逆鱗の影
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共に、この場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うーん、台風一過とはいえ、今度はいくらなんでも暑すぎじゃないかい? 外にいても、中にいても汗が全然止まりゃしない。そりゃ汗腺が開いている証、ひいては体がしっかり機能している証でもあるけど、気持ち悪さはいがんともしがたいよねえ。
僕たちはたとえ理にかなっているといわれても、自分にとって楽しいか、苦しいかで最終的に物事を決めることが多い。単なる最適化では実際に思惑を再現できないことがままあり、これが、機械が人に完全に成り代わることができない一因だという話も聞いた。
こうして暮らしていても、僕たちは常に自分が気にも留めない小さなことで、誰かの虎の尾を踏んでしまう恐れを抱えている。恨みがなくても、つらみがなくても、許せないことは許せない。
僕のおじさんにも、そんなことを感じさせる体験をした人がいて、最近、話を聞くことができたんだ。どうだい、耳に入れておかないかい?
昔、おじさんと僕の父がこちらへ越してくる以前、数十年前のある田舎での話だ。そこでは今なお、龍の神様の信仰が厚くて、日々の生きていることの感謝を龍の神様へ捧げていたとのこと。
そこで暮らしていく上で龍の神様のご機嫌を損ねないことが重要で、中でも「逆鱗」に触れてはならない、というのは大きな決まり事だった。
逆鱗って、こーちゃんも知っているよね? 龍の身体にあるといわれる81枚の鱗のうち、のどの下に生えた逆さまの鱗のこと。たとえどれだけ龍と心を通わせたと思っても、この鱗に触れた者には、激しい怒りをぶつけて命を奪うといわれている。
撤去しようがない地雷、って奴かな。故意、過失を問わないほど、致命的な代物なのは確からしいね。
でもおじさんは、言い伝えに対して懐疑的だった。各家やお寺に龍の置物の姿はあれど、肝心の生きている龍の姿を見たことがないのだから。せいぜい置物の龍を丁重に扱っていればいいだろ、と思っていたそうなんだ。
それからしばらくして。おじさんは今日みたいに晴れ渡った日に、友達と一緒に遊んでいたところ、さっと大きな影が自分の上にかかったんだ。
先ほどまで、雲ひとつない青空だったはず。それがどこから湧いてきたんだ、と空を見上げても、それらしいものは何も見えない快晴だ。更によく見ると、この影は雲にしては細長く、おじさんをひと呑みできるほどの太さで延々と伸びていく。まるで巨大な蛇が頭上を這っているかのようだ。
「龍の神様がおいでになられたんだ!」
一緒に遊んでいた友達のひとりがそう叫んで、おじさんにすぐ影から離れるように声をかけてくる。でも、おじさんがわずかに戸惑ったその隙に。
影が不自然に、くくっと曲がった。身をよじるような動きで、おじさんから遠ざかり始めた影だけど、その縁がおじさんの足下へかかった時、ちくりと痛みが走ったんだ。
足には怪我した様子は見られない。けれど、すでにおじさんを離れた影の一部が赤く光っていたんだ。生えている草の一部が濡れたとかじゃない。本当に、影そのものへ色がくっつき、どんどん離れていく。
おじさんの耳に、銅鑼の連打に釣り鐘の音が混じったような、長く響く不思議な振動が届き出した。不快、というよりも近寄ってはいけない、とふと心が感じたって話だよ。
思わず耳を押さえたけど、勝手に足から力が抜けて立てなくなってしまう。それでも友達が駆け寄ってくれたのは、あの影が完全に遠ざかってしまってから。地元民の彼の心には、外から来たおじさんより、はるかに強く根付いていたんだろう。
肩を貸されながら自宅へ向かうおじさんだったけど、ご近所は少し騒ぎになっていたんだ。おじさんの隣に住んでいるお兄さんが、逆鱗を踏んだという話で持ちきりだったんだ。
聞くと、おじさんたちが帰ってくる少し前、地面にしかうつらない細長い影がここを通り過ぎた。この時、家の2階から見下ろした者によれば、その影はゆったりと波を打つ管のように見えたらしい。そして元々住んでいる人々は、これが自分たちのまつっている龍の神様だと直感したとか。
被害に遭ったお兄さんは、運がなかった。ちょうど自宅の玄関を出て一歩踏み出したところに、かの龍の影の縁があったんだ。そのつま先が影にかかったとたん、がくりと膝をついてそのまま動けなくなってしまったらしい。幸いにも見送ってくれた家族がまだ玄関口に留まっていたおかげで、異変にはすぐ気づいてもらえた。
周りの人も確認している。あの影の一部、お兄さんが踏んだであろう部分だけが赤く染まっていたことを。そしてお兄さん自身にのみ、おじさんも味わった耳を塞ぎたくなる、不思議な叫び声が届いていたらしいんだ。
