(4)
同じ帽子をかぶった野球少年たちが次々に瑛太を真似て参拝していくのを横目で見ながら、薫はこの冷え切った空気をどうしようと悩んだ。
瑛太が神社でバイトをしているのは、この二ノ宮修造のせいであると言っても過言ではない。
顔立ちは眼鏡を外した瑛太に似ていて、整っている。だが、根本の黒い金髪にピアスという風貌には、神職の服はまったく似合っていない。
「張り切ってるとこ悪いけど、瑛太、今日はバイトしなくていいぜ。俺、今日暇なんだよ」
「勝手なこと言うな。今日は俺って決まってる」
「おまえは補欠であって、レギュラーは俺。ざーんねん!」
きゃらきゃらと笑われ、瑛太の顔がどんどん尖っていく。
それと同時に日まで陰ってきて、瑛太が暗黒面に落ちていくのが見える気がした。
瑛太をかばおうと、薫は一歩前に出る。すると修造は、薫に絡んできた。
「薫ちゃーん、また可愛くなったよねえ。巫女服着て俺と一緒に仕事しない?」
可愛いというのが女子への挨拶の人だから、まったく心に響かない。
相変わらずチャラいなあと思いつつ、「いえ、遠慮します」と断ると、「連れないなあ~」と修造は口を尖らせた。
悪い人ではないと思う。けれど、瑛太をからかうのが趣味みたいな人だった。だから、薫は瑛太をいじめる彼が嫌いだった。
むっつり黙り込む瑛太を見ると、修造はどこか満足そうに「あー、暇、暇」と言いながら仕事に戻る。
「サボッてるから暇なんだよ。なんでアイツがここの跡継ぐんだよ。俺より二つ歳上なだけだろ」
瑛太は忌々しげに息をつくと、「あー、無視無視。時間の無駄」と言って本殿に目を向ける。
だが、彼はふと目を泳がせた。
手を握ったり開いたり。挙動不審だ。
「参拝したら反応あると思ったけど……アイツ、寝たまんまだな。これって反応なしって思っていいのか? っていうか、じゃあ、いつどうやったら起きるんだよ……消えてくれてたら嬉しいけど、宇気比をした以上、消えたとは思えないし」
「じゃあどうするの」
「話をしないと動きが取れない。話をするなら起きてもらわないと。何か……きっかけがあるといいんだけど」
「きっかけ、ねえ」
まるで応えるように、柏手を打つ音がした。
先程連続してこどもたちが参拝していたけれど、それも終わったはず。
人の気配はなかったから驚いて振り返ると、野球少年のうち、一人が残って手を合わせているのが見えた。
小学校の三、四年生に見える。真剣な横顔は、もう遠足モードではない。
男の子がお祈りを終えて振り返る。
そして瑛太を見るなり、「あのっ」と声を上げた。
「さっき、ここ勝利の神様じゃないって言ってましたよね! じゃあ、勝利の神様ってどこにいるんですか! お兄ちゃん詳しそうだから、知ってるんじゃないかって」
大人が一人「太一くーん! おいで、もう帰って練習だよ!」と階段の下で声を上げていた。
それでも動かない少年を見ていると、薫は可哀想になった。
「えっと、お姉ちゃんじゃだめかな。調べてあげる」
スマホを取り出そうとするが、太一くんと呼ばれた少年は「ええー?」と不満そうな顔をした。
(わあ……そりゃそうか、スマホで調べられるんなら最初から訊かないか)
役に立てなくて薫ががっかりしていると、瑛太がため息を吐いて口を開いた。
「武神なら、『鹿島神宮』が有名かな。剣神、武甕槌命を祀ってある。武道場の神棚に祀ってあるのも、大抵この神様だし」
太一くんは目を輝かせた。
「鹿島? どう行けばいいんですか?」
「茨城県の鹿嶋市だから、ここからでもかなり遠い。参拝する時間があったら練習するのが一番だと思う」
瑛太のそっけない態度に薫は腹を立てた。
これだけ真剣なのだ。教えてあげるくらいいいじゃないか。切り捨てるのは冷たすぎる。
