放浪の少女.4
恋、とはどういうものだっただろう。
恋、とはどういうものだっただろう。
部下の言葉を聞いて最初に浮かんだのは、そんな疑問だった。
大臣や公爵の娘の相手をさせられているとき、そうした類の話題を振られることは度々あった。
素敵な殿方はいませんか、と尋ねる者もいれば、ぜひ私と、と冗談なのか本気なのか分からない誘いをされることもあった。
アリアは、それらの全てを無下にしてきた。
面倒だとか興味がなかったわけではない。自分の周りにいる令嬢たちは、籠の中の鳥に見えたし、上流階級特有の選民思想が透けて見えていたから、魅力を感じなかったのである。
自分が王女でなければ、彼女らの豪奢さに漬け込まれた瞳は、この身を捉えることはないのだろうことは明らかだった。
今の時代、血縁より『名』を継承していくことのほうが重視されるので、幸い、そうした態度を取って、色恋沙汰や結婚云々に興味がないと思われていてもあまり小言を貰うことはなかった。
そんな中、アリアにとって縁遠い話が、今、流星のように彼女の前へと降り立ったのだ。
口が動くようになるまで、しばらくかかった。その間も、プリシラはオフィールの太腿をつねり上げ、「軽口!」と罵っていたが、当のアリアには膜一枚隔てた先の会話のように感じられていた。
やがて、上の空ではあったが、言葉を紡げるようになったアリアは、黄昏を刻む空を窓越しに横目で眺めて言った。
「…確かに、下らないことだな」
下らないこと、と自分で言いつつも、一体、何を下らないと言ったのかと自分で考え直す。しかし、それでも上手く思考がまとまらなかった。
「ほら、見ろ。だから言ったじゃねえか」とオフィールがプリシラを睨む。「アリア様がラブロマンスなんて、ガラじゃないってよぉ」
ぐるぐると頭の中は混乱しているくせに、自分を朴念仁か無機物だとでも思っているのかも分からない発言は、すっと耳に入ってきて、アリアはオフィールに対して目くじらを立てた。
「私が恋愛したら、おかしいか。オフィール」
思いのほか冷徹な声が出たらしく、親衛隊二人はぎょっとした顔でアリアを見返し、それから、オフィールのほうは、「あ、いえ、すみません…」と頭を下げた。
彼女に悪気はないのだろうが、どこか女性として侮辱を受けたような気がして、業腹だった。きっと、大臣らに陰で揶揄されるようなことを言われたからだろう。
アリアは、もうオフィールが十分に反省しているとは理解しつつも、不服さからムキになって言葉を続けてしまう。
「私だって、そういうことに興味はある。何か悪いか」
そう口にしてしまってから、アリアははっと目を見開いた。
(これでは…プリシラの想像通りだと言っているようなものじゃないか)
かあっと顔が熱くなる。
「へ、変な意味じゃないぞ」
自分が、会ったばかりの他人に好意を寄せているなんて、ありえないと一蹴するところだと思った。だが、顔は火照るばかりで、相手を納得させられるような言葉が思いつかない。
紅潮した自分を見た二人にどう思われるだろうと考えれば考えるほど、熱の収まりがつかなくなる。苦し紛れに、夕焼けの赤に染まったことにならないだろうかと顔を窓の外へと向けた。
この長い沈黙も非常に決まりが悪い原因の一つだ。掛け時計が時を刻む秒針の音がやたらと大きく感じられるような静寂に、鼓動の音が轟く。
急に、頭のなかに深白が儚げに微笑む姿が浮かんだ。そのせいで、ますます心の熱は冷めなくなる。
毒を孕む白魚のような指先が、何をなぞるのか知りたい。
艶やかな烏の濡れ羽色のような髪に触れてみたい。
ぞっとするほどに寒い、彼女の黒の奥を覗きたかった。
(あぁ…よくない。考えるのをやめろ。思い出すな。――…あぁもう、顔、とっても熱い…絶対に真っ赤になっている…)
