厚化粧の罠
「おはよー」
希美がいつものように大学の講堂に入ると、美穂と香澄は既に着席していた。
「佐藤くぅーん、おはよお!」
そこへ、耳障りな甲高い声が聞こえてきた。美香だ。
しかし佐藤は、皆に聞こえるような大きな声で、美香を冷たく突き放した。
「いい気味!」希美は思わず呟いてしまったが、恐らくその場にいる誰もがそう思っただろう。
「あーあ。それにしても美香の奴、相変わらず佐藤君にはすごいブリっ子だね。」
「ね。私あの子苦手。厚化粧だし、レアなブランドバッグだか何だか知らないけど、これ見よがしに見せびらかしてるし。」
3人で陰口を叩いていると、それを本人に聞かれてしまった。
「はぁ?あんた達うるさいわよ。こんな高級なバッグを買ってくれる人もいないから、やっかんでるんでしょ?」
はいはい。おおかた、ネットで中古品でも手に入れたんだろう。先程のバツの悪さからか、更に見栄を張りたかったのかもしれない。
「あんた達みたいな冴えない女と違ってねぇ、美香にはファンがたくさんいるの。どうせあんた達は、食事もその辺の安っぽいお店にしか入ったことないんでしょう。」
大学生にもなって自分を名前で呼ぶ女は大嫌いだ。うんざりしている希美達を尻目に、美香は、誰も聞いていない自慢を大声で続ける。
「美香はねぇ、週末は毎日ファンからデートのお誘いが絶えなくて大変なのよぉ。今週末は高級イタリアンに行くのぉ。」
* * * *
その週の日曜日、希美は近所の定食屋で昼食を摂っていた。
「希美ちゃん久しぶり。こんな小汚いお店によく来てくれたねぇ。」気のよさそうなおばちゃんが、料理を下げながら希美に話しかけてきた。
「いえいえ、子供の頃からこのお店の大ファンですから。けど…」
「やっぱりお店の雰囲気が気になるかい?」
「はい…。料理はとても美味しいのに、この外観じゃ、最近の若い人はまず入って来ないでしょうね。」
「そうなのよ。とりわけ若い女の子なんて、希美ちゃん以外に見たことないわよ。」
そう言われて、希美は店内を見回した。すると女性客が1人だけいた。みすぼらしい中年の女性だ。
「あれ?珍しい!女性のお客さんなんて。」
「そう。女性自体は全然珍しくないのよ。とは言っても、もう年だし老眼だから、お客さんの顔は覚えられなくなったけどねぇ。」
おばちゃんが去った後、希美は何気なくその女性に視線を移したが、そこで、あることに気が付いた。
美香がいつも自慢して持ち歩いているバッグを持っていたのだ。
(あれって、結構出回ってるのかな?)
