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ゲイル王国

すみません、嘘吐きやした ><


「約束の、破滅の日」の後日譚でございます。

あちらをお読みになってからご覧ください。


R15(非エロ)です。タグをよくご確認の上お読みください。

※作中において、女性に対して暴行を行っているかのような表現があります。ご注意ください。





「彼女はまだ目を覚まさないのか。本当に身体に異常はないんだろうな?」


 あの日からもうひと月。

 地面に横たわっている所を発見された彼女は、今も目を覚まさない。


「はい。骨折どころかかすり傷ひとつ負ってはおりませなんだ。2階から落ちるところを見た人がこれだけ多くなければ、ただ眠っておられるだけだと思う程に。ただ、心の臓の動きはよくありませんな。通常の10分の1ほども動いておりません」


 信頼する宮廷医師にそう言われても、ベッドの上で横たわる彼女の顔はあまりにも白くて、伏せられた長い睫毛すら動いているようには見えなくて、アルフェルトには死んでいるようにしか見えなかった。


 いや。アルフェルトはある意味彼女を殺したのだ。


 皆が見ている前で婚約破棄を言い渡した。

 押し付けられた婚約者である彼女はあまりにも優秀で、それだけではなく、玲瓏たる美しさを誇る人だった。

 静かな声と、光の加減で碧にも見える艶やかな黒髪、人の入れない神聖な森の奥深くにある静かな湖のような深碧色の瞳。そして完璧な所作と高い知性。

 冷厳な講師が彼女を褒めるのも気に入らなかった。

 第一王子たる自分を褒めたことのないその人が、彼女の語学力や学習能力の高さを褒める度に、会ったこともない彼女の事が嫌いになった。

 しかも、冷厳な講師以外から聞こえてくる彼女は、学問以外においてあまりにも眉を顰めたくなるような性格をしていた。漏れ聞こえてくる噂では使用人に暴力を揮い、貴族に於いては嗜みのひとつとされているとはいえ、令嬢として相応しいとは思えない賭博ブックメーカーに手を出しているという。そんな話がアルフェルトの耳に届く度に、講師が褒める存在に対する嫌悪の気持ちが湧き上がる。しかし。それと共に、胸のごく奥深いところに昏い喜びにも似たホッとするようななにかが生まれもするのだ。ただそれも又、アルフェルトにとって不快だった。


 一度、講師にそのことについて告げ口をしたこともある。

 しかし返ってきたのは彼女への擁護だった。


『神より特別であれと与えられた特別な才能を持って生まれた者は、幼い頃においてはその小さな身体には持て余す優れた能力のせいで、精神的にバランスを崩すことも多いのです。彼女もその一人でしょう。しかし、その特別な能力について開花した時、少しずつバランスはとれていくものなのです。そうして、彼女にとっての特別な才能は“学ぶ”というものでした』

 だから自分は彼女に見つけた語学力を主とした勉学における才能をどこまでも伸ばしていく為に、彼女が望む以上の課題を与え続け進むべき道を示したのだと誇らしそうに言われて却って怫然とする結果になった。


 つまり。自分は彼女を婚約者として顔をあわせる前から、彼女が嫌いだった。


 見た目の美しさだけでなく、その完璧な所作にどれほど心が囚われようとも。いや、だからこそ嫌ったのかもしれない。

 嫌って。嫌い抜いて。お前に惹かれるなどアリエナイと。でもそれをあからさまに表に出して誰かに気付かれるようなへまをしないように細心の注意を払った。

 公式の場で傍にいる時は殊の外優しくした。それくらいの演技ができなくては王族としてやっていけない。

 そして気が付いた。

 自分の演技でしかない笑顔や言葉に、講師が褒め讃える特別な存在とやらである彼女の心が簡単に揺れることに。

 頭がいい癖に。女としては、馬鹿なのだ。

 口先だけの演技で簡単に騙される程度の低い女なのだと示してやるために、普段との差をこれでもかと突き付けてやる。それはさすがに演技であるということは分かるようで、あの美しい瞳が、傷つき揺れる。

 その姿を見ると心が落ち着いた。


 たしかにこの国だけでなく近隣諸国を見回してもリタ・ゾール侯爵令嬢以上に優秀な令嬢などいはしまい。

 なによりその美しさにおいては誰をも優る。

 しかし、こんな女と結婚して国を治めなければならないのかと思うと絶望しかなかった。


 そんな中で始まった学園生活で思いもかけない出会いをした。


 鬱屈した思いを掬い取ってくれる存在。

 子爵令嬢でありながら、令嬢らしからぬ快活な表情をした、まるで子猫のようなピア・ポラス子爵令嬢。


『嫌なことはイヤだと言えばいいんですよ』


 彼女のその言葉に、私はどれだけ救われただろう。

 明るく言いきるその言葉や行動、そのすべてに、王太子として正しくあるべきだという心を縛るものを断ち切って貰った気がした。

 苦しかった息が、胸の奥まで行き渡った。そんな気がしたんだ。


 でも。


『お前は、リタ嬢が国の為に諸外国との交渉の場で通訳や特使として務めてくれていたことに、本当に気が付いていなかったというのか?』


 あの日の夜、彼女の息があると判って慌てて王宮へと運び込んだ後、父王に詰られた事実が今も心に重かった。


『本来ならお前が務められればそれが何よりの事だったのだが、通訳をこなすほどのリタ嬢の横で、王太子であるお前が通訳を要するなど恥を掻くだけだろうと呼ばなかった。しかし、お前の成長のためには一度位その恥を掻かせておくべきであったな』


 冷たい目で見つめられて愕然とした。


 彼女が、リタがほとんど学園に来ていなかったとは知らなかった。

 元々、学園で教わる程度の内容などリタには就学前に習得済だったのだろう。だから王宮からの要請を優先しても何も問題はなかったのだ。

 そんな彼女が入学する態をとったのは王太子である自分との兼ね合いだったのだと言われて恥辱に全身へと朱が奔った。

 

 貴族の子息令嬢としてクラスは男女別である。ついでに言えば、王族を含む上位貴族と下位貴族とで分けられている。


 だから一日中、彼女と顔を合せない事が多いのだと思っていた。

 見かけないだけ。

 だって、彼女についての悪行は毎日のように耳に届いていたから。


 わざわざ違うクラスや違う学年まで赴いて悪事を働く婚約者。

 それにイラつくばかりで事実がどうなのか確かめるつもりもなかった。


 本当は、どこかでそれが嘘であると知っていたのかもしれない。


 知っていて、そんな噂を立てられる彼女を哂っていたかったのかもしれないと、思いついた傍から顔を横に何度も振ってその思いを振りほどく。


『国境付近まで外交官と交渉に赴いて貰っていたこともある。その報告書を纏め、前後には閣議への参加もあった。さて、リタ嬢に学園でくだらない虐めなどをする時間が、本当にあったとお前は思うのか?』


