(2)
(あーあー、うざい。めっちゃうざい)
この草の量は一体なんだろう。瑛太は、葉を大きく広げたたんぽぽを握りしめると根っこから抜いていく。
綿毛ができる前――花が咲く前に、抜かないと種がどんどん拡散していくのだ。
父の実家、二ノ宮神社でいつも手伝わされているため、草取りに関してはスペシャリストの域だった。
だとしても、それは労働としてきちんと対価を得られるからこそやっていること。
ボランティアなど性に合わないし、行くつもりはなかった。だけど。
(あいつを一人にするとなあ)
瑛太の幼馴染、立花薫は瑛太とは真逆の性格をしている。
放っておくと自分が処理できない仕事を請け負ってしまうのだ。
無駄に正義感の強い彼女は、人が困っているのを見るのが嫌いとかいう理由であらゆるトラブルを引き受けてくる。
しかも責任感も無駄に強いので、いつまでもトラブルから抜け出せないままなのだ。
回覧板を見たとたん、すごく嫌な予感がしていた。
来てみたら案の定、薫は上下ジャージ、三角巾にマスクに軍手とやる気満々の姿で現れた。
しかし敵はゴミ屋敷だ。
大嫌いなゴキブリと戦うことになるのなどわかりきっていたのに、どうしてそこまで頭がまわらないのだろうか。
無理なら無理だと引き受けなければいいのに。前はサポートがあったからなんとかなったかもしれないが、もう彼女が頼ることのできる兄たちは、傍にいない。
まるですべてが自分の力のように過信していて、呆れてしまう。
(さっきだって、俺が口出ししなかったら、室内掃除プラスゴキブリ退治だろ。どうする気だったんだよ)
そして助け舟に本人が気づくことはない。
(いつまでなんだろうな、これ)
見えない未来に僅かに鬱屈しかけたとき、ふ、と日が陰り、辺りが暗くなった。
瑛太は思わず空を見上げ、雲に隠れた太陽に目を眇めた。
そのとき、バリ、という雷のような音が響き渡った。
ぎょっとして振り向き、瑛太は目を見開いた。
薫が呆然と立っている場所のすぐ近く。
草の中にもうもうと立ち上る埃が収まると、ポッカリと何かの残骸が広がっていた。記憶を辿って思い出す。
(そうだ。この場所にあった非日常的なものって言うと――)
瑛太自身にとっては割と身近で。だけど、普通はこんな家の庭にあるはずのないもの。
《社》が、ここにはあったのだ。
『神様ってこんなところにもいるんだぁ』
『そんなもの、いないよ。だって見えねーし』
『見えないからっていないとは限らないよ。なんなの、瑛太って神様、信じてないの? 神主さんの孫のくせに』
幼いころ、ここに忍び込んだときの会話が鮮やかに蘇ったと同時に、当時の風景も瞼の裏に浮かび上がった。
社は比較的大きなものだった。
社殿と呼ぶには小さいけれど、神社にある末社くらいには立派な代物だったのだ。
社の前には鳥居まで構えていたはず。
だが木造のそれはすでに腐っていて、上半分が折れて地面に落ちていた。色も、形も原形をとどめていない。
その隣を見て瑛太は息を呑んだ。
いつの間に庭に紛れ込んだのだろうか。朽ち果てた鳥居の隣に、妙に存在感の薄い一人の青年が立っていた。
(いや、存在感が薄いんじゃなくて、肉感が薄いのか)
生き物の臭いがしない、そんな存在だった。
「ああ……あれ、ここは……私は……一体」
青年が背の中ほどまでの黒髪を耳にかけると、凄まじく整った横顔が現れる。
特に、長いまつげに彩られた銀色の目は、何か妖力でも出ているのではないかというくらいにつややかだった。
殺人的な美しさ。
はっとして見ると、案の定、目の前にいた薫は魂を抜かれたような顔をしていた。
「おや……こちらはどこのヒメかな。なかなかに美しい」
そう言うと青年は薫の顎に長い指をかけて持ち上げた。ぼんやりしかけていた瑛太はぎょっとして我に返る。
(はぁっ!?)
