鉄音.4
燃やすものを失えば、炎は起こらない。
アリアが渾身の力で振り下ろした細身の長剣が、蛇の姿を取り戻していたエキドナの頭部に苛烈な一撃を加えた。
くぐもった悲鳴がフードの中から聞こえる。本当に、声は人間とまるで同じだ。
「――入ったな」
硬い鱗に弾かれた感触はあったが、それを押し込んで本体にダメージを与えた確信もあった。
跳躍してからの、高い打点による衝撃。そして、細身とはいえ、長剣の質量。…十分な破壊力だ。
頭を下げさせられたエキドナの向こうに、ナイフを投擲した直後の深白の姿が見える。
黒曜石と目が合った。闇と血を吸い込んで成長した深白らしい、黒壇がそこにはあった。
ふっと、深白が儚げに微笑んだ。
血をすすっているときとは違う、控えめな微笑だ。とても可憐で愛らしい。
ぐっ、と足元が持ち上がる。
「おっと…」と姿勢を崩しかければ、素早く深白が手を伸ばしてくる。
「アリア様、こちらへ」
触れていいのか、なんて迷うこともなく、アリアは深白の手を握った。
「失礼します」
ぐいっと引っ張られながら、二人で宙を舞う。
地面までの距離なんて、たかが数メートル。一、二秒あれば到達する高さだ。それなのに、重力に導かれるままに深白と落下するアリアには、久遠の時にすら感じられていた。
気づけば、着地の寸前だった。
反射的に剣を地面へと突き刺し、両手を空けたアリアは、そのままの流れで深白を抱きかかえて着地した。
深白はアリアの首に両手を回して、「わっ」と声を上げると、自分でやっておきながら驚きに満ちている彼女を見つめた。
「アリア様、その、申し訳ございません」
「え、あ、いや…」
「重いし、気味が悪いですよね。下ろしてください」
「き、気味が悪いなど思っていない!」
思わず、大きな声が出る。
確かに、深白の罪業は拭い難いことだ。だが、だからといって彼女のことを気味が悪いだとか、触りたくもないだとか、近づきたくないだとかは微塵も思わなかった。
いや、それよりも、むしろ…。
「私はな、深白――」
ぱりん、と背後で毒瓶が割れた音が聞こえた。その音とエキドナの悲鳴で、自分がのっぴきならない相手と戦っていることを思い出す。
「何をイチャイチャしているのです!?チャンスなのですよっ!」
パッと振り返れば、息を殺して接近してきていたエキドナが頭を抱えてのたうちまわっていた。
毒瓶が直撃したのだ。だとしたら、確かに今が絶好の機会。
「下ろすぞ」と深白に告げてそうしながら、剣を地から抜き放つ。
後退を始めているエキドナを追いかける。ふらついていても、想像以上の速度だ。勢いに乗られると追いつけなくなりそうだ。
後ろから、深白のナイフが飛んでくる。投げるなとは指示していたが、もう、自分に当たる可能性はゼロだとも理解していた。
トス、トス、とナイフがエキドナの背中に突き刺さる。毒の効果が強く残っている間は肉質が柔らかくなるのか、ナイフの根本まで突き刺さり、悲鳴が上がる。
アリアも追いつけなくなる前に、その太い尻尾目掛けて長剣を振り下ろした。予測した通り、刃は深く尾に入り込んだ。
血しぶきが噴出する。致命傷ではないにしても、きちんとした傷を残した。
ずるずると長い体を引きずりながら、エキドナが山を降りていく。深い霧に阻まれてしまい、確実な追跡が困難になった。
「くっ、また逃げられたか…!」
歯噛みしながらそう呟くと、いつの間にか隣に来ていた深白が応じる。
「あちらはおそらく、村のほうです。近道して先回りしましょう、アリア様」
「そうか、分かった。道は任せるぞ、深白」
「はい」
真剣な顔で頷く深白。彼女も村には恩人であるシスター・ノームと孤児院の子どもたちがいるから、心配なのだろう。プリシラを待たずして、すぐにでも駆け出してしまいそうだった。