 あったとしても国に対する貢献を捧げていた彼女がその程度の罪に問われる筈もないであろう、言外にそう言われている気がした。

 国の為の仕事をしている令嬢の邪魔になるのなら、排除されるのはその邪魔とされた令嬢子息であるだろう。子供の遊びではないのだ。

 個人の好悪など二の次だ。


 しかし。今、学生である自分たちには重要なことだという忸怩たる思いもある。

 アルフェルトが王位につく次代において、国の中枢を担う者に対して信頼を持たれていないような事はあってはならないのだと。今でも信じていた。


 コツ、コツ。


 ノックの音に許可を出すと侍従が案内を告げる。

「アルフェルト殿下。ゾール侯爵家のエスト様がリタ様へのお見舞いにいらっしゃいました」

 部屋に入ってきたのはリタの実兄だった。

 

「アルフェルト殿下がおいでとは思いませんでした。妹も喜んでいるでしょう」

「少しだが手が空いたのでな。なかなか目を覚まさない妹御のことはエスト殿も心配であろう」

 にこやかに交わした挨拶は、もうひと月も目を覚まさない病人の見舞いにはあまりにも不似合いな気がした。

 その時、ほんの一瞬のことだった。

 アルフェルトは、エストがリタに視線を移したその一瞬だけ、とても奇妙な表情を浮かべたのをみた、気がした。

 見間違いだろうかと思う程の瞬間的なものでしかなかったし、すぐに違う話題を振られたので、その思いは心に留めるほどの重さを持たず、すぐに流れて行ってしまったが。

「あたらしい義妹も、父と一緒に登城しておりますよ。今は陛下にご挨拶に伺っているところです」

 その言葉に、ぱっと上げた。つい頬が緩む。

「そうか。ピアも来ているのだな」

「殿下。まだ婚約もしていない妹の名前を呼び捨てにするのはあまりよろしくないのではありませんか?」

 くすくす笑われて頬に熱が溜まった。

「あ、あぁ失礼した。そうだな。気を付けることにしよう」

 そう言葉にはしても、浮足立つ気持ちは隠し切れなかった。

 私達は揃ってその部屋から退出した。





「ピア。ピア嬢、会いたかった」

 その手を取り、指先に軽く唇を寄せる。

 本当は抱きしめてその柔らかな肢体を存分に全身で感じたかったけれど、さすがに父王や義理の父となるゾール侯爵たちの前ではままならない。


「アルフェルト殿下。ありがとうございます。私もお会いできてうれしいです」

 にっこりと朗らかに笑うピアが愛しくてならない。

 あぁ、今すぐにでも私だけのものにしたいのに。

「はぁ。はやくピアをお嫁さんに迎えたいな」

 そう呟けば「まだ婚約すらしていないでしょう?」とエストから突っ込まれた。


 私の一方的な婚約破棄宣言はともかく、衝動的に飛び降り自殺を図ったということで私とリタとの間に長らく交わされていた婚約は白紙に戻されていた。


 どちらの有責とかいう話は取沙汰されなかった。

 勝手に破棄を宣言した私と自害を試みたリタの責は同等とされ不問となり、ただ婚約が白紙に戻った、ということで落ち着いた。


 しかし、ゾール侯爵家には新たに子爵家の令嬢でしかなかったピアを養女に迎え、王太子である私との婚約が新たに結ばれることが内密に約束されている。


「我がゾール侯爵家から未来の王妃を送り出せる。光栄だと思っておりますよ」

 ゾール侯爵もそれで納得したらしい。


「今日はピアを養女としてゾール家に迎え入れる手続きが恙なく済んだご報告と、王太子殿下との婚約の儀についての打ち合わせ、そしてもう一つの慶事について報告したき件がございまして登城致しました」

 そう言ったゾール侯爵が後ろに向かって小さく頷いてみせると、後ろに控えていた小さな影が淑女の礼を執った。

 小柄ながら女性らしいまろみを帯びた体形が、妙に官能的に見える。

 艶やかな髪はピアと同じ艶やかな栗色。

「嫡男エストにも善き縁に恵まれまして。この度婚約の運びとなりました」

 ゾール侯爵は嬉しそうにそういうと、その令嬢に頷いてみせた。

「カロラインと申します。ポラス子爵家とは縁戚、ピア嬢とは又従姉となります。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」

 ピアを養女に迎え入れるに当たり両家で話し合いを交わしている時に知り合ったのだという。

「そうなのか。エストに恋人がいるとは知らなかった。おめでとう。ピアと義理の姉妹になるということは私の義理の姉になるということ。よろしくお願いする」

「ありがとうございます。王太子殿下よりそのようなお言葉を戴けて光栄です。本当にピアは幸せ者だわ。こんなにやさしい素晴らしい御方に巡り合えて。羨ましいですわ」

「おいおい。カーラ、それは聞き捨てられないな。私より王太子殿下と先に出会いたかったとでもいうのかい?」

「いいえ! 意地悪ですわ、エスト様。私がどれほどエスト様をお慕いしているかご存じの癖にそのような事を仰るなんて」

 ぷぃっと拗ねてみせる姿はなるほど確かにピアとの血の繋がりを感じさせた。


「カーラこそ。キミが与えてくれるもの全てが、私が望んでやまなかったものだ。ありがとう。私の腕の中に舞い降りてきてくれた天使」

 エストの気持ちが、アルフェルトにはよく判る気がした。

 きっとエストも、リタにはないカロライン嬢の健やかな屈託ない性格に心を惹かれたのだろう。

 ほのぼのとした気持ちで、アルフェルトはピアの腰を引き寄せた。

「ピア。私も、エストと同じ気持ちだ。ピアに会えたお陰で、今の私の幸せはあるんだ」

「アルフェルト殿下。光栄です」

「婚約の儀が終わったらでいい。アルと呼んで欲しい」

「喜んで。私も、殿下にお会いできてよかった。幸せです」

 愛らしく微笑むピアを抱く腕に、思わず力が入る。

 本当はその円やかな頬に唇を寄せたいところだけれど、今はひと目があるからできない。



「わははは。善きかな善きかな。若い婚約者同士の仲睦まじい姿というのは良い物であるな。この国の明るい未来を感じさせてくれる」

 陛下の言葉に、一同が頭を下げる。

「有り難きお言葉。まだまだこれから勉強していかねばならぬ身ではありますが、これからの成長を見守り下さい」

 うむ、と大きく頷いて陛下が退席されると共に、この場は明るい二組の未来の婚約者同士の婚約の儀について希望を伝え合う場となった。








 最初の躓きは、婚約の儀を終えたその日の夜に起きた。


 祝い事の主役が勧められた祝い酒を断るのも無粋だと感じたし、横にいる愛しい婚約者ピアに良い所を見せたいと見栄を張った部分もあっただろう。更に言えば、ついに愛しいピアを正式な婚約者として迎えることができるのだと張り切り過ぎ、緊張していたこともあったのだろう。

