から上にあがると、そこは短い廊下でした。途中にある窓から柔らかな光が射していて、埃が舞っているのが見えます。その先にはひとつのドアがありました。
私はそのドアを見て、(そういえばこの部屋は爺ちゃんに『ひとりで入るな』って言われた覚えがあるな)と思い出しました。なんの変哲もない木のドアでしたが、そのことを思うと、その向こうがどうにも気になってきました。
(どうしてだっけ)と考えながら真鍮のドアノブに手を触れます。
(そうだ…………この部屋にはたしか『猟銃がしまってあるから』って言って、いつも鍵がかかっていたはず……………)そう思いながら手元を見ると、握られたドアノブの下に小さな南京錠があるのが見えました。しかし意外だったのは、その南京錠のロックがかかっていなかったことです。フック部分が金具の輪っかに引っかかっているだけでした。
父か母が開けたのか、それとも生前の祖父が閉め忘れたのか、どっちか分かりませんでしたが、私は(ラッキー、もう高校生だし、大丈夫だよな?)と思い、その南京錠を完全に外しました。
ドアを開けて中に入り、電気を点けると驚きました。
まず目に入ったのは、板張りの床に敷かれた大きな毛皮でした。黒い豊かな毛並の生き物の皮が、大の字の姿で床に横たわっているんです。頭こそついていませんでしたが、ツキノワグマの毛皮に違いありませんでした。
「おお」と声が出ました。目線をあげると、部屋の奥の壁にはカーテンのかかった大きな窓がありました。その窓の横には腰くらいの高さの戸棚があり、上には大きな鹿の頭蓋骨が乗っています。頭蓋骨は立派な一対の角もしっかりくっついていて、美術品のような美しさです。しかもよく見ると左目の上あたりの骨が大きく欠けていて、それは銃弾の痕に違いありませんでした。
入口すぐ横の壁から生えたフックにはハンガーがかかっていて、そこにはオレンジと黄色の目立つベストが、同じ色の帽子と一緒にかかっています。
猟友会の人が着るものだと知っていた私は、そのベストを着た祖父の姿を想像しました…………猟銃を携えて野山を歩き………遠くに獲物を見つけて銃を構える祖父…………木漏れ日の光に切り取られた、想像の中の祖父の眼差しは凛々しく、精悍でした………。
(でも排水口に流れた)不意に、流し台の暗い穴のイメージがよぎって、私は頭を振りました。ひとりの人間の何十年という人生が、丸ごとあの小さな穴にうずを巻いて吸いこまれていく想像が、残酷で、耐え難く…………。
嫌な想像を振りはらうために別の方向に視線を向けると、部屋の片隅に、縦に細長い金属の箱があるのが見えました。銃をしまうためのロッカーです。戸は開いていて、中身は空っぽでした。
祖父が死んですぐ、然るべきところに猟銃を納める必要がありましたから、おそらくそのときから開けっ放しなのでしょう。それで私は、この部屋の鍵を開けたのが両親のどちらかだとわかりました。
直後私は思い出しました。自分は小学生のころにこの部屋に入れてもらったことがあったということを…………この部屋で祖父がこっそり猟銃を見せてくれたことを…………『俺とおまえの秘密だぞ。友だちにも言っちゃいけないからな』と、何度も何度も念を押されたおぼえがありました。
金属と木でできた長い銃は、小学生の自分にはとても大きく見えて…………すごくカッコよく思えました。金属のボルトが擦れるシャキン! という音、部品に塗られたグリスの独特な臭い。それを手慣れた所作で扱う、小さな傷痕と深いシワだらけの祖父の両手…………口の端にタバコをくわえて、オイルライターで火を点けたあとに、それを上着のポケットにしまう一連の動作…………。
