(3)
夜の帳が降りると、人の世界と異世界との境界線は曖昧になる。
(そろそろ、頃合いか)
すうすう、と規則正しい寝息がピタリと止む。そして《彼》は、そっと目をあける。
《彼》は立ち上がり、部屋の姿見を覗き込む。
そしてぼやける視界に顔を歪めた。
「めがね、眼鏡とやら……どこだ。まっこと不便な体よ」
《彼》は机の上で、眼鏡を見つけた。取り上げて、顔に載せる。
クリアになる視界に満足した《彼》だったが、映った己の姿にすぐに顔をしかめる。台無しだ、とつぶやく。
「まったくもって、野暮なことだ」
自分の名前さえ覚えていないけれども、眩しいほどに美しいものに囲まれていた気がしている。
記憶の中の景色を見つけることができれば何か思い出すのではないかと思うけれど、よりによって、どうしてこんな辺鄙な場所で名を失ってしまったのだろう。
いつになればこの仮宿から抜けられるのか、見当もつかない。
(だが、まあこの生活を楽しむのも良いかもしれぬ)
《彼》は眼鏡を外すと、鏡に映り込んだ姿を見て、ふ、と顔に笑みを浮かべた。
「元は良いのに……解せぬ」
社が崩れたときに、近くで一番均整が取れていて美しかったのがこの少年だった。しかし、この憑坐にはじゃまなものが付随しすぎていた。
無駄を削ぎ落としたいのだが、この世で生きていくには、「金」がないと何もできないと知った。
何かを捨てるのにさえ金がいるというのは、けったいなことだ。
人間の欲とともに「金」を浴びるようにして過ごしていた覚えがあるが、この憑坐は「バイト代」という名目で両親からそれを受け取っている。
なぜそれを知ったかというと、今日の夕方、その場面を見たからだ。
財布を手に取ると、《彼》の気分が華やいだ。
手に入った「金」を持って、ようやく街に繰り出せるのだ。
前回は、鬱陶しい髪を切りたいと憑坐の家族に訴えたら、不可解そうな顔をされながらも街の美容院を紹介された。
財布は寂しくなってしまったが、さっぱりして《彼》はごきげんであった。
だが、続いて傍にあった店で見目よい衣を購入しようとしたけれども、その日はもう店が閉まっていた。
そして次の日は、金が足りずに断念せざるをえなかった。
だが、今日は、《金》がある。枯葉色の紙が一枚と、青鼠色の紙が三枚。
「今度は、何に使うか」
よれた部屋着を脱ぎ捨てると、タンスから衣を出す。
瑛太とやらは普段は『制服』を着ているのだが、学校に行かないときに着用する外出着があった。
(――じーんずとか言っていたか)
そして染みの付いた、伸び切った上着も出す。
着用すると、みずぼらしい風貌の男が出来上がった。
「どこがよそ行きだ。美しくないな、うむ」
自分の仮宿には、とてもじゃないがふさわしくない。
《彼》はニッコリと鏡に向かって微笑む。
この体で快適に過ごすために必要なものを買いに行こうと思った。
*
新学期は慌ただしく過ぎていく。
教科書をそろえたり、新しい先生に慣れたり。恐れていた宿題と小テストは、最初から予想を裏切らない増量だった。
また、部活動の新入部員勧誘にも駆り出されて疲れ果てた。
瞬く間にやってきた日曜日、薫は案の定、寝坊した。そして瑛太を20分待たせたくせに、いつも以上に気の抜けた格好になってしまった。
髪型はボサボサの髪を適当にまとめただけ。
いつも通り、ジーンズにトレーナーという出で立ち。兄のお古なので、くたびれていて少しサイズが合っていない。
「人のことダサいとかなんとか、言えないんじゃないの、それ」
佳子の口をふさげなかったのは否定できない。
だけどダサいと言ったのは私じゃない。そう不満に思いながら薫は謝る。
「さーせん」
「反省してんのそれ。寝坊したくせに」
「申し訳ありませんでした!」
頭を下げると視線が下がった。
瑛太はどういう風の吹き回しなのか、ジーンズを新調していた。年中制服で過ごすのだから、私服なんか着られればいい、というスタンスだったというのに。
なんだか足が長く見える。つまり、結構似合っている。
ジーンズのタグに見覚えはあった。
ジーンズショップなどでは手に入らない、ファッション誌などに載っているブランド物は、どう考えても瑛太が買うとは思えない代物だった。
と、そこまで観察して嫌な予感がした。
「……瑛太……それって」
瑛太の目が剣呑に光った。
「一昨日の夕方、気がついたらパルコにいて、紙袋ぶら下げてた」
ぎり、と歯ぎしりの音が聞こえる。
「え、でも一昨日って」
「金曜日だ。給料が入るなりこれだ。財布が空でマジ辛い……」
瑛太のバイト代という名の小遣いは週給で、金曜日に親を通して支給される。