 その全てが原因で、そしてそんなこと以上に、私の我慢が足りなかった、のかもしれない。


 まったく記憶にないことだったけれど、あの夜、宴が終わった後、私はどうやらピアの寝所に忍び込み、彼女の純潔を強引に散らしてしまった、らしい。


 らしい、と付くのは、まったく記憶がないせいだ。


 これを父王と母である王妃に述べたところ、母には扇で、父には拳骨で殴られた。


 それはそうだろう。

 事後の様子も明らかなシーツに泣きながら包まるピアの横で、私は全裸で鼾をかいて寝ていたというのだ。


 全然、記憶にない。


 彼女の部屋へどうやって入ったのか。どういうつもりで入っていったのか。


 なにより、初めて彼女とした行為についても。

 まったく記憶に残っていなかった。

 けれど。

「申し訳、ありません。殿下のなされようとすることを、止められませんでした。『身体を求められても婚姻の儀が済むまでは受け入れてはならない』そう、教えて戴いてきたというのに。いつもの殿下とは違う様子に、声も出せず、力では到底かなわず……うぅっ」

 俯いて嗚咽を堪えつつ、申し訳ありませんと何度も謝罪を繰り返すピアを責める気にはならなかった。当たり前か。

「悪いのは全部、私だ。責任を取らねばならないのも私だ。この咎を父王がどう対処するのか判らないけれど。でも、どうか、どのような結果になろうとも、私の妻となり、ずっと私の傍にいて欲しい」

 そう願い出れば、ピアは涙ながらに頷いてくれた。


 腕の中に囲い込んだ、小さく細いピアの腕や首の後ろには、自分アルフェルトのものらしい手形が沢山ついていて、いかにも無理矢理その行為に及んだと言わんばりだった。


 まるで、白くやわらかな肌に押された所有印のようなそれは、私の罪咎そのものを突きつけているようで、私の良心を苛み続けた。

 今の王城は、世を儚んで自死に及ぼうとする言動もあるというピアの味方だらけだ。

 これも当然の事なのだけれど。


 婚約の儀が済んだばかりではあるものの、もし子を授かっていたら困ると二年後に予定されていた婚姻の儀は三か月後まで前倒しにされた。

 華やかな諸外国を呼んでのお披露目は無理となったが、それでもピアとの婚約をなかったものとされなかっただけでも喜ぶべきだろう。


「前の婚約で勝手に破棄を宣言し令嬢を自害に追い込んだけでも外聞が悪いというのに。同じ家に養女を取らせてまで結んだ婚約まで、お前の短慮で台無しにする訳にはいかぬからな」

 溜息を吐きながらそう言った父王の苦い顔が苦しかった。

 私以外にも王子がいたら、あっという間に廃嫡の憂き目にあっていた筈だ。

 それだけの失態を犯した自覚位はある。


「……寛大な御心に感謝いたします」

 ピアを取り上げられなかっただけでも感謝すべきだ。私はそう思い頭を下げた。




 慌ただしく準備されたウェディングドレスは、それでも十分すぎるほど豪華で、沢山の花を模ったレースと花の中央へ縫い付けられた宝石に包まれたその日のピアは、まるで春の妖精のようだった。


 赤い絨毯の上を、ゾール侯爵に手を引かれて私の下まで歩いてくるその姿に胸が高鳴る。


 その手を受け取った私は、バージンロードの途中で立ち止まっていたゾール侯爵と、参列席で感無量という表情でこちらを見つめていたポラス子爵夫妻に敬意をこめて頭を下げた。

 今日からは、ピアは私と共に歩いていく。


「綺麗だ。最高に可愛いよ、ピア」

「アルフェルト殿下も。とても、お素敵です。きっとこの子も、そう思ってます」

 そういってピアはまだ平らにしか見えない腹部を優しく撫でた。

「ピア?! それって」

 恥ずかしそうにこくりと頷いたピアは、小さな声で教えてくれる。

「昨日、お医者様に教えて戴きました。殿下には私の口から、お教えしたかったのです」

 最愛の妻を娶っただけでなく、愛する人との子まで授かれた私は、天にも昇る気持ちだった。


 仮令たとえ、その誕生の切っ掛けが誰に誇れるようなものでなかったとしても。

 私はこの子を幸せにするために、生きていこう。


「あぁ、ピア。今日という日は、私にとって人生最良の日だよ!」





 多分、あの日が私アルフェルトにとって本当に、人生最良の日だったのだ。


 あの日から、なにかが変わった。おかしくなっていった。



 ピアの出産は無事に済んだ。


 初産ということもあって予定日より少しずれて早くに生まれたその子は、顔つきも瞳の色も髪の色も何もかも、全てがまるで私にも、ピアにも似ついていなかった。

 抱き上げてもまったく愛着が湧かない。吾子であるという思いに欠けた。

 初めての子を抱き上げたら感動するものだと思っていた私は、それだけでも恐怖を感じた。


「とても元気な御子様です。しかし、問題が。吾子の父親は、この国の人間ではないように思われることです」


 燃えるような紅い髪と瞳に、少し浅黒い肌の色。それは、積年の敵国の人間の特徴でもある。


「しかし。ピアを、抱いたのは私のみのはずだ」


 震える声で、そう告白する。

 そうだ。忌まわしき婚約の儀のあの夜、暴力的行為により無理やり身体を繋ぐようなことをしてしまった私は、ピアと所謂初夜を行わなかった。


 行えなかった、というのが正しい。


 行為に及ぼうとすると、真っ青な顔で震えて出してしまうピアにそれを強要する気になれなかったのだ。

『申し訳ございません。アルを、愛しています。でも、どうしても、この身体が震えてしまうことを止められないのです』

 そうさめざめと泣くピアの背中を毛布越しに一晩中撫で宥めて過ごした。


 そうこうしている内にピアのお腹が順調に大きくなっていったので、夫婦としての営みはなくとも二人の間に愛の証が育っている以上、出産を無事に終えてからでいいのではないかと思ったのだ。

 