こんなストレートなナンパなどはじめて見た。
瑛太は反射的に後ろ足を蹴り出す。飛ぶようにして薫の傍に行き、「薫に触るな」と男の腕を掴んだ――
――はずだった。だが、掴んだはずの腕が手の中で霧消する。
かと思ったら、頭上から押しつぶされるような強烈な圧迫感とともに、今までに味わったことのないような凄まじい頭痛、吐き気が瑛太を襲う。
不快感から逃れたい、そう思った次の瞬間、猛烈な眠気が襲ってきた。
*
神様みたいに綺麗な青年が瑛太に吸い込まれた。
神様なんて見たことないし、見たことがあっても嘘みたいな話だけれど、薫が見たことを未熟な語彙でそのまま表現すると、そうとしか表せなかった。
「……瑛太? 大丈夫?」
いくらなんでも見間違いだろう。
目をぱちぱちと瞬かせたあと、かがみ込んだ瑛太に恐る恐る声をかけると、
「う、うぅ……なんだ、この邪魔くさいものは……」
と瑛太が呻いた。ホッとしつつもまだ辛そうな様子を見て薫は彼の背をなでる。すると、瑛太はびくっと体を震わせ薫を見上げた。
「そこな娘、手を貸してくれぬか」
「は?」
そこな娘とは何の真似だ。薫は真顔で突っ込もうと思ったけれど、口が固まってしまって言えなかった。
(え、え、これ……誰?)
瑛太は眼鏡を掛けていなかった。
小学生のころ、女の子のように可愛かった顔は、少しのあどけなさを残すものの、端整に成長していた。
つまり、今ふうに言い直すとイケメンになっていた。
だが、瑛太は頑ななくらいに眼鏡を外さなかったはず。本人曰く視界が不明瞭なのが嫌いだということだが、こだわりの強い彼が意味もなく素顔を晒すとは思えなかった。
瑛太の目はひどく澄んでいて、どこか朝露を思わせる。彼の顔が可愛いと思ったのは、おそらくこの目のせいだろう。
眼鏡がないだけなのに瑛太じゃないように思えて、妙にドギマギする。動揺が隠せないまま、薫は尋ねた。
「ど、どうしたの? 眼鏡、壊れた?」
だが、彼の手に握りしめられている眼鏡は、一見異常はなさそうだ。
「手を貸せ、というのが聞こえなかったか?」
硬めの口調に戸惑っていると、瑛太は自分から薫の手を握って立ち上がる。予想よりも大きな手は、なぜかひどく冷たかった。
瑛太が女子の手を握るような男子ではないことを、薫はよく知っていた。
体育祭のフォークダンスでも、手をポケットに入れたままで女子に呆れられていたくらいなのだ。
違和感が体に浸透していく。頭の何処かで警鐘が鳴り、体温が下がっていく。
「あなた、誰」
疑問が口から漏れる。
「…………わたしは、誰だ?」
これはヤバいと薫は顔を引きつらせた。
頭でも打ったのだろうか。それで記憶を失ったとか。
「あなたは、二ノ宮瑛太、でしょう?」
「それは、この憑坐の名前だろう?」
「よ、よりま、し……?」
言葉の意味を噛みしめ、先程の不可思議現象とともに呑み込んだとたん、薫は蒼白になっていた。
(これはもしかして、憑依とかそういうやつじゃあ……! え、え、もしかしてお化け屋敷の幽霊とか!?)
一気にこの場から逃げたくなるけれど、瑛太を置いていく訳にはいかない。薫はぐっと恐怖を押さえつけて訴える。
「え、瑛太を返してもらえませんか!」
「そうはいかない。わたしの家を壊してしまったのだから」
「家って……そこ?」
母屋を指差すが、瑛太の体を乗っ取った《何か》は首を横に振った。
そして残骸を指差す。少し前まで社だったものを。
「え、そこって――お社……?」
お社の前には鳥居の残骸もある。ということは、あれは寺ではなく、神社だ、と思った。
(つまり、瑛太に憑いているのは《神様》!?)