それが一瞬で消えたとなると、ご愁傷さまとしか言えない。
「神様って、実は毎日、現れてたんじゃ……で、お金がないから何もできなかったとか」
数日おとなしかったことを考えると、どうにもそれが真実に思えた。
(神様に祟られるじゃなくって、たかられるとか)
二回続くとさすがに哀れだと、薫は同情を禁じ得なかった。
「給料日に即、銀行に預けるとかしたほうがいいんじゃないの」
「……次からそうする」
弱々しく頷かれて、気の毒さが倍増した。
*
桜の花びらがあちらこちらで、アスファルトを淡いピンク色に染めていた。
左右から枝を伸ばす桜のアーチの下を、薫のクロスバイクと瑛太のママチャリが並走する。
ちなみに瑛太のは、近所の自転車屋の特売品で、薫の自転車は兄のお下がりだ。十段変速のついたちょっとお高いもの。
いつかこの自転車で遠くまで行ってみたいと思っているけれど、なかなか叶う日がやってこない。
それもこれも、薫が一応女子だから。
ちらりと瑛太を見やる。
昔は、性別を交換してくれないかなあ、とよく思った。
兄たちとは少し区別して育てられた薫にとって、一緒くたにされる同い年の瑛太は、羨望の対象だった。
もし自分が瑛太のように男の子だったら。中学生のうちに、もっと遠くまで行かせてもらえたような気がするのだ。
知らない道を自分の思うままに進むのが薫は大好きだ。だから、こんな小さな旅でもワクワクする。
町内の道も狭いが、もともと市内は車通りが多くて路側帯が少ないという、自転車に不向きの道が多い。
なので、地図アプリを細かく設定して、あえて車が通るには少し狭い道を行くことにした。
住宅地をすり抜け、坂を下ると目印の郵便局が隣に見える。
下った分を登るとなんだか損をした気分だ。息を上げながら坂を立ちこぎする。
砂利の敷かれた二ノ宮神社の駐車場はガランとしていた。
「人、いないねえ」
動きを止めると汗が噴き出した。
タオルで拭っていると、後ろで涼しい顔の瑛太が自転車から降りた。
「今はなんの祭りもやってないからな。っていうか、ここが満車になるのって、神楽のときと七五三と正月くらい」
砂利を踏みしめゆっくり歩いていると、ようやく境内に続く階段が見えた。
車のじゃまにならない端っこに自転車を停めると、市内で一番大きいというイチョウをめがけて、石造りの階段を駆け上がった。
鳥居をくぐると正面に本殿、右手には手水舎が、左手には社務所があった。
寂れた駐車場の割になんだか騒がしいなと見渡すと、敷地の隅に少年野球のユニフォームを着たこどもたちの集団が見えた。
わいわいと遠足のように騒いでいるのを、引率の大人たちがまとめようと苦戦している。
「必勝祈願かな」
次兄が野球をやっていたが、ちょうど今の時期からシーズンがはじまるのだ。
幼稚園児にも見える小さな子も、中学生に見える大きな子もいる。
ブカブカのユニフォームを着ているのを見ると、すごく微笑ましい。けれど、こんなに小さなころから野球をやるんだと、薫はびっくりしていた。
薫たちが住んでいる街ではスポーツが盛んで、高校も全国大会常連のスポーツ校が多い。
スポーツ推薦なるものなどがある学校も多いのだが、こういう地盤があるからこそなのかもしれないと思う。
(まあ、例外もあるけどね)
ちらりと帰宅部の瑛太を見ると、
「そういうふうに比べんのやめろ。人には適性ってものがある」
どうやら意図するところが顔にそのまま出ていたらしく、文句をつけられた。
瑛太は目を細めて騒がしい少年たちを見ると、小さく息をついた。
「実のところ、うちに参拝してもなあ」
「え? なんで?」
「ここの神様って、祇園社の系列で、勝利の神様じゃないし」
その声に、数人の少年が振り返るのがわかった。
せっかくの祈願なのに水を差すようで申し訳ないと、薫は「しーっ」と口の前に人差し指を立てる。そして小声で尋ねた。
「二ノ宮神社って何を祀ってあるんだっけ? スサノヲノミコト?」
「ああ。建速須佐之男命。《古事記》では伊奘諾尊の禊によって生まれた三神の一人で、天照大神の弟神だ」
一気に名前が出てくると、頭がついていかない。
「えーと」
「ヤマタノオロチの神話、前にうちのじいちゃんに聞いただろ」
正直に言うとうろ覚えだったが、なんとか絞り出す。
「えっと頭が八つある大蛇をスサノヲノミコトが退治したっていう話」
「そうそう。人身御供になりかけたイナダヒメノミコトを助けたって美談。そしてその大蛇の尾から出てきたのが、三種の神器の一つである草薙の剣だ」
