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姫騎士は、異世界人の少女と血の約束を交わす  作者: null
三章 月明かりのない夜を

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月明かりのない夜を.2

 天空高く月が昇る頃、孤児院の中は人気もなく静まり返っていた。


 子どもたちはとっくに寝静まっている時間だし、シスター・ノームだって私室で仕事をしている頃だ。


 シスターは村人から頼りにされていて、ずっと前から村がやっていくためのやりくりを手伝っているらしかった。シスターの呼びかけがなければ、『村人特別支出金』とやらも集まらなかったに違いない。


 彼女がそうして寝る間も惜しみ、帳簿を記載しているとき、深白もまた眠らずに孤児院の裏庭で洗濯物に勤しんでいた。


 こんな時間に洗濯物など、非効率であることは分かっていた。夜気には多量の水気が含まれているため、室内干しをしても、暖炉のそばでなければ乾かないだろう。


 それでも、『夜』でなければ駄目だった。


 ちゃぷ、ちゃぷ、と深白が水桶に手を突っ込む度に、水面が揺れ、水が溢れ出る。


 深白は、まるでこの世の縮図だと、こぼれ出る水を見ながら考える。


 桶の中に入っていられる水は限られている。しょうがない。そういう作りなのだ。


 不運なものから順に外へと弾き出される。凪いだ頃には、桶の水かさには余裕が見られるというのに、それでも押し出されるものをなくすことはできない。


 孤児院の子どもたちや、シスター、プリシラ、オフィールの衣類を綺麗にした後、深白は一度、水桶をひっくり返した。


 排水口に流れていく水。ざまあみろ、と心のどこかで誰かがせせら笑うのを聞いて、つい口元が歪む。


 レバーを下ろして、再び水を注ぐ。桶の半分くらいまで水が溜まったのを確認して、レバーを止める。


 深白が取り出したのは、アリアの肌着だった。


 蛇の魔物と戦ったときに身に着けていたものなので、薄っすらと血が染み込んでいる。たいした負傷はしていなかったようだが、こうして布地に染みてしまうとなかなか落ちないものだ。


 深白はそれを手に取って広げると、ごくり、と生唾を飲んだ。それから、ゆっくりと深呼吸して、周囲を見渡した。


 こんな時間、裏庭に誰かが来ることはまずありえない。孤児院自体が低い石壁に覆われているから、外からも中の様子は分からないのだ。


 それでも、深白は用心に用心を重ねた。


 それは、彼女自身に染み付いた、生きるための習慣のようなものだった。


 水で洗った程度で取れる血の痕とは違う。こればかりは、きっとこの先、一生取れはしないだろうという確信が深白にはあった。


 子どもたちは完全に寝静まり、シスターは職務に忙しく、食堂から裏庭に続く扉には、念のためにかんぬきをしてある。


 大丈夫。絶対に誰も来ない。


 深白は再び手にした肌着へと向き直ると、膝をついたままの姿勢でそれに顔を埋めた。


「…ん」


 アリアの甘く、透明感のある香りが脳髄を駆ける。くらくらするような鉄の匂いに彩られ、鼻孔から、深白の感覚を支配した。


「…はぁ」


 想像していた以上のものだった。自身の肉体が歓喜で打ち震えるのが分かった。


 彼女に会ったときから、不思議な直感があった。自分にぴったりに違いないという直感が。


 一分ほど経つと、深白は名残惜しそうに肌着から顔を離した。そして、恍惚に染まる表情でうわごとのように告げる。


「砂漠に一滴、水が落ちるみたいなものだよね…」


 とろん、とした目つきになった深白は、数秒して我に返ると、慎重な手付きで血に染まる肌着を水につけた。


 深白は、他の衣類を洗っていたときのように揉んだり、こすったりはしなかった。さっとくぐらせるだけをしてまた水から出すと、軽く絞って可能な限り水分を取り去った。


 ぽたり、ぽたりと落ちる雫を眺める。青い月光が水滴の中で膨らんで、厳かな光を反射している。


 深白は未だ水滴の滴る肌着を掲げた。跪き、月に捧げるような姿勢を取った彼女の姿は、神に祈り続ける敬虔な信徒さながらだ。


 だが、彼女が直後に取った行動は敬虔さとは相反するものであった。


 自らの口の上で、アリアの肌着を強く絞る。


 深白は、じゅる、という音を立てて絞り出された、ほんのりと赤く染まった水をごくり、ごくりと品のない音を立てながら喉の奥へと流し込んでいった。


 舌を通して感じる、アリアの甘い味わい。


 数秒、深白はそれに酔いしれるように目を閉じ、一心不乱に喉を潤していたのだが、ややあって、目を開くと肌着を絞るのをやめ、落胆に染まった瞳で月を見上げた。


「薄味…」自分が期待していたような充足は、そこにはなかった。「…一日経ってるもんね…そうだよね…仕方ない…」


 自らに言い聞かせるように呟く。先ほど浮かんでいた恍惚さとは打って変わって、彼女のオニキスには無感情さが忍び寄っている。


 仕方ない?