「でも、僕……試合に出たいんだけど、どうしてもレギュラーになれないんで……だから」
「それならなおさらだ。というか上手くないやつが出てチームが負けて、それで満足?」
「でも、いくら頑張ってもだめなんです。だから、お願いします!」
太一くんが瑛太の手を掴んで食い下がった、そのときだった。
空気がすっと冷えた気がして、薫は目を瞬かせた。
「……おやおや」
耳慣れない、一段低い声色。
見上げると瑛太が眼鏡を外していた。
「え、――え?」
その目に尋常ではない色香があるのを見つけて、薫は目を見開いた。
「まさか」
予想を確信させるように、瑛太は微笑んだ。
「ああ、娘。久しゅう姿が見えなかったが、どうしていたのだ。コヤツの妻ではなかったのか」
とうとう神様が現れたのだ。
興奮しかけた薫だったが、それはすぐに別の感情にすり替わった。
「…………はっ? つま?」
それが〝妻〟だと意味を理解したとたん、薫は笑い出す。
笑うしかないような、ひどい誤解だった。
「は、ははははっ――はは! つま! ちょっと止めてくださいよ!! ただの幼馴染――っていうか姉弟みたいなもんですし!」
挙動不審だと思われたのかもしれない。神様はなんだか可哀想なものを見る目をした。
(でも、だって、瑛太の妻、だって! そんなこと言われたら、瑛太めちゃくちゃ怒るよ!)
色気づいたとか言うだけで不機嫌になるのだ。しかも相手が腐れ縁の薫となると、さぞかし不本意に違いない。
笑い足りないと思うけれど、こうして出てきてくれたのだ。チャンスを逃すわけにいかないと、薫は笑いを噛み殺す。
「え、でも、どうして出てきたんです? 今まで、昼間は全然見かけませんでしたけど」
瑛太に訊いても、普通に学校生活を送れていたというし、夜しか現れていないと考えられる。
「さあ。私にもよくわからない。けれど、今は、この者の祈りに呼ばれた気がしてな」
「この者?」
隣で、怪訝そうな太一くんが薫と瑛太を見上げていた。
存在を忘れていたと、薫はぎょっとする。
だが、彼はまだ瑛太の袖を掴んだままで、恐れるような感じはない。
「鹿島神宮の場所、教えて下さい!!」
「鹿島……タケミカヅチと先程言っておったような……なんだか聞いたことがある気がするな。はて?」
神様が首を傾げると、瑛太の変化を察したのか、太一くんは不気味そうに顔をしかめた。
「あ、あの、気にしないで、物忘れがひどいのこのお兄ちゃん!」
薫は慌てて割って入ると、辺りを見渡した。
瑛太の知り合いにこの状況を見られるのはまずい。
特に修造、それからおじいちゃんの神主さんはまずいだろう。
薫は本殿の裏に瑛太と太一くんを連れて行く。
絵馬掛所には絵馬が大量にかけられている。受験シーズンが終わったばかりで合格祈願が多かったが、中には必勝祈願もあった。
太一くんは逃すまいとでも言うように、瑛太の袖を握りしめたままだった。
必死な様子に、神様は眉を上げると静かに口を開いた。
「そなたは、どうして神にすがろうと思うのだ?」
「そなた?」
「あー! 君とかあなたとかそういう意味ね!」
神様と小学生の間には通訳が必要だろうと、薫は口を挟む。
先程と違う柔らかな口調に、太一くんは頑なさを少し緩めたかに思えた。
「ええと……僕、野球好きで、一年生のときからずっとやってきたけど、あとから入った子にどんどん抜かれちゃって。一番練習してるのに、悲しくって」
「では、神に祈ったら、上手になるのか?」
「…………練習しないと上手くなりません」
太一くんは不本意そうに首を横に振る。
瑛太の言葉は一応響いていたらしい。
「でも、いくら練習を頑張っても、監督は僕をレギュラーに選んでくれなかった!」
