3.過去と未来の扉を開く鍵を探して
クリノクロア(自称)は、頭を抱えていた。
アクシデントは覚悟していたが、ここまで最高に面倒くさい状況に陥るのは想定外だった。
偶然にだって限度がある。
(いや、『天才』の偶然に限度なんかないのか)
『天才』は、この『世界』の『仕組み』の一つだ。
『天才』の意志に対して、『世界』は最も劇 的に反応する。
(そしてその介助は、我々『平天使』に丸投げされる)
嘗ては『天才』のように『世界』に翻弄された身であった『彼』は、ため息をつきながら支度をする。
上司の大 天 使が涙を流しながら土下座して、サポートを頼んだのだ。
一切の演技無しに、なりふり構わぬ懇願に、彼は渋々応じた。
(『天才』も『大天使』も翻弄される側だ。フローライト様に罪は無い)
人情家の上司の顔を思い浮かべて、クリノクロアは少しだけ微笑む。
クローゼットからジャケットを取り出してすばやく羽織り、職員寮の部屋の扉を開いた。
廊下の冷えた空気を吸うと、頭が冷えて明瞭になる。
(『天才』ジェット。どんな子かな)
彼の意識はすでに前向きになっている。
こういう性格でなければ、こんな仕事はやってられない。
§
「今日『魔人』の子と友達になったんだ。今、僕らの部屋にいるよ」
『なん・・・だとぉ?』
『魔人』ターコイズと出会った顛末を、『スマタ』でジェットが最も信頼する義兄『ダンにーちゃん』こと『〈妖術師〉オブシダン』に連絡すると、中空に浮かんだ生首のような人相の悪い顔が、驚愕に歪んだ。
『高性能石盤』略して『スマタ』は、腕時計型の携帯端末で、略式唱句と空間フリック、及び実体化鍵 盤などで操作する。
今使っているのは立体映像通信。
全身を映すことも可能だが、大体首より上で用事が済むので、通話するだけならこの『頭部投影形態』が一般的だ。
スマタは文明人の生活必需品で、勿論ジェットもパールも持っている。
『……詳しく話してくれ』
「うん」
頭を抑える(手が映った)オブシダンに、ジェットは嬉々として状況を報告する。
〈妖術師〉の顔からだんだん血色が奪われ、最後には死人のように蒼白になっていた。
さすが〈妖術師〉と、見当違いに感心するジェットに、ゾンビのように表情すら失ったオブシダンは言う。
『わかった。今日中にそっちに人を送るから、その指示に従え。俺は、お前とお前の友人たちに被害が無いように、なんとか手配する。それまでは「魔人」の子はお前の部屋で保護して、現在既に関わった関係者以外の目に触れないようにしろ。もちろん事情を知ってる奴らにはとりあえず他言は無用にしておけ』
「わかった」
『一通り連絡が終わったら、お前のルームメイトのパールくんの従姉兄のオパール嬢に、事情を話して連絡するように言っておく。それまで絶対に大人しくしてろよっ!』
「了解」
ジェットが通信を切ると、パールが心配そうに覗き込んできた。
「大丈夫ですの?」
「うん、ダンにーちゃんがなんとかしてくれるみたい」
「信用……できますの?」
古代の最強兵器である『魔神』のキーとなる『魔人』を保護した。
後悔はないが、事の大きさにだんだん不安になったパール。
しかしジェットは、何の心配もしていないように思われる。
「僕らが間違ったことをしていれば、ダンにーちゃんは助けてくれないよ。でも、僕らは間違ってない。そうでしょ?」
「そうね」
大人は、『大人の事情』という屁理屈を使うことがある。
おそらくオブシダンは悪人ではないが、彼の力でもどうにもならない事ではないのか、とパールは危惧していた。
ふと、自分の石盤が着信で光っているのに気づく。
表示を見ると……
「お姉さま?」
あわててスマタを操作し受信すると、先程のオブシダンのような頭部立体映像が浮かび上がる。
『久しぶりね、パール』
「オパールお姉さまっ!」
パールと同じ髪型の、パールによく似た少女の顔。
年齢も十二歳のパールと同じ頃に見えるが、不思議と大人っぽい雰囲気を持っている。
(あれが噂のオパールさん。なるほど、幼形成熟か)
パールから事情を聞いていたジェットは、ふむ、と納得する。
オパールの実年齢は二十歳、ただし自分の意志で成長を止めている。
なんでも、自分の作品の素材として自分自身を使っているためで、女装行為自体もその一環らしいが、その理屈はジェットには全くわからない。
『オブシダンに聞いたわ。「魔人」の子と仲良くなったんですって?』
「お姉さま、オブシダンさんとはどんな関係……」
『愛人よ』
あっさり言い放ったオパールに、パールは思わず気を失いかける。
オパールは少し考えて、言葉を足した。
『命の恩人、と言った方がロマンチックだったかしら』
「……え?」
『迷宮に閉じ込められていたのを、彼に助けてもらったの』
「そ、そうだったんですの」
オパールは悪戯っぽく笑って続ける。
『その縁で知り合って、あとは色に溺れて流れるがままに……』
演歌のようなシチュエーションに、なんとも言えない顔をするパール。
「ま、まぁ、お幸せそうならいいですわ」