恥ずかしくて二人のほうを見ることなんてできなかった。驚愕に身を寄せ合いでもされたら、叫び出してしまいそうだった。
しかし、突き刺さるような二人の友の視線を感じてやまず、とうとうアリアは両手で顔を覆って俯いてしまった。
「ひ、姫様」と消え入るような声でプリシラが自分を呼んだ。情けの無いことだが、返事すらできない状態だった。
「あ、アリア様、お腹空きませんか!?私は、その、空いたんですけどねぇ!なっ、プリシラ」
オフィールが急に話題を変えた。痛み入る気遣いに涙が出そうだと思った。
「はい、はい!空きましたのです。さっきからお腹ぺこぺこで、鳴りっぱなしだったのですよ」
「だろう?昨日は野宿でろくなもの食べてねぇから、美味いものが――肉、肉が食いたいです、アリア様!」
「メニュー表はそこにありますから、注文しちゃいましょう!構いませんよね、姫様?」
両手で顔を覆い俯いたまま、どうとでもしてくれと何度も浅く頷く。
必要以上に明るく陽気に振舞っている二人の声を聴くと、そんなに今の自分の状態は酷いのか、と苦笑したくなったが、オフィールが注文を決めて、「適当に頼んできちゃいますね」と席を立ったとき、はっと思い出してアリアは顔を上げた。
「ま、待ってくれ、オフィール」
「はい?」
「あ、その…」
今度は自分が煮え切らなくなる番だった。これを口にすれば、彼女らがどんな顔をするか…想像しただけでも恥ずかしくなったのだ。
だが、言わないわけにもいかない。このままではオフィールが料理を注文してしまい、『彼女』を待つことなく料理が並んでしまうからだ。
「…深白も、夕食に招いているから…その、彼女が来るまで、待ってやってくれないか…?」
また、嫌な沈黙が流れた。
プリシラは、「あぁ…」と額に手を当て、オフィールはフォローの言葉を探しているふうだ。
ややあって、努めて明るい声でオフィールが言う。
「あ、はい、はい。深白がね、はい、分かりました。待ちましょう」
「…すまない。先に言えばよかった」
つくづく、心の底からそう思った。二人のためでも、深白のためでもなく、自分の安寧のために。
「あのぉ…私たち、もしかしてお邪魔ですかね?」
余計な気を遣うな、とアリアは顔を真っ赤にしたままオフィールを睨むのだった。
何なのだろうか、この空気は。
深白は宿でアリアらと食卓を囲みながら、他三人の様子と雰囲気を見て、怪訝にそう思った。
アリアはずっと俯いて、黙々と箸を進めているし、プリシラはじっとりとした目でこちらを観察しながらサラダばかりを摘まんでいる。オフィールは、他二人が話さないから、一人で懸命に会話を盛り上げようとしていた。その姿があまりに不憫だったため、自分だけがオフィールの相手をしている形となっていた。
鶏肉なのか、牛肉なのかも分からない肉にナイフを差し込みつつ、アリアの様子を窺う。招待してくれるまでは普通の様子だったので、おそらく、三人になったときに何かあったのだろう。
アリアの真面目さ、清廉さ、芯の強さはこの数日だけで十分理解できた。だからこそ、こんなふうに招いた客を放置して黙食に励むとは考えられなかったのだが…。
(元気ないなぁ)
俯き、スプーンでスープをちまちまとすくって口に運ぶ姿は、昨日の夜見た、冷酷無比な剣閃を振るう姫騎士のものとは程遠かった。
(まぁ、でも…)
深白はアリアが視線を下げているのをいいことに、じっと彼女の造形を観察した。
陽の光を溶かし込んだみたいに美しい、毛先だけ緩くウェーブのかかったアイボリーの髪。
灰の雪が降り積もったみたいな、グレーの瞳。
白銀があしらわれたディープブルーの鎧に映える、白くきめ細やかな肌。
