寡黙な姫騎士.2
村に入るや否や、アリアはオフィールとプリシラとは別行動を始めた。
彼女らにはすぐに酒場で魔物や流れ人に関する情報収集を行うよう命じ、アリア自身はこの『霧の村』を仕切っている孤児院のシスターの元を訪れようとしていた。
『霧の村』という分かりやすい名前の通り、この村には年中霧が立ち込めている。そのせいで、水気の多い野菜や果実がたくさん出来るため、村の特産品はほとんどが水分で構成されている果物、ミストマリアであった。
それをいくつか売店で購入してから、彼女は村の奥にある孤児院の扉を叩いた。
岩壁の向こうから、子どもたちの楽しそうな声が聞こえてくる。幼子ではない声もするので、誰か手伝いでも雇ったのかもしれない、などと考えつつ、返事を待つ。
しかし、どれだけ待っても返事がないので、何度か呼びかけてから、仕方がなく扉を勝手に開けた。
孤児院の中は相変わらず、孤児が散らかした玩具で雑然としている。多少はのびのびと生きることができていることの証だ、と自分が送った剣と盾の玩具をそっと玩具箱に片付けながら奥へと進む。
「シスター・ノーム、いるか?シスター」
祈りを囲う礼拝堂を抜け、子どもたちの声がするほうへと向かえば、不意に、傾いた西日がステンドグラスを貫いて顔に当たり、それでアリアは目をつむった。
強すぎる光に目を背けたくなるのはなぜだろう、と考えながらゆっくりと目を見開いた、その瞬間だった。
アリアは、自分を貫くもう一つの光に目を奪われた。
それは、西日のように眩く世界を照らす輝きとは真逆の光だった。
この世の虚を、闇を、閉ざされてきたその全てを宿すような漆黒の光。
美しい、とアリアはすぐに思った。しかし、それでいて、とても悲しいと理由もなく考えた。
少女は硬直していた顔をゆっくりと綻ばせると、窓枠に半身になって乗り上げたままの姿勢で、こてん、と首を横に倒した。
「あ、すみません。お客様がいらしてたんですね」
ドクン、とそのカナリアのさえずりの如き声に胸が高鳴る。
(――可憐だ…)
心臓に痛みを感じたアリアは、そっと片手を胸にやったのだが、彼女の分身はやけに足早に駆けるだけで何も理由は答えない。
アリアは気を取り直して応える。
「いや、こちらこそ勝手に入ってしまい、申し訳ないことをした。シスター・ノームはどこにおられる?」
「シスターなら、酒場のほうに」
「酒場?」アリアは眉をひそめた。「珍しいな、シスターが酒場なんて」
「ええ、なんでも、もめごとが起こっているそうで」
「もめごとか…」
美しい少女の話を聞いて、アリアはますます表情を曇らせる。酒場に向かわせたオフィールとプリシラが何か問題を起こさないか心配になったのだ。
元々、自警団に所属して魔物から村を守っていた彼女らは、何かと問題に首を突っ込む習性があった。
その正義感の強さというか、自分の心にあるがまま従える強さに引かれたアリアは、多少の縁もあって、二人を自分の親衛隊に引き込んだ。しかし、時折、その性質故に苦労させられることもあった。
(特にオフィールのほうは驚くほど喧嘩っ早いからな…。んん…すぐにでも向かったほうがいいだろうか)
顎に指を添え、考える素振りを取る。すると、目の前の少女は不思議そうに首をこてんと倒してみせた。
「あの、大丈夫ですか?」
澄んだ響きにハッと我に返る。
「あ、ああ。大丈夫だ」
改めて、目の前の少女を観察する。
白と黒の修道服を身にまとい、ヘッドドレスからは見たこともない美しい黒髪が覗いている。瞳のオニキスは爛々と光を放ち、身長は――自分より十センチ近く低そうだ、160前半だろう。年若いが、そこまで幼くはない。大人になりかけている蛹を連想する若さだ。
可愛らしい、可憐な少女…というのではあまりにチープで憚られる。目を離せば、ふっと消えてしまいそうなかけがえのない儚さがそこには確かにあった。
こちらがまじまじと観察していることに気づいたのだろう、少女は少し不安そうに十字架のペンダントを握ると、「あの、私がどうかされました?」と尋ねてきた。
