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姫騎士は、異世界人の少女と血の約束を交わす  作者: null
六章 黒耀の蝶

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黒耀の蝶.1

人は、きっかけさえあれば悪へと落ちるんですよ。どんな人間であってもね。

 夕暮れ時の霧の村は静まり返っていた。元々、深い霧が出たときは、地元の人間であろうと出歩かない。それこそ、いつ魔物に襲われるか分からないからだ。


 極小の水滴が無数に空間を蠢くなか、一行は村の奥にある孤児院へと歩く。


 近道を通ってきたので、エキドナより先に着くことができているはずだったから、シスター・ノームに言って村人を避難させるか、エキドナを倒すまではどこかに籠もってもらうつもりだ。


 少なくとも、建前上は。


 深白は、初めてシスターと出会ったときのことを思い出していた。


 白いベッドで目覚めたとき、裏庭で遊ぶ子どもたちを部屋の窓越しに見つめていたのがシスター・ノームだった。


 修道服のヘッドドレスの下に見える、諦観の嵐に覆われた顔を視界に捉えたとき、深白は自分と彼女がとても似ていると直感していた。


 人生は諦めを繰り返しでできている。


 世の中には、あまりに叶わないことが多すぎるのだ。


 多くを望みすぎていることもあれば、望みに比例した努力をしていないこともあるが、運命の激流のために一般的な人に比べ望みが叶わない者もいる。


 幼い頃から薄々それに気づいていた深白は、シスターの顔に刻まれた深い皺と諦めを見て、やはり、その考えに間違いはなく、死ぬまで直面し続ける真理なのだ、と薄く微笑んでいた。


 シスター・ノームは深白に色んなものを与えてくれた。


 温かいスープも、美味しいパンも、柔らかな寝床も。


 朝の日差しを浴びることのできる場所も、夜、怯えずに星の光を抱くことのできる時間も。


 久しいものだった。自分には、それらの尽くが縁遠い。


 心の底から感謝していた。だからこそ、深白は静まり返った孤児院の中へと足を踏み入れたとき、胃液がせせり上がってくるような苦しみをにわかに覚えていた。


 アリアが、ぴたり、と立ち止まった深白へ心配そうに声をかける。


「どうした、急に立ち止まって。まさか、傷でも負っていたのか?」

「いいえ、大丈夫です。ご心配をおかけしてすみません」


 二人の怪訝な眼差しを振り切るように前へと進む。扉を開ければ、そこはすぐに礼拝堂だ。


 扉は厳かな音を奏でて、開いた。


 刹那、漂ってきたのは嗅ぎ慣れた血の匂い。プリシラやアリアは気づかないほど弱い匂いだが、血という蜜をすすって生きてきた深白には確かに感じられた。


 深白はシスターの部屋につながっている通路の扉へは近づかず、代わりに十字架のオブジェが置かれた教壇のほうへと足早に寄って行く。


「深白さん、どちらへ…?」


 プリシラの問いかけも無視して、彼女は教壇の後ろへと回った。


 一瞬で、血の匂いが強くなった。同時に飛び込んでくる、赤と黒、そして、それに汚された白。


 表情一つ変えずに、深白はそれを見つめていた。急に立ち止まった彼女を訝しんだ二人が駆け足で寄ってきてそれを視界に捉えれば、驚愕で目を丸くし、悲鳴にも近い高い声を上げた。