 それなのに。


「しかし、そうなりますと……恐れながら、殿下の御血筋に疑問が生じることになりますれば」

 滅多なことは口に出さない方がよろしいかと存じますと平伏し震えながら産婆が申し出た。

 詳しく聞けば、隔世遺伝といって両親には現れなかった祖先の特徴が子に突然現れることがあるそうだ。

 生まれた吾子の父母が確かに私とピアならば、そのどちらかに敵国であるあの国の血筋が流れているに相違ないということになる。

 ピアがそうであれば、私は知らぬ内に敵国の血筋を王家に迎え入れたウツケ者と哂われるだろうし、もしそれが私自身であるとなれば……母である王妃の、不貞の可能性が疑われる。


「なんということだ。どうすればいいのだ」


 あまりのことに目の前が昏くなった。

 しかし、悩んでいられる時間はそれほどない。

 何故なら、初孫の誕生を、王も王妃も、そしてこの国の民総てが待ち望んでいたからだ。


「アルフェルト殿下。取れる手段は一つだけでございます。『死産であった』と公表されることです」

「しかし……」

 今この時も、アルフェルトの腕の中で元気に泣く吾子の存在を、死産とするなどできるのだろうか。

「王城内の防音性の高さはご存じのことでしょう。部屋の中でどんなに騒ごうとも、その音が外に洩れているという心配はご無用です」

 そうだった。だからこそ、婚約の儀の夜の凶行は為されてしまったのだから。

「そうするとしても、ではこの子は、一体どうなってしまうんだ?」

 まさか殺したりはしないだろうな、との疑問を最後まで口にする勇気はなかった。

 この、ちいさくも温かい身体を、命を?

 ……無理だ。ありえない。

「本来ならば、後顧の憂いを無くす為にも、この御命はお諦め戴くのが一番でしょう。しかし、初めての御子にそれはあまりにも惨い。丁度、長年子が出来ず生まれたばかりの子を欲している夫婦に心当たりがございます。内密にその夫婦の下で実の子として育てて貰えるよう手配を致しましょう」

 望まれて、実の子として育つことが出来る。

 それは、迫りくる激流のような人生から、この子を守れるたった一つの希望の光。最後の手段にも思えた。


「王太子妃も、今なら出産の痛みと疲れで朦朧とされております。起きられてからでは決断は更に難しくなるでしょう。どうか、御子の幸せの為にも、今すぐ御決断を」


 ──この子の、幸せの為に。

 その言葉を免罪符に、王家の威信を守る為に取られたその決断は、たった数分で決めさせられたのだった。



 国民の期待を一身に背負った新しい世継ぎが生まれ出る事を国中が期待していたその思いの分だけ、死産の知らせは国民の心を重くした。


 夫婦ふたりで送り出したいと、ひっそりと空っぽの棺を燃やした。

 ピアは自分も一緒に燃やしてくれと泣き縋ってていた。


 昇りゆく煙に、あの子の幸せを祈る。


 遠くからでも見えたというその煙に、国中が喪に服しその痛みに泣き暮れた。




 あの日から、全ての事が手につかなくなった。


 産婆が手配した棺にすでに納められてからの母子対面となったピアは、その瞬間からずっと気が狂ったように泣き続け、今朝も声を掛けようと続き部屋である王太子妃の部屋を覗いた時には、まだぐずぐずと鼻を啜る音をさせていて挨拶をする気にすらなれなかった。


 そんな風に泣き暮らす母としてのピアは哀れで、常に傍に寄り添い共に我が子の不運を嘆くべきだと思う。

 それができたのなら、自分にとってもどれだけ救われたことだろう。

 今の私は泣き続けるピアに向かって「あれは不義の子だったのではないか」と問い詰めないでいるのが精いっぱいなのだ。


 ある時は確かに「ピアの血筋に彼の国の者がいたのかもしれない」という小さな希望に縋ることができた。

 またある時は、ふとした拍子に自分以外に子のいない王と王妃に不信の目を向けてしまうこともある。そんな時はいっそ気が狂った方が楽なのではないかという狂おしい気持ちになった。

 そうしてそんな気持ちから気を逸らそうとする時に限って、『そもそも自分の子ではなかったのではないか』そんな空恐ろしいことが頭に浮かんで離れなくなるのだった。


 苦しい。誰の不義であっても、不義でなくとも。

 不義ではなかったとしたら、あの日から今日までの自分の誠意のない冷たい態度についてピアに許しを請わなくてはならない。


 ──肌の色の違う、髪の色も瞳の色も、顔つきすら私達のどちらにも似ていない子供を産んだのは、ピアだというのに。


 あまりに理不尽で醜い責める気持ちがふつふつと沸き起こるから。


 だから、それ以外にも迫っていた恐ろしい事実に、気が付かなかったのだ。




「……すまない。もう一度、言ってくれないだろうか」

 その日、執務室へ届いた報告は二度繰り返して貰ってもなかなか頭の中で意味を成さなかった。


「ご夫婦お揃いになって乗られていた馬車が崖から落ちゾール侯爵ご夫妻がご急逝されたそうです。その報告を受けたショックで嫡男エスト殿は倒れられました。その際、頭の打ち所が悪かった様で現在意識不明だそうです」

