(4)
山だと聞いていたので登るのを覚悟していたのだけれど、なぜだか緩やかな下り坂が続いていた。苔むした、薄暗い山道の途中には、いたるところに大小の赤い鳥居があり、そしてあちらこちらに狛狐がいた。
瑛太は、黙りこくったまま薫の前をずんずんと歩いていく。時折立ち止まったかと思うと、物珍しそうに辺りを見回して、社を覗き込んでいく。
(……?)
何か変だ、そう思うのに時間はかからなかった。
瑛太が、うっすらと微笑んでいるのだ。
(これは――瑛太じゃない……!)
確信した薫は尋ねる。
「……カ、カミサマ? え、いつから?」
「ようやく気がついたか。エイタの嫁よ。入れ替わったのは大分前からだが、そなた、ずいぶんと鈍いのではないか?」
瑛太はおもむろに眼鏡を外した。
(ちょっと、眼鏡かけたままとか、それ反則じゃないですか!?)
カミサマが薫の前に現れるのは久しぶりだったが、いつも眼鏡を外しているから油断していた。
「……ええと、嫁じゃありませんし。鈍くもありませんし。で、あの、なんで今ごろ出てこられたんです? 他では現れなかったのに」
「なんでも何も、瑛太が何もかも投げ出して寝てしまったからな。代わりに歩いてやろうと思ったのだ。願い事があまりに重すぎて、堪えきれなかったようだ」
カミサマは、瑛太が弱っているときに現れると言っていた。八坂神社の不発に続いて、おもかる石がとどめを刺したのだろうか。
「ここは賑やかで面白いな」
カミサマは、ひどく楽しげだった。
薫は軽い足取りのカミサマに付いていく。カミサマは薬力社、眼力社など気になる神社には手を合わせていく。
けれど、所狭しと建てられた社すべてにはお参りしきれなかった。稲荷山が御神体と言っていたが、山全体が神様たちの住処だと言っていいのかもしれない。
どれだけの神が住まわれているのだろうと、薫は思う。
普通ならそんなことを考えないのに。そう思わされる何かが、ここにはあった。
「カミサマ、ここに見覚えは?」
瑛太がいないのなら、薫が調査をするしかない。薫はカミサマの後を追いかけながら、尋ねる。
だが、カミサマは、
「うむ、来たことがあるかもしれぬ」
「さきほどの神には出会ったかもしれぬ」
などと言って、薫を喜ばせたかと思うと、
「いや、やはり勘違いであった。どこの山も似ておるな」
などと言って薫を落胆させた。
登山に夢中になっているのか、返答が適当なのだ。
やがて薫は、カミサマから何かを聞き出すのは諦めることにした。
とにかくカミサマは、疲れ知らずで足が速い。勝手に瑛太を連れて行ってしまわないように見張るのが、いちばん大事な気がしてきた。
カミサマは途中の茶屋で勝手に団子を買い、高い抹茶まで飲んだ。
薫のためのあんみつまで勝手に買っていたけれど、あとが怖くて味がしなかった。
(瑛太、早く起きたほうがいいと思うよ! じゃないと、お金がなくなっちゃうよ!)
そんなふうに歩いては休憩、歩いては休憩と、ずいぶんとのんびりとした山登りだった。勾配はあまりにも緩やかで、山であることを忘れそうになるくらいだ。
だが、油断したころにそれはやってきた。
「なっ――、なにこれ」
突如、現れた急勾配に、薫は怯んだ。
階段は何段あるのだろう? 終点は木々に隠れて見えず、そして山の頂上は、どうやらかなり上の方にあると思われた。
「ここからが、本番のようだな」
カミサマが先に一段目に足をかけた。薫も肚を決めて続く。
登る、登る、登る。ひたすら登る。
鳥居の間隔はだんだん広くなる。急勾配過ぎて建てるのが困難なのだろうというのは自分の足が教えてくれる。
次第に景色を見る余裕もなくなってくる。見ても、鳥居の隙間からは険しい山肌が見えるだけだったけれど。
話題もないが、それ以上に喋ることが億劫だった。口を開けば荒い息とともに、「きつい」という弱音ばかりが漏れる。汗が静かに滴る。
上を見ると終わりのない階段が見えてしまい、気持ちが萎える。だからひたすら目の前の階段だけに集中した。
足がだるくなり、持ち上がらなくなる。それでも、階段の終わりは見えない。
ここから転げ落ちたら、どこまで落ちていってしまうのだろうと、そんな考えが時折ちらつき、その度に夢から覚めたようにしゃんとする。
(な、なんのために、ここ登ってるんだっけ……?)
