月明かりのない夜を.3
やがて、アリアたちは開けた空間に出た。今までは天井の高さが広いところで2mほどであったが、この場所は5、6mはある。
魔物が棲家にするには十分だな、と辺りを見渡していると、すぐに火を持ったプリシラが声を上げた。
「あそこを見て下さい」プリシラが指差した先には、藁のようなものが点々と積まれた一角があった。「あれは巣なのです。ここが終点なのではないでしょうか?」
「そのようだな…みんな、いつ襲われてもおかしくない。気を引き締めてかかれ」
こくり、と頷きながら、全員で足並みを合わせて前進する。
アリアは細身の長剣を鞘から滑らせ、オフィールも腰に括り付けたショートソードを抜いた。戦闘準備に少し時間のかかりやすいプリシラも、いつでも毒瓶を投げられる態勢に入ったようだ。
一方、深白だけが何も変化を見せなかった。左手に松明を持っているだけで、右手はがら空きだ。本気で何もしないつもりなのかもしれない。もちろん、それを咎められる立場にはいないのだが…。
遠くで落ちる水滴の音すら聞こえるほど、緊張感に満ちた静寂が漂っていた。いつ襲われてもおかしくないし、あの巣の中には魔物がいるはずだし、それに…それらの中心に魔族がいる可能性だってあった。
しかし、感覚を研ぎ澄ませながら巣に近寄った一行の目に映ったのは、魔物の姿ではなかった。
「うげぇ、これ、全部骨じゃねえか」
藁だと思っていたものは、あらゆる動物の、あらゆる部位の骨が寄せ集められてできたものだった。
オフィールが顔をしかめて不快感を露わにする隣で、プリシラは青い顔をしている。彼女の視線の先には人間の頭蓋骨があった。
「どうやら、人間のものもあるらしいな」プリシラの視線を追ったアリアが呟く。「人間を食べるなんて…き、気味が悪いのです」
『私たちだって魔物を食うがな』という言葉は飲み込んだ。今はそんなこと重要ではない。
いくつもの巣が固まってできたコロニーは、無人だった。魔物一匹いないどころか、卵すらない。しかし、整頓された様子から、使い捨てられた巣ではなさそうである。
入り口でプリシラが確認した魔物の痕跡は新しかった。対魔物用の毒を生成するため、魔物の生態に造詣が深い彼女が言うのだ、見当違いだったはずがない
だが、だとしたらどこに…。
巣の近くでしゃがみ込み、分析を始めたプリシラたちのそばに寄り、覗き込んだ。
そのときだった。
ひゅん、ひゅん、と空を裂く高い音が頭上を通る。
何事かと振り向こうとしていた刹那、生暖かい液体が顔にかかった。
「お顔汚し、すみません。――上です、アリア様」
明日の天気でも占っているような、平然とした深白の声に天井を仰ぎ見れば、そこには蛇型の魔物が無数にぶら下がっていた。
「ちっ、上だったか!」
「うえぇ、うじゃうじゃいるぞ!」
アリアとオフィールが構えを取る。プリシラは少しばかり後退しつつ、手にした松明の光でオフィールたちに死角ができないよう位置を取った。
深白は…。
「そこにいると血の雨が降りますが、ご容赦下さいね」と言って、修道服の袖から何本もナイフを引き出し、天井の魔物目掛けて投擲を続けていた。
宣告通り、前衛二人の頭の上に真っ赤な雨が降り注ぐ。
その気味の悪い生暖かさにオフィールが悲鳴を上げている横で、アリアは瞬き一つせず天井から落ちてくる魔物を見定めていた。
我が身に降りかかる前に、長剣を一閃、二閃する。寸断するのは容易かった。死体がのしかかってこないようにするのには難儀したが。
敵は、湖畔で襲ってきたタイプと同じものだった。相手取ることは難しいことではないが、問題はこれらが下っ端でしかなく、本命は後に控えているだろうことだ。
天井にいた魔物が軒並み地面に落下した。
アリアの周りにはあっという間に血溜まりと亡骸の山ができあがったし、オフィールとプリシラの息の合った連携も敵の手勢を減らすのに一役買った。
深白はというと、三人が討ち洩らし、闇に潜もうと陰に逃げ込んだ魔物を一匹残さず殲滅していた。どうやら、他の三人には見えない闇の先が彼女には確かに見えているようであった。
奇襲には驚いたが、敵の殲滅自体はものの数分しかかからず、五分と経たないうちに辺りで動くものはアリアたち以外、何もいなくなっていた。
「ふぅ…これで全部か?たいしたことねぇな」
松明を持ったプリシラと共に広間をぐるりと巡って戻ってきたオフィールがそう言った。
自分の力を過信しすぎているような発言だったが、いつもの皮肉だ。オフィールという剣士は、油断や傲慢で間違いを犯す種の人間ではない。…プリシラが絡まなければ、だが。
「オフィールの言う通り、これで全滅できたのでしょうか…?」
アリアは、不安げな顔で見つめてくるプリシラに向かって小さく首を左右に振る。
「分からない。だが、湖畔ではこの後に奇襲された。気を抜くなよ」
大人しく指示に頷き、武器や道具の手入れを始めた親衛隊二人から離れ、剣を鞘にしまった。それから、自分たちが通ってきた道の先を――無限に広がる闇を凝視している深白に近づく。
か弱く見える背中だが、実際はそうではないことぐらい理解している。現に、先ほども深白が先制してくれたおかげで無駄な怪我をせずに済んでいるのだ。
「深白」名を呼ぶと、半身になって彼女がこちらを振り返った。