「いや、すまない。その、見ない顔だと思ったから、つい…無礼だったな」
どうしてこんな嘘を吐いてしまったのか、と自分自身に問いかける。そして、『見惚れていた』とは恥ずかしくて伝えられなかったと気づき、自分らしくもないとおかしくなった。
「無礼だなんて、そんな…お気になさらず」
「ところで、君はシスター・ノームの親戚か?村の者ではないようだが」
「孤児院の仲間、という意味なら間違ってはいないです。少し離れたところから引っ越して来ました、深白といいます」
深白、と口の中でもう一度反芻する。それだけで、アリアはどこか胸が暖かくなる気がした。そのうえ、深白のほうから、「あの、貴方様は?」と聞き返してくれたから、いっそう嬉しくなった。
「申し遅れた、私はアリア――アリアだ」
この国では、王族の名前は知っていても顔までは知らない者も少なくはない。特に、このような辺境に住む者ならなおさらだ。そのため、こうしてローレライの姓さえ隠してしまえば、存外気づかれないことも多い。
どうして今、アリアがそうしたのかは自分でもよく分かっていなかった。ただ、目の前の少女に、自分を王族であるという色眼鏡で見てほしくなかったことは間違いない。
「アリア、様」深白が彼女の名前を呼ぶ。ふわり、と胸が浮かび上がるようだ。「とても綺麗な名前。貴方様にぴったりです」
「そんなことはない。深白――という名前も、とても美しいと思う。それこそ…君に相応しい」
口を突いて出た歯の浮くような台詞に、アリアは全身が熱くなるのを感じてすっと顔を深白から逸らした。
それから、深白がはにかんで、「お上手ですね」と笑うのを横目で見ながら、ごほんと咳払いをする。
(き、気恥ずかしいやり取りをしてしまった…私らしくもない。動転している、のか?)
深白に気づかれないよう、指先に視線を落とす。小刻みに震える手のひらに気づくと、アリアはほとほと自分がどうかしてしまっていることを思い知らされた。
自分を落ち着けるためにも、アリアは本題に戻ることにした。
「シスター・ノームが酒場にいるならば、私もそちらに向かうことにする。教えてくれてありがとう、深白」
「いえ、お構いなく。あの、酒場までご案内しましょうか?」
「い、いや、大丈夫だ。酒場の場所なら分かる」
一瞬答えに迷ったが、万が一、オフィールやプリシラに今の自分の様子を見られると沽券に関わると考え、アリアは丁重に深白の誘いを断った。
「だからぁ、魔物はどうしてんのかって聞いてんだよ、おっさん」
オフィールはというと、酒場の主人とのどうにも要領を得ないやり取りに今にも癇癪を起こしかけているところだった。
「いえ、あの、魔物のことですな」
「そう、そう」
「…それは、そのぅ…どうにか…」
「だ・か・ら、どうにかってのを具体的にどうしてんのか聞いてんだよ」
ガタン、とカウンターに乗り出したオフィールは顔を般若の如く歪めて店主に迫った。
「騎士団のノロマ共が来てもねえのに、『どうにか』してるってのはおかしいじゃねえか!」
「ひぃ!」
「おい、情けのねぇ声出すなよ…こっちはただ質問してるだけなのに、おっさんを虐めてるみたいだろうがよぉ!」
「ひいぃ…!」
オフィールの威圧感のせいで、店主が青ざめてカウンターの後ろに引き下がってしまったところ、横からプリシラがやって来て口を挟んだ。
「やめるのです、オフィール。怯えているのです」
「…ちっ」
相棒の制止に舌を打ったオフィールは、「さっきからこの調子だ」と体を反転させてカウンターに身をもたれた。
危ぶんでいた魔物の被害について、正確な情報がまるで集まらない。村人たちは明らかに困っている様子なのに、誰も彼もまともに口を開かず、うやむやな態度を続けている。
これでは、『流れ人』の情報どころではなかった。
「やっぱり、アリア様に頼んで、シスターに聞いてもらうのがいいか…」
徒労感でついついそんなふうにぼやいてしまった、そのときだった。
「ぴっ…!?」
急にプリシラが妙な声を発したのだ。
「あ?」とオフィールは怪訝に同僚を見やる。「何だ、今の声。プリシラか?」
「あ、いや…」