「し、シスター…!?」


 教壇の裏に隠れていた、血の匂いの根源。それは、胸の辺りから血を流しているシスター・ノームであった。



「シスター!大丈夫か、おい!」


 慌ててアリアがシスター・ノームの上半身を抱き起こし、呼びかける。プリシラも同じように屈み込むと、青い顔で唇を震わせた。


「酷い怪我…は、早く手当をするのです…!姫様、シスターの服を――」

「その必要はないですよ」


 気づいたら、自分の口が勝手に動いていた。


 深白は、プリシラの青い正義感に辟易としている自分がいることに、そのときになって気づいた。


「何を言うのです、深白さん!このままじゃ…」


 正気を疑うようにこちらを振り返った二人は、先ほどよりも大きく瞳を見開いて、修道服を身に着けた――魔族にすら死神と揶揄された少女を見つめた。


 深白の手にあったのは、先の尖った両刃の短剣、ミセリコルデ。


 苦痛からの解放を意味する短剣を片手に、彼女は諦観に染まった瞳でシスターを見下ろしていたのだ。


「だってそれ、自分でやった傷ですよ」


 深白の言葉に、ハッと二人が息を呑む。それから、そばに転がった銀のナイフと、傷口を見比べて、まさか、と口を揃えて呟いた。


 もしかすると、最初からシスター・ノームはこうするつもりだったのかもしれないし、十字架の重さに耐えきれなくてやったのかもしれない。


 とはいえ、所詮、他人には想像することしかできない領域だ。考え込むことはナンセンスである。


 愕然とする二人すらも、遠くから見つめているような気分になっていると、おもむろにシスターのうめき声が聞こえた。


「…うっ」


「シスター!」ゆっくりと目蓋を上げたシスター・ノームを抱き起こしたアリアが、焦燥に駆られた声音で続ける。「しっかりしろ、シスター。今、プリシラに傷の手当を…」


 聡明なアリアなら、もうとっくに手遅れだと気づいているはずなのに…。それでも、望みを捨てられない彼女を、深白は羨ましく思ったし、愛すべき愚かさだとも思った。


 プリシラも身を覗き込ませ、傷の具合を窺おうとしたが、首を左右に振ったシスターに弱々しい力で胸を押され、半端な姿勢で留まった。


「どうして…」


 高い天井の礼拝堂に、プリシラのか細い問いかけは消えていく。


 色んな意味を含む『どうして』に応えることはなく、シスターも、アリアたちも沈黙を保っていたところ、ぽつり、と一滴の雫が落ちるみたいに深白が問いをこぼす。


「…どうして、私を助けたの?」


 何の脈絡もなく放たれた言葉に、アリアとプリシラは不思議そうに深白を見上げた。しかし、彼女の顔にあしらわれた虚しさの前に、言葉を発することはできずにいる。


 答えはなかった。すでに声を発する体力がないのか、それとも、今、シスターの顔に浮かんでいる儚げな微笑が答えなのか。


「自分のしたことの、償いでもしているつもり?」

「深白、何を言っている…?」


 深白はアリアの言葉を無視して続ける。


「…そうやって、静かに消えていくつもりなんだね」

「いい加減、私にも分かるように話せ!何を知っているんだ、深白は」


 アリアが、圧のある口調で深白を睨みつける。自分たちが蚊帳の外に出されているようで、気に入らなかったらしい。


 礼拝堂の天窓には、七色のステンドグラスが設えられており、夕焼けが透過されて鮮やかな輝きを四人の元へと送り届けている。


 それはある種、神聖な光のようにも見えた。ただ、一方で、死出の旅路を祝福するおぞましい輝きのようでもあった。


 深白はアリアを一瞥すると、少しばかり躊躇するように視線をさまよわせていたが、ややあって、小さなため息と共に口を開いた。


「宿屋で一緒に見た帳簿、覚えていますか?」

「ああ、もちろんだ」

「用心棒代として支払われた金額から、村民特別支出金を引けば、私がよく見覚えのある数字になりました。多分、プリシラさんは気付いていたと思いますが…」


 帳簿の話が出たあたりから苦い顔をしていたプリシラは、出し抜けに自分の名前を呼ばれて、弾かれるように顔を上げた。そして、自分を見つめる主の様子に、思い詰めたように頷く。


「何に気付いていたというんだ、プリシラ。私にはまるでさっぱりだ」

「…毎月かかる、『孤児院の維持費』代になるのです」


 プリシラは、言いづらそうに口にしていた。深白はそれを見て、彼女がその数字の意味をずっと考えていたことを確信した。


「申し訳ありません。確証がないうちは言い出せなかったのです…、まさか、シスターがと…思ってしまって…」


 その言葉を受けて、初めは怪訝な表情を崩さなかったアリアだったが、色白の頬は、徐々に驚愕へと染まった。


「エキドナさんとデニーロさんが行っていたマッチポンプには、もう一人の役者がいた」

「じゃあ、シスターは…」

「そうです。エキドナさんが村人を襲い、デニーロさんが用心棒として彼女の配下を追い払い、その報酬をシスターが払う。――村人やその親族から絞り取って、ですけどね」


 よく考えられたものだ。この村で最も信頼が厚いシスターを懐柔することさえできれば、他の村人たちは事態を疑わない。それに、村の資産管理を行っているのがシスターである以上、秘密もそう簡単にはばれまい。それこそ、外から来た人間が調べでもしない限り。いや、調べても簡単に気づくわけではないが。


 アリアは一度、自らの腕のなかで眠るシスター・ノームへと視線を落とした。やり場のない憤りと悲しみに彩られた眼差しは、やがて、苦悶の声へと形を変える。


「…なぜ、なぜなんだ、シスター?貴方ともあろう人が、どうして魔族やならず者などと結託したんだ。孤児院の運営が、そんなに苦しかったというのか…誰かの命を代償にしなければ生きられないほどに…」


