アズノル国
王太子殿下に婚約を破棄されたあの日。
私はたしかに二階の窓から飛び降りて、この身と世界の破滅を祈ったのに。
その願いはまったく神へと届かなかったらしい。
あの日。窓から飛び降りている最中に、私は意識を失った。
仮令地獄に落ちようとも、このまま生きているよりはずっとマシだと思ったから。
誰もが私自身を見ることなく、悪役令嬢しか欲しない悪夢そのものの世界。
なのに。目が覚めると、私はなぜか清潔なシーツに包まれていた。
身体に纏っているのは瀟洒な絹の夜着一枚。勿論、私のものではない。
自室とも、王宮に用意されていた私室とも違う家具や部屋の意匠を訝しむ。
「これは…もしかして、ここは、アズノル国?」
くらくらする頭を片手で支えながら、ゆっくりと身体を起こした。
瞳の焦点が合いにくくて、物が見えにくい。
まるで前世の私が眼鏡を外した時のようだ。二重三重にブレて見える世界に、足を踏み出す勇気がなかなか出なかった。
それでも、いつまでもベッドの中にいる訳にもいかない。
現状を把握するためにも状況を確認しなければ。
そう思って重い身体でなんとかベッドから足を出して床につける。
裸足に感じる、絹織物のひんやりとした滑らかな感触が心地よかった。
しかし、立ち上がったつもりの足には全く力が入らず、私はその場にぺたりと頽れた。
ベッドにも戻れなかった。
揺らぐ視界。はっきりとしない意識は今にも飛んでしまいそうだ。
上体を起こしている事すら難しくなった頃、部屋の扉が開いて誰かがそこから入ってきた。
『……! リタ様が、リタ様がお目覚めになられました!』
それは、自国ゲイル王国の言葉ではなかった。
敵国である筈の国の言葉。
なのに、なぜかその声に聞き覚えがある気がして眉を顰めたところで、私の意識は再び暗闇の中へと落ちていった。
「大丈夫か、リタ。俺が誰だか、判るか?」
そう呼びかけられて、自分が再びベッドの中にいることに気が付いた。
しかし、呼び掛けに応じて目を開けたものの、そこにいる男性に見覚えはない。
『申し訳ございません。初対面だと思うのです。どなたかと勘違いしておられるのではありませんか』
寝ている部屋は変わっていない。着ている服は変わっているけれどそれだけのようだった。
なので私は、先ほど聞こえた使用人らしき女性が話していた、敵国アズノルの言葉で回答した。
『さすがだな、リタ・ゾール嬢。仮死から目覚めてすぐにその対応、感服する』
満足げに頷かれた。それよりも、そこに含まれた単語が気になる。
『仮死、でございますか?』
訊いてみたけれど、それについてすぐに教えては貰えなかった。その男性は目を眇めて笑みの表情を作っただけで何も答えは返ってこなかった。
『あの…、ここはもしかして、アズノル国なのでしょうか』
窓から見える太陽の角度と山の配置から、ゲイル王国内とは考えられなかった。
この問いにも答えが返ってこない可能性も考えたが、今度はすんなりと頷かれた。
『そうだ。ここはアズノル国内。私が有する離宮だな』
『離宮…』
どうやら私は本当にアズノル国にて囚われているらしい。
捕虜というには待遇が良すぎる気がするので、人質交換による和平でも交わしたのかもしれない。ただ、国境を超える時ですら意識不明で寝たきりになっていた私に、人質としての価値があったかどうかは不明である。
それにしても。顔を見まわすことなく視線だけで周囲を確認しただけでも、判ることもある。
豪奢な部屋の設え。対峙している男の衣服の精緻な意匠の素晴らしさ。
加えて、その左の耳に付けられた、紅い石の嵌まったイヤーカフの紋様に見覚えがあった。
この男性は、アズノル王家の王子だ。
とはいっても正妃腹、側妃腹合せて18人にも及ぶアズノルの王子の名前と顔が一致するほどの情報を、王太子の婚約者でしかない私は持っていなかった。
ベッドの中から出ることも叶わない身ではあったけれど、王族たる相手に向けて、精一杯の虚勢を以って姿勢を正し、礼をおくった。