根本的な疑問まで湧き上がる。
登山が好きな人の気が知れない、と登山中はいつも思う。登る理由は、「そこに山があるから」などと聞くけれど、それは山が好きなことが大前提だ。
(あー……辛い。足、重い)
一度立ち止まろうかと思うけれど、止まったが最後、もう登る気力が消えてしまいそうな気がする。
重い重い一歩を踏み出したそのとき、目の前に手が差し伸べられた。
「引っ張ってやろう」
「いや、あの、大丈夫、ですから」
「遠慮するでない。薫は女ではないか」
がっつりと手首を掴まれて、グイグイと引っ張り上げられた。
「ちょ、ちょっと痛い! ほんっと、大丈夫なんで!」
掴まれた箇所が、火傷をしたかのように熱いのがわかる。大きな、力強い手にびっくりしてしまったのだ。
感触を振り払いたくて、必死で腕を振って階段を登る。
薫は根性で、カミサマの前へと出た。大丈夫だ、というアピールだ。
「そなたがそんなふうだから、アヤツが悩むのだがな」
後ろでそんな声と大きなため息が聞こえるけれど、振り返ることもなく進む。
階段を登りはじめてから、15分くらいだろうか。
一度勾配が緩やかになり、薫はホッとする。立ち止まって息を整え、水を飲んだ。
「あとどれくらいかな?」
あの階段がまた現れたら、さすがに心が折れそうだ。引き返してしまいそうだった。
だが、階段は緩やかなまま薫たちを先へと誘う。
カーブを曲がったところに小さなお社がたくさんあり、もしかして、と薫は顔を輝かせた。そして遂に山頂、という文字が目に入った。
「一ノ峰、末廣大神って……つ、着いた?」
「そのようだな」
「や、やった……!」
下の喧騒が嘘のように、山頂には誰もいない。ひたすら狐と鳥居と社が、山のように建てられている。
お供え物もあるから、誰かがお祀りしているのだろうけれど、お参りの度にここまで登っていたら、さぞかし足腰が強くなるだろうと思った。
民家のような売店が脇にあるけれど、無人で営業していない。
完全に閉店しているわけではなさそうなので、昼くらいから開くのだろうか。
時計を見ると10時。四つ辻から、1時間ちょっとかかっている。
参拝だ休憩だと途中で足を止めながらだと、やはり1時間以上かかってしまうようだ。
達成感に、薫は破顔する――が、すぐに本来の目的を思い出した。
御神体の山頂。ここほど、この質問をするにふさわしい場所もないだろうと思えたのだ。
「カミサマ、何か思い出しませんか? ここの主であれば、赤い鳥居とか狐とかに、見覚えがあると思うんです」
「特に気になるものは、何もないな……」
「そ、そうですか。じゃあ、お稲荷さんじゃないってことですよね……ええと」
薫は瑛太に怒られたことを思い出す。
今度こそ間違えずに聞いておかなければ。そして、稲荷は違うという確信を持って、次に進むのだ。
「あなたは、宇迦之御魂神であらせられますか?」
正面から向き合い、丁寧に問う。カミサマは目を閉じて大きく深呼吸をする。
そして「うかのみたまのかみ」と口の中でつぶやいた。
やがて、
「なじまぬな。私ではなさそうだ」
カミサマは首を横に振った。覚悟はあったから、衝撃はなかった。
むしろ、これで道がひらけたような気持ちになった。こうやって、一歩ずつ進んでいけばいずれ解決する、そう思えたのだ。
「ようやく一歩前進した気がします。瑛太は多分、喜ぶと思います」
「一歩前進、か。人が皆、そのようであればよいのだがな。多くを望まなければ、願いは重くならない。願い事は、本来、身の丈と釣り合わねばならないものなのだ」
意味がよくわからずに、首を傾げる。
というより、嬉しそうなカミサマを見ると、この笑顔を浮かべているのが、瑛太だったらいいのにと思えて、寂しくなったのだ。
(早く戻って、瑛太)
だが薫の願いも虚しく、カミサマはまだ瑛太の体を乗っ取っていた。
