第4話 sideアリシア
「ぐぅっ!」
苦悶の声とともに、国王が片膝をつく。
周囲の騎士たちが一斉にどよめく。
当然と言えば当然だった。
世界広しと言えど、初対面の国王陛下を肘で打ち倒した花嫁などまずいまい。
いても困る。
(うわああああ、なにやらかしちゃってんのよ、あたしはぁぁっ!?)
国王の胸の中で、アリシアは悶える。
多少そそっかしいところはあるが、こんな大ドジは記憶でも数えるほどである。
それがどうしてよりによって、こんな大舞台で!?
(どうしよどうしよ!? 終わった! あたしの人生、終わった……)
きっとこれからはエルボープリンセスなんていうこっぱずかしい二つ名で呼ばれることになるのだ。
蔑んだ視線とともに、クスクスヒソヒソ笑われ続けるのだ、一生。
ああ、死にたい。
死んで人生をもう一度やり直したい……。
「っつ~~っ!」
(って、そんなこと考えてる場合じゃなかった!)
ウィルフレッドの呻きに、アリシアははっと悲嘆の海から我に返る。
あまりの事にパニックになってしまったが、被害者であるウィルフレッドの容態を確認する方が先決だった。
「ご、ごめんなさいごめんなさい! だ、大丈夫ですか!?」
ガバッと彼の胸から身体をはがし、その顔を覗き見る。
手で押さえている部位からして、おそらくこめかみのあたりか。完璧に人体の急所の一つである。
いかに最強と名高い武人と言えど、相当痛かったに違いない。
「陛下、大丈夫ですか!?」
「お怪我は!?」
「す、すぐに医師を……」
慌てて側近と思しき人たちが心配げに駆け寄ってくる。
が、国王はバッとそれを手で制し、
「騒ぐな、勢いあまって転んだだけだ。大したことはない」
何事もなかったかのように、すくっと立ち上がる。
そしてアリシアを見下ろし、問うてくる。
「君の方こそ怪我はないか?」
「っ!?」
瞬間、ドキンッ! とアリシアの心臓が跳ねる。
恋愛的なものだったら良かったが、違う。
これは……恐怖だ。
「は、はい、お、おかげさまで、な、なんとか」
声が震えているのが、自分でもわかった。
こんなことではダメだということもわかっている。
だが、身体の震えが止まらない。
「……あまり大丈夫そうには見えないが?」
「い、いえ、ほ、本当に、ぴ、ピンピンしてますから」
「ピンピン?」
国王が驚いたように目を丸くしている。
(ああ、一国の王女が使うような言葉じゃないよね)
きっと不審に思われたのだろう。
「も、申し訳ございません、陛下。王女がとんだご無礼を……」
宰相も馬車から駆け降りてきて、アリシアの頭を掴み無理やり下げてくる。
貴方が押したせいでしょう! とアリシアは思ったが、これ幸いとも思った。
少なくとも、こうしていれば、国王の顔を見ないで済むから。
「頭を上げられよ。さっきも言ったが大したことはない。ちょっとしたアクシデントだ。気にするな。こちらも気にしていない」
「はっ、そう言って頂けると助かります」
「さて、ではセレモニーを続けたいところだが……」
再び国王の視線がアリシアのほうを向くのが、なんとなく気配でわかった。
だが、アリシアは怖くて顔を上げられない。
どうしても、ダメなのだ。
あの鷹のように鋭く冷たい眼を前にすると、幼い頃のトラウマが脳裏にまざまざと蘇ってくるのだ。
思い返すのは一〇年前――
当時はまだ母も再婚しておらず、誰のとも知れぬ子を産んだ女に世間も冷たく、居づらくなって別の街へと引っ越そうとしていた時だった。
アリシア母娘の乗った馬車が、山賊に襲われたのだ。
「ほう、女の親子か。ククッ、どっちもなかなかの別嬪じゃねえか」
乗り込んできた髭面の山賊が、じろじろと母の顔とアリシアの顔を見比べながら、下卑た笑みを浮かべる。
いったい自分たちはどうなるんだろう!?