辿り着いた結論に薫は飛び上がりそうになった。
「そうだ。神の仮住まいのために、人間が建てたものだ。そなたが壊したのだろう?」
裏返った声で言い訳する。
「い、いえ! 草を抜いていただけで――」
埋まっていたアザミを引き抜いただけだ。
その反動で崩れ落ちたのだけれど、これはまさか弁償しろとかそういう話だろうか。
(お社とかっていくらするんだろ……一万、二万じゃないよね。家を建てるほどじゃないだろうけど、車くらいはするんじゃあ……)
現実的に考えはじめた薫だったが《何か》が、
「弁償はいらぬ。そもそもわたしの名前がわからなければ、祭神がわからぬということだ。社を建て直そうともそれは我が宿ではありえぬ。そして仮宿を通らねば、天界に戻ることもできぬ」
と心を読んだようなことを言ったので目をむいた。
「じゃあ、どうすれば?」
「早急に私が祀ってある別の仮宿を探してほしい。でないと、私はいずれ消えてしまうだろう」
まるで雨が降り出しそうな曇り顔で、しょんぼりとうなだれる瑛太を見ていると、なんとかせねばと思ってしまう。
自分一人では手に負えない、そう思った。
だけど放っておくことはできない。全部は無理でも、何か少しでも手伝えることがあるのではないかと思うのだ。
「つまり、あなたが祀ってある神社を探せばいいんですね? そうしたら、あなたも瑛太も助かる? 本当に?」
「疑うのであれば、宇気比でもするか」
「うけい?」
「占ともいう。そうだな、そなたが三つ数えた後、日が現れる。現れなければ、私はこの体からすぐに離れよう。だが現れれば私のことを信じて、私の名前を探すと誓約してもらえぬか」
つまりは賭け事ということだろうか。
空を見上げる。分厚い雲からはとても陽が射すとは思えない。
「え、でも瑛太から離れれば消えるって」
「私は、神だ。それをそなたに見せ、信用させたいのだ」
真剣な瞳に背を押される。薫は頷くと、ゆっくり三つ数えた。
(いち、に、さん)
瑛太がニッコリと満足そうに頷いたときだった。
「約束だぞ。私の名前を探してくれ――」
まるでその笑顔に反応したかのように雲が割れ、ぱっと空から光が射した。
白昼夢から覚めたような心地で目を瞬かせていると、
「おおい、二人とも休憩せんかね。お茶とジュースどっちがいい?」
と玄関の方から声がかかり、薫は慌てて後ろを振り向いた。
とっさに瑛太を背にかばう。なんとなく今の瑛太は見られてはまずいように思えたのだ。
だが、
「お茶を頂きます」
と瑛太の声が頭の上を通っていった。
驚いて振り向くと、いつも通り眼鏡を掛けた瑛太がいた。眼鏡に光が反射して目は見えないけれど、漂うオーラが「俺は怒っている」と訴えていた。
「薫ちゃんは?」
会長さんの声で我に返る。
「あ、わたしはジュースで!」
「じゃあ、縁側に用意しとくから、好きに飲んで」
会長さんが屋内に引っ込むと、瑛太が不快さを隠さずにため息を吐いた。
「うぅ、頭が、ガンガンする……。薫……今、俺と何を話してた? あいつ……何者?」
「……瑛太、戻った? ああ、離れてくれたんだ、よかった……!」
瑛太の顔色はひどく悪かった。
額に脂汗をにじませた彼は、先程貸した薫のハンカチで汗を拭う。
縁側にかがみ込み、苦しげに呻く。薫はペットボトルのお茶を差し出した。
「大丈夫だよ。あれは神様。そこにあったお社の」
「……か、み、さま?」
薫が簡単に今の出来事を説明すると、瑛太の眉がどんどんつり上がっていく。
「宇気比!? あんな得体の知れないものと誓約なんかすんなよ! しかもそんな相手に都合の良い条件で! あの社って最初から壊れてただろ! なんでお前が責任取る必要があるんだよ!」
「え、でも瑛太から離れてくれたんだし。結果オーライだよ」
「バカか。そんなに簡単にうまくいくわけない」
「ねえ、ちょっとなんで怒ってんの? 助けてあげたのに!」
「どう考えても手に余る仕事だろ、考えなしに引き受けやがって……!」
瑛太がどうして怒っているのかわからない。