『冗談はさておき、 彼 は信用できるわ。彼の言う通りにすれば、あなたの身も心も安全な筈よ』
「どうしてそう言えますの?」
『でなければ、私が彼を許さないもの』
さすがパールのお姉さま、とジェットが感心する。
と、オパールの視線がパールの背後のジェットに向く。
『あら、そちらが噂のジェットくん?』
「お姉さま、ご存じなんですか?」
『オブシダンのお気に入りの義弟ですもの』
ジェットが少し照れながら、パールの横に並ぶ。
「初めまして、美しいお姉様。〈秘術師〉ジェットと申します」
『〈傀儡師〉オパールよ。オブシダンの弟とは思えないほど可愛いわね。パール、もう戴いた?』
「何をですのっ! 何をですのっ!」
パールの顔が沸騰する。
オパールは面白そうに、くすくすと笑う。
『あらまだなの。あなたの好み直球だと思ったのだけど』
「あ、あたくしを何だと思ってますの?」
『甘めのSデレ?』
言い得て妙である、とジェットは感心する。
パールは窒息しそうな顔で、口をパクパクさせるが言葉は出ない。
「はい。パールさんの従僕をさせていただいてます」
ジェットもためらいなく犬宣言。
『あらもう陥落? 流石手が早いわね』
「う、うるさいですわっ!」
赤くなって、うろたえるパールを放って、ジェットに向き直るオパール。
『パールをよろしくね』
「はい」
『ところで、件の「魔人」の子は?』
復活したパールが、こほんと咳払いをして続ける。
「いま、着替えてますわ。あたくしのコーディネート以外にも、色々試してみたいと言って」
『あら、女の子だったの?』
「男の娘ですわ」
にんまり、と笑みを浮かべるお姉様。
『うふふ、素晴らしいわ。「魔人」の子は男の娘なのね』
「というか、天使でしたね」
『天 使?』
立体映像のオパールの表情から笑みが消え、真剣な眼差しでジェットに向かう。
「はい、僕の知る天使もあんな感じでしたし。あ、あと光の翼も出してました」
『……パール?』
「ええ、お姉さま。『祝福されし大地の物語』ですわね」
「?」
二人の言葉に首をかしげるジェット。
パールが簡単に説明する。
「〈詩人〉の基本教養の一つよ。成立年代不明の古典で、『魔神戦役』について歌われているの」
パールの技能の一つ〈傀儡師〉は、〈詩人〉の派生技能である。
「その中に、『偽りの御使いを模した魔人』という一節があるの」
「つまり?」
「ええ。『魔人』は『人造天使』ということね」
幾千もの吟遊詩人の喉を経て、古より伝わる詩が現実となった瞬間。
『あまりにも非現実的とされて受け入れを拒まれてきた古き歴史が、これから一つ一つ私たちの目の前に姿を表す。パール、ジェットくん。あなたたちはその、最初の生き証人になるのよ』
パールとジェットが頷くと同時に、備え付けの浴場の手前の脱衣所から、一人の少女が現れた。
長い金髪を一本の三つ編みに纏めたお下げで、水色のワンピースの上の薄い桃色のカーディガンを羽織っている。
無表情な顔は少し緩み、ぽわんとした夢見がちな少女のようにも見える。
少女は中空に生えているオパールの頭部を見て、首を傾げる。
「飛頭蛮?」
『ふふふ、面白い娘ね。初めまして、私は〈傀儡師〉オパール。映っていないだけで、ちゃんと首の下はあるわ』
「映る?」
パールの腕を見て、頷く。
「それ、通信機? 小さい。ワタシの時代だと、もっと大型だった」
そしてオパールに向き直り、ぺこりと頭を下げる。
「ワタシはターコイズ。『魔人』ターコイズ」
「あたくしの従姉兄のお姉さまですの」
『よろしくね、ターコイズ。お洋服、素敵ね。よく似合ってるわ』
「パールが色々貸してくれた。パールは可愛い。ワタシもパールみたいに可愛くなりたい」
『あなたは可愛いわ。あなたの可愛さはパールとは違うけど、あなたはあなたの可愛さで、とっても可愛くなれるわ』
ターコイズは少し首を傾げた。
そして徐にジェットの顔を見ると、絶望したような表情でオパールに向き直る。
「ジェットの可愛さ?」
オパールは耐えられずに噴き出した。
『ふふふ、ちがうわ。ジェットは男の子の可愛さ。ターコイズは女装子の可愛さ。そういう意味ではパールもターコイズも同じだけど、パールは甘Sデレの可愛さ、ターコイズはぽわぽわ天然系の可愛さ、かしら』
「ぽわぽわてんねんけい?」
『ええ。「無垢な幼子のような純粋さ」かしら。ふふふ、ここにいる誰よりお姉さんなのにね』
「ワタシはおねーさん」
『そう、いずれあなたの見てきた世界を教えてちょうだい』
ターコイズの表情が曇る。
「ワタシ……ワタシは、『戦争』しか見てこなかった」
オパールは、慈しむような眼差しを、ターコイズに向けた。
『ええ、あなたが語りたいと思ったときでかまわないわ。今は「戦争」の無い平和な世界。しばらくは、この世界を堪能しながら、ゆっくり生活を楽しみなさい。語るのは、あなたの経験があなたの中で昔話になったとき。私はゆっくり待ってるわ』
オパールはパールとジェットに向き直った。