『このような姿のまま失礼いたします、アズノルの王子。すでにご存じかもしれませんが、わたくしはゲイル王国ゾール侯爵が二女、リタと申します』
前世の日本とは違い、ゲイル王国では男女の別なく子供が生まれた順番そのままに数えていく。なので、兄がいる私は二女となる。
私の自己紹介を受け、相手が名乗ってくれるといいのだけれど。
但し、もし表面的にでも友好的な交流により私がここに連れてこられたのではない場合は、それは叶わぬことだろう。むしろ名を正式に名乗ってしまった事で不利益を得ることになるかもしれなかった。まぁ、相手は私の名前を既に知っていたのだから、今更かもしれないが。
それはそれでいい。
ゲイル王国の益となることを考えて行動するのはもう止めたのだ。
【できれば、リタという今世の名前だけでなく、前世の名前も教えてくれないだろうか。俺の名前は三瀬晃司。ゲームのシナリオ作家希望の学生だった】
自己紹介をして欲しいとは思っていたけれど、それが日本語であるということに、私は言葉を失った。
【あれ? リタは絶対に前世の記憶持ちだと思っていたんだけど。違ったのか】
残念そうに言われて、慌てて返事をした。
【わ、私の名前は久藤馨子です。高校生だった記憶までしかないです。というかそれも朧気で。本が、好きでした。だからここが舞台となる小説も読んでいました】
私のつっかえつっかえのその言葉に、三瀬と名乗ったアズノルの王子はとても嬉しそうに破顔した。
そうして私は、私が寝ていた間のことについて、ルド・アズノルと名乗り直した王子から教えて貰ったのだった。
『という訳で。本当はあの浅墓馬鹿王子を傀儡にして数年かけて玩び尽くした後にあの国を乗っ取ってやろうと思ってたんだけど、急遽お前が欲しくなったんで路線変更して、今お前は俺の腕の中にいる』
とはいえ、ルド王子の説明はいろいろと省かれていて要領を得なかった。
『あの…、私はルド殿下とお会いするのは今日が初めてだと思うのですが』
これでも記憶力には自信があった。
それなのに、私が欲しいなどとどうして考えたのだろう。
『んーと』少し悩んだ王子は、目を閉じ俯いたと思うと再び顔を上げて私の名前を呼んだ。
「それはあまりにもつれない御言葉ですね、リタ・ゾール侯爵令嬢。私達は、貴方が死んだ後の事後処理をすべてお任せいただいたほど、一蓮托生の仲でございましょう?」
慇懃無礼なほど丁寧にゲイル王国の言葉を操る目の前の男が急に老けた顔つきをして私に笑い返していた。おもわず息が詰まった。
「ロベル、会長……」
私が集めた証拠類を、王太子に突き付ける役目を託した相手。
表では貿易会社、裏でも手広くその顔を知られた存在だった。
そんな彼と知り合いになったのは、アズノルとやはり敵対関係にある外国との貿易交渉の場においてのことだった。
『ロベルとして会っている時は口や服に綿を仕込んで壮年に見えるようにしてあったから、違和感あるだろ』
確かに、声ももう少し篭ったように聞こえた気がする。
それにしても、言動にしても、やっている事も、尊き王族に生まれながらなにをしているのだろうか。
そんな彼が、よりによってアズノルの王子だなんて。
『ぷっ。ずるいわ。なにその反則』
しかも彼は、私と同じ転生者。小説の内容にも精通しているのだ。
『反則も何も。前世の記憶があるだけでもおかしいのに、転生先が前世の世界で創作物として存在していたっていう時点でもう何でもありだろ。ゲームのシナリオライターになりたいと思って勉強してたつもりだけど、リアルで体験することなんか求めてねぇって言いたいよ』
投げやりに言われて本当にそうだと納得してしまった。
『でも。それでも納得できないわ。私からの依頼を受けたその瞬間まで、あなたは私の事なんか眼中になかったでしょう。前世持ちだと気が付いたから、その気になったというの?』