おじさんも、お兄さんも自分たちが逆鱗に触れた部分から、じょじょに体温が失われていくのを感じていた。アイシングのスプレーを遠めから断続的にかけられている感触に近かったけど、時間が経つにつれて強さが増している気がする。もう、自分の意思ではいくらも動かせそうにない。
救急車のお世話になるかも、と考えたおじさんだけど、おそらく畑違いだと言われる。代わりに近くの神社へ連れて行かれることになった。
話を聞いた神主さんは、すぐにおじさんたちを拝殿の中、護摩壇の炉の近くへ誘導する。火が焚かれる壇を挟むように、座らせられる二人。
冷たくなった足は、もう言うことを聞かなくなっている。完全に足を伸ばしきっているにもかかわらず、しびれがおのずと、足の裏から「ぞぞぞ」と這い上がってくる感覚には、鳥肌が立ちそうだったとか。
「お二人には、今晩、この火の近くで過ごしてもらいます。龍神様の機嫌が戻るまで、ここで物忌みを行います。何か異変あれば、すぐに教えてください」
神主さんの話によれば、おじさんたちはやはり龍の神様の逆鱗を踏んでしまったらしい。
逆鱗を踏むと、なぜ龍は怒るのか? この地域では「理が逆に流れるようになってしまうから」と考えているらしい。
龍は古くから神秘なるものとして奉られてきたが、しばしば人間に身を変え、地上に降り立つことがあった。
聖から俗へと変わっていく。その俗への切り替えを行うのが、逆さまになった鱗。俗世へ降りる必要が生まれたならば、自分でこの鱗に触れて、ことを成す。だから他の何者かが意思を無視して触れたりすると、それに怒りを覚えるのではないかと。
「聞くに、あなた方の足は熱を失っております。実際に触った時、まさに氷に指をついたかと思うほどでした。
生ある者は熱を帯び、そして死へ向かいます。それがお二人の中では逆になろうとしているのです。すなわち、死せる者は冷気を帯び、そして新たな生へ向かっていく……その芽が出ようとしているのではないか、と私は思っております」
おじさんとお兄さんは話を聞いていて、ほぼ同時に固唾を呑んだ。きっと頭の中で考えていたことは同じだろう。
自分たちの身体を通じて、死んでいた何者かが蘇ろうとする。この世の理が、自分たちの中だけでひっくり返ろうとしているのでは、と。
夜が深まる頃。おじさんはもう床へ身を横たえて、首を起こすのがやっとになっていた。護摩の火はいささかも衰えず燃やされ続けているというのに、もう肩から下は火の熱を受け取ることができなくなっている。
身体中へ、氷がじかに押しつけられているようだった。冷たさばかりでなく、周囲をすき間なく埋めるような圧迫感も覚える。氷の浮いた水に浮かぶというより、大きなビンの中に閉じ込められて、上から落とされる氷に少しずつ埋められていくかのよう。
お兄さんは先ほどから、うなされている。獣じみた声を上げながら、後頭部のみをがんがんと床へ打ち付けていくんだ。まるで床に穴を開けんばかりの勢いで、大きな枕がその下へ差し入れられている。
そして昼間に聞いたあの咆哮が、また耳の中へ蘇ってくる。もう塞ぐための手は動かず、用意してもらった耳栓は役に立たなかった。
銅鑼が止むかと思えば、釣り鐘が。釣り鐘が止むかと思えば、銅鑼が。互いの音の切れ目を補うように響き続ける。もう何時間もだ。
終わりなく続く揺れを逃がしたいのか、身体が震えたがるけど、それはもう頭の上でしかできない。おじさんはお兄さんほどではないにせよ、床の上で「いやいや」をするように、激しく首を振っている。じっとしていたらこのまま固まってしまいそうな、そんな気がした。
お寺の鐘の音。その響きは心を静めると共に、亡者の食物のひとつとなると聞いたことがある。この叫びが龍の怒りであり、今、身体の中で浮かばんとしている亡者の飯でもあるのならば……じっとしていられる道理はなかった。
夜明け近く。耳の中で続いていたあの叫びが不意に止んだかと思うと、にわとりの声が外から聞こえてきた。
身体が動く。ぱっと跳ね起きたけど、向かいのお兄さんは、枕に深く沈んで微動だにしない。
護摩壇の火はまだ燃えていたけど、神主さんはすぐにおじさんへ、拝殿の外へ出るように促す。話を聞かせてくれた時の落ち着きようとは打って変わって、明らかに焦りが見えたらしい。
留まることを許されず外へ出たおじさんは、待っていた両親に連れられて、慌ただしく車に乗せられて、家まで連れて行かれる。その日は学校を休んだけれど、翌日からは普通に登校したんだってさ。
そして例のお兄さんだけど、この日以来、出歩くことが少なくなった。それでも何度か見かけて声をかけたおじさんだけど、どうもおじさんが誰なのか認識できていないようだった。やがて何度目かの接触で、向こうは質問をしてきた。ある人の下の名前を出して、「そいつを知らないか」とね。
もうおじさんは関わり合いになるのを、やめたらしい。なぜならお兄さんが出した名前は、そのお兄さん自身のものだったのだから。
後でおじさんが聞いたところ、おじさんがたち引っ越してくるのと入れ違いのタイミングで、あのお兄さんの父親が亡くなっていたらしいんだ。