 ひと月前に嫡男エストとポラス子爵家の養女になったカロライン嬢が婚姻を結んだばかりで慶事に沸くゾール侯爵家に、そのような不幸が一気に押し寄せるとは。

「なんということだ。では、エスト殿と…、その、リタ嬢の兄妹は、二人揃って眠ったままになったということか」

「そうなりますね。現在、カロライン様が動揺するゾール家におかれまして気丈に差配を揮われているようです」

 一人だけでもゾール侯爵家の者が残っていてよかったと思う反面、まだ籍を得てひと月の新妻には荷が重いのではないだろうかとアルフェルトは不憫に思った。


「ピアにも知らせるべきだろうな。婚姻の為の縁組であったとはいえ、ゾール侯爵夫妻はピアにとっての義父母だ。しかし、今のピアに知らせるのは気が重いな」

 彼女の周りで続く不幸を思い、眉を顰めた。

「知らせない訳にはいかないでしょう。とりあえずお知らせした上で、葬儀への参列は殿下のみとお伝えするべきかと」

「そうしよう」


 彼女ピアの周りだけではない。

 ゾール侯爵家に続く不幸の連続。


 その端緒を切ったのは自分なのだと思った瞬間、背筋を寒気が奔った。




「お悔やみ申し上げる。突然の不幸に私も心を痛めている。何かできることがあるのなら言って欲しい」

 できることとできないことはあるものだが、力になれることがあるならば、なんでもしようとアルフェルトは思った。


「ありがとうございます。本来、喪主となるべき主人も倒れてしまい、明日をも知れぬ容体で。正直な所、もうどうすればよいのかまったく判らないのです」

 青白い顔をしながらも、気丈にまっすぐと背を伸ばして参列者たちに対応していたカロラインだったが、埋葬も終わり屋敷に戻ると元の新婚ほやほやの若いご夫人に戻っていた。

 ましてや、カロラインは元々、裕福な上級階級ジェントリの子女ではあるものの所詮平民だ。侯爵家へ輿入れするために子爵家の養女になる必要があったほどだ。

 葬儀中だけはと気を張っていたのが切れてしまったのだろう。

 堪え続けていた涙が、ほろほろと零れ落ちていく。


「カロライン夫人。御主人のお見舞いもさせて頂きたいと思うのだが」

 二人だけでこの会話を続けるのはと咄嗟に口に出したエストの話題だったが、違う意味で空気が変わったのを感じた。


 突然、ずるずると床に頽れた夫人の打ちひしがれた姿に驚く。


「……アルフェルト様。私を哀れだと思うなら、主人エストについて、どうか相談に乗って戴けないでしょうか」

「どういうことだ。私にできることだといいのだか」

 まさか。夫婦となったばかり新婚のエストが他に女を作っていたとでもいうのだろうか。

 しかし、アルフェルトの知る限り仲睦まじかった二人の間に、そのような事があり得るだろうか。

 ──いや、もしかしたらピアだってそうかもしれないのだ。

 不穏な想像に頭を乗っ取られそうになるのを強引に振りほどく。

 いまはエスト夫妻についてだ。

 浮気以外の最悪を想像しようとした時、床に手をついてブルブル震えていたカロライン夫人が、意を決した様子で「どうぞ主人の書斎へ。ご一緒して下さい」と立ち上がった。




「なんということだ。これは、この帳簿の示す意味は……」

 それは、ゾール侯爵家の裏帳簿ともいうべきものだった。


 表の帳簿の数字は、王太子としての執務を行う必要から上位貴族である家のものだけではあるが、頭の中に大まかな数字が入っている。

 王宮へ報告されていた数字からは想像もつかないデタラメな領内の運営がそこにはあった。

 場当たり的な税の徴収、なにより使途不明金の多さに眩暈がした。


 そして、この使途不明金には思い当たる物がある。

 あの頃よりかなり増加しているが、きっと同じ理由により消えていったのだろう。


 賭博ブックメーカー。あの家で生まれる次の子供は何年後に生まれるか。産まれた子供は女か男か。髪の色は何色か。瞳の色は。ありとあらゆる理由で掛けられるそれは、貴族の嗜みとして社交場ともされている。

 しかし、中には身代を潰すほどの債務を負ってしまう者も出ることがあるのだ。


 まさに今、自分の手の中にある帳簿の原因を作った者は、先祖代々続いてきた家を潰さんとするほどの勢いで負債を増やしているようだった。


 しかも。古い帳簿から延々と続くそれは、アルフェルトが昔噂で聞き及んだその人が意識不明となって寝たきりになってからもずっと、順調に負債を増やしている。


「どういうことだ? これは…この負債を生み続けているのは、リタではないのか!?」


 その、アルフェルトの悲鳴にも似た指摘に、カロラインは狂気のような笑い声で答えた。


「何故リタ様の名前がここで出されるのでしょう。この馬鹿げた支出を作り続けているその人は、私の愛するエスト様でございます! 義父であるゾール侯爵は、私との婚姻をきっかけにそれを知り、なんとか誤魔化そうと金策に走り回っておりました。そうして夜駆け馬車が横転し、崖から落ちて死んだのです」


 なんということだ。夜会のシーズンでもないのに夫婦揃って馬車の事故にあった理由はそれだったのか。

 そしてなにより。

 あの、彼女がまだ王宮で治療を受けていたあの日。

 見舞いへと部屋にきたエストが見せた奇妙な表情。あれは、自分の罪を代わりに背負ったまま自害しようとした妹への嘲りだったのかと得心した。

 出来の良い妹に罪をなすりつけることに成功した喜びと、いつ目を覚まして無実を叫ぶかと思う怯える心。そのまま黄泉の国へ身代わりとなったまま持っていってくれと願う心と、勉学というものに彼女が取りつかれ優秀であると世間に見せつける前まではそれなりに仲の良い兄妹であったという、その妹の死を願う兄という立場。

 それらが頭の中で渦巻いていたからこその、あの表情だったのだ。


「大体、エスト様は私を愛して結婚したのではないのです。私との婚姻で手に入れられる持参金、それが目当てなだけの男だったのです」

「そんな馬鹿な。ふたりはあんなに仲睦まじかったではないか」

 私の言葉を鼻で嗤ってカロラインは言葉を続ける。

「その証拠に、私の持参金は、エスト様が預かると言われたその日のうちに、右から左へ、借金の相手へと返済金として支払われておりました」

 言われたその日の日付けにあった金銭のやりとりの欄に記入されたその金額の莫大さに眩暈がした。

 嫁の持参金をすべて返済に充て一度は無くなった筈の借財が、たったひと月で元に迫る勢いで増えていた。

 本当に持参金目当てだったというのだろうか。

 それも、賭博で作った借財を返す為の婚姻だと。


「そんなことにも気が付かないで! 愛されていると信じて全てを捧げた馬鹿女だと哂って戴いて構いませんわ!」

 ぎらぎらとその瞳を自ら指摘した事実によって傷つけられ涙を流しながら、カロライン夫人が叫ぶ。

 その痛ましい様子に、アルフェルトは哀れになった。


「違法な賭博場で作った負債については取り締まりを強化して胴元を捕まえれば無くすことができるだろう。しかし金を取り返せるかと聞かれたら、すまないが私には答えることはできない」

 押収が成ったとしてもその金庫に残された額がどれほどあるかもわからないし、そもそも胴元の手元に集めた資金が残されている可能性も低い。

 しかし、アルフェルトに出来る事と言えば、それ位だろう。


「ありがとうございます。それと…もし私が離縁を望んだ時には、どうか今日のことについて証人となって戴けないでしょうか。図々しいお願いをしている自覚はありますが、今の私が頼りにできる相手は、殿下のみなのです」

 王太子妃とはいえ、今のピアでは確かに役に立たない。

 商人でしかない実の両親も、ゾール侯爵家に嫁入りするために養子縁組したポラス家も子爵の位でしかないため侯爵家であるゾール家との諍いにおいて歯止めとなることはできないだろう。