「では、神に祈ったら、その監督とやらの気が変わるのか?」
「変わったらいいなって思う」
「ならば、まず、監督を自分で説得せよ」
「え?」
「神は気まぐれでな。しかもあちらこちらで願いを聞かねばならないので忙しい。そなたが直接交渉するほうが確実で早い。『試合に出たい』と、そなたは申したのか?」
「言ったよ」
「先程、神に願ったくらいの真剣さで、言ったのか?」
「……それは」
太一くんは黙り込んだ。
神様は太一くんの頭にそっと手を載せると、帽子の上からぽん、ぽんとなでた。
「そなたの熱意はわかった。だから願う先と努力の方法を変えれば、それだけで願いは叶ったも同じだ。まずは自分で動いてみるがよい」
瑛太が励ますように笑うと、太一くんがおずおずと頷く。
それを見た瑛太は満足そうにすっと目を閉じる。一拍後、突如我に返ったように目を見開いた。
「……あ……わ! あれ――今!」
顔に触れて、胸ポケットを漁り、眼鏡を取り出す。
そして薫を見て何か言おうとするが、太一くんを見て口をつぐんだ。言いたいことはわかったので、薫はひとまず頷いておく。
「太一! どこにいるの。置いてくよ! 練習終わっちゃうよ!」
大人の声が再び響き、ヤバい、と太一くんは慌てた。
「ありがとう、お兄ちゃん。僕、もっと練習する。そして監督にも出たいって話してみる!」
あーっした、と太一くんは帽子を取って元気よく頭を下げた。
坊主頭が眩しい彼は、なんだか吹っ切れた様子だった。
立ち去る少年を見つめて瑛太はしばし呆然としていたが、やがて「そういえば」と小さく苦笑いをした。
「あーあ……基本も基本なのに……参拝のとき、帽子を取らせるの忘れてた」
たしかにと薫も笑う。
*
ぶわりと強い風が吹き、桜の木から大量の花びらが降ってくる。桜吹雪に目を細めつつ、掃除が大変だと瑛太はため息を吐いた。
「アイツ、願い事に反応して出てきたくせに、願い事、叶えなかったな。自己解決と何も変わらん」
「んー」
出現の条件がわかったのは、大きな手がかりだと思う。
そのことについて話したいのに、薫はぼんやりと桜を見つめている。
心ここにあらずと言った様子だったが、やがて大きく深呼吸をする。
「神様が願いを叶えてくれないなら――祈るって、どういうことなんだろうね?」
薫が小さくつぶやいた。どうやら考え事をしていたらしい。
彼女の疑問は、瑛太の中でもまだ答えの出ていないものだった。
そもそも、それを知りたくて瑛太は神を信じていないくせに神社に関わっているのだ。
神社が身近にあったからこそ、幼いころから不思議でしょうがなかった。
神とは何なのか?
そして人が祈るのはなぜなのか?
だが、まとまっていない考えは披露するのが難しい。瑛太は話題を変えた。
「……なんにせよ、あの子、納得したから良かった。練習しないで鹿嶋まで行ってたらそれこそ時間の無駄。他の子に置いてかれたら本末転倒だ」
そう言うと、薫はどこか残念そうに息を吐いた。
「瑛太はさ、言ってること間違ってないけど……なんかもったいないよね。私は瑛太がいいやつだって知ってるけど、他の人には伝わらないから、もどかしい」
「別に……人がどう思おうがかまわない」
その言葉に、いつも瑛太は密かに付け加えるのだ。
薫がわかっててくれればいい、と。
薫の髪が、花びらをまとって陽の光にきらめいている。
寂しそうで、心配そうな顔。
その顔が瑛太は気に食わない。薫がではなく、そういう顔をさせている自分に苛立つのだ。
『ただの幼馴染――っていうか姉弟みたいなもんですし!』
乗っとられていても、完全に意識がないわけではない。
白昼夢の中で聞こえた声が蘇る。
そんな言葉、いつものことだし慣れているはず。なのに今日は妙に胸が痛かった。