婚約破棄し損ねた悪役令嬢の図
「ロイド! 今日限り、あなたとの婚約を破棄させてもらいますわ!」
社交パーティの場で、公爵令嬢エリーナ・アクァークが高らかに宣言する。
一方的に婚約を破棄されたイルグキ侯爵家の長男ロイドは、色を失いながらも震えた声音でエリーナに訊ねた。
「エ、エリーナ……い、今のは、どういう意味だい……?」
「どういうも何も、言葉どおりの意味ですわ。だってわたくし、あなたという男に飽きてしまったもの」
そう言って、エリーナは高らかに笑う。
エリーナ・アクァークは、社交界においては誰もが知っている悪役令嬢だった。
気に入らない令嬢を見つけては、徹底的に虐げた挙句その婚約者をも奪い取る。
そして奪い取った婚約者は弄ぶだけ弄んでから、今のロイドと同じように何の未練もなく捨てるものだから、悪役は悪役でも頭に「邪」が付く類の悪役令嬢だった。
そこまで有名になっているにもかかわらず、エリーナに誑かされる令息が後を絶たないのは、ひとえに彼女の美貌と豊満な肢体に釣られてしまう令息が多いからに他ならなかった。
エリーナの所業に、パーティに参加していた紳士淑女たちが(またか……)と嘆息する中、エリーナはなおもロイドに容赦のない言葉を浴びせかける。
「それにほら、あなたにはわたくしと婚約を結ぶ前に付き合ってた……え~っと……誰だったかしら、あのうだつが上がらなさすぎてイラッときたから潰してやった女…………そう! ルミアよ! あなたにはルミアがいるのだから、これを機によりを戻せばいいじゃない!」
ルミアと呼ばれる伯爵令嬢が、ご多分に漏れずエリーナに徹底的に虐げられた挙句、婚約者を奪い取られた手合いであることはさておき。
ロイドはロイドで、ご多分に漏れずエリーナの美貌と豊満な肢体に釣られてしまった手合いであることもさておき。
どう足掻いても地獄にしかならないエリーナの提案に、ロイドは涙目になりながらも反論した。
「ぼ、僕はエリーナのことを心の底から愛している! ルミアと再婚約なんてできるわけないじゃないか!」
「わたくしのことを愛している? それならあなた、わたくしの言うことは何でも聞いてくれるわよね?」
「も、勿論だとも」
「そう。だったら婚約破棄を受け入れてちょうだい。今すぐに。わたくしのために」
どこまでも容赦のないエリーナに、涙目になっていたロイドの目尻から、いよいよ涙が零れ始める。
(うふふふっ、うだつの上がらない令嬢を泣かせるのは、それはそれで最高の余興ですけど、同じくらいにうだつの上がらない令息を泣かせるのも、それはそれで格別ですわね~)
と、愉悦に浸っていたエリーナだったが。
直後のロイドの泣きっぷりは、エリーナの想定をはるかに越えるものだった。
「うわ~~~~~~んっ!! そんなひどいことを言わないでおくれよ~~~~~~っ!!」
大の男が鼻水が垂れるレベルで号泣しながら、こちらに縋りついてきたのだ。
「なぁっ!? ちょっ!? 離れなさいよっ!!」
「捨てないで~~~~~~っ!! 僕のことを捨てないで~~~~~~っ!! エリーナ~~~~~~っ!!」
「むしろこんな情けない姿見せられたら、余計に捨てたくなりますわよっ!?」
「わ~~~~~~んっ!! また捨てるって言った~~~~~~っ!!」
「またも何も『捨てる』って口に出したのは今が初めてですわよっ!?」
目を白黒させながらツッコみを入れる、エリーナ。
そんな彼女をよそに、ロイドの涙と鼻水に塗れた嘆願は続く。
「婚約破棄だなんて言わないでおくれよ~~~~~~っ!! エリーナの素敵な詩集のことは黙っておくからさ~~~~~~っ!!」
詩集という言葉に、エリーナの顔から血の気が引いていく。
エリーナには、人には言えない趣味があった。
それは詩と書いてポエムと呼ぶ、割りと恥ずかしい感じの内容の詩集を秘密の手帳に綴ることだった。
(ど、どうしてロイドがわたくしの荘厳華麗な詩集の存在を!? バレて――じゃなくて、知っているのは家の中の、ごく一部の人間だけですのに!?)
兎にも角にも、詩集の話はまずい。
何かの間違いでロイドが詩集の内容を知っていた場合、
夜空いっぱいに拡がる満点の星……まるでこの世界に、わたくし一人だけが取り残されたよう――とか、
もう何日も雨が続いてる……そうね……そうよね……空だって泣きたい時があるわよね――とか、
無駄に「……」の使い方にこだわりがある詩を、今ここで暴露されてしまう恐れがある。
いくら詩の内容が荘厳華麗とはいえ――否、荘厳華麗だからこそ、こんな人が大勢集まっている場で朗読されようものなら、恥ずかしさのあまりに悶絶死するのは必至。
その未来を避けるためにも、エリーナはそれこそロイド以上に必死になりながら、彼に向かってかつてないほどに優しく懇願した。
「ロ、ロイド……泣かないでください……ね? あ、あなたに泣かれると……ほら、わたくしも哀しくなりますし……」
「うわ~~~~~~んっ!! エリーナの嘘つき~~~~~~っ!! 鞭で僕のことを叩きながら『泣いてるあなた、とても素敵よ』ってよく言ってたくせに~~~~~~っ!!」
まさかの情事の暴露に、エリーナの頬が盛大に引きつる。
事の成り行きを見守っていた紳士淑女たちが「エリーナならやりかねない」だの「むしろ似合ってるくらい」だの、ヒソヒソと面白おかしく話してくる声が聞こえてくる。
もう色んな意味で耐えられなくなったエリーナは、パーティに同席していたロイドの執事をキッと睨みつけると、
「ロ、ロイドが泣き止んだら、婚約破棄は一旦取り下げると伝えておいてくださいませっ!」
それだけ言い残し、縋りつくロイドを振り払って、顔を真っ赤にしながらパーティ会場から逃げ去っていった。
こうして悪役令嬢は、婚約破棄をし損ねてしまったのであった。
エリーナよりも遅れて、執事の手を借りてパーティ会場を後にしたロイドは、館の外で待機させている箱馬車に乗って帰途につく。
館から充分に距離が離れたところで、ロイドは、パーティ会場で醜態を晒した令息と同一人物とは思えないほど邪悪に頬を吊り上げながら、満足げに独りごちた。
「くくく……上手くいったな」
口調すらも別人のようにしながら、箱馬車に同席している執事に話しかける。
「エリーナが今日のパーティで俺に婚約破棄を言い渡してくるという情報に、彼女の詩集……よくぞ調べ上げてくれた。心から礼を言うぞ、執事」
「いえ、礼には及びません。わたくしめはただ、坊ちゃんの指示どおりに動いただけですので」
「それでも、だ」
そう言って、ロイドはますます邪悪に頬を吊り上げる。
「エリーナ……お前は俺のものだ。お前ならば近い内に必ずルミアを標的にすると思って、あらかじめルミアと婚約を結び、見事俺を奪い取ってくれた。後は……く……くくく……少しずつ少しずつ俺色に染めてやるぞエリーナぁ……」
どこまでも邪悪な笑みを浮かべる主を見やりながら、執事は思う。
果たして、本当の意味での悪役はどちらなのか?
少なくとも、あんな夢見がちな詩を綴っている小娘には勝ち目はないだろうと思った執事は、楽しそうに笑っている主を見守りながら、誰よりも邪悪にほくそ笑んだ。