『パール、ジェット。この子の心を護ってあげてね。身の安全はオブシダンに任せればいいけど、心はあなたたち「ともだち」しか護ってあげられないわ』
「ええ、わかりましたわ」
「もちろんですよ」
オパールは温かく微笑んだ。
『それじゃ、通信を切るわね。そろそろ、そちらも忙しくなる頃だと思うし、私もできることはやってみるわ』
「ごきげんよう、お姉さま」
通信が切れるとほぼ同時に、部屋の扉を叩く音が聞こえた。
§
男子寮/女装子寮舎監ジプスンは、伝送されてきた指示書を見て目を剥いた。
質の悪い悪戯ではないかと、公式の窓口から問い合わせたところ、すぐに正式な指示書だということが判明した。
「無理して二人一部屋にしたのに、さらに一人追加だと?」
女装子寮の一部屋は、実は四人まで居住できる設備がある。
なので、スペース的には問題無いのだが、そもそも一人で悠々使えるのに諸事情で二人入れたところへ追加である。
しかし、不服を申し立てることは、事実上不可能だ不可能だ。
「なぜ、王国親衛隊経由で国王陛下の印が?」
即ち国王の勅命である。
無論、滞在などの費用はすべて出るが、そもそも追加されるのが何者なのか、理由は何なのか、一切が明かされない。
そして、もう一点。
「彼らへの説明は、新しく着任した機甲巨人科の助手にさせろ、だと?」
噂の女装の麗人の事は、アンモナイト主任教授が酒の席で気持ちよく語っていたので覚えている。
中央学院(王立学院の王都中央校)を出た才娚で、機甲巨人について高度な知識を持つ優秀な人物だと聞いた。
少し言葉を交わしたことがあるが、噂に違わぬ聡明な人で、「教授の野郎、うまくやりやがったな」と冗談半分に同僚と話していたところだった。
(状況を鑑みて、親衛隊直属の調査員ってとこか? しかし、なんでそんなのがこの学校に?)
どこまでが事前に予測されたことで、どこまでがアクシデントなのか。
『魔神』が遺跡に現れた、という噂は、何か関係があるのか。
いずれにせよ、三人目を押し込んで「はい、おしまい」という訳には行かなさそうだ。
ジプスンは伝話器を取り、職員登録番号からクリノクロアに連絡を入れた。
§
ジェットが扉を開けると、一人の女性が立っていた。
タイトスカートのスーツに身を包み、髪はショートボブ、いわゆるキャリアウーマンスタイルだ。
(ちがう、な)
女 性ではなく女装の人がドアの前に立っていた。
背の高さはジェットより少し高い。
端正な顔立ちは天 使を思わせるが、彼らよりも人間っぽい感じがする。
「クリノクロアと言います。〈賢者〉オブシダンの要請で、あなた達を後方支援します」
クリノクロアはジェットに顔を向け、穏やかに笑う。
「特にジェットくんに関しては、私の上司フローライトからも頼まれています」
「それじゃ、て……」
つ、とジェットの唇に人差し指を当てて、首を横に振るクリノクロア。
「私の正体は、もう少し内緒にしていてくださいね?」
「あ、はい。わかりました。クリノクロアさん」
「私のことはクロアと呼んでください。あと、パールさんと、ターコイズ……さん、ですね?」
「パールで結構ですわ、お世話になりますクロアお姉さま」
「ワタシもターコイズでいい。宜しく、クロア」
「僕もジェットと呼び捨ててください。クロアさん、ダンにーちゃん……オブシダンから、どう聞いていますか?」
「ジェット、とにかく入ってもらいましょう」
「あ、そうだね」
「お邪魔します」
部屋の真ん中のドーナツ型のソファーに円座で作戦会議。
パールはキッチンから、人数分の紅茶を淹れて出した。
ソーサーの縁に、包装されたクッキーが載せられている。
今日、部屋に入ったばかりだが、ティーセットは既に使える状態になっているようだ。
なお、ポットの湯はパールの黒魔法で瞬間沸騰である。
「まずは舎監からの連絡を伝えておきます。ターコイズはしばらくこの部屋に滞在してください。扱いは『中央学院からの交換留学生』ですから、ジェットやパールと一緒に授業を受けてもかまいません」
パールは絶句して、思わずティーカップを落としかけた。
「ほ、本当ですの?」
「はい。ターコイズさんの後見人は、名目上は聖女オリヴィーン様となっています」
「せ、聖女さまですのぉっ!?」
聖女……正式には『女教皇』は、国教である天主教の名目上の最高位である。
パールの眼は零れ落ちそうに見開いている。
ふとジェットを見ると、落ち着いてポリポリとクッキーを齧り、紅茶を啜っている。
「ジェット、あなた、何冷静にしてるんですの?」
「聖女様のこと? ダンにーちゃんならやりかねないなーっ、って」
どうやら、この常識はずれの状況すら、予想範囲であったらしい。
なるほど、ジェットが盲目的に信用するのも無理はない。
(オブシダンという方は、得体がしれませんわね)
しかしこれで終わりではなかった。
「ターコイズの生活にかかる費用は、全て王国親衛隊経由で国王陛下が負担します。勿論、国費ではなく陛下の私 費です」
「ひぃぃぃっ!」
恐れ多くも国王陛下による後援である。