歯切れの悪い様子に、ますますオフィールは相手を訝しがった。
「どうした」
紅潮したプリシラは、キャスケットを深く被り直しながら、何度か口を開け閉めして何かを言いたそうにしていたが、ややあって、何かをこらえるように俯くと、「何でもないのです」と呟いた。
「何でもねぇって…」
普段は見せない相棒の妙な仕草に片眉を上げた彼女は、視線をプリシラから周囲へゆっくりと移した。それから、数秒かけて事態を把握すると、口元をぐいっと歪めて、ニヒルな笑みを浮かべ、両手を頭の後ろにやって立ち上がった。
「しょうがねえ、アリア様のところに戻るか。――おい、先に行くぞ」
「あ、う…」
相変わらず、何かを言おうとしているがそれができないプリシラの横を通り抜ける。
どうして、プリシラが何も言えないのか、オフィールは知っていた。
プリシラは基本的に、自分やアリアのような心を許した人間以外に対しては気弱で、狙われやすい人間だということを。
だからこそ、オフィールは何の躊躇もなく、ろくに確認もしないままプリシラの後ろの席に座っていたガラの悪そうな男の体を回し蹴りしたのだ。
派手な音と土煙を上げながら、先ほどまでオフィールがなだれかかっていたカウンターに男の体が吹き飛ぶ。
「お、おい!急に何しやがるんだ!」
男と共に席を囲んでいた客がぎゃあぎゃあと大声を上げたが、オフィールは歯牙にもかけずプリシラに声をかけた。
「おい、プリシラ」
「あ、え…?」
「何秒だ」
「な、何秒って…」
「だからよ、そこでゴミ同然に転がってるゴミ野郎がよ、『何秒、お前の尻を触ってたのか』って聞いてんだよ」
その言葉に、プリシラの顔が赤く染まった。
彼女は逡巡した様子で顔を上げたり下げたりしたかと思うと、さっとオフィールのそばにやって来て、キャスケットを脱ぎ、顔の前に隠すように持ってきてから、消え入るような声で、「二十秒、くらいです」と告げた。
「そうか、二十秒か」
「お、オフィール…!」
「いいから、そこにいろ」
オフィールは罵詈雑言を吐きながら、カウンターに沈めた身をようやく起こした男に近寄ると、これまた何の躊躇もなく、腰にくくったショートソードを抜き、切っ先を相手に真っ直ぐ向けた。
「よぅし、じゃあ、テメェは二十回殺す」
小娘に刃を向けられた男は、「ふざけるなよ」と気炎を上げてオフィールの胸ぐらを掴もうとしたのだが、それよりも速く彼女に剣の腹の部分で頬を打たれ、無惨にも奥歯を吐き出しながら再びカウンターに倒れ込んだ。
「立て、ゴミ野郎。後、十九回だ」
「お、お前、俺たちを誰だと思って――」
男の仲間がオフィールの肩を掴む。その刹那、彼女は左手にはめたバックラーでそいつを殴打すると、相手の顔も見ずに、「引っ込んでろ」と低く言った。
ゆらり、とオフィールは少女らしくもない怒りの豪炎を立ち昇らせながら、前に進み出た。
もはや、誰も彼女を止めようとはしない。酒場の主人も、カウンターの向こう側に避難したままだ。
「私は優しいからよ、殺すってのは訂正してやる。『殺す気で十九回ぶん殴る』ってやつにな」
「や、や、やめろ――」
響く、鈍い殴打の音。肩の骨が砕ける感覚に、オフィールは爽快な気分になって笑った。
「あと十八回だ。頑張れよ」
「やめてくれっ!ちょっと尻を触っただけだろ!」
涙混じりの悲鳴を聞いたオフィールは、憤怒に表情を歪めながら男の顔面に盾をのめり込ませると、身を屈めて男の顔を正面から覗いた。
「ああ、『ちょっと尻を触っただけ』だ。お前の言う通りだよ。それでお前は、そのお仕置きとして、『ちょっと全身の骨を折られるだけ』だ。別に構いやしないよな?」
「ひっ…」
オフィールは相手の表情が後悔と恐怖に染まったのを確認してから、緩慢な動作で立ち上がり、ゴミクズ同然のものを見るような、侮蔑に満ちた目で相手を見下ろして続ける。
「安心しろ。ちゃぁんとテメェの理屈のなかで裁いてやる。…私の相棒の尻が、テメェの命の価値より軽いことをせいぜい祈ってるんだな」
明日も正午、午後の2回に渡って更新します。
よろしくお願いします!