私の脳裏には、当時の光景がますます鮮明に思い出されていました。
『どうして動物を撃つの?』と質問したことを思い出しました。すると祖父は『山が俺たちを殺そうとしてくるからだ』と、しわがれた声で答えてくれました。物騒な答えが幼心に意外で、私は驚きました。祖父は私の顔をまっすぐに見ました。
『山はいつも俺たちを殺そうとしてんだ。人と山とは大昔からずっと殺し合いをしてんだ。俺は殺される前に殺してるだけだ』
そう言ってタバコの煙を吐いた祖父は、いつもの偏屈そうな顔つきではなく、ずっと冷たく、緊張感のある顔つきでした。私は恐ろしく感じて…………つい、反抗的に口走ってしまいました。
『じゃあ……殺してばかりで、まだ殺されてない爺ちゃんは、きっと山に恨まれているね』
すると祖父は神妙な顔つきで、『ああ……恨まれているよ。たっぷりとな………』とうなずいたのでした。
…………ふと、私は自分の頬が濡れているのを感じました。触れるとそれは涙でした。かつて祖父と過ごした思い出が、かすかな胸の痛みになっていました。私は手の甲で目もとを拭いました…………。
私はやっと、祖父という人間がどういう人だったか思い出すことができたのです。
ツキノワグマの毛皮の上に腰をおろして、静かなこの部屋を見渡しました。するとお尻の下から、ゴソゴソと人が動く気配が伝わってきます。この部屋は両親がいる居間の上なのだとわかりました。
部屋には祖父がいつも吸っていた強いタバコの臭いが染みついていて…………そこかしこに飾られている、数々の獣の皮や骨…………壁にかかった、猟師仲間と獲物とで撮った古めかしい写真…………鞘に納められて壁から提げられている、丈夫そうな鉈…………すべてがまさに祖父の人生そのものでした。あまりの愛おしさに、私は(ずっとここで座っていたい)と…………そう思うほどでした。
しかしふと、この部屋にはどうにもそぐわないものがあることに気がついたのです。
それは水槽と小さな冷凍庫でした。どちらも、ヤニがこびりついてうす茶色がかっている他の家具とはちがって、わりと新しいもののように見えました。ふたつとも部屋の床に直接、壁にくっつけて置かれていて、水槽の幅は長辺60センチくらいあるかなり大きなものです。異様だったのは、水槽の正面にいくつか茶色のガムテープが貼られていて、その上にペンで『キケン!!』『ふれるな!!』とはっきり書かれていることでした。
(中に何かいるのだろうか)と思い、好奇心から立ち上がって、真上から覗いてみると、中には何もいないように見えます。しかし透明な水だけは半分ほど入っているようで、自分が床を歩く振動が伝わったのか、透明な蓋の向こうで水面がゆらゆら揺らめいているのがわかりました。
水槽の蓋の上には一冊の大学ノートが置かれていました。その表紙に大きく"読ムベシ!!"と書かれています。
ノートを手にとり、開くと、そこには間違いなく祖父の力強い筆跡がありました。
(『この水槽にいるのは"人喰い水"である。
"人喰い水"は無色透明な水のように見えるが、生き物である。ただの水よりもわずかに粘度が高く、巨大なアメーバに近いようにみえる。そのためか、火をつよくおそれるようである。
性格は獰猛である。強ペーハー値の液体のように他の生き物の肉を溶かし、捕食する。骨は食わないらしく、肉を食い尽くすと水槽の外へ吐き出す性質が見られる。
3日ほど餌をやらなければ休眠しておとなしくなるが、餌をやった瞬間に目覚めるので注意すべし。』……?)