「全く…こんな有事に、何をイチャイチャしていたのですか」
追いついてきたプリシラが目くじらを立てて、二人の顔を睨みつける。
「い、イチャイチャなどしていない。言いがかりだ」
「いいえ、してたのです!あれはいわゆる、『お姫様抱っこ』!お姫様であるアリア様がお姫様抱っこなんて、もってのほかなのですよ!」
よく分からない言い分に対して、深白までもが、「ふふ、それ、なんか面白いですね」などと口にするものだから、プリシラの小言が加速し、収拾がつかなくなっていく。
「あぁもう、今はそんなことどうでもいいだろう!さっさと追うぞ」
そう言って足を進め始めれば、不意にプリシラが深刻そうな声音で尋ねた。
「あの、姫様…オフィールはどうしたのです?」
「オフィールには、デニーロの相手を任せている。あいつも、魔族と手を組み、貧しい民から搾取していた罪人だからな」
その言葉を受けて、どうしてか深白が顔を曇らせた。痛みを伴うような表情に、どうかしたか、と尋ねかけていると、プリシラがさらに問いを重ねる。
「一人で、大丈夫でしょうか?」
「それなら心配はいらない」アリアは即答する。「すでに、勝敗は決していた」
図体に似合わず、デニーロの戦い方はローリスク・ローリターン、確実に突ける隙だけを突いていく。そういう感じのものだった。
オフィールは、初めのうちは彼の戦い方を鼻で笑った。それなら戦斧など持たず、小ぶりな武器にすればよかったのではないかと。
しかし、刃を交える回数が増えれば増えるほど、その考えは百八十度変わらざるを得なかった。
得物があれだけ大物だからこそ、小さな隙を突くことの価値が上がっているのだ。自分のスタイルにとって、理に適った選択をした結果とも言える。
間違いなく、強敵だ。いや――強敵だったと言うべきか。
「おっさん、楽しかったが…もうしまいだな」
「…どういうことかな」
デニーロの額には、冷や汗の粒が浮いていた。それをじっと見つめてから、オフィールはため息混じりで目を閉じる。
「さっきので仕留められなかった時点で、もうおっさんに勝ち目はねぇ。捨て身で突っ込まれたときに、私もおっさんの背中…相当深く刻んだはずだからな」
ふっと、デニーロが笑う。彼の足元には、ぽたん、ぽたんと血の雫が落ちて、小さな血溜まりができていた。
オフィールとデニーロの戦いは、開始してから少しの間、均衡を保っているように見えた。だが、オフィールの俊敏さ、剣術の鋭さ、そして、歳不相応の経験則により、その均衡は徐々に崩れていった。
彼は少しずつ増える切り傷による焦燥と、自身の部下が逃げおおせたという安心感、そして、小娘に負けたくはないというプライドのために、捨て身の攻撃を彼女に放った。
結果として、オフィールは致命傷ではないにしても傷を負い、アリアの前に吹き飛ばされたのだが、その寸前に彼女は、強烈な一太刀をデニーロの背中に浴びせていた。
つまり、オフィールとアリアの言う通り、勝敗は決したのだ。
「おかしなことを言う。――オフィール、だったかな?俺はまだ死んでいないのに、勝敗が決したとは」
「へ、死んでないなら負けじゃねぇってか…?まぁ、おっさんが何と言おうと、私があんたをぶった斬ることに変わりはねぇがな」
バックラーの上に剣を重ねて、デニーロ相手に構えてみせる。その姿には、普段とは違う、静かな獰猛さが宿っていた。
たとえ、相手が満身創痍だろうと手は抜かない。それは剣士にとって、戦う者にとって何よりもの侮辱だと魂が理解していたからだ。
胸の傷がじりじりと痛むも、デニーロはもっと酷い痛みを背負いながら毅然として立っていることを思えば、一ミリの苦にもならなかった。
「さぁ、十字を切るならこれが最後のチャンスになるぜ」
