三 いちごと油揚げ(1)
4月も第三週に入り、桜は散り、黄緑色の若葉が目立ってきていた。
校庭でも、ハナミズキの花が咲きはじめている。
「薫」
瑛太が教室に入ってくると、クラスメイトが一瞬ざわついた。
だが、彼は髪型以外変化はない。
クラスメイトたちはもう見慣れてしまったらしく、話題にすることもなくすぐに自分たちの世界へと戻っていく。
薫は彼に変化がないかを慎重に探し、無事を確認すると「何?」と本題を促した。時計を見るとあと5分で本鈴が鳴る。
瑛太はスマホを取り出すと、地図アプリを立ち上げた。
「今週末なんだけど、《稲荷》から順に当たって行こうと思う」
「ああ、名前探し……八つのうちの一つ?」
先日の話を思い出す。屋敷神に祀ってある可能性のある神様。
「でもよく考えたら、その八つの神様以外ってこともあるかもしれないよね?」
「だとしても、いるかわからない祖先神を探すよりはまし。時間もないし、これ見て」
「ここってどこ?」
アプリでは神社にスポットが当たっているけれど、縮尺が大きすぎるため市町村名がわからない。
「鎌ヶ谷の方」
「鎌ヶ谷? 遠いね」
「主祭神でなきゃ他にもあったけど。あとは車じゃないとちょっと厳しい感じのとこばっかで、一番アクセスがいいのがここだった」
「じゃあ、今度は電車?」
瑛太は渋い顔で頷く。
「電車代もったいないけど、しょうがない」
そのまま日曜を待つはずだったが、瑛太は、金曜日の夕方、財布を手に薫の家のチャイムを鳴らした。
「ど、どうしたの?」
部活から帰って腹ペコだった薫は、夕食への未練を断ち切れず、箸を片手に玄関に顔を出す。
だが、悲壮感漂う瑛太の顔に思わず箸を取り落とした。
金曜日といえば給料日。また何かやられたのかと思ったのだ。
サンダルを履いて外に出る。
昼はポカポカなのに、薄暗くなると外の空気はひんやりと冷たい。カーディガンの前をかき合わせる。
「神様に何かやられたの!?」
開口一番言うと、
「いやまだ。これ、預かっててくれないか?」
瑛太は財布を差し出す。
「えっ……なんで? 銀行は?」
「行ってきたけど、全額預けるわけにいかないだろ。休日に使う分だけ残しておいたけど、それ使い込まれそうで」
「わたしが使い込んだらどうするわけ」
「薫なら、ちゃんと請求できるから」
「……」
自分で使い込んだものに文句は言えないということか。
納得した薫は財布を受け取る。
「念のため、いくら入ってるか確認していい?」
帆布でできた財布を開けると、千円札が二枚。あまり大きな買い物はできない額だった。
「……これなら預からなくても大丈夫じゃない?」
「まだアイツがどう出るか、まったく読めないからな」
「それなら全部預けてくればいいのに。どうせ瑛太だって、そんな使わないでしょ?」
「日曜に本を買いに行きたいんだよ。休日に金を引き出しに行くと手数料取られるから」
「わたしはATMか」
「日曜、朝取りに来るから」
「って、あれ? でも日曜って稲荷神社に行くんじゃなかったっけ」
たしかこの間、次は稲荷に行こうということになっていたはず。瑛太は頷く。
「街に出るついでに本屋行く。で、本を買う」
瑛太が何か買うというのが珍しくて、興味を惹かれる。
「わざわざ? 駅前じゃだめなの? 何買うわけ」
「《古事記》と《日本書紀》の解説本。もうちょっと勉強しておきたい」
高校生が読む本だろうか。
読書をあまりしない薫は白目をむきかけた。それはたしかに、小さな本屋にはないだろう。
「マニアックだなあ……ネットショップは?」
「たくさん買えないから、中見て選んで買いたいんだよ」
扉が開いて、「薫ー? ごはんは?」と母が顔を出す。
瑛太は少し慌てたように、「じゃあ、俺、帰るから」と踵を返した。
「わかった。じゃあ日曜日に」