「なんだこれ」と声が出ました。"人喰い水"なんて聞いたことがありませんでしたし、いま目の前の水槽を半分ほど満たしているのは、どう見てもただの水です。
(爺ちゃんの冗談だろうか)とも思いましたが、祖父に冗談を言うイメージはありませんでした。記憶の中の祖父はいつも眉間にしわを寄せ、口をへの字に曲げているような人でしたから……。
不思議に思いながらページをめくると、そこにはさらに続きがありました。
(『発見の経緯を記す。
平成元年☓月☓日。■■山中において警察の要請に従い、猟友会で遭難者の捜索を行う。
同日昼に対象を遺体で発見。自身が第一発見者となる。
そのときの様子がたいへん奇妙であった。
遺体を遠巻きに眺めるに、直接の死因は崖から落ちたことによる頭蓋骨陥没であるようだが、服はそのまま死体の表面が強酸性の液体にさらされたように溶解していて、内臓が丸ごと露出していた。熊や野犬を疑ったが、周囲に獣の気配はなく、むしろ避けているような痕跡が見られた。
また死体は大きな水たまりの中に横たわっており、血や体液らしきものが混ざっていないように見えた。ここ数日間雨が降った記録はないので、これも奇妙であった。
慎重に遺体に近づくと、驚くべきことに、その水たまりの表面が大きくざわついてまるでひとつの生き物のように動くのを見た。しかもそのあと、地面の傾斜に逆らって、明らかに私のほうに向かってきたのだ。
私は危険を感じ、とっさに持ち歩いていた発煙筒を点火した。するとその水らしきものは逃げるように私から離れ、やがて地面に吸いこまれて消えた。
このことを他の人に話したがまともに取りあってもらえず、とくに☓丁目の☓☓には"とうとうボケたか"と、ひどく馬鹿にされて腹がたったので、それ以上言うのはやめた。
遺体の不自然な状態は、獣に食い荒らされたためだろうと結論づけられた。
私は独自にあの水の正体を調べることとした。
村の古い家を訪ねて文献をあたったり、図書館で山の珍しい生き物の本や、妖怪に関する研究書までをあたったが、それらしい記述は見つからなかったため、捕獲することとした。
金属の太い水筒と漏斗を組み合わせ、中に餌となるネズミを入れた罠を作成し、山の様々なポイントへ仕掛けてみた。驚くべきことに、この罠がすんなり成功した。
これが発見の経緯である。
危険な生き物であるので、ある程度独自に性質を研究してから適した研究機関へ連絡することにする。
研究内容は別冊へ記載する。』)
私は部屋を見渡しました。すると部屋の反対側の棚に大学ノートが何冊も雑然と置かれていて、表紙に手書きで"研究記録 ソノ①"などとあるのも見えました。
(爺ちゃんは本気だったんだ……!)と私はすっかり興奮してしまっていました。
これが何かの冗談であるはずがない。このノートは信じるべきものだ。いま水槽に納まっている液体は、液体でありながら生き物で、しかも獰猛な肉食らしい。
(果たしてそんなことがありうるのだろうか……?)私は、自身の胸のうちに好奇心がむくむくと湧いてきたのを感じました。
(たしかめてみよう)そう思って、私は水槽横の冷凍庫の前に屈みました。ノートをその上において扉をあけます。
はたして予想通り、冷凍庫の中には、何匹かの野ネズミがビニール袋で保存されていました。この水の餌として祖父が用意していたものでしょう。素手で掴むのは少し嫌でしたので、私はその中のちょろりと垂れたしっぽの先を指でつまんで、おっかなびっくり引っ張り出しました。
……ああ……私はなんであんなことをしたのか…………。
空いているほうの手で水槽の蓋を慎重にずらして……。
あいた隙間に、ネズミを垂らしてみたんです。
冷凍ネズミの頭が水面に近づくにつれ、信じがたいことが起きました。
なんと水の表面が、触れてもいないのにさざなみ立ちはじめて、ゆらゆらと大きく揺れはじめたのです。
異様な光景に、私は逆さまのネズミをぶら下げたまま固まってしまいました。
水はぐるぐるとネズミの下で渦をまきはじめ……。
ネズミの頭が水面にくっついた瞬間、勢い良くその全体を包んだのです! その恐ろしさはまるでワニが水中に踏みこんだ獲物に食らいつくさまのようで……!!