 確かに、自分にはゾール家への負い目がある。ピアを迎え入れるに当たっては養女に取ってもらうなど世話にもなった。

 しかし、だからといって一人のか弱い女性を貶めるようなことを許してはいけない。

「あぁ。その時は必ず力になろう」

 祈るように組み合わされた手に、そっと自らの手を重ねた。

「ありがとう、ございます」

 触れたその手に、カロライン夫人の泣き濡れた頬が、そっと寄せられた。


「では、その裏帳簿を渡してくれないか。王宮の政務官に調査を依頼して、領地経営についても正常化を図るべきだと思う」

 その提案に、カロラインは少し躊躇ってみせながらも結局はその管理監督について任せた。

 念のため他に怪しい物はないかゾール侯爵家の執務室内をふたりで探し、この後の対応策を相談した。終わった頃には日はとっぷり暮れていた。




 義理の父母となるゾール侯爵夫妻の死。

 義兄エストの賭博借金。そして本人は寝たきりで意識不明の状態。

 残された若妻は持参金目当てでの婚姻だったと知りショックを受けている。


 たった一日で受ける衝撃にしてはあまりにも多岐に渡る不幸の連続に、常になく身体が重く感じていた。


 疲れた体を引き摺り自室へと戻ると、そこで待っていたのは、ずっと自分の寝室から出てこようとしなかった愛しい妻の姿だった。


「ピア。大丈夫なのか。今日は体調がいいのかい?」

 丸みを失った細い身体に眉を寄せながら、その肢体を抱き寄せようとした時だった。


「触らないで!」と頬を打たれた。

 なんで叩かれたのかも判らなくてその場に棒立ちになる。


「こんな時間に香水の移り香を残して夫婦の寝室に帰ってくるなんて。非常識よっ!」

 言われて、ピアに伸ばした手の袖口あたりから香水の香りが微かに香ることに気が付いた。

 先ほどカロラインを慰めたあの些細な触れ合いから移っていたのかもしれない。微かなすずらんの花の香りはそういえば喪服姿のカロラインから香っていた気がする。

「違う。これは、今日のゾール侯爵夫妻の葬儀の後で、カロライン夫人が落ち込んでいたのを慰めただけだ」

 エストが行っていた非道とも思える婚姻の理由も告げるべきか、そんなことを悩みながらも説明をしようと試みた。

 話せばわかって貰えると思っていたのに。

 詰られたその言葉が、心を抉る。


「慰めた? そんなことを言って、あの時、私を力ずくで奪ったように、カロラインにも力ずくで……」


 ダンッ。


「それ以上言うな。確かに私は、キミに侮辱されても仕方のない事をしたのだろう。しかし、カロライン夫人はキミと仲の良い又従姉なのだろう? 彼女はいま、嫁入り先の父母を一遍に亡くし、頼りにすべき夫も倒れた不幸の身の上だ。そんな辛い状況にある彼女を侮辱するのはやめたまえ」 

 後でピア自身が自分の言葉を後悔する、と続けたかった言葉は最後まで伝えることは出来なかった。


「辛い状況にあるのは、私の方だわ! 信じていたアナタに、暴力で身体を暴かれてっ。それでも愛があるからこそだと信じて産んだ子は、失った。それなのに、強引な行為で私を妊娠させた諸悪の根源ともいえる夫はそれに寄りそうこともしてくれずに、他家の嫁を案じて夜中まで帰ってこない」

「……っ!!」

 

 言われた言葉に、再び殴られた気がした。


 ピアは、最愛の妻は、自分を諸悪の根源だと思っていた。


 それは、言葉の綾かもしれない。勢いで、心にもない言葉が口をついて出ただけかもしれない。

 冷静な時ならば、そう考えることもできた。

 しかし。今のアルフェルトは、疲れすぎていた。

 肉体的にも、精神的にも。

 今日の葬儀も、葬儀後に判った事実にも、そうして何より、ピアの産んだ吾子の姿の記憶と、その子に下した冷たい決断についても。


 疲れていた。


「お前が生んだ子? それはあの敵国の人間の特徴を、その身に刻んで生まれた子のことか? 私とは似ても似つかない。燃えるような紅い髪と瞳を持った、浅黒い肌をした、あの子供のことか?!」


 投げつけてしまった言葉を無かった事に出来るなら、なんでもするだろう。


 それくらい、今、自分が口に出した言葉を後悔したのは人生で二度目だった。


「ギャーーーーッ! 人殺し! 子殺しめっ!! 私の子供を、返せぇぇぇ!!!」



 小さくて薔薇の花弁のようだと何度も思ったピアの唇から漏れ出したとは思えないほどの悲しみに満ちた怒声が、上がった。






 手当たり次第に物を投げつけられて、掴みかかられ、引っ掛かれた。


 さすがにこちらが同じことをする訳にもいかなくて防戦しかできないことに焦れ、つい侍女たちを呼び入れた判断も間違いだった。


 ドアが開いた途端、ピアが「私の夫は、子殺しという、最低最悪の罪を犯した罪人である! どうか、神の裁きを、彼の者に!!」と咽喉も裂けんばかりに叫びながら廊下を走りまわったのだ。


 血走った眼で。薄い夜着のまま王宮の廊下を叫びながら走り回る王太子妃。


 その叫ぶ内容までもがどこまでもスキャンダラスで。

 どう取り繕ろおうにも無駄なほど、それを見聞きした人数も多く、その誰しもが興味津々で、事実無根の噂の真相とやらを求めた。


 そうしてその噂は、あっという間に王都を駆け抜けていった。






「王太子は自分の子を殺したそうだ」

「なんでも王太子妃は不義の子を産んだそうだよ」

「いや王太子自身が犯した罪により、その子は化物として生まれたそうだ」

「王太子が浮気相手に本気になって、正妃との間の子を疎んじて殺したって聞いたぜ」

「まさか。最初の婚約者を自殺未遂に追い詰めてまで迎えた正妃様だろう?」

「だからその正妃様の不義が原因だって」

「もしかして、その自殺未遂とされている令嬢もすでに殺されていて、その呪いで」

「それは呪われるな」

「あぁ、恨み骨髄までって奴だな」


 街で囁かれるだけではない。

 王宮内も、この噂で持ちきりだ。

 私の世話を受け持っている侍女たちの視線が冷たい。

 リタを切り捨てた後も冷たく感じたものだが、その彼女を捨ててまで手に入れた女性との間にできた自分の子供を殺したかもしれないという噂は、さらに許しがたいものであったらしい。