「はい?なんですか、アリア様」
「さっきは助かった。ありがとう」
先ほどまで剣撃が木霊していたこの場所も、今や澱んだ静謐に覆われている。そのため、自分の言葉はどこまでも深く響いた。
アリアは、深白ならいつも通り、無難な言葉でフォローしてくると想像していたのだが、意外なことに彼女が放った言葉は全く関係のないものであった。
「お顔、汚れています」
「え?あ、ああ、さっきの戦いで――」
魔物の血がかかったのだろう、と続けようとしていたところ、不意に深白が自分のハンカチをアリアの顔に当ててそれを拭き取った。
真っ白なハンカチが血に染まり、汚れていく。その様を見たとき、アリアはとても悪いことを深白にさせているような気持ちになった。
「深白、こんなもの私は気にしない。わざわざハンカチを汚さずとも…」
「私が気にします」
言葉を遮られ、思わず目を丸くする。
深白は、そのまま血を拭き取る作業を続けた。少し強めにこすりすぎている気もしたが、どこか夢中になって汚れを拭う深白の姿に、何も言葉が出なかった。
どうして、深白がそんなことを気にするのか。
アリアの頭の中に浮かんだ問いは、彼女がそれを口にせずとも答えを得ることができた。
「…綺麗なままでいられるなら、そのほうがいい。綺麗なものは、綺麗なままで…」
ぼそぼそと独り言みたいにして紡がれる、深白の言葉。いや、実際に独り言なのだろう。深白が自分に対して敬語を使わなかったことはほとんどない。
アリアは、わずかではあるが、初めて深白の深奥に触れたような感覚がしていた。
無難なごまかしも、欺瞞も、今の発言にはなかったのではないのか…。
自分の顔を綺麗にしてくれている深白の面持ちを、ぼうっとした顔で見つめる。相変わらず、可憐な顔立ちだ。
「怪我をしたところはありませんか?」
不意に、顔を上げた深白と目が合った。
見惚れていたことに気づかれたくなくて、アリアは努めて普段通りに答える。
「いや、あの程度の敵には遅れを取らない。返り血は受けても、私の血は流れていない」
「…そうですか」
「ん…?なんだ、深白。残念そうだな」
「え?」
深白が、ぽかん、と唖然とした表情でこちらを見つめた。おかげで、少しだけ余裕が戻ってくる。
「深白は、私が怪我をしてメソメソしているほうが、嬉しかったのか?」
当然、冗談である。だが、冷たい表情のまま変化に乏しいアリアが言うと、どんな冗談でも本気に聞こえてしまうものだ。
「ま、まさか、そんな、わけ…」
「おい、冗談だ。狼狽えてくれるなよ、反応に困る」
「あ…そうですよね、あはは…」
そうして、深白が乾いた笑いを漏らしたとき、突如、闇の向こうから何かを引きずるような音が聞こえてきた。
嫌な気配だった。
闇の向こうから近づいてくるおぞましい臭いに、深白はきゅっと唇をつぐんだ。
最近にも、この臭いを嗅いだことがあった。
失意が絶望に変わっていくときに発せられる、負の臭い。
(お母様に見捨てられたときも…同じような気配がしてた)
変わっていくのは、いつも自分の周りからだ。
自分自身は変わらずとも、世界は変化し続けているし、やがて、それを個人に強いるようになる。
深白は自分でも気が付かないうちに、ぎりっ、と奥歯を噛み締めていた。
(『次』はないかもしれない。だから、失敗は、二度とできない…!)
気配に気づいていたのは深白だけではない。アリアも、奥にいるオフィールやプリシラも、立ち上がって音のするほうを見つめていた。
「何か来るぞ…みんな、気をつけろ」
分かっている。というか、この感覚を前にしてスイッチが入らないようでは、戦いの中に身を置くことは向いていない。
気配と音は、この洞穴の終着点に達する、ぎりぎり手前辺りで停止した。
空気は澱み、音が腐り始めていた。
死を連想させる静寂に、誰かが喉を鳴らす音が響く。おそらくは、プリシラのものだろう。
「止まった…のです」
プリシラがこらえきれなくなった様子で口を開く。
「どうします、アリア様。様子を見ますか、行きますか?」
「…いや、踏み込むのは危険だ」
「でも、こんな袋小路でこうしているってのも…」
「あぁ、分かっている。分かっているが…」
強大な気配を前にして、さすがのアリアもたじろいでいるようだ。魔族と対峙したことのある彼女だからこそ、一つの判断ミスで大惨事が起こるのかを理解していた。
しかし、深白は三人がじっと動かずにいるなか、どこからか布を取り出すと、おもむろに自分の短剣の刃に巻き始めた。
「深白、何をしてんだ?」とオフィールが尋ねる。
「リスクは冒さず、確認しようかなと」
そうして、布を巻いた短剣に松明の火を移すと、深白は迷いのない動作で暗闇に向かってそれを投擲した。
闇夜を駆ける流星のような炎が、暗黒を裂いた。
やがて、それは何かに当たって地面へと落下した。
ぼんやりと燃える炎が照らすのは、一枚一枚が人の手のひらほどもある群青の鱗。
数秒後、一行は戦慄した。
なぜなら、炎が明るく照らしている空間に、その鱗の持ち主が体をねじりながら顔を覗かせたとき、そいつが人の言葉をしゃべったからだ。
「人の家に土足で上がり込むとは、礼儀のなっていない人間だこと」
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