伯爵令嬢として宮廷の世界を知るパールからすると、驚天動地の出来事である。
「な、オブシダンという方は一体何者なんですのーっ!」
「ふふふ。そうですね、お会いしたことはありませんが、実は私と同郷なのです。そうですね、王国の方からすると、私達の故郷は、ちょっと常識はずれかもしれませんね」
その言葉を捉えたジェットが、目を見開いた。
それは、かの少年ですら予想外のことだった。
「クロアさん、もしかして?」
「ええ、おそらくあなたの想像は当たってます」
いたずらっぽい顔で笑う女装の麗人。
「……秘密、ですね?」
「ええ、内緒にしてください。でもこれで、私のことは信用してもらえますよね?」
クロアの正体に気づいたジェットは、大きく首を縦に振る。
そしてパールに向き直った。
「パール、クロアさんは、おそらくこの世界で一番信用できる人だよ」
「それって一体?」
「うん、正体は言えないけど、クロアさんはこの世界の歴史に関わったんだ」
パールはジェットとクロアを交互に見たのち、ふぅーっ、と大きくため息をついた。
「わかりましたわ。聖女様や陛下の名前に動じなかったジェットが驚くような人ですもの、よほどの方ですのね」
「うん。もし許されるのなら、サインが欲しいレベル」
「……あなたのレベル感覚がわかりませんわ」
クロアはパールとジェットの掛け合いを見て微笑みながら、内心で皮肉な笑みを浮かべていた。
(歴史に関わるのはキミも同じだよ、『天才』ジェット)
ほんの僅かな時間の接触ながら、クロアは素直なジェットも、おしゃまなパールも気に入っていた。
それだけに、彼らの上にのしかかる重い運命を思い、つい気分が沈みそうになる。
(いや、歴史を作れなかった私より、キミたちの方が重い運命を背負うことになる)
ふと、黙ったままじっとこちらを見ているターコイズに気づく。
『魔人』は、おもむろに口を開いた。
「クロア、誰にでも力の限界はある。努力しても為せなければ、それはアナタの責任ではない」
「ターコイズ?」
いきなり、何を言われたのか、クロアには理解できなかった。
しかし続く言葉に、クロアは言葉を失う。
「ワタシも望まれたことを十全にこなせなかった。その為、たくさんの人間が死んだ。不可能をワタシに望んだ者は、ワタシを不良品と言った。だが、ワタシはその者こそ卑怯者であると断じる」
それは『クリノクロア』が、今の『本当の』名前を名乗る前の出来事。
ターコイズは、自らの経験を、クロアに重ねて語っているのだ。
「アナタからは後悔の思いが溢れている。でも、アナタは自分に望まれたことに対して手を抜くような人ではない。それに、アナタにそれを望んだ人も、アナタを責めたりしなかった筈」
焦点を失った瞳が、ターコイズに向けられる。
「ははは、『魔人』って凄いんですね。私のそんなことまで、わかるなんて」
ジェットとパールは、ターコイズとクロアの異様な会話に、いつしか掛け合いをやめていた。
「ええ、誰も私を責めませんでした。望むべきではなかったと後悔し、慰めてくれました。みんな、私に失望した……」
「それはアナタのせいではない」
「では私は、どうすればよかったのですかっ!」
冷静な仮面をかなぐり捨てて、いきなり叫びだすクロアを、素早く動いたジェットが抱きしめた。
「ジェッ……ト……?」
クロアの大きく開いた目の端から、涙が溢れ出す。
ジェットは、頭一つ大きいクロアの頭を撫でながら、穏やかに言い聞かせるように語る。
「ダンにーちゃんがいつも言ってますよ。『クロア』さんは精一杯頑張った。その頑張りの上に、今の世界はあるんだって。だから『失敗』だなんて誰にも言わせない。自分が望まない世界へ連れてこられて、それでも望まれるままに頑張ったアナタは、確実に歴史を作った。自分は『クロア』さんの歴史を踏まえて、自分の為すべきこと、歩むべき道を決めたって」
「う、ううう」
さらにジェットは、ターコイズの方にも手を伸ばした。
「キミは歴史を変えた。この世界にはもう『戦争』は無いよ。キミと『絶凶邪神』が全て葬ったんだ。キミを非難する人が居たなんて驚きだよ」
ターコイズも、ふらふらとジェットに近寄り、ぽふん、とその腕の中に顔を埋めた。
「ワタシは人間を殺すことなく『魔神』を滅ぼすように命じられた。でも『魔神』を駆る者、『魔神』を惜しむ者はワタシとダイマオーを破壊しようとした。ワタシは生き残って使命を果たすべく抵抗し、その結果、多くの血が流れた。ワタシはヒトゴロシだ」
ジェットはパールに目配せすると、パールは微笑んでクロアとターコイズの背中を抱いた。
「違いますわ。『絶凶邪神』は『魔神戦役』で失われる筈の多くの命を守ったのですわ。その中にはもしかしたら、あたくしやジェットのご先祖さまもいたかもしれません。ターコイズがいなければ、こうして抱き合える未来も無かったかもしれません」
ターコイズは低く唸った。
「ワタシは自分が正しいと信じてた。でも、だれもそう言ってくれなかった。私は恐怖の疫病神として封印された。でも……永い時を経た今、パールが、ジェットが認めてくれた」