 事実ではないのに。


 自分の子供を殺したりしていない。

 そう何度も訴えたけれど。

 よりによって、あの産婆がその罪を認めたのだという。


 それも。私がそれを言い渡し、自分はそれに抗えなかったと懺悔したという。


「不義の子としか思えぬようなあの国の特徴を見に宿した子が生まれたとなれば、そういう決断もやむなしであろう。しかし、だ。その後の処理が悪すぎる。もっと内密にそれは行うべきだったな」

 心底見損なったとばかりに冷たい視線で父王に見下ろされた時は、卒倒するかと思った。

「私は、子を殺そうとしたことなどございません。吾子は産婆の伝手で子のいない夫婦へと養子に出したのです」

 私の訴えに、父王は大して興味もひかれないとばかりに冷たく鼻で嗤った。

「フン。むしろ何故殺さなかった? 養子になど出して敵対勢力の手に落ち育てられた挙句『正妃の産んだ第一王子』だと名乗り出られでもしたら、どうするつもりだ?」

 考えもつかなかったその言葉を言われ、返答に詰まった。

浅墓あさはかなのだ。お前はいつも碌に裏も取らずに目の前に差し出された物でのみ判断し、言葉に出す。そうして、最初の婚約者を、我が国でもっとも優秀であったかの令嬢を失ったのではなかったか?」

 学習能力のない奴め、と吐き捨てられた。


 リタ・ゾール。私の最初の犠牲者。


 その名前は、いつだって私の心の一番奥で血を流している場所にある。


『アルフェルト・ゲルト王太子殿下。ずっとお慕いしておりました。あなたさまにだけは、私を信じて戴きたかった』


 あの最後の一瞬に見せた、やわらかな表情が今も忘れられない。


 すべてを諦めたようで、それでも、確かにそこにアルフェルト(わたし)への愛が息づいていた。

 うつくしい、その表情。


 いま、無性に彼女に会いたかった。

 会って、心からの謝罪を伝えて、彼女に許されたかった。


 即断を迫った挙句に罪を自分に擦り付けた産婆も、自分にこれっぽっちも似ていない子供を産んだピアも、自分が行っていた賭博をリタの罪の様に自分に教えたエストも。


 もう誰も信じられない。

 いや。彼女だけは、リタ・ゾール。彼女だけは信じられる気がした。

 彼女の傍にいたい。

 そう思っても、ピアを迎え入れるにあたり、王城内にあった王太子の婚約者としてのリタ・ゾール嬢に与えられていた居室は撤去され既にない。

 ずっとそこに寝ていた彼女自身も、ピアが輿入れしてきたその日にひっそりと入れ替わるようにゾール侯爵家へと戻された。


 だから。駆け込んだその部屋はすでに家具すらなにもなくて。


 伽藍洞となったその部屋の真ん中で、跪いて声を上げ彼女に会いたいと、泣いた。






 夜が明けて、朝日が差し込んでくると共に理性が戻る。


「そうだ。ゾール侯爵家に会いに行けばいいのだ」


 ずっと寝ている彼女なら、自分が会いたいと訪ればいつでも会える筈なのだ。

 起きていたら拒否されるであろうということについては、今は考えないことにする。


 ただ、静かに眠る彼女の顔を見れるだけで救われる気がした。




「先触れも出さずに朝早くから来訪して、申し訳ない」

 我ながら全然申し訳なさそうにないなと思いつつそう口にする。


「まぁ。王太子殿下の御心に背く臣下などおりませんわ。ようこそおいで下さいました。わたくし共はいつでも、王家の忠実なる僕でございます」

 淑女の礼を以ってカロラインが迎え入れてくれた。


 爽やかな午前の陽射しが入る侯爵邸は、不幸続きのゾール侯爵家の不吉さを消し去るようだった。

 なにかに許されているような、そんな気になる。


 そうして、当然の要求だとばかりに「リタ嬢にお会いしたいのだ。いますぐ」と要求した。




「まさかリタ嬢へのお見舞いだとは思いもしなかったもので。彼女には、いま、他のお見舞いを受けている最中なのです」


 だから、断られてカッとなった。


「他に客がいても構わない。どうせ彼女は寝たままなのだろう? 会話もない見舞いの場が重なったところで問題はないだろう」


 カロラインと家令がやんわりと押しとどめるのを振り切って彼女の私室へと足を進める。

 彼女の部屋にさえ入ってしまえば、私が誰だか分かった時点で先客は退出するだろう。


 自分から壊したとはいえ、彼女とは婚約者の関係にあったのだ。

 私室の場所位は知っている。


 ノックもせず、その扉を開けた。



 朝だというのに分厚いカーテンを引かれたままの薄暗い部屋の中。

 そこには、大きなベッドの中で眠る愛しい令嬢の姿だけでなく、見たことのない男がひとり。


 リタの眠るベッドの端に腰をおろして、艶やかなリタの黒い髪を撫でていた。


 ──その女は、私のものだ。


 言葉にこそ出さなかったけれど、その腹の底から吹き上がる所有欲に、頭へ血が一気に昇り目が眩んだ。


 勢い駆け寄って、その腕を払った。つもり、だった。


「いきなり何をする」

 伸ばした腕を逆に取られて、捩じ上げられて悲鳴が漏れる。

「くっ。……私はこの国の王太子であるぞ。無礼である。手を、離せ」

 座っていたので分らなかったが、この男の背は私よりずっと高かったらしい。

 私の腕を片手で捻じり吊り下げるように持ち上げられると、爪先が辛うじて床に掠めるだけだった。肩が抜けそうになる痛みに口からうめき声が漏れそうになるのを必死で我慢した。