「…遠慮しておこう。部下のためには神にも祈るが、俺自身のためなら、そんな反吐が出るような真似はしたくないのでね」
「はっ、気が合うねぇ。私も相棒のためなら祈ってやってもいいが、自分のためならクソ喰らえだ」
「ほう、相棒か。せっかくだ、また今度、君の相棒とやらを俺にも紹介してほしいね」
「あ?」とオフィールは首の角度を上げた。「するわけねぇだろ、ダボが。お前みたいなデカブツに合わせると、プリシラがビビっちまうだろ」
「ほぅ、プリシラちゃんか。もしや、うちの若いもんが手を出した子か?」
「ちっ、喋んな。くそみたいなことを思い出させやがって…今すぐにでもぶった斬ってやる」
オフィールの反応が面白かったのか、デニーロは半笑いで戦斧を構えた。
「――若いな、オフィール。それがつまらない隙にならないといいが」
下らねぇ、とオフィールは電雷の如く駆け出す。
隙になんて、なるわけがねぇ。
そういうのは、慣れないことを急にやるから隙になるんだ。
――相棒のことは、いつだって考えてんだから…そうはならねぇ。
自分のものより半歩先、デニーロの間合いに入る。
「ふんっ!」
気合と共にコンパクトに振り抜かれた右薙ぎを屈んでかわす。文字通り、死線を潜った。
そして、態勢を戻す勢いを利用して、下からの斬撃を放つ。
弧月は、デニーロの戦斧の柄を寸断した。それに加えて、彼の脇腹から肩にかけて傷が走る。
「ぬっ…!」
「これで、終わりだ」ぴたり、と動きを止めて宣告する。「あばよ、おっさんっ!」
オフィールは、先ほどの斬撃とは逆のベクトルに体をねじると、渾身の力を込めて逆袈裟斬りをデニーロの上半身に叩きつけた。
鮮血と共に弾け飛ぶデニーロの2m近い体。
彼は、ぼろぼろのカウンターにその身を叩きつけられると、ぐったりと四肢を投げ出して俯いた。
死んだか、と急に冷めた心地になってデニーロへと近づき、見下ろす。すると、彼はわずかに身じろぎして顔を上げると、含み笑いを洩らして言った。
「くく…オフィール…葉巻を、取ってくれないか」
デニーロは虫の息だ。抵抗する気力がないとは言い切れないが、彼がそんな意味のない真似をするとは思えなかった。
「ほらよ」葉巻をつまみ上げ、彼の足元に放る。「最期の一服だ。ゆっくりと味わえ」
「…そうだな」
デニーロは力の入らない指先で懸命にライターをいじっていたが、そのうち、ぽろり、と地面に落としてしまった。
命の終わりを象徴するような、ライターの無機質さ。
燃やすものを失えば、炎は起こらない。
膝をつき、ライターを拾う。スイッチを押して点火すると、オフィールは彼が咥えた葉巻に火をつけた。
悠然とゆらめく炎。
それを見ていると、嫌でも昔を思い出す。
時間は無言のままに過ぎた。
状況を考えれば、放っておいても死ぬような相手のそばにいるより、さっさとエキドナを追うアリアたちの元へと急いだほうが良いのだろう。だが、それが分かっていながら、オフィールはもう少しだけこの場に留まることを選んだ。
死に逝く者にできる、同じ戦士としての最期の手向けである、と。
数十秒の時が経ち、カウンターと同じようにボロボロになったデニーロが、咥えていた葉巻をのったりとした動作でつまんだ。
「…じょ、上物の葉巻だ。お前も、一服するか?」
彼女は首を左右に振った。そして、目の前の男の命が死の風に吹かれて消える寸前であることを悟ると、ゆっくり立ち上がり、背を向けて歩き出す。
「私の相棒が『決まり』にゃうるさい」
デニーロは、去っていくオフィールの背中に向かって、苦笑と共に、「そうか」と呟くと、それきり動かなくなってしまった。
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