そして私はこの瞬間に、心のどこかで祖父のことを信じきれていなかったことを自覚しました……水のような肉食動物なんているはずがないと、まだそう思っていたんです…………。
だって、もし心の底から信じきれていたのならば、獰猛な肉食の生き物だと分かっていたのですから、その水がネズミの身体全体をのみこみ、私の手の先にまで食らいついてくるような事態は予測できていたはずです。
ですが私は予測していなかった。
だから、ネズミのしっぽをつまんでいた右手人差し指と親指の先に激痛が走ったんです。
不意に訪れたあまりの痛みに、私は悲鳴もあげられませんでした。私の指先の皮膚は爛れて、真っ赤な血がどばどばと溢れ出ていました。全身の筋肉が反射で縮み上がり…………
足が…………
足がはね上がって、水槽の側面を思いきり蹴っとばしてしまったんです。
気づいたときには遅すぎました。床に尻もちをついた私の眼の前で、水槽側面のガラス板に入った大きなヒビから、水が漏れ出していました。水槽の中では落ちたネズミがジュワジュワと表面を溶かされていて、透明ななかに赤い血の色が薄く広がっていくのが見えました。
(まずい!)という感情と同時に、様々な考えが一気に頭をよぎりました。指先から血はたくさん出ていましたが、そんな痛みを気にしている場合ではなく、頭の奥がしびれていました。
そうして動けないでいるあいだにも水はどんどん水槽の外へ出ていき、床に広がっていきます。ネズミの身体はこの数十秒のあいだにすっかり溶かされて骨だけが残り、もはや血の色すらも薄まってほとんど見えません。
"人喰い水"が、すべて床に零れ出ました。
私は近くの棚にすがりついて、やっと立ち上がりました。恐怖に足がガクガクと震え、呼吸が浅くなっているのが自覚できました。水たまりから目を離すことはできず、頭の中には(逃げなきゃ)という思いだけが満ちていました。
"人喰い水"も私を見ているのがわかりました。水に目や頭らしき部位はありませんでしたが、とにかくそんな感じがしました。直感的に私は、(ねらわれている……!)と理解しました。
後ずさり、壁に背中をつけました。すると水が"つぅ"と床を滑って少しこちらに流れてくるのが見えました。まるで獲物との距離を保とうとする猫です。水は床板の隙間にそって流れていくような動きはせず、薄い液体糊のような粘度を保っていました。
(隙を見せたら殺される!!)人生で初めて感じる種類の緊張が、脂汗となって額に浮いているのがわかりました。
と、そのとき、私の視界の右端に目立つオレンジ色のものがちらりと見えたような気がしました。それは猟友会のベストの色で、すぐ横の壁にかかっているのがわかりました。私は、さっき読んだノートの一節を思い出しました。
更に一歩、私は水から目をそらさずに壁に沿って動きます。水は動かず、私の動く振動を受けて表面をわずかに揺らしています。私は思い切り右手を伸ばしてベストを引き寄せました。プラスチックのハンガーと、一緒にかかっていた帽子が、軽い音を立てて床に落ちます。
ベストのポケットに急いで左手を突っ込みました。そのときです。ポケットに手を突っ込む一瞬、どうしても視線が外れてしまうのを"人喰い水"は見逃しませんでした。
水は一気に距離を詰めてきました。床板の上をするする滑ってこちらに素早く向かってきます。私は急いでポケットの中のものを引っ張り出しました。
オイルライターです。祖父は、よく着る服の上着にはいつもタバコと一緒に入れていたんです。私は左手の親指で蓋をあけ、素早く火をつけました。
すると水の動きがぴたりと止まりました。
("火をつよくおそれる"……! 爺ちゃんは正しかった……!)
左手でライターをしっかり握り、水に向けて突き出します。するとほんの少しだけ、火に照らされた水が後退したような気がしました。私は高揚しました。
(よし……! よし、よし!!)ライターを突き出したまま水に向かって慎重に近寄ります。水はさらに怯えたように後退し、割れた水槽のすぐ横の床に溜まりはじめました。
このときの私は、自分を脅かしていたものを脅かす立場になったことにすっかり興奮していて…………さらに水を追い詰めてやろうと、さらに近づきました……………。
突然です。水が減りました。
水たまりの輪郭が急にひと回り小さくなったかと思うと、あっという間にぐんぐんと嵩を減らしていき、ほんの数秒であとかたもなく姿を消してしまったのです。あとには割れた水槽と、その中に転がるネズミの骨だけが残されました。
いったいどこに行ったのかと私は周囲を見渡しましたが、部屋のどこにも"人喰い水"の姿はありません。さっきまで興奮していた頭は、一転、不安と恐怖に包まれました。
(落ち着け! 爺ちゃんのノートには何て書いてあった……!? あの水はどうやって逃げるんだ……!?)