とにかく怖くて怖くて仕方なかった。
「や、やめて! お、お金なら支払いますから、み、見逃して!」
母がぎゅっとアリシアを守るように抱き締めながら悲痛な声をあげる。
カタカタとその身体の震えが、アリシアにも伝わってきた。
「へっ、身なりからして大して持ってないだろ。そんなはした金なんかいるかよ。お前ら二人売った方がよっぽど儲けになるぜ」
山賊が母に手を伸ばし、ぐいっと無理やり引っ張る。
「いや! 離して! 誰か助けて!」
「ママっ!?」
「うるせえ! 助けなんか来やしねえよ。見な!」
「ひっ!?」
馬車から引きずり降ろされ、最初に目に飛び込んできたのは、無惨に転がったいくつもの死体である。
この馬車を護衛していた傭兵たちだった。
「諦めな。もうお前ら親子は俺たちのもんってことだ」
「そ、そんな……っ!?」
「お頭ー! 女が乗ってましたぜ。けっこう美人!」
「ほう、そうか!」
一際巨漢の山賊が、嬉しそうに笑い、のしのしと近づいてくる。
そして母親の顔をくいっと持ち上げ、
「くくっ、少しとうは立っているが、確かに上玉だな。娘のほうも……」
「い、いや!」
拒絶の言葉とともにその手を払おうとするも、
「ふんっ」
その手首を掴まれ、乱暴に持ち上げられる。
「い、いたい!」
「お願いします! 娘にはひどいことしないで!」
「ほうほう、こっちも上玉じゃないか。こりゃ高く売れそうだ」
母親の嘆願をガン無視して、山賊の頭はジロジロとアリシアの顔を見て嗤う。
こちらを物としか認識していない目が、とにかく怖かった。
「ひっ!? う、うわあああああん! 助けてー! ママ! ママーっ! うわあああん!」
「うるせえ、ぴぃぴぃ泣くな!」
パァン!
右の頬に信じられない強い痛みが疾る。
ジンジンと感じたこともないような熱さが、頬を焼く。
いったい何が起きたのか、一瞬わからなかった。
ここまで容赦なく強く殴られたのは、生まれて初めてだったのだ。
当然、泣き止むなんてこともなく――
「う、う、うわあああああああああんっ!!」
アリシアはもうわけもわからず、ただ喚くように泣き叫ぶ。
痛い!
怖い!
助けて!
いくつもの感情が心の中で爆発していた。
「ちっ、だからうるせえって言ってんだろ! ちょうどいい。躾だ! 泣いてる限りぶたれるってことをきっちり身体に叩き込んでやる!」
「や、やめてぇっ!」
娘を守ろうと、母親が慌てて山賊の頭にすがりつく。
だが所詮は女の細腕。
「きゃあっ!?」
簡単に振り払われ、地面に薙ぎ倒される。
「うあああああんっ!」
「だからうるせえって……」
山賊の頭が再び右手を振り上げた、その時だった。
「ぐあっ!」
「ぎゃあっ!?」
「てめ、なにっ、がふっ!?」
山賊たちの野太い悲鳴が、次々と響き渡る。
現れたのは、黒髪黒眼の少年である。
年の頃はまだ一四~五歳といったところか。
だがその顔にはおおよそ稚気と呼べるものはなく、いっぱしの戦士の貌である。
中でも印象的なのは、氷のように冷たく、そして鷹のように鋭いその眼だった。
「騒ぎを聞きつけて来てみれば、山賊か」
周囲に注意深く視線を巡らせ、少年は淡々と言う。
山賊は一〇人以上、多勢に無勢もいいところなのに、まったく落ち着いたものである。
「くそっ、がき、よくも仲間を!」
「ぶっ殺してやる!」
山賊が怒り狂って少年に斬りかかるが、
「ぐぅっ!?」
「ぐぇっ!? な……っ!?」
その二人の間を少年が駆け抜けると、山賊が血を噴いて倒れていく。
そこからは、一方的な虐殺だった。
彼が剣を振るうたび、一人また一人と斬り捨てられていく。
十数人はいた山賊が、一分も経たないうちに残るは頭一人になっていた。
「く、くるなっ! け、剣を捨てろ! こいつがどうなっても知らんぞ!?」
ぐいっとアリシアを盾にして、山賊の頭が叫ぶ。
その声とアリシアを掴む手が、明らかに震えていた。
「馬鹿か? 見ず知らずの人間の為に、なぜ俺が剣を捨てねばならない?」
黒髪の少年が冷ややかに笑う。
ぞくぅっ!?
「ひぃっ!?」
「ひぐっ!」
奇しくも、山賊の頭とアリシアの悲鳴が重なる。
そこにあったのは、虚無の殺意だった。
殺るべきことを殺る。
そこに敵意も憎悪も恐怖も、何の感情もない。
彼にとって人殺しは、ただの作業でしかないのだ。
子供心にも、それがわかった。
自分はもう、ここで死ぬのだ、と。
「あっ……ああ……っ!」
圧倒的恐怖で、泣くことさえ出なかった。
もはや息をすることさえ難しく、出るのは声にもならない嗚咽と、歯の鳴るカチカチという音だけだった。
「俺に遭ったことを、せいぜい地獄で後悔するんだな」
血だまりの中で感情のない瞳で凄絶に笑う少年が、とにかく怖かった。
山賊たちもそれは恐ろしかったが、この少年の放つ禍々しい圧迫感に比べれば、全然大したことはない。
まるでそう、これは物語に出てくる死神や悪魔そのものではないか!