ターコイズは顔を上げて、ジェットとパールの顔を見比べた。
相変わらずの無表情だったが、少しだけ目が腫れていた。
「ワタシはジェットとパールを信じる。ワタシはクロアを信じる。ワタシはワタシが守った人たちを信じる」
「ええ。あなたは人類の恩人よ。クロアお姉さま、あなたも、ね」
クロアは袖でぐぃっと涙を拭うと、照れたように笑う。
「おかしいですね。私があなたたちを保護しなければならないのに、まるで私が救われに来たみたいです。でも……ありがとう、ジェット、パール、そして……ターコイズ」
やがて、四人が抱擁を解くと、クロアはスマタを操作して中空に穴を開け、その中に手をつっこんだ。
個人所有の物品収納搬送用亜空間で、スタンダードなものだと一立方メートルほどの収納容積がある。
クロアはその中から、パールやジェットが着けている、腕時計のような高性能石盤を取り出し、ターコイズに差し出した。
「連絡用です。あと、あなたの位置を把握するための追跡器が内蔵されています。位置情報は、私と私の上司のみが把握しています」
「クロアお姉さまの上司というのは、王宮ですの?」
パールの問いに、クロアは首を横に振る。
「いいえ。今回の件について王宮とは協力関係にありますが、私の所属は別です」
ちらり、とクロアの視線がジェットに向いたのを、パールは見逃さなかった。
「ジェットはご存知ですのね」
「うん。その上司とも知り合いだよ。誰とは言えないけど」
「そうですの」
クロアは、パールがジェットから事前にあることを聞いていることを知らない。
パールはすでに、クロアの正体に思い至っていた。
「わかりましたわ。ジェットの信用する方なら、あたくしは信用します。ターコイズ、あなたは?」
ターコイズは、クロアをじっと見て、右手を差し出した。
「ワタシはクロアを信じる」
「ありがとう、ターコイズ」
「お礼を言うのはこちら」
ターコイズはスマタを受け取り、左腕に装着した。
途端、魔人少女の目が青く明滅する。
「ターコイズっ?」
ジェットが叫ぶが、ターコイズは硬直したまま反応しない。
数秒後、目の光が消えたターコイズは、クロアにうなずいた。
「走査終了。仕組みは大体わかった。クロアの言うとおり、追跡器の発信先は二件だけ。内、一件はクロアの端末。その他に隠し機能は無い」
ターコイズの言葉に、クロアは苦笑する。
「嘘は一切言っていませんが、正直、その分析能力だけでも脅威ですね。さすが超古代の『魔人』は、スケールが違います」
「現代の機器は、洗練されてコンパクトに進化している。さすが未来世界」
「ふふふ、お褒め頂いて嬉しいわ」
クロアはこほん、と咳払いすると、もう一度スマタを走査し、全員がみることが出来る仮 想 画 面を中空に展開した。
「それでは皆さんに、こちらが把握している現在の状況をご説明します。その上で、可能な限りで結構ですので、そちらの得た情報も教えてください。情報共有することで、私も動きやすくなります」
そして、にこっと笑って言う。
「もちろん、どんな状況であっても、ターコイズを害したり拘束したりすることは絶対しません。安全上、ある程度行動制限をお願いすることもありますが、強制は絶対しません。私と私の属する組織は、『魔人』であるターコイズと、友好的でありたいと思っています」
「わかった。ワタシも協力して仲良くしたい」
「それでは、こちらの説明を始めます」
§
辺境騎士団の騎士団長ライアスは、目まぐるしく変化する現状に頭を痛めていた。
自らの愛機を含む機 甲 巨 人十機を引き連れて戻った現場にあったのは、首を刎ねられ、機能停止状態の『魔導巨神』の残骸だった。
その魔動力が完全に失われているのを確認した後、中央の王立騎士団の〈騎士〉及び技術将校の〈秘術師〉が、土偶を操ってその巨躯を解体している。
状況から判断するに、信じられないことではあるが、明らかに何者かが『魔神』を一刀の下に斬り捨てて沈黙させたとしか考えられない。
もしかしたら後で、監視の持ち場を離れたライアスは責任を問われるかもしれないが、この状況を予想できるものならしてみろと反論するつもりだ。
寧ろ、難しい判断を部下に丸投げするような状況にならなかっただけでも重畳だ。
問題は、永い間眠っていたとはいえ『無敵』と称される伝説の『魔神』を、一体誰が倒したか、ということだ。
『魔神』復活の衝撃の影響か、監視機械は全て故障していて、映像は残されていない。
何者が如何なる手段で事を為したのか、それはある意味、『魔神』の残骸よりも大きな問題である。
「ライアス団長、カーネリアン軍曹、只今参りました」
本部に張られた団長専用のテントの外から声がした。
「入ってくれ」
「失礼します」
テントの入り口を捲って入ってきたのは、赤毛のウルフカットの女性。
美人だが、肉食獣のような迫力がある。
〈魔剣士〉カーネリアン。
懲罰労役の為、辺境騎士団に派遣されてきたものの、その見事な機甲巨人操作の手腕が評価されて、現在は暫定的に軍 曹階級を与えられている。