……思い出して、「あっ」と声が出ました。
私は青ざめました。あのノートには、追い詰められた水は"地面に吸いこまれるようにして消えた"と書いてあったのに…………私はそれを完全に忘れてしまっていました。
この部屋の真下は、両親がいる居間だというのに。
ライターの蓋をとじ、壁にかかっていた鉈を抜きました。役に立つかは分かりませんでしたが、丸腰であれと相対する勇気はありませんでした。急いで階段を降り、居間に向かうと…………もう、すべて遅すぎました。
両親が苦痛の悲鳴をあげながら床にのたうち回っていました。父は天井から落ちてきた水をかぶったのか、頭の皮膚がズルリと剥けたようになっていて、大量に溢れた血が、白いポロシャツを真っ赤に染めていました。
母は水が目に入ったようで、大きく身体を反らしながら、両手で目もとを押さえていました。しかしその押さえた手も"人喰い水"は食らっていて、皮膚の下の筋繊維がむき出しです。
ふたり分の苦悶の絶叫が部屋中に響き渡っていて、耳が痛いほどでした…………私が両手で耳を押さえて立ち尽くしているあいだにも"人喰い水"は父と母を食べていきます………。
父の全身は痙攣して、ビクビクと、陸に打ち上がった魚のように跳ねています。
母はもうなにもわけが分からなくなっているようで、悲鳴ではなくかん高い笑い声を上げています。
やがて父の頭部の色が、赤から白に代わりはじめました。母は喉の奥からたくさんの血を吐いて、まるで噴水のようです。彼らの身体から流れたたっぷりの血が床で混ざり合って……ひとつの大きな血溜まりが、床でうずをまいています。
その血溜まりのフチが私のつま先まで迫ってきて……。
手からこぼれた鉈の刃先が、血溜まりの中に刺さりました。右手の指先の痛みがどんどんひどくなっている気がします。両親の悲鳴はもう聞こえません。
私は2階に戻ることにしました。
階段を上がり、温かい日の差す短い廊下を抜け、祖父の部屋に戻り、ドアを閉めます。
私は部屋の真ん中に立ち、ボーッと空中を眺めることしかできませんでした。
とても現実味がありませんでした。
私は割れた水槽を見ました。
つい数分前まで、こんなことになるとは想像もしていませんでした。
どうしてこんなことになってしまったのか、全然分かりませんでした…………いいえ、本当はわかっていました。
私が祖父を信じなかったからです。祖父のノートの内容を心から信じていれば、父も母も死ななかったんです。
(ふたりは私が殺した)
そう思ったとき…………私のうしろ、部屋のドアの向こうから……びちゃ、びちゃ、という音が聞こえてきました。
私は(ああ、"人喰い水"が来たんだ……)と分かりました。あの水は両親をすっかり骨だけにして、今度は私を食べようとしているんだと…………なぜか冷静にそうわかりました。
ふたたびオイルライターを握りしめました。さっきまでの恐怖と混乱がウソのように頭が冴えていて、ひとつの想いが心の中にめらめらと湧いていました。
(殺される前に、殺してやるッ………!!)
火が弱点なのは分かっています。ならばやることはひとつです。
私はライターの火を点け、部屋の奥の壁にある窓を見、そこにかかっていたカーテンに向かって投げつけたんです。
火はあっという間に燃え移りました。部屋の一角に上がる火柱の気配を感じとったのか、水はドアの前でとまったようです。たくさんの煙が部屋の中にたまりはじめて、私は床にへたり込みました。
もうどうなってもいいと感じていました。あの水を殺せるのなら、自分なんてどうだっていいと……このままこの家と一緒に燃え尽きてしまおうと……そう感じていたんです。
しかし床の毛皮の上に横たわった私の頭によぎったのは、幼少の頃の思い出でした…………小学生のころ、廊下の床の冷たさが気持ちよくて、そこに寝ころんでいたために祖父に叱られたときのことです。
あのとき祖父が怒鳴った言葉…………!