「っ!?」
恐怖が臨界点を超えたのだろう、ぷつんっとアリシアの視界は真っ黒に染まり、そこで記憶は途切れた。
……。
…………。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「……えっ!? あ、は、はい。だ、大丈夫です!」
国王の声に、アリシアはハッと我に返る。
どうやら昔の記憶がフラッシュバックしていたらしい。
「とてもそうは見えないぞ。顔色が真っ青だ」
ジッとアリシアの顔を覗き見つつ、国王は言う。
貴方が見ているからだ! と反射的に思ったが、さすがに言うわけにもいかない。
ただやはり怖さには打ち勝てず、目を逸らしてしまう。
(あの死神にそっくりすぎるのよ、このひと! だめだめだめ! むりむりむり!)
これが国家的な式典の最中だとか、すでにアリシアの頭の中からは吹き飛んでいる。
あの死神のような少年が、自分を助けてくれたということも頭ではわかっている。
自分が今生きているのが、そのなによりの証拠だ。
だが、これはもう理屈ではないのである。
目蓋の裏に、心の奥底に、鮮明にイメージとして刻み込まれてしまった。
血みどろの中で酷薄に笑う少年が。
その恐怖が、どうしても心を縛って離さないのだ。
「……俺が、怖いか?」
「っ!」
内心を言い当てられ、さらにアリシアの身体が強張る。
冷たい刃を首筋に突き付けられたような、そんな気分である。
どう返すべきが正解なのか、まるでわからない。
彼があの時の死神ならば、言葉を間違えれば、今度こそ殺されるかもしれない。
そんな恐怖がさらに頭の中を真っ白にし――
『アリシア、感情だけで物事を判断してはだめよー』
脳裏に、亡き母から言われた言葉が蘇る。
『あなた、ほんと怖がりよねー。でもね、怖い人には二種類いるんだよ。本当に怖い人と、本当は優しい人と』
『悪魔はとても優しい微笑みと声で近づいてくるし、本当に優しい人は、意外といかめしい顔してたりするものよ。あのあたしたちを助けてくれた黒髪の少年や、お義父さんみたいにね』
『その辺をちゃんと見極めれば幸せになれるよ。あたしみたいにね』
『だから怖がらないで、ちゃんと相手を見て』
次々と母の言葉が連鎖的に浮かぶ。
それがほんの少しだけ、アリシアに勇気と冷静さをくれた。
「す、すみません、と、取り乱しまして……」
たどたどしくもなんとか謝ると、
「色々、俺の噂を耳にしているのだろう? 正常な反応だ。気にするな」
国王はフッと小さく笑みをこぼす。
「……えっ?」
その自嘲するような響きの中に、少しだけ、そうほんの少しだけ、寂しさが混じっているように聞こえた。
勘違いかもしれないが、確かに感じたのだ。
それで、アリシアは冷水を浴びせかけられたかのようにはっとなる。
(あたしっては、いったい何をしているの?)
この人が、自分にいったいどんな害を及ぼしたと言うのだろうか?
何もしていない。
むしろ転びそうになったところを助けてくれただけだ。
肘打ちかましたのに、怒っている素振りもない。
表情はムスッとしていて声も淡々として温かみはないが、さっきからずっと自分の体調を気遣ってくれてもいた。
翻って自分はどうだ?
助けて気遣ってまでくれた人に対して、見た目の印象だけで、怖がってビクついて言葉もろくに交わせないどころか目まで反らして、嫌な思いまでさせて。
どう贔屓目に考えても、人としておかしいのはこっちである。
無性に恥ずかしくなってきた。
「セドリック」
「はっ」
「王女はどうやら体調不良らしい。残念だが輿入れのセレモニーは取りやめに……」
いけない!
そんなことになればバロワの恥となり、実父が家族にどんな害が及ぶか。
もう恐怖に立ち竦んでいる場合ではなかった。
「お待ちください!」
気が付けば、制止の声を張り上げていた。
「ん?」
国王が不審げにアリシアのほうを振り返る。
「っ!」
ぞくっと心と身体が反射的に強烈な拒絶反応を示す。
頭では理解しても、覚悟を決めても、深層心理の奥深くに刻み込まれた恐怖は、そう簡単に拭えるものではない。
彼と向き合うと、どうしても心の奥底に恐怖の渦が巻き起こり、心をいっぱいにし、かき乱してくる。
「どうした?」
国王が訝しげに問う。
ドクンドクンと心臓は早鐘のように鳴っている。
喉はもうからからで、アリシアはごくりと唾を呑み込む。
(なにくそっ! お母さんも言っていた。女は度胸って! あの死神さんだってあたしを助けてくれただけじゃないか。怖くない怖くない怖くない! 今こそ踏ん張れ! 放浪生活で培った雑草魂!)
くじけそうになる自分を何度も何度も叱咤激励し、意地と気合で恐怖の波を力任せに押し返し、キッと国王を真正面から睨み据える。
「もう大丈夫です! セレモニーを続けましょう!」