桜の花を模す愛らしい唇も、彼女の清廉さを歌うようだった。
(落ち込んでいても綺麗な人…。それでいて剣術にも造詣が深くて、お姫様っていう身分でお金も持ってて、多分、頭も良い。心のほうだって、どう見たって強く気高い…)
何でも持っている。
それが、深白から見たアリアの印象だった。
(本当、世の中は不平等だね。いっそ、笑えちゃうくらいに)
ふっと、自嘲気味な微笑をこぼせば、予期せぬところから反応があった。
「姫様の顔に、何かついているのですか?深白さん」
明らかな負の感情を込めて放たれた言葉に、「え?」と反応したのは深白ではなく、アリアのほうだった。
アリアはそれで深白とプリシラの顔を見比べていたのだが、それでこちらと目が合ったとき、ほんの少し険しい顔をして目を逸らされてしまった。
不思議な反応を訝しがりつつも、深白はプリシラの質問に応じる。
「いえ、そういうわけではありません。ただ、綺麗な方だと改めて思っていただけです」
「なっ…!?」
プリシラは目を剥くと、口笛を鳴らしたオフィールを肘で小突いてから、怒り心頭といった様子で深白へと忠告した。
「深白さん。この際だから言っておくのですが、姫様は――ここにいるお方は、アリア・リル・ローレライ、ローレライ王国の第一王女なのです。本来、庶民がこうして食卓を囲むことすら恐れ多いお方。それにも関わらず、貴方はあろうことか、触れたり、く、口説くような発言をして…ありえないことなのです!」
大人しそうな雰囲気に対し、とてもおしゃべりではないか、とこちらに突き立てられた人差し指をまじまじと眺める。
「口説くなんて…私は思ったことを言っただけで…」
「そういうの!そういうのが口説くというのですっ!」
どうやら、呆れるほどの誤解があるようだと深白は考えたが、自分が行った行為を振り返ったとき、確かに身分のある相手においそれとしていいものではなかったと改めて思い直す。
そのため、一つ丁寧な謝罪を見せて、溜飲を下げてもらおうとしていると、誰よりも速くアリアが反応した。
「言いがかりはよさないか、プリシラ」
「いいえ!言いがかりではないのです。今回ばかりは、いくら姫様の言うことであったとしても、私、引かないのですよ!」
「ちょっと、おい、落ち着け…」
「冷静ではないのは、姫様のほうなのです!」と再び、か細い人差し指がこちらに向けられる。「こんな得体の知れない人間を食事の場に呼ぶなど、どうかされているのですよ。仮にも、姫様はローレライ王国の――」
プリシラは段々とヒートアップしてきて、主と深白に説教を始めていた。
二人の関係を客観的に見るに、主従関係というか、小うるさい教育係とお姫様といった印象を受ける。実際、立場はアリアのほうがずっと上なのだろうが、言葉を驟雨の如く打ち出し続けるプリシラには、アリアも辟易とした様子で耐えるばかりだった。
不意に、アリアと視線が重なった。彼女は一瞬だけ頬を染めて困った顔を浮かべたかと思うと、口の形だけで、『すまないな』と深白に謝った。
その仕草がクールで、深白は『お姫様が気障なことを』と思いつつも悪い気はせず、プリシラにばれないよう、こっそりと頷いた。
「つまり!姫様がどれだけ深白さんに恩義を感じていたり、興味を持っていたりしようと!過度に親密になってはならず、ましてや、スキンシップなどはもってのほかで――」
すると、未だに白熱した説教をしていたプリシラの鼻を、隣に座っていたオフィールがぎゅっと指でつまんだ。
「ぴっ」と小動物の悲鳴みたいな声を漏らしたプリシラに向けて、オフィールが辟易とした様子を隠さずに告げる。
「プリシラぁ、もういいだろ?飯が冷めちまうぞ」
「い、いいわけがないのです。私は…」