ママチャリに乗り、瑛太はぐいと立ち漕ぎをしていなくなった。
角を曲がるのを見て家に入ろうとすると、母がニヤニヤと笑っている。
「へえ、日曜日、また出かけるのぉ?」
「ボランティアだよ」
そう言っても間違っていないと思う。これは立派な人助けだ。
「ボランティア、ねぇ? うん、まぁ相手が瑛太ちゃんなら安心だけど」
なんだか薄気味悪いなあと思いながら、薫は夕食の続きを思い出してダイニングに舞い戻った。
日曜日はあいにくの雨だった。
薫と瑛太は新京成の松戸行きに乗る。
日曜の朝、しかも混雑する津田沼行きとは反対方向ということで電車は空いていて、二人して座席に腰掛けた。
曲がりくねったこの鉄道は昔、軍用鉄道だった名残でカーブが多いという説があるが、それにしてもよく曲がる。
松戸が終点だけれど、どこに向かっているのか、方向感覚がわからなくなるほどに曲がるのだ。
雨が窓を打つ。
瑛太は外を物憂げに眺めながら、眠たそうにしている。どうしたんだろうと見ていると、
「あいつの被害に遭う夢見て、眠れなかった」
そう言う彼は、フード付きのパーカーに先週買ったジーンズにスニーカー、という高校生らしい姿だった。
最初は見慣れなくておかしくなっていたけれど、だんだんお洒落している彼にも抵抗がなくなってきた。
くたびれたスニーカーの先が少し濡れている。何年履いているのか知らないけれど、ちょっと窮屈そうだ。
成長期なのだから、定期的にサイズは見直すべきだと、薫はぼんやりと考えた。
瑛太がうつらうつらしはじめ、薫ははっとする。
瑛太が寝ているときに神様は現れると聞いた。だから万が一、ここで神様が現れたらどうしようと思ったのだ。
「瑛太! 今寝るな! 財布があるから貯金が死ぬよ!」
一撃だった。瑛太は眼鏡の奥の目をぱっちりと開く。
「……っ!」
あぶねえ、とつぶやいてため息を吐く。
「寝ちゃうとまずいから、話そう」
「あぁ……でも何を……」
「えっと。そうだ稲荷神社ってどういう神社? キツネっていうイメージしかないんだけど」
彼が好きな話題ならば、眠気も飛ぶはずだと薫は思う。自分が逆に眠くなるかもしれないけれど、薫が寝ても問題はない。
「んー」
まだ少し眠そうな瑛太はあくびをすると、
「祭神は宇迦之御魂神。稲を神格化した神様で、代表的な食物神。『稲』が『生る』から派生したって言われてて、だからこそ五穀豊穣の神として昔から親しまれてる。他にも商売繁盛、産業興隆、家内安全……願い事を何でも叶えてくれるって大人気な神社なんだ」
「あぁ、それで一番多いんだ」
瑛太は頷く。どうやら調子が戻ってきたらしく、座席に座り直す。
「総本社は京都の『伏見稲荷大社』。赤い鳥居が立ち並んでるの、テレビとかで見たことない?」
特徴的な赤い鳥居がずらりとひしめく道。どこで見たのだろうと記憶を探り、
「海兄が行ったとかで、メール送ってきたかも。赤い鳥居で、狛犬の代わりにキツネが居るんだよね」
写真を探すためにスマホを立ち上げる。
(えっと海兄のメール、メール)
海と言うのは五つ歳の離れた薫の次兄で、京都の会社に就職してあちらに住んでいる。ちなみに海より一つ歳上の長兄陸は筑波で就職した。薫より二つ歳上の末の兄宇宙は九州の大学で宇宙工学を学んでいて、祖母の家に居候中。
兄弟だけでなく、薫の親戚は全国各地に散らばっていて、行こうと思えば親戚の家を拠点に全国を行脚できるのだ。
――親と兄が一人じゃ危ないと言って、許してくれないけれど。
スマホでメールを探しながら、
(一人じゃなかったらいいのかなあ……ううむ、でも兄ちゃんたちは忙しくて付き合ってくれないし)
何気なく隣の瑛太を見てみるけれど、二千円を、それどころか私鉄の電車賃を高いと言う男がついてきてくれるはずもない。
ぼんやり夢想しているうちに、電車は目的の駅に到着した。