『いや。お前が前世持ちだってことはもうちょっと前に気が付いていたな。貿易交渉の場にお前は通訳として参加していたし、味方であった筈のすべてを敵に廻していたりしてひとりだけ小説と違い過ぎる道を歩み続けていたからな』
すぐに判ったと言われて、顔を顰めた。
『私には、一大事のことばかりだったのに』
じわりと目尻に涙が浮かぶ。
すまん、と頭を引き寄せられ、おでこをコツンと当てられた。
『悪役令嬢なんて役柄を押し付けられて大変だったな』
ぐっと喉の奥が詰まった気がした。
あの頃、誰か一人でもそう言ってくれる人がいたならば。私はもっと楽に生きていけていた気がした。
『遅いわ。あの頃の私に言ってあげて欲しかった』
嬉しすぎて素直に言葉にできない。
可愛げのないことを言ってしまったと後悔して視線を上げられないでいると、ぐいっと顎を掴まれ視線を合された。
『そりゃ無理だ。他の奴等にいいように扱われてもそれに流されていただけの頃のお前にはなんの興味は無かったからな。やり返す算段を付けて、あいつ等から逃げる手段としての自死を選んで笑うお前に惹かれたんだ』
そのあまりといえばあんまりな、巫山戯けた告白に言葉が出ない。
『特にあれだな。俺に手配を承知させる為の口説き文句。あれにグッときたんだ』
私はなんと言っただろうか。
小金というほどは少なくないが、たかが小娘が搔き集めた額程度でロベル会長の心をそれほど動かせたとは思えない。
『「情報を流すタイミングは任せるわ。それにこの情報は、王太子殿下にお届けしてくれさえすれば、これを元手に小金を稼ぐくらいはしてもよくてよ」だったか。グッと来たな、あれは。小悪党の俺の心を完全に掴む口説き文句だった』
──言った。確かにそう伝えた記憶がある。でも
『口説き文句なんかじゃないですっ』
あれはそういう類の言葉ではない。
どう伝えれば、私が死んだ後でもその依頼を実行して貰えるか悩み抜いて決めたのだ。
『仕方ないじゃないか。だって俺、堕とされちゃったんだもん。もうキュンキュン来ちゃったね。数少ない手持ちのカードをどう使うか。クソみたいな人生というゲームをクリアするためにできることはなんでもするっていうお前の気概に、俺はやられたんだ』
じぃっと、吐く息の熱さえ伝わるような至近距離から見つめられて、息が止まる。
『だが。お前は賭けに負け、こうして生き残った。つまりは、神へはお前の願いではなく俺が希った思いが通じ、叶えられた』
──私が破滅した後の世界も、破滅していますように。
それが、私の最後の希望だった。
その願いは聞き届けられずに、私はこうして生きている。
それは、目の前にいる男の願いが、先んじて叶えられた、から?
『あの日の前日、間諜から明日お前が婚約破棄を告げられそうだと報告を受けた。だからお前の自害が成功するかどうか、それだけ見守ろうと学園に侵入したんだ』
そんなことをしてたのか。
『なのに。お前はいきなり俺の目の前に落ちてきた挙句、死んでいなかった。だからアズノル王家に伝わる仮死の秘薬を使った。半年以内に中和剤を打てばなんの障害もなく生き返れるというものだ。もし中和剤が間に合わなくとも一年もすれば薬が切れて…』
いったんそこで説明を止めたルド王子は、にぃ、とその唇の口角を上げ、その表情を笑みに形作る。
『目を覚ますこともあるし、そのまま眠るように本当に死を迎えることもあるという。ただし、目を覚ませたとしても記憶が失せている事や人としての何かを失い、瞬きをする人形のようになることもあるそうだがな』
間に合ってよかったな、と笑顔で言われて眩暈がした。
『半年以内には間に合わなくとも一年の内に中和剤を打てたし、お前の記憶や人格にも問題はなさそうだ。つまりは俺は賭けに完全勝利した、ということだ』
つ、と親指で唇をなぞられた。
『だから、お前は俺のものだ』
そう言った男の顔が、私のそれに、熱く重なった。
ここで終わるつもりでしたが、ピアの件などにおいて
疑問に思われる方が多いようだったので加筆しました。
作者の力量不足で伝えきれなくて申し訳ありません ><