(6)
人気のない参道は、昼間とはまったく別の場所のようだった。
外灯の光に照らされた朱色の鳥居も楼門も、とても幻想的だ。
それを見ただけで、薫は自分が満足しているのを感じた。
旅というのは、どこか一箇所でも心が震えるような場所に出会えたら、大成功なのではないかと思う。
門限までは、あと1時間。流石に山には登らないけれど、奥の院まで行ってみようということになった。人のいない千本鳥居を通ってみたかったのだ。
ライトアップでもされているのだろうかと思ったけれど、お祭りが終わったあとだからか照明は極控えめ。ぽつんぽつんと灯籠が鳥居の中を照らしている。
蛇行しているせいか、奥はまったく見えない。
オレンジ色の灯籠の光だけを頼りに歩く。
灯籠の近くだけ鳥居の色が赤くなり、灯籠の光から離れた途端、闇は濃くなる。
目が闇に慣れないせいで、視界を閉ざされ、この世に一人になったかのような心地がする。
この鳥居を抜けたら、異世界につながっているのではないか。そんな想像をすると、急に胸の音が速くなった。
ふと手が温かいものに包まれて、薫ははっとする。
瑛太が薫の手を引いて、異界から連れ戻してくれた。
「鳥居っていうのは、あちらとこちらの境界線って言うけど……じゃあここは、どっちだろうな」
灯籠が近づき、薫は瑛太の顔を確認する。
眼鏡は掛けている。ということは、これは多分、瑛太だ。瑛太が薫の手を握っている。
「え、瑛太、あの、大丈夫だから――あの離して」
気恥ずかしさは、きっと彼の手が予想していたよりも大きく、骨ばっていたから。
瑛太は聞こえないのか、聞こえなかったふりなのか。手をつないだまま。
なんとなく強く言えないのは、それほど嫌ではなかったからだ。
むしろ昔を思い出して、何か懐かしくて温かい気持ちになった。
昼間、カミサマに掴まれたときは、拒絶反応があったのに。不思議だと思う。
灯籠が近づいては遠ざかる。
光と闇の狭間に揺れる舟に乗っているようだと、薫は思った。
やがて舟の旅は終わり、奥の院にたどり着く。同時に手が離れる。
「……異世界みたい」
オレンジ色の灯籠が、辺りをぼんやりと照らしている。狐の形をした絵馬が光を受けて、浮き上がっている。
瑛太は、そのまま奥の院の右奥へと向かった。
(おもかる石だ)
薫はどういうつもりなのだろうと、追いかける。瑛太は静かに石の前に立つと、おもむろに石を持ち上げた。
「瑛太、なにして――」
「……実験」
「はぁ?」
「薫が言ってたろ。『励まされた』って。あれがなんかずっと引っかかってて」
四つ辻での会話を思い出す。カミサマに取って代わられた直前のことだ。
「どうして石が重く感じるのかとか、軽く感じるのかとか、を考えてた」
「え、軽いと願いが叶う、重いと叶わないんだよね? そう書いてあるよね?」
立て札を指差す。書かれた言葉をそのまま呑み込んでいた薫は、別の次元の言葉を聞いた気がして目を見開いた。
「いや、このサイズの石なんだからどう考えても重いだろ。普通に考えても五キロはあると思う。石の重さが変わるなんて超常現象があるわけはないんだから、つまり重さを変えるのは、持ち上げる人間の意識だってことだ」
瑛太の視点は面白い。薫は思わず少し前のめりになる。
「意識の問題って?」
「薫さ、石の前で願った願い事って、簡単に叶うものだった?」
薫は小さく頭を横に振った。瑛太は「やっぱり?」と満足そうに相槌を打った。
「……俺は、昼間、叶うかもしれない願い事をしながら持ち上げたんだ。つまり軽いんじゃないかって、軽くあってくれって心のどこかで期待してた。だから期待値に対して相対的に重く感じた。
だけど、さっきはすごく軽かった。一度目に叶わないって言われたから、叶わない――つまり重いだろうと思いながら持ち上げたんだ」
それで実験と言ったのか。薫は納得する。
「でも、それって、つまり石はただの石で、カミサマは関係ないって、言ってるようなもんじゃ」
何という罰当たりな考察だ。
関係者に聞かれたら怒られそうだ――と思った薫だったが、よく考えると、ここはもう稲荷山だ。周りには、神様と眷属の狐がいっぱいだ。祟られないかと別の心配をする。
「いや、だからさ。俺思ったんだ。おもかる石って、つまり、『努力を怠るな』ってことを、人間に教えたいんじゃないかって」
薫は目を瞬かせた。
「どういうこと?」
「叶いやすいと思って油断してるやつには、重さを突きつけて努力させる。叶いにくいと思ってるやつには軽いと思わせて、諦めるのをやめさせる。――重かろうが軽かろうが続けさせるんだよ、人に、願いが叶うための努力を。そういう『前を向かせる力』って、つまり、神様の力なんじゃないか?」
すごい、と純粋に薫は思った。
そしてじんわりと、何か温かいものが心を覆うのがわかり、鼻の奥がなんだか痛くなる。