勧められた椅子に座ったカーネリアンに、ライアスは早速質問する。
「軍曹、『魔神』の状況は見たと思うが、〈剣士〉の貴女は、あれをどう見る」
カーネリアンは皮肉っぽい笑みを浮かべると、さらっと言い放った。
「見るも何も、アレは首を一刀両断。間違い無いでしょう」
ライアスは低く唸る。
「寡聞にして知らぬのだが、あの巨体を両断するような業が〈剣士〉にはあるのだろうか」
「同じ大きさでも、ウチの巨鎧、機甲巨人の首であれば、一流の〈剣士〉なら可能でしょう」
ぎらり、とカーネリアンの瞳が狂暴な光を湛える。
「でも、得体の知れない『魔神』をぶった斬るとなると、どれほどの力量が必要なのか、正直わかりません」
「そうだな。相手がわからなければ測りようもない、か」
「逆に、団長殿は生きている『魔神』を見たそうじゃないですか。どうでしたか?」
「『魔神』か……」
ライアスは自嘲気味にため息をついた。
「正直、「怖かった」よ」
その言葉に、カーネリアンは身震いする。
「圧倒的な魔力、そして全てを憎み破壊するような姿、あんなモノの前に長い間立っていたら、私は発狂していただろう」
「それほどのものですか……」
仮にも勇猛を馳せる辺境騎士団の団長、彼が「恐ろしい」と感じるならば、平気でいられる者など居ないのではなかろうか。
「その「恐るべき魔神」を斬った者。只者ではないでしょうね」
「軍曹に心当たりはあるか?」
「さぁ……」
首をかしげて考えてみる。
確かに「怪物」クラスは存在する。
しかし、彼女が知る彼らは、一人を除いてこの地にはいない筈だ。
「『最強勇者』と名高いロードナイト卿ならば、あるいは」
「ロードナイト卿か。なるほど彼ならば。裏を返せば、事を為したのは少なくとも彼の最強勇者クラスの御仁であるということだな」
「そうですね」
「ここに居てもおかしくない一人」の名前をわざと伏せて、カーネリアンはうなずいた。
(ジェット、まさかあんたじゃないよね?)
巨大混沌の胴を一刀両断した剣は、彼女の網膜に灼きついていた。
あの剣ならば、伝説の『魔神』の首すら刎ねることができるかもしれない。
ただ、『魔神』にあこがれていた筈のあの少年が、『魔神』を斬ったりするだろうか?
(とにかくあとで確かめてみよう)
既に彼女も『天才』を巡る運命の渦に巻き込まれているなどと、知るよしもなかった。
§
「お風呂に入りましょう」
部屋で食事を済ませて一服した後、パールは徐に言った。
寮には、まだターコイズのことを知らない寮生が二人いる。
彼女(彼?)らに状況を説明するまで、食堂などでの接触は避けるべきだと、クロアを交えた相談で決めたのだ。
クロアが帰った後、ジプスン舎監に事情を話してトレーとキャスターを借り、三人分の食事を部屋に運んだ(既にターコイズの分も用意されていた)
戦時下の非常食が常食だったターコイズは、物珍しそうに一つ一つ味わって食べていた。
一休みの後、先のパールの科白につながる。
「ターコイズと二人で大浴場に行くの?」
ジェットが聞くと、パールは首を振る。
「あとの二人に出会うと説明が大変ですもの、今日は部屋で済ませましょう。この部屋はもともと四人部屋ですし、バスルームも全員一緒に入れる仕様ですのよ」
出資者御令嬢のパールは、そのあたりは詳しい。
ちなみにベッドは、二人までの使用なら床置き一段で、二人以上の場合はそのベッドの上にベッドが増設される。
既にジプスン舎監によって、パールのベッドの上にターコイズのベッドが増設されている。
「それじゃ、一人づつ入る? それともパールとターコイズが一緒に入る?」
「あたくしの言うこと、聞いていたのかしら?」
ぎろりと睨むパールに、ジェットは戸惑う。
すると、ターコイズがこともなげに言う。
「全員一緒に入れる、ならば、全員一緒に入る」
「えええええ―――っ!」
慌てるジェットに、パールはサディスティックな笑みを浮かべる。
「あら、あなたがこの部屋に入るとき言いましたでしょ?」
「だってアレは、ジプスン舎監をいじめる為の方便かと……」
「人聞きが悪いわね。あたくしは無意味に人を虐める趣味はなくってよ」
「だってその、あの……」
「オトコドウシでしょ?」
「ううう」
「それに、ターコイズに至っては最初から裸でしてよ。今更ですわ」
「ワタシもそう思う」
「一度、女の子の格好すると、僕の中では性別が変わるんだよっ!」
純情な少年の複雑な心理。
しかし、非論理的な言動を解せないターコイズは、本気で首を傾げる。
「それはヘン。ワタシはワタシ。どんな服を着てもワタシ」
「あら、それは違うわ」
ターコイズの話を、なぜかパールが否定する。
「なぜ?」
「ターコイズ、服装はその人の心の中なの。ターコイズがあたくしの服を選んで着たということは、ターコイズの心があたくしと同じだと明かしたことなの。ジェットはあたくしたちの裸の心を見てしまったわ。だから戸惑ってるの」
「それじゃ、ジェットとお風呂に入るのはおかしい?」