説明を求めた薫だったが、その日、彼はもうむっつりと黙り込み、二度と薫と口をきいてくれなかったのだった。
だが、その翌日のことだった。
家のチャイムが鳴り、ドアホンを覗き込んだ薫は、映り込んだ映像と自分の知っているイメージの差異に、自分の目を疑った。
「ちょっとー! 瑛太ちゃん、誰かと思ったじゃない。やだあ、どうしちゃったの、めっちゃイケメン!」
玄関から黄色い悲鳴が上がる。母のものだが、近所でも有名なハイテンションはいつも少し恥ずかしい。
ドアホンを見て同じことで驚いていた薫は、目をこすりながら玄関へと飛び出す。そして見間違えではないことを知り、しみじみと目を見開いた。
人は髪型でこんなにも印象が変わるのか、と感嘆のため息を吐く。
美容室に置いてあるヘアカタログに載っていそうな、お洒落な髪型の瑛太がそこにいた。
頭頂付近を長めに残して、こめかみと項はすっきりと短く刈られている。俳優などがやっている手入れが大変そうなやつだ。
(ソフトモヒカンってやつ? 宇宙兄がやってた気がする)
眼鏡は相変わらずだけれど、いつも目にかかるくらいだった鬱陶しい前髪が眉の上で切られているせいで、目元の陰が消えている。トップを軽く逆立てて、ふんわりと柔らかそうだ。
ただのおかっぱだったのが嘘みたい。のっぺりした重苦しい印象が払拭されている。しかもなんだかいい匂いがする。ヘアワックスだろうか。
(整髪料なんて持ってたんだ? あと眉毛とかいつぶりに見た?)
あと、耳を見るのもご無沙汰かもしれない、と変な感慨深さがあった。
相変わらずの猫背が残念だが、なんだかさっぱりして、印象がもっさりから爽やかになっている。このレベルアップは大きいと思う。
だが、爽やかくんに変身した瑛太は、喜ぶどころか凄まじく怒っているらしく、顕になったこめかみには青筋がたっている。
「美容室に行ってしまいまして」
まるで失敗を告げるように言うので、母が不思議そうに首を傾げる。
瑛太はぎん、と眼鏡の奥の目をとがらせ薫を見ると言った。
「昨日のハルさんとこのボランティアの件で話があるんだけど」
「あー……うん、わかった」
母の興味津々な目を気にしてぼかしたのだろう。察した薫は、サンダルからスニーカーに履き替える。
母が「まだ寒いよー」とパーカーを持ってきたので受け取ると、「ちょっと散歩してくる」と適当に言い置いて家を出た。
「ねえ、それ、どういう心境の変化? 色気づいた? ようやく女子にモテたくなったわけ?」
薫が歩きながら尋ねると、
「ちがう………これは、アイツにやられたんだ」
「アイツ?」
「髪切るのは四ヶ月に一回でいいのに。しかも美容院に行きやがった‼ 津田沼の! 深夜営業の‼ サービス料10%加算の‼ しかも整髪料まで買いやがって!」
話が呑み込めない薫が首を傾げていると、
「――《神様》にやられたんだよ!」
「え、でももう離れたかと思ってたのに」
「寝てただけみたいだ。俺が寝てる間に、俺の貯めた一週間分のバイト代、使い込みやがった!」
半泣きの瑛太は言った。
ひい、と喉の奥で薫は呻いた。
瑛太は二ノ宮神社で細々とバイトをしているのだ(校則違反になるので、家の手伝いの小遣いとしてバイト代を貰っているらしい)。
一日2時間ほどの社務所での受付や、境内の掃除を引き受けている。
時給は労働基準法で定められた最低賃金。それが一気に飛んでいったらしい。
カット一回でそれは、痛すぎるかもしれない。薫でも泣きそうなのだから、守銭奴の瑛太ならば、泣いてもしょうがない。
「え、ってことは……」
ふ、とこの状況を引き起こした原因に思い当たる。
「名前を見つけるって約束したんだろ?」
ようやく事の重大さが理解できた。
どこが結果オーライだろう……事はまったく終わっていなかった。
青ざめる薫を、瑛太はにらんだ。
「めちゃくちゃ不本意だけど、協力してやる。さっさと名前見つけないと、俺の貯金が死ぬし!」
こうして、薫と瑛太の《神様の名前探し》は始まったのだった。