(『死んでないなら立てッ!!』)
ビクッとしました。まるで祖父の言葉が耳元で聞こえたかのような、そんな気がしたんです。
私は立ち上がりました。さっきまでの諦めのような気持ちは影もかたちもなく、どうしてそんなことを考えていたのかわかりませんでした。私は部屋を見渡しました。
カーテンから燃え広がった炎は天井まで広がっていて、部屋はすでにものすごく暑くなっていました。煙もたくさん出ていて、私は本能的に服の袖で口元を塞ぎました。
逃げ場は部屋のドアか、もしくはあの窓しかありません。しかしドアの前にはまだ"人喰い水"がいるかもしれません。
(窓しかない!)
私は足元のツキノワグマの毛皮を持ち上げると、全身を包みました。そして窓に突進していったのです。窓の周辺は火の勢いがつよく、おまけに窓自体閉まっていましたので、ガラスを突き破るしかなかったんです。
丈夫な毛皮のおかげでガラスが私の身体を傷つけることはありませんでした。私は土の地面に落下し、全身のつよい痛みにしばらく動けずにいましたが、なんとか頭をもたげて家の方を見ました。
建物の二階はすっかり炎に包まれていました。大量の黒い煙が、夏の明るい空に向かってもくもくと立ち上っていくのが見えます…………まるで、火葬場でした。
私は毛皮を捨てて裏手の山へ逃げました…………祖父の家は耐火性の低い古い木造だったこともあり、勢いは衰えず、炎が一階にまわるまではそんなに時間がかかりませんでした。
私は木々のあいだからずっとそのさまを眺めていました………………何もかもが炎によって消されていくさまを………。
父の笑顔も、母の優しさも、祖父の思い出すらも、あの水によって喰われてしまったさまを……………。
周囲をとりかこむ森の木々たちは熱風にざわめき、まるで笑い声のように騒がしかったです。耳を塞ぎたくなるほどに恐ろしいそれらの声は、私を見下ろして、嘲っているに違いありませんでした………。
………私は緊張の糸がきれ、そのまま倒れてしまいました。
………そのあとはあまり面白い話じゃありません。
私は警察に逮捕されました。容疑は両親の殺人と放火です。
血がべっとりついた痕跡のある鉈が、焼け跡の中から見つかったせいでした。
私はあの日起こったことを話しましたが、信じてもらえず………"反省の色がみえない"と、何度も何度も警察に殴られました。
そのころはまだ尊属殺人というものがありましたから、私に下った判決は無期懲役で…………死刑にならなかっただけ幸運だったと、弁護士さんから聞きました。
あれから35年……ようやく仮出所をいただきまして、いまここで、やっと当時のことをお話させていただいているわけです。
当時高校生だった私も、今年で51歳になります……髪もすっかり減りましたし、腰やひざも、曲げるといちいち痛い………。
あの"人喰い水"は、私の人生も食べてしまったんです……。
…………ところで私、ずっと恐ろしくてたまらないことがありまして………。
あの水……"水"なので、当然死体とかはあがらないわけですよ。火にまかれたのなら、きっと蒸発するわけです。
だから火事のあと、あれが存在してた証拠なんてどこにも見つからなかったんですよね。
それで………心配なのは…………
家というものには、排水口が必ずあるわけじゃないですか。
あの水、そこから逃げたのかもしれないと、私ずっと思っていて。
あのおぞましい水が、うずをまいて排水口に吸い込まれていく想像をいつもしてしまうんです…………。
ドロドロに溶けてしまった祖父と同じように………。
……私、これまでずっと刑務所暮らしでしたから、友人や恋人もいません。おそらく孤独に死ぬと思います。祖父と同じように………
そうしたら私もドロドロになって…………
下水の中で待ちかまえているであろうあのおぞましい"水"に、今度こそ食われるんでしょうか?
それが、本当に恐ろしいんです。
おつき合いありがとうございました。
感想やポイントなどいただけるとたいへんうれしく思います。
※この作品は拙作『こどくの百物語』にも掲載予定です。
※小説家になろう公式企画『夏のホラー2025』参加作品。