 仕方ないって、なんだ。

 どうして、これに耐えられるだろうか。

 乾きを潤すための『それ』は、手の届くところにあるのに。

 不足、欠乏、それに伴う渇望。


「――足りない」


 ぼちゃんと、水桶の中に肌着を落とす。


「こんなんじゃ、足りない…っ!」


 表情を曇らせた深白は、自分自身を抑え込もうと目を固くつむった。


 しかし、目蓋の裏に浮かんだのは、彼女を悶えさせる妄想。


 あの、白く透き通った首筋に顔を埋める自分の姿…。


(あの人は、私に何か特別な感情を抱いてる。だったら…お願いしたら、断らないんじゃない…?)


 ふとよぎった考えを、すぐに自分自身が否定した。


(駄目、駄目だよ。怪しまれる。この国の王女様に怪しまれるのはまずい。しかも、あの人は清廉な人間。私のやってきたことを知ったら、それこそ捕まりかねない。我慢しなくちゃ…!)


 駄目だと分かっているから、決して手に入らないと分かっているからこそ、深白は激しく苦しみ、満たされぬ乾きに苛まれた。


 深く息を吐きながら、水桶に浮かんだ彼女の肌着を見つめる。


(――アリア・リル・ローレライ…貴方みたいな人が、私の前に現れたから…!私は…私はこんなに喉が渇く…!)