三つ辻にあった地図では、このままぐるりと回って四つ辻へ戻るように書かれていた。
薫たちはそのまま、来た道と反対側の道へと向かう。この先にはまだ二ノ峰、三ノ峰と、神社があるそうだ。
下り坂を鳥居をくぐりながら歩く。もう登ることはないとホッとしていると、スマホが震えた。
「あ――海兄だ」
夕方に行くと言っていたけれど、時間や場所の詳細をまだ打ち合わせていなかった。電話に出ると、兄が開口一番言った。
『なんかさ、エマが来たんだけど』
唐突に言われたので、エマってなんだっけと思う。
「はぁ? 絵馬?」
耳を疑って聞き直すと、
『絵麻だよ。俺の彼女の。あいつが連絡なしで、いきなり来たんだ。だから布団が足りないんだよ。雑魚寝で構わないか?』
次兄は割とのんびりしているのだが、声からは焦りが滲み出ている。珍しいと思った。
「いや、あの雑魚寝っていうか」
(ええと、それ、なんとなくじゃましちゃまずいやつじゃないでしょうか)
さすがに口に出すことができなくて、薫は顔を赤らめながら遠慮を口にした。
「いや、えっと、やっぱり布団ないと辛いかも」
そう言うと、ホッとした空気が伝わってくる。
『悪いな。じゃあ、宿代出すからさ、適当なホテル泊まってくれ。なんか浮気してるって疑われてて、家探しまでされてんだよ。――あいつ、マジで鬼みたい』
浮気と聞いて、先日の絵麻さんとのやり取りが頭に浮かんだ。冷や汗が出てくる。
(あー! ってことは、これ、カミサマのせいだよ!)
どうも取り込み中らしく、鬼って何!? という金切り声が電話口から聞こえてくる。触らぬ神に祟りなし。
ひとまず了承の意を告げて通話を終えると、薫はカミサマに文句を言った。
だが、カミサマはまったく悪びれなかった。
「願い事が叶うように助言しただけであろうが。おかげで会えたのだから、感謝してもらわぬと」
「た、たしかにそうかもしれないですけど――っていうか、非常事態なんで瑛太を戻してもらいたいんですけど‼」
「そうは言われてもな。あいつが起きる気がないのでは、どうにも」
「どうやったら起きるんですか!?」
「私の嫌がることをすれば」
「じゃあ何が嫌なんですか」
「嫌なことをされるとわかって言うと思うのか」
「ほんと自分勝手ですね……!」
「どちらがだ。人も、『人の嫌がることをするな』とかなんとか、言うではないか」
「……」
なんだか煙に巻かれている気がする。瑛太とすぐにでも相談したいのに、もどかしくてしょうがない。
「慌てるな。せっかく楽しんでいるのだ。エイタが戻りたがれば出ていってやる。それまでは、放っておいてやってくれぬか」
下りはさすがに辛さはなかったけれど、膝に疲労が溜まっていくのがわかった。体力的には楽でも、体には負担が大きいのだ。
実のところ、もう一度千本鳥居を通りたかったけれど、鳥居の前に行列ができているのを見て、あまりの人の多さに通行を断念する。
行きと同じく感動が薄れそうだったし、何と言ってもこちらはカミサマ連れなのだ。問題が発生しても困る。
仕方なく迂回して民家の脇を通るルートを使うと、人がほとんどいなかったので、かなり時間が短縮された。
本殿の裏に出て、ホッとした。ノートには、次は北野天満宮だ、と予定が書かれているけれど、それどころではない。
とにかく宿無しは困る。
店に入って落ち着きたいけれど、と辺りを見回した薫は、御食事処という幟に引き寄せられた。楼門のすぐ傍にある古い建物だ。
食券を二人分購入する。
ゆっくり時間をかけて、一番高額な天ぷら定食を食べるカミサマの前で、早々にきつねうどんを食べ終わった薫は、スマホと格闘しはじめた。
だが薫はすぐに曇り顔になり、やがて途方に暮れた。
ゴールデンウィークの京都を舐めていたと思う。宿がまったく見つからなかったのだった。