 無表情なアリアがぽつり、ぽつりとこぼす言葉。それに似た涙が彼女の頬をつたい、同じようにこぼれ落ちていた。


 あまりに綺麗な涙。真珠など、比べ物にならない宝石が力のない微笑みを浮かべ続けるシスターの顔に落ちる。


「――全て、本国の、私たちの責任だ。辺境など捨て置けと言わんばかりの国の在り方が、シスターのように善良な人間まで悪事に手を染めてさせてしまったんだ」


 プリシラがそっと主の肩に触れる。「姫様、自分を責めてはならないのですよ…」と呟く彼女も、アリアの涙に感化されたのか、瞳が潤んでいる。


 アリアが膝をつき、涙と共に悲哀の吐息を吐き出す姿は、まるで、絵画を切り取ったみたいだった。


 そんな、ぞっとするほど美しい光景を前にしながら、深白は半分ほど目蓋を下ろす。


「それは違いますよ、アリア様。シスターは善良な人間なんかじゃない」


 深白の目に、涙など浮かばない。それがアリアの怒りの炎をたぎらせる。


「どういう意味だ、深白…!シスターは、ずっと孤児を守ってきた。苦しい村の経営をも一手に背負い、誰にも辛さを見せずに努力を続けてきたんだぞ!そんな人間が善良でなくて、何だと言うんだ!?」


 激昂するアリアは、きっとその手にシスターを抱いていなければ、すぐにでも深白に掴みかかっていたことだろう。それほどまでに、彼女の灰色の瞳は怒りでごうごうと燃えている。


 羨ましいな、と深白は正直に思った。


 自分ではない誰かのために涙を流し、憤ることができる人間のことを。


 感情は生の発露だ。アリアはよく『生きている』。


 一方、無感情は死への落下だ。そう、自分はまるで『死んでいる』。


 ただし、良くも悪くも、生きている人間には見えず、死んでいる人間にしか見えないものもある。


 深白はミセリコルデを納めないままで、アリアのそばへと近寄った。


「…アリア様。逆に言えば、人は、きっかけさえあれば悪へと落ちるんですよ。どんな人間であってもね」


 アリアは深白の生い立ちを知っているからこそ、その発言を受けてやりきれないような表情を浮かべる。


 絶対に違う、と断言したいのに、そうすることができずにいる。そんな顔だった。


「それがなんだ」

「そういう脆い生き物の本質が、『悪』でなくて何だと言うんですか」


 自嘲するように吐き出された言葉に、アリアはまた一つ、涙の雫をこぼす。


「…そんな言い方は、よせ」


 自分が彼女の高潔な魂を傷つけてしまっていることに、深白はモヤモヤとした感情を覚えずにはいられなかった。しかし、それでいて、自分の胸のうちに巣食う呪詛に近い言葉たちをアリアに知ってもらわずにもいられず、言葉を続ける。


「自分が思うように正しくあることは…誰にでもできることじゃない。それも一種の才能なんだと、私は思います」


 声を殺して涙を流し続けるアリアの肩をプリシラがさする。彼女はこちらを見つめて何か言いたげではあったが、初めの頃にあったような問答無用の敵意は消えていた。


 深白は目を細めると、再びシスターの瞳を覗き込んだ。


 ほとんど、生が残っていないガラス玉だ。


 シスターは、心臓を貫き損ねたことで肺を痛めているようであった。


 苦しいことだろう、と深白は哀れみを覚え、身を屈めた。


 すっと、ミセリコルデの先端をシスターの心臓直上に構える。それを見て、慌てた様子でアリアが声を上げる。


「な、何をするつもりだ、深白」

「楽にしてあげます。そのほうがいい」

「殺すというのか、シスターを?駄目だ、そんなこと、私が許さない!」


 渾身の力で睨みつけてくるアリア。涙の跡が残る顔ながらも、その凛とした強さは惜しみなく光を放っている。


 夕焼けを吸い込む潤んだ瞳に、深白は心奪われるような心地になった。このままずっと、その儚い深淵を覗き込んでいたいと。


 だが、そういうわけにもいかない。こうしている間にも、エキドナはどこかに身を隠しているかもしれないし、シスターだって地獄の苦しみを味わうのだ。


「どうせ、もう助からないよ」


 礼節の仮面が剥がれ落ちていることにも気づかず、深白は言い放つ。


 アリアは深白の発言にカッと顔を赤くしたが、すぐにシスターの顔色と傷へと視線を落とすと、歯ぎしりして俯いた。


 戦闘経験が豊富なアリアのことだ、自分に言われずとも、シスターの命がもう助からないことは理解できているのだろう。


「よりによって、肺をやられてる。苦しみの時間は、できるだけ短いほうがいい…と思います。アリア様とプリシラさんは、向こうを向いていて下さい」


「…アリア様」思いのほか、事態を現実的に受け止めたプリシラがそっと主の名前を呟くと、アリアは、「分かっている…」と力なく発してから、次のように続ける。


「だが、私は目を逸らすことなどしない。誰が何と言おうと、事の責任の一端は国と、それを支配する者たちにある。――私は、その一人として、己の罪から逃げ出したくはない。きちんと見届けて、傷に変える。ずっと、覚えておけるように」

ご覧になって頂いている方、そして、評価やブックマーク等して頂いている方、本当にありがとうございます。

おかげで、楽しく書き続けることができております。


さて、拙い物語も終盤に入っております。

このままどなたかお付き合い頂けると嬉しいです。

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