「ふん。ゲルト王国は、淑女の寝室に強引に押し入り名乗りもせずに暴力を揮う男を王太子として戴いているのか。下劣がすぎる。これでは民も報われまい」

「うふふ。しかもその淑女は、自分で婚約破棄を告げたご令嬢ですわ。本当に、どこまでも下劣で、滑稽ですわね」


 嘲る言葉で自分の仕出かした真似を突きつけられて赤面した。

 しかし、ここで大人しく引く訳にはいかない。


「うるさいっ。私が誰かが判ったのなら早く指示に従いたまえ。いますぐその手を離して、この部屋から出ていくんだ」

 腕を捻じられた痛みに耐えながら、自由を取り戻すために懸命に藻掻いたけれど、男の握力の方がずっと強いのか拘束をなかなか外せない。

「黙れ」

 ぎりっ。ひと際強く腕を掴まれて足が浮く。

 今度は怒りではなく痛みに目が眩んだ。

「ぐあぁっ」

 高く引き上げられた腕からその場で手を離されて、どさりと床に落とされた。


「下劣なお前には這いつくばる姿がお似合いだ」

 投げつけられる嘲笑と嘲りの忍び笑いに、頬が恥辱の赤に染まる。

「……後悔するなよ」

「後悔か、そんなのもうとっくにし尽しているさ。ただし、今回のこの件についてではないがな」

 まるで問答のようなその言葉に、眉を顰める。

 薄暗い部屋の中ではよく判らなかったけれど、この男は……。

「お前……まさか、アズノル国の……」

 その時、誰かが陽射しを遮っていた分厚いカーテンを開けた。

 突然差し込んできた陽射しの強さに目を庇った。


「ぐえっ」

 ものすごい衝撃を顎に受け、痛みに転げまわった。

 蹴り飛ばされたのだと理解した時には、背中を踏みつけられていた。 

「ぐはっ。な、なにをすっ、ぐはぁ」

「うるさい。お前は少し黙っていろ」

 その声に、必死になって顔を上げれば、そこにあるのは憎い敵国の証でもある、あの紅い髪だった。


 吾子と同じ色。


「お前が、あの子の父親か!?」


 怒りに目の前が真っ赤になった。

 床に足で踏みつけられて自由の利かない身体をとにかく暴れさせると、背中を圧迫する足へ、更に力を込められて肺の中の空気が一気に押し出された。

 苦しい。


「うるさいと言っているんだ。黙れ」

 ぐりぐりと肺の後ろ、背骨を踵で踏まれ息が詰まる。


 ここで私は死ぬのだろうか。

 突然訪れた死の予兆。酸欠で暗くなる目の前と、背中に走る痛みがそれを肯定する。

 もう、抵抗も出来なかった。


「よし。静かになったな。拘束しておけ。こうまで会話が成り立たないとは思わなかった」

 呆れる声と、その指示に無言で従う女の腕にも最早抵抗する気にならなかった。


 その時、ふと、鼻にすずらんの花の香りが届いた。

「カロライン、夫人?」

 思いついたその人の名を呼べば、「ハイ、なんでしょう。アルフェルト・ゲルト王太子殿下」と柔らかな声が返ってきた。

 すぐ傍で私を拘束している人。

 それは、先日の葬儀の日に力になると約束を交わした若妻だった。


 ぐにゃり、視界が歪む。


 何を信じればいいのか。誰を信じればいいのか。


 このまま気を失えればどれだけいいだろう。

 これが夢であったなら。


 しかし。この踏みつけられ傷つけられて痛みを訴える身体も、突きつけられた事実による心の痛みも、すべてが悪夢によるものではない。


 現実なのだ。


「本当は、お前の新たな婚約者として間諜を送り入れ、邪魔で優秀な王妃となるであろうリタ・ゾールを排除。そうしてお前を傀儡としてじわじわと国を荒れさせ楽しんだ後、国ごと乗っ取るつもりだったのだが、事情が変わった。あまり苦しめることなく、あっさりと終わらせてやろう」


「く、ぐつ……ぴあが、間諜?」


 ぼんやりとし出した頭でその言葉を聞く。

 聞こえてきたその事実を、受け入れたくない。


「そう。折角楽しめるゲームを思いついたのに。仕込みに時間を掛けている間に、つい、この国より欲しい物が出来ちまったんでね」


 ゆるりと差し伸べられたその腕が、愛おしそうにベッドに眠る佳人の頬を撫でる。


「彼女が死にたいというのでそれを許してやるつもりだったんだが。俺が希う気持ちの方が強かったようだ」


 ──だから、彼女の願いは神に受け入れられることもなく、今もこうして、ここへ彼女の命は繋がれている。


 男は、蕩けそうな視線を彼女に送りながらそう呟くと、その美しい黒髪をひと房口元へ運んだ。


「俺としてはもっと時間を掛けてゆっくりじっくり楽しむ方が好きなんだけどね。これ以上お預けを喰らうのも、反省も出来ない馬鹿な傀儡に俺の物へ手を出されるのも不愉快なんだ。だからこの辺で手を打つことにした」


 男がさっと手をあげると、もう一人、女性がトレイを掲げながら近付いてきた。


 強引に頬を掴まれ、口を開けられそうになったが反射的にそれを拒む。


「浅ましいお前が縋りに来た令嬢は、お前自身が、真実見つめることなく、他人の口車に乗って自害へと陥れたのだということも棚に上げて」


 必死になって首を振るも鼻を摘まみ上げられた苦しさに、空気を求めて口を開く。 


「恥ずかしげもなくここまで押し掛けるその精神の醜さを、お前は自覚するべきだ」


 それでも、恐怖から首を振りまくっていると、後ろからもう一人に頬を強く掴まれて、顎を押し開かれた。


「彼女の努力に気付こうともせず判り易いその有能さに妬み僻むのではなく、共に手を取り前に進む道を選べば良かったんだ」


 開ききった口腔内へほっそりとした手が強引に割り入り、縮こまっていた舌が引き摺り出された。

 途端、ガクガクと全身が震え出し、声にならない声が、咽喉をかすかに震えさせた。

 くすくす、くすくす。

 ふたりの女性が、滑稽な私を哂う声が聞こえる。


「彼女と共に歩む道を用意されていた幸運にも気付かず、それを投げ捨てるような真似をしたお前を、他の誰が許しても俺は許さない」


 その裏側に、ちくりと痛みを感じる。冷たいなにかが、身体に広がる。


「口車に乗せられ道を間違えたことを知った後ですら、彼女に対して真摯に謝る事すらしなかった。いや、自身の犯した罪を顧みることすらしなかった。兄が擦り付けた罪をそのまま彼女に負わせたこと。敵対していた令嬢たちが彼女の名前を勝手に笠につかい虐めを横行させていたこと。それらの真実を知ってからですら、それを証明し、明らかにすることをお前は怠った」


 視界に入らない場所で勝手に何かを自分に施されるその恐怖に涙が溢れた。


「その罪を、今ここで贖うがいい」


 いや、突き付けられた己の罪に、恐れおののいているのかもしれない。

 とすればこれは、懺悔の涙か。

 とめどなく溢れる涙が、頬を、咽喉を、胸元を伝い汚していく。




「大丈夫ですよ。すぐに気持ちよくなって、なんにも不安なんか感じられなくなりますから」


 にこやかなその声の主は……


『ぴ、あ』


 愛しい妻の名前を声にできたのかどうか。



 それすらもう、自分にはわからなかった。





※ピアは暴行を受けていません。妊娠出産に関しても偽装工作によるものです。

※浅墓は、浅はかの当て字となります。でも好きなの。墓穴掘ってる感が。

んで、墓が浅くて使い物になんない感まで含めてアルフェルトに似合ってるかなーって。


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