そんな想いを巡らせていると、その女性が「すみませーん」と、明らかに機嫌悪そうに声をあげた。それを聞いた希美は驚いた。美香の声だったからだ。
「美香の頼んだ料理がまだ来ない」などと文句を言っている。
間違いない。みすぼらしい中年女性ではない。化粧をしていない美香だ。
希美は、店員に対して高圧的な人物のことを、自分を名前で呼ぶ人とは比べ物にならないくらい嫌悪している。この店は、元々は地元の顔見知り相手に、夫婦でのんびりと営業していたのだ。その名残で、新規でできた中年客から「料理が遅い」と言われることもたまにある。しかしこの店主夫婦は、「よくあること」と言って全く気にしていなさそうだ。
美香と思しき女性客が食事を終え、不愛想に会計を済ませて店を出るのを見計らい、希美も外へ出た。そして、正面に入るなり即座に嫌味たらしく声をかけた。
「美香ってば、こんなところにいたのね」
声をかけられた女性は、明らかに動揺していた。
「今週末はイタリアンじゃなかったっけ?しかも、こんな見た目のイマイチなお店に入るのね。誘ってくれるファンは?こんないい天気なのに?」
「人違いだよ!」
女性は去ろうとするが、希美は攻撃の手をやめない。
「あんたの肌を見て、私も店のおばちゃんも、あんたを中年だと思っちゃったわよ。二十歳でそれはヤバいわね。何?不摂生?」
「うるせー!人違いだっつってんだろーが!」
遂に女性はキレて、希美のいる方向へ走り去っていった。そのとき、彼女の大きな体が希美を突き飛ばし、希美は大きく尻餅をついた。
「あ!」何か鈍い音がしたので、嫌な予感がして鞄の取っ手を点検すると…。
美穂や香澄とお揃いで購入したキーホルダーに、ヒビが入っていた。
「許せない…」
希美は、女性が走り去った方向を恨めしく眺め、ゆっくりと立ち上がった。
* * * *
「おはよう。」
今朝の希美は元気がなかった。だが講堂に入ると、いつもと違うのは希美の気分だけではなかったようだ。何やら騒がしい。
「ねえねえ希美!」美穂と香澄が駆け付けて来た。
「佐藤くん…殺されたらしいよ」
「え?」
「さっき、警察の人が来て話してたの。」
「殺されたのは昨日の正午くらい、場所はA市だって。」
あまりの衝撃に言葉が出なかった。殺人事件など、自分とは一生無縁だと思っていた。しかも、言葉を交わしたこともある級友がもうこの世にいないなんて…。私は何を根拠に、こんなことは自分には起こらないと高をくくっていたのだろう。
どうやら別室で事情聴取を行っているらしい。少し様子を見ようと、希美は講堂を出た。すると突然、背後から声をかけられた。
「希美ちゃーん」
振り返ると、猫なで声を出した美香だった。何とも気色悪い。だが、希美は美香の要件をなんとなく予想できた。美香は続ける。
「実は私ね、警察に疑われているの。」
「でしょうね。あんな赤っ恥かかされて、動機は充分だものね。」希美はつい皮肉を言ってしまい、自分で笑いそうになった。美香にあんなに気持ち悪く呼び止められた時点で、美香が自分に何か要求があることはすぐに分かった。
しかし反して美香の逆鱗には触れたようだ。美香の舌打ちの音を聞き逃さなかった希美は、怪訝な表情で美香を見返す。そうすると美香は慌てた様子で
「あ…あの。それでさ、お願いがあるんだけど。事件のあった日、私のことを食堂で見かけたよね?そのことを証言して欲しいんだー。」と取り繕い始めた。
「え?私、あなたのことなんて見てないよ?あなただと思って話しかけたら全然別人で、すごく怒られたけど。」希美は淡々とした口調を崩さない。
「それが私なの!」
「へぇ。じゃあ何で、あんなに感じ悪く否定したの?私、あのとき実は少し怪我したのよ。しかも大切なキーホルダーまであなたに壊されて…」
「とにかく!」耐えきれずに美香が遮った。そして続けた。
「お願いだから証言してよ!私をフッたようなくだらない男の為に、私の貴重な人生を台無しにされたくないのよ!」
その言葉を聞き、希美は考え込んだ。
* * * *
美香の顔色は日に日に悪くなっていった。
「ねえねえ、やっぱり美香が犯人なのかな?」
講堂はそんな噂で持ちきりだった。
希美は、大学生にもなって自分を名前で呼ぶ人間が嫌いだ。人を馬鹿にする人間も嫌いだ。媚を売る人間も嫌いだ。
店員に対して高圧的な人間も嫌いだ。感じの悪い物言いで人に怒鳴る人間も嫌いだ。人を突き飛ばす人間も嫌いだ。
しかし、一番嫌いなのはーーー死者を冒涜する人間だ。
日頃の行いは良くしておきたいものねーーー希美は心の中で呟いた。
そうすれば、警察に本当のことを証言してあげたのに‥
ー完ー