なんとか合っていたらしいと、薫は薀蓄を聞きながらホッとする。
「だけど、なんでそれが祇園なの?」
「スサノヲは牛頭天王と同一神とされてるんだけど、この牛頭天王っていうのが、インドの祇園精舎の守護神って言われてる。だから祇園らしい」
「意味わからない。なんでインドの神様とスサノヲが同一とか言われるの? スサノヲは日本の神様だよね?」
「二つの神様には類似点が多くて、それから備後だったかどこかの風土記に、牛頭天王が自分はスサノヲだと名乗った、っていう記述があるんだとさ」
無理やり過ぎないか。
薫が顔をしかめると、瑛太は「納得行かないだろ? そこが神話の面白いところだと俺は思う」とニヤリと笑った。
「どういう意味?」
薫が尋ねたのと同時に、からんからん、と鈴が鳴った。
二人が顔をそちらに向けると、本殿の隣に箒を持ち、浅葱の袴を穿いた青年が立っていた。
「あ。しゅーぞーさん」
二ノ宮修造。瑛太の従兄でこの二ノ宮神社の跡取り。そして瑛太の天敵だ。
あちゃーと思いながら瑛太を見ると、彼は案の定険しい顔をしている。
男の子が一人ちょろちょろと本殿へ向かって走り出す。
突如がらんがらん、と鈴を鳴らし、直後にぱん、と一つ手を打って「勝てますよ~に!」と叫んだ。
元気がいいなあと苦笑いをしながら見ていたけれど、瑛太の顔は不満そうだった。
「ちょっと! こら! ひろくん! おててを先に洗うんだよ!」
男の子はきょとんとして声の方を振り向いた。
お母さんだろうか。引率の女性が、柄杓を持ってこどもたちの手に順に水をかけている。
すると瑛太は、何を思ったかその子の傍に歩み寄り、目の前にかがみ込んだ。
「《手水舎》に先に行くんだよ」
「え?」
男の子は目をパチクリと瞬かせる。「あの水が出てるところ。ちょうずやっていうんだ」瑛太は指差すと、おいで、と男の子を手招きし手水舎へ案内した。
柔らかい雰囲気を醸し出しているその姿は、普段の刺々しい瑛太とは別人だった。
突然の変貌に薫は驚くけれど、よく考えたらここは瑛太の職場だった。いつもこんなふうにやっているのだ。職業病みたいなものだろうか。
薫もついていく。
お参りの前に手を清める、そのくらいは知っていた。
「まず柄杓を右手で持って」
男の子は瑛太の物まねをして、小さな手で柄杓を取った。それをチームの他の子も真似している。
「水を汲んだら左手に水をかける。そして、次に柄杓を持ち替えて右手も清める」
瑛太がゆっくりと教えると、男の子たちは見よう見まねで水をかける。
「最後に、柄杓を右手に持ち替えて、左手に水を注ぎ、その水で口をすすぐんだ。で、残った水で柄杓の柄を流す」
なんとなく適当にやっていたけれど、ちゃんとした作法があるのか。知らずにいたことが少し恥ずかしかった。
瑛太の流れるような動作を、綺麗だなあとぼんやりと見ていた薫は、
「薫も」
鋭く言われてはっとする。
態度の違いにムッとしながらも、薫は手水舎に近づく。
石造りの四角い水盤の中には、ちょろちょろと水が注がれていた。昔これが水道水だと聞いたときには、少しがっかりした覚えがある。
瑛太の真似をして冷たい水で左手をすすぐ。右手をすすいで、口もすすぐ。
「昔は川とか泉とかで禊をやってたらしいけど、水質汚染のせいで、今それができるところってほんと限られてるんだ」
「だね。口をすすぐからね……」
井戸水もしくは水道水など水質検査してあるものでないと、衛生的にまずいのだろう。薫も近くの川で口をすすげと言われれば抵抗を感じる。
「雰囲気ないけど、まあ、しょうがないよね」
そんなことを言っていると、本殿前に移動したこどもたちが「おにーちゃーん」と瑛太を呼んだ。
どうやら、懐かれてしまったらしい。
付き添いの大人も期待を込めて瑛太を見ている。引き続き作法を教えてほしそうな素振りだが、なんとなく気持ちはわかると薫は思った。
(うん、綺麗だったもんねえ)
瑛太は嫌がる素振りも見せずに、少年たちに近づくと、
「まず二拝」
と口に出しながら手本を見せる。
どこか別人に見える瑛太を不思議に思って、ふと気がついた。
印象が全然違うのは、背筋がピンと伸びているからだと。
「二拍手」
心地よい柏手の音が辺りに響き渡ると、世界が切り替わったような気がした。
瑛太の横顔を覗き見る。彼は目を閉じている。
リアリストの彼が何を祈っているのだろうかと、気になった。
「一拝」
三角定規で計ったような見事な四五度。見ていた周囲の大人が「若いのにすごいわねえ」とため息をついている。
だが、神聖な空気をぶち壊す一言が響き渡った。
「うはー、えいたちゃん、かっこい~!」