少しひねくれてはいるけれど、瑛太が神様がいるという答えを出してくれたのが、ものすごく嬉しかったのだ。
「俺は、人に前を向かせる力――それが神なら、信じることができる」
言葉を失う薫を見て、瑛太は満足そうに頷く。
彼はスッキリした顔で、奥の院の裏側へ回る。
そこには、たくさんのミニチュアの鳥居が置かれていた。稲荷山の所々で見かけた、願掛け鳥居だ。
「稲荷山に登らないときは、ここで山の御神体にお参りできるらしい」
「えっ、じゃあここで済ませられたとか!?」
早く言ってよと思う。
「でもそういうズルしたら、あとで全力を尽くさなかったって、結局、後悔するだろ?」
薫は頷く。末廣大神の前でカミサマに確認できたのだから、今回は登って正解だったと思った。
「カミサマがお稲荷さんじゃなかったってことは、ここにはお稲荷さんがいるってことだよな」
「あ、じゃあ、もしかしたら、今、日本のどこかに空っぽの神社があるかもしれないってこと!?」
はじめて気がついた。
大問題じゃないか、と思ったけれど、
「何の問題もないだろ。仕事しないカミサマなんだから」
と、瑛太は罰当たりなことを言う。
そこから二人は、いつも通りに参拝を済ませた。
一呼吸長い瑛太のお祈りを見つめ、薫はふと、今なら彼の願い事を聞ける気がした。
ずっと知りたかった、彼の本当の願い事。
千本鳥居をくぐりながら尋ねる。
「そういえば、瑛太って何を願ったわけ? わたし、てっきりわたしと同じでカミサマのこと願ったのかと思ったんだけど」
今の段階で、瑛太が名前探しを容易いと考えるとは思えなかった。つまり、彼は違うことを願ったのだ。
「ん? あぁ、だってそんなの祈ったってしょうがないだろ。叶わないって言われても、やるしかないんだから」
最初から頼るつもりがないというのもすごいと思う。半ば呆れつつさらに問う。
「じゃあ、何? 叶いやすいってことは、もっと簡単なこと?」
「――う、ん……まあ、まったく希望がないわけじゃないっていうか」
瑛太はそこではっと息を呑む。
「薫は『カミサマのこと』を祈ったのか」
「っていうか、それ以外に祈ることなんかないよね?」
結局、瑛太の願い事は聞けずじまいだった。
瑛太は嘘みたいに楽しげだった。
そしてふと手のひらを見つめたあと、小さく笑った。
「薫、急げ」
意外に時間が経っていることに気がついたのは、千本鳥居を通り抜けた辺りだった。
少しの焦り、それか一日の疲れが出たのだろうか。
「うわ――」
石の階段を降りようとした薫は足首をひねってしまった。鋭い痛みが足首に走り、
「………ったあ」
薫はその場にしゃがみこんだ。
「薫!?」
一歩先を行っていた瑛太が、駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫。ちょっとひねっただけだから。それより門限――」
瑛太は薫に背を向けると、「おぶされ」と言う。
「え、でも」
「担がれるほうがいい?」
「潰れるよ!?」
「大丈夫」
薫は、恐る恐る彼の背中に抱きつく。思ったよりも広い背中にどきりとしたとたん、
「……予想以上に重い」
瑛太がつぶやき、薫は思わずぽかんと瑛太の頭を殴る。
だが、瑛太は驚くほどの軽い足取りで宿まで走る。
そして、なんとか門限ギリギリで宿に滑り込んだとき――
「薫‼」
聞き覚えのある声に、薫は目を見開いた。
「り、陸兄……!?」
そこには、何をどうしたのか薫の長兄が立っていて、瑛太におぶさった薫を見て引きつった笑みを浮かべていた。
慌てて背中から降りる。着地した途端痛みが走って顔を歪ませた。
「問題発生したくせに、なんで連絡してこないかなあ!!?? しかもなんだそれ、怪我までしてるわけ!?」
兄はどうしてか、ものすごく怒っている。
「あ――、そういえば」
瑛太に連絡しておけと言われていたのだ。だが、その後寝てしまって、すっかり忘れていた。
さーせん、と兄に投げつつ振り返ると、瑛太の顔は真っ青だった。
「でもそんな怒らなくても……怪我も大したことないよ。――っていうか、なんでここわかったの? どうやって来たわけ」
「海が連絡くれてすぐ新幹線だよ! あの花畑頭の弟が! 泊めるって言ったら何が何でも泊めろよな! あぁあ! こんなことなら最初からついてくればよかった!」
「ちょっと陸兄、うるさいよ。迷惑だから部屋に入ろう」
嘆く兄をつれて部屋へ向かう。
瑛太も呼ぼうとしたが、兄はそれを遮った。
「はーいはいはい、夜も遅いので、瑛太くんはここまで」
瑛太は「警戒しなくても、何もしませんから」とだけ小さくつぶやくと、そのまま自分の部屋に引っ込んだ。
薫は「なんで瑛太を仲間はずれにするんだよ」とにらむが、兄はまったく堪えた様子はない。
むしろ嬉しそうに笑うと、「ほら、八つ橋買ってきたんだ、食べよう」と土産袋を差し出した。




