一 自称神様拾いました。(1)
ハルさんが亡くなったという知らせは、薫の凪いでいた日常に波紋を落とした。
ハルさんというのは、薫の住む七森町内の一角にひっそりと、しかし目をそらせない染みのように存在していた屋敷の住人だ。
夫に先立たれ、こどもがなく、一人暮らし。広い屋敷の管理には目に見えて手が足りていなくて、じわじわと確実に朽ちていっていた。
訃報を聞いたとき、家の寿命と同時にハルさんの寿命が切れたようにも思えたものだ。
「孤独死、かあ。それは寂しいよねえ」
ジャージに身を包んだ薫は、軍手と鎌とマスクと雑巾、そして自治体指定のゴミ袋の入ったトートバッグを脇に抱えて、ハルさんの家に向かって歩いていた。
ハルさんの家は、いわゆるゴミ屋敷。存命中はこどもたちにお化け屋敷だと揶揄されるような、やたら広くて、その分、手入れの行き届いていない家だった。
庭の樹木は伸び放題。雑草も生え放題。壁は剥がれて、屋根は一部瓦が剥がれ、