「いいんだよ、もう」鼻をつまんだままで、オフィールがプリシラの口にサラダを素早く放り込む。「うぐっ…」
「全く、冷めた飯ほどまずいもんはねぇだろうが…」
オフィールは口調の荒々しさからは想像できないような、落ち着いた微笑を浮かべると、アリアと深白を交互に見比べた。それから、ため息にも似た吐息を漏らし、チン、と手にしていたナイフを皿の上に置いた。
「アリア様だって、友だちの一人や二人欲しいんじゃねえのか?」
ともすれば、不遜な発言だった。なぜならその言葉は、アリアに友人がいないと言っているようなものだからだ。
ただ、それを聞いたアリアも怒ったり、不服そうな様子を見せたりすることはなかった。むしろ、「友だち…」と初めて聞いた言葉のように繰り返し、続きを促すみたいに黙っていた。
「城じゃ、お世辞にも良い扱いを受けているとは言えませんもんね。公爵令嬢の相手をさせられることはあっても、帰ってきたらいつも疲れた感じでため息ばっか。――私たちが、友だちみたいな存在であれたらとも思うが…」
オフィールは一度そこで言葉を区切ると、じっとりとした目で自分を見ている相棒へと視線を投げた。
「私の相棒が『立場』にゃ、うるさい」
「当然なのです。親衛隊が友だちみたいにしていては、姫様がまたぶつぶつ言われるのですよ。ただでさえ、オフィールは粗暴で野蛮で小言の種なのですから」
ごくんと、咀嚼していたサラダを飲み込んだプリシラが言った。
まさか城でも、酒場でやったみたいに突然人を蹴り飛ばしているのだろうか。
「はいはい。…ま、だからこそ、アリア様だって、自分をお姫様みたいに扱わない人間と関われることが楽しいんだろ」
これにはプリシラも思うところがあったのか、珍しくオフィール相手に沈黙を余儀なくされた。
「どうですか?アリア様」
気遣わしげな問いに、アリアは少し困惑した様子で親衛隊二人の顔を見つめる。
深白は、アリア自身も自分の気持ちが何なのか、よく分かっていないのだろうと予測した。無表情な彼女の顔からはあまり多くは読み取れないが、多くなった瞬きが混乱を示している気がした。
「…分からない」
ぼそりと落とされた一滴は、いつもの毅然とした姫騎士のものとは思えないくらい、小さく、か細い。
つい、困り顔も悪くない、と深白は思う。
ふ、とアリアの返しを聞いてオフィールが笑った。
「じゃあ、それが分かるまでは深く考えずに深白とコミュニケーションを取ればいいんですよ。大丈夫です、プリシラだって、アリア様のためならちょっとぐらい小言を減らせますから。な?」
ウィンクしながら尋ねられたプリシラは、一瞬、唇を尖らせて不服さをアピールしたが、どこか不安そうなアリアの顔を見て、「まあ、それなら仕方がないのです」と納得してみせた。
自分を置いて話が進んでいるなぁ、と他人事のように深白が考えていると、思案気な顔をしたアリアから、「迷惑ではないか?」と尋ねられた。
「迷惑だなんて、私は全然。むしろ、嬉しいとさえ思いますから」
断る理由などないのでそう承諾すると、オフィールから、「付き合ってやってくれ」と頼まれた。
深白は軽く微笑んで応じながらも、立場を越えて自分のことを考えてくれる人間がいるアリアを羨ましく思い、横目で彼女のことを一瞥した。
こちらと目が合うや否や、ぎこちない笑顔を浮かべ、「ありがとう、深白」と呟くアリア。
冷たい冬の下で眠っている春みたいな笑顔に、ぎゅっと十字架を握りしめる。
この人は、本当に何でも持っている。
私のような人間に、嫉妬や羨望を越えて、苛立ちすら覚えさせるほどに。
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