 八つ当たりとは理解しているが、ご馳走を顔の前にぶら下げられるようなこの気持ちを、アリアに味あわせてやりたいと思った。


 身悶えし、体をかき抱きたくなるほど渇きと衝動を、どうにかして、あの人に…。



 次の日、一行は再び魔物がいるとされる洞穴を目指した。


 メンバーは昨日と同じで、アリアとその親衛隊、そして、案内役である深白。


 深白は必要であれば戦うが、あまりあてにはしないでほしいとのことだった。面倒は避けたい、というのが彼女の言い分だったが、プリシラはそれにも目くじらを立てていた。


 濃霧が山の斜面をベールのように覆っていた。霧の村の周辺は常にこうして霧が出ているわけだが、今日は一段と霧が濃い。


 何か善くないことが起こる前兆のような気がして、アリアは腰に履いた長剣の柄を撫でる。


 洞穴の入り口にも、濃い霧は広がっていた。中には流石に広がっていないようだが、薄気味悪さは倍増している。


「また、魔物が出入りした形跡があるのです」


 前回と同じ場所で屈み込んでいたプリシラが、フラスコに何かを採取しながら言った。


「やはり、ここが魔物の巣であることは間違いなさそうだな」


 入り口を背にするように振り返ると、アリアは三人の顔を順番に見つめ、神妙な顔つきで告げた。


「みんな、これから中へ入ろうと思うが…約束は覚えているな」


 こくり、と三人が頷く。


「一、常に二人一組で行動する。二、傷を負ったときは必ず報告する。――三、魔族が出たときはどんな状況でも撤退を優先する…ですよね」


 再確認するオフィールに、「そうだ」と答える。


「知っている通り、魔族というのはまともにやり合って勝てる相手ではない。幼い頃に一度だけ間近で見たことがあるが…」


 そう言いながら思い出すのは、十年以上も前のことだ。


 当時から、戦いを通して人を守ることがローレライの娘としての責務だと考えていたアリアは、魔物と人間の衝突が激しい最前線へと向かう


父の馬車に忍び込んだことがあった。


 アリアは、王国側の前線基地に着いたところで見つかってしまい、泣くほど父に叱られた。普段は温厚な父が烈火の如く怒ったのでよく覚えている。


 そんな夜のことだった。


 前線基地が、魔族の襲撃を受けたのだ。


 魔物の数は明らかに不足していた。だから初めは、戦術も知らない愚かな魔物がのこのことやってきたと笑われていたのだが、すぐに状況が変わった。


 勇猛な将としても知られていた父や、その親衛隊の騎士、駐留していた多くの兵士は、一夜にして壊滅させられてしまった。


『奴』は、倒れ伏した父の剣を握り、よたよたと構えたアリアを見て、確かに天使のように微笑んだ。


 …なぜ、自分が殺されなかったのかは分からない。取るに足らない矮小な羽虫だとでも思われたのだろう。


 アリアはその扱いに屈辱は覚えなかった。むしろ、その逆で感謝すら覚えていた。


 生きている以上は、負けじゃない。


 気まぐれという名の神が、自分に刃を研ぎ澄ます時間を与えたのだと、アリアは信じていた。


 アリアは追憶から戻ると、あえて感情を押し殺して続けた。


「あれは、まともな生物ではない。少なくとも、個人で戦って勝てる生き物ではないだろうな」

「…アリア様にそこまで言わしめるほど、恐ろしい存在なのですね。その、魔族というのは」

「そうだ」と深白の言葉に相槌を打つと、彼女はさらに問いを重ねた。「普通の魔物とは一見して違うのですか?」


「そもそも魔族の報告自体が少ないが、姿形は均一ではないようだ。獣のような姿をしていたり、鳥のようだったり…私が見た奴は、人に翼が生えたようなフォルムをしていた」


 魔物というよりも人間に近い印象だった、という言葉は飲み込んだ。魔族に対して変な印象を持たれてはならないと思ったのだ。


「ただ、一貫して言えることはある。それは、魔族は往々にして人の言葉を話すという点だ」

「えぇ、人の言葉をぉ?」驚きの声を上げたのはオフィールだ。

「どうしてオフィールが知らないのですか。親衛隊になるときに受けた講座で習ったはずですよ」

「そうだったか?覚えてねえなぁ」

「本当にオフィールは…」


 いつものやり取りを始めた親衛隊らを放っておいて、深白への説明を続ける。


「だから、もしも、人の言葉を使う魔物が現れたそのときは、まずは撤退することを念頭に行動するんだ」


 いいな、と念押しすれば、深白は素直に頷いた。まぁ、戦うのが面倒だと言うほどだから、わざわざ危険な真似はしないはずだ。


 全員の足並みを揃えて、洞穴へと進む。前衛のアリアとオフィールが敵襲を受けてもすぐに動けるように、深白とプリシラに松明を持ってもらっていた。


 当然ながら足場も悪く、気を遣って歩かなければ段差や窪みに足を取られて転倒してしまいそうだ。実際、プリシラが何度か小さな悲鳴を上げていたが、隣を歩くオフィールに肩を掴まれ、転ばずに済んでいた。


「…思っていたよりも、ずっと深そうなのです」

「ああ、気を引き締めろ。それだけ人の手が及んでいないというわけだからな」


 暗黒が渦巻く洞窟を進み始めて、すでに五分近くが経過していた。敵からの襲撃もないが、村人を襲っているという魔物も見当たらない。


「この洞窟…方向的に、湖の側面か下を通っているような感じですね」


 不意に、深白が声を発した。


「深白、よく分かるな。私はこうも暗いところを降りているとなると、元々来た方向すら曖昧になってくるぞ」


 アリアの言葉を聞いて、松明の炎に照らされた深白の横顔が綻ぶ。


「ふふ、それは大変ですね。こんなところで迷ったら、生きては出られませんよ」


 冗談っぽい口調ではあるが、ぞっとするような話を微笑みと共に告げられると、これまた寒気がしてくるような気持ちになる。


 深白にはこういうアンバランスさがあると薄々勘づいてはいたものの、こんな闇の中で口にされると響くものはある。


 しかし、何も不安にさせて終わりというわけではなかった。


 深白は、きゅっと唇を閉じたアリアの顔を見ると、今度は慈愛に満ちた表情で不安の暗雲を払うみたいに告げる。


「大丈夫ですよ、アリア様。迷ったときは私が手を引いて外へとお連れします。――だから、ちゃんとそばにいて下さいね?」


 深白は、自分よりも10センチほどは身長が低く、体つきだって細い少女だ。それにも関わらず、不思議と彼女が頼もしく見えた。


 可憐さの向こう側に潜む牙を知っているからなのかもしれないが、思わず、大人しく頷いてしまいたくなる凛々しさが感じられたのだ。


 アリアは、彼女らしくもない小さな声で、「あ、ああ」と答えると、慌てて正面を向いた。絶対に顔が赤くなっているという確信があったからだ。


(ど、どうにも駄目だ…。深白に微笑まれると、恥ずかしくて、普段の私ではいられなくなる。全く、なんだというんだ…)


 自分自身の感情の機微すら察せられないアリアは、後ろで部下たちがひそひそ話をしている声を聞いて、羞恥に押し潰されるようにため息を漏らすのだった。

お読み頂きありがとうございます!


明日は日曜日なので、正午頃と夕方頃に更新します!

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