パールは目を細めてにっこりと「こわい」笑みを浮かべる。
「逆よ。ジェットとあたくしたちが「ちがう」からこそ一緒に入るの。あたくしたちのからだを見てジェットが羞恥し、ジェットの視線であたくしたちが気持ちよくなるの」
ターコイズは、少し考えた後、言った。
「へんたい?」
「何でですのっ! 何でですのっ!」
パールが真っ赤になって騒ぐが、今回ばかりはジェットも同意せざるをえない。
ふと、ターコイズが自分を見ているのに気づく。
「ターコイズ」
「ジェット、ワタシの裸見て、嬉しい?」
とんでもない流れ弾が来た。
嬉しいと言えば品性を問われ、嬉しくないと言えば気遣いを問われる。
とはいえ、どこまでも素直なジェットは、一つの答えしか答えられなかった。
「う、嬉しいよ。でも、それを望むのは失礼だよ」
「ジェットは嬉しい?」
あくまでYES/NO。
「……うれしい」
「じゃ、一緒に入る」
パールに向かって、一言。
「ワタシもへんたい」
§
(これは、何の罰ゲームだろう)
ジェットはうめきながら、二人が脱衣する様子を、着衣のまま床に正座して鑑賞することを強要されていた。
二人は、ジェットに背を向けたまま、ゆっくりと一枚一枚服を足元に落としてゆく。
当然だが、中性的な身体の二人が女性物の下着を身に着けて背後から見れば、どう見ても女性にしか見えない。
徐々に肌色部分が増えるとともに、ジェットのご子息がぐんぐん元気になっていく。
やがて、下着と靴下だけになった二人は、必要の無いはずの乳押えを外し、腕を胸の前に組んで隠してくるりと振り向く。
「ふふふ、ジェットのお子さんを見て、ターコイズ」
「ジェットは子持ち? びっくり」
「ちがうわ、ジェットの腰のところのアレのことよ」
「ああ、雄性生殖器の膨張のこと? うん、性的興奮してる」
ツナギの作業服を突き破らんばかりに主張するご子息に、ジェットは赤面して視線を外そうとした。
「ジェット」
「……うん?」
「ダメよ。顔を上げて。ちゃんと見て」
「ううう」
ジェットが顔を上げると、胸の前で組んでいた手をばっ、と広げるパール。
「う……あ……」
「どうしたの? オトコノコの胸よ。オトコノコのあなたが、目を背けるものではないでしょ?」
「でもっ!」
「ジェット、あたくしを見て」
「うううっ」
きめの細かいパールの肌の、胸の僅かな膨らみの先端は、誰が見ても官能的だ。
羞恥するジェットの顔を見て、パールも興奮する。
ターコイズは、首をかしげて、
「ジェット、ワタシのでも興奮する?」
ばっ、と手を開く。
思わずそちらに目を向けると、パールに劣らぬ白磁の肌の上の紅梅が、無邪気な妖しさを湛えていた。
「あら、ターコイズの方が好みかしら。妬けちゃいますわね」
「パール、綺麗。ジェット、限界かも」
「そうね。では、ジェットを安心させてあげましょう。あたくしたちがオトコノコである証拠を、しっかりと見せて、ね」
「わかった」
もはや悪意でしかないパールの言葉に、ジェットの喉からはひゅぅひゅぅと空気が洩れるが、声にならない。
ジェットの無言の抗議などどこ吹く風で、二人の少女は、最後に腰を覆う小さな布から足を抜いた。
「パールも膨張してる」
「ふふふ、ターコイズもね。あんなに熱い視線を受けているんだもの、こちらも熱くなって当然よね」
「ワタシも興奮してる。ジェットに視られて、膨張してる」
「ええ。ターコイズもすっかり男の娘ね。気持ちいい?」
「うん、気持ちいい。胸が熱い。顔が熱い。身体がいっぱい熱い」
急速に成長しつつあるターコイズの感情に喜びながらも、パールは自分の嗜好に正直だ。
「さぁ、ジェットに全部見せてあげましょう」
二人は手を取り合ってくるりと回る。
腰から下の魅惑的なふくらみは、布を取り払われて神秘の裂け目をのぞかせている。
「これから、あたくしたちがあなたに触れる度、あなたは服に隠された、あたくしたちの姿を思い出すのね」
もう、この上なく追い詰められたジェットに、パールはトドメの一言を言う。
「さて、それじゃ、あなたの本当の姿も見せてね。今度はターコイズと一緒に、じっくり見てあげる」
§
四人用、と謳いながら、じつはゆうに十人は入れるのではないかと思われる広い浴槽に、三人はゆったりと浸かっていた。
ここに至るまで、ジェットには苦難の連続だった。
パールの一方的な宣言により、三人が三人をそれぞれ交互に挟み込むように身体を洗った。
見るだけでも失神しそうな蠱惑的な柔肌が、前に後ろに擦りつけられて、平気でいられる筈は無い。
かろうじてジェットのご子息は暴発に耐えたが、湯船に入ってリラックスしている筈の現在でも、依然として危険領域をさまよっている。
対する男の娘たちと言えば、実にリラックスしているようだ。
湯船の縁に手を掛けて身体を浮かせているターコイズは、白い双子の浮島を水面から出したり入れたりしている。
パールはジェットの横にぴたりと身体を寄せて座り、時折熱い吐息を漏らしている。
なお、パールとターコイズは、髪を洗った後、アップにしている。
「パール、気の所為かもしれないけど、ちょっとあせってない?」
ジェットが言うと、パールは少し顔を沈めてぷくぷくと泡を吐いた。
「僕を弄るのも、ターコイズを巻き込むのもわかるけど、なんかペースが早すぎる」
S気を隠そうともしないパールが、このような行動に出ることは、ジェットも覚悟していた。
しかし、落ち着く間もなくというのは、なんとなく解せなかったのだ。
ジェットの問いに、パールはため息をついた。
「こわくなった……んですわ」
見抜かれたとばかりに、ぽつりと告白。
「ジェットのことも、ジェットの信用するオブシダンという方も、信用しないわけではありませんわ。でも、王国全体や、それに『天界』まで動くとなると……」
「……やっぱりわかっちゃった?」
「ええ。クロアお姉さまは、ジェットが大天使様とお知り合いだということを、あたくしが知らないと思ったのでしょう。そこから考えれば自ずと答えは出ますわ」
(天 使って、意外に身近にいらっしゃいますのね)
そして、話の中から気づいた、もう一つのことをジェットに問う。
「クロアお姉さまの本名は、セラフィナイト、ですわね?」
「あれ、それもバレた?」
「当然ですわ。〈傀儡師〉は〈詩人〉でもありますのよ。『地に舞い降りし始まりの勇者の歌』を知らない〈詩人〉などいませんわ」
異世界より召喚され、魔王討伐を託されたものの、人々の心を掴むことに失敗し、結果、逆に魔王に討たれてしまった悲劇の英雄。
天使となった彼は、新しく〈勇者〉を志す者の前に姿を表し、真の〈勇者〉に必要なものを説くという。
「初代勇者の後援を受けて、まだ不安?」
「それだけコトが大きい、となれば安心より不安が先立ちますわ。それに……」
「それに?」
「あなたのお義兄さん、オブシダンさんは、クロアお姉さまと同じ、異世界の人、なんでしょ?」
ジェットは頷く。
「クロアさんはそのまま転移、ダンにーちゃんは転生で記憶だけ持ってる。ホントはダンにーちゃんも〈勇者〉に、って、言われてたけど、クロアさんのことを知って辞退したんだ」
「力があるのに、ですの?」
「クロアさんも力はある。でも、〈勇者〉に必要なのは力だけじゃない」
「何ですの?」
「『人望』だよ」
ジェットは忌々しげに、言い放った。
「力もあってまじめで一所懸命なクロアさんにも、人を惹きつける『魅力』にだけは欠けていた。今日見た感じだと、むしろ『護ってあげたい』タイプだよね」
「ええ。第一印象と違って、可愛い方でしたわ」
印象は悪くない。
〈勇者〉として、でなければ。
「クロアさんは〈勇者〉として「頼りない」と思われてしまった。誰もが頼れる存在でなければならないのに、その実力を持ちながら、〈勇者〉にはなれなかったんだ」
パールは目を伏せて首を横に振った。
「クロアお姉さまのせいではありませんわね」
もし責任があるのなら、明らかに人選ミスである。
「それでも頑張ったクロアさんを悪く言うことは、ダンにーちゃんも僕も許さない」
拳を握って熱弁するジェットを、パールは好ましい瞳で眺めていた。
「オブシダンさんも、人望には自信がないのね」
パールの問いに、ジェットの口調が軽くなる。
「うん。女装子とか妖精とか、あと武人っぽい人には偏った人気があるけど、一般的じゃないなぁ。ダンにーちゃんが言うには、「神より人気のある『偶像』」クラスでないと、〈勇者〉は務まらないんだって。例えば、そう『最強勇者』ロードナイト卿のように」
「ジェットはロードナイト卿とは?」
「何度か会ったこと、あるよ。基本的にオーラの凄い人なんだけど、なぜか何時も、ダンにーちゃんに嫉妬してた」
パールはこめかみを押えた。
「ほんっっっとうに、何なんですの?」
『最強勇者』が嫉妬するとか、彼女の常識の中にはありえない。
「ロードナイト卿とダンにーちゃんは、兄弟弟子なんだ。ロードナイト卿の話では、ダンにーちゃんには勝てなかったんだって」
「『最強勇者』が、ですの?」
「さぁ? ロードナイト卿が言っただけで、僕は確認したわけじゃないし」
もう、何がなんだかわからない。
混乱したパールの前の水が盛り上がり、何かが顔を出す。
「ばぁっ」
「きゃあっ!」
上げていた髪が解けて海坊主のようになったターコイズ。
パールは思わずジェットに抱きついた。
「ちょ、ちょっとパール」
「あ……」
意識にない行動だったため、パールの頭が真っ白になった。
――― ばしゃぁっ ―――
「ぐぼっ」
水中から振り上げられたパールの足が、ジェットの後頭部を振り抜く。
ジェットは湯船の中程まで飛ばされ、水柱を上げながら沈んだ。
「パール、脅かしておいてなんだけど、いくらなんでもそれ、ひどいと思う」
「う、うるさいですわっ!」
ターコイズのつっこみに、ぎゃんぎゃん吼えるパール。
その顔に既に、不安の影は残っていなかった。
新年、明けましておめでとうございます。
本年も、「剣と魔法と男の娘」シリーズを宜しく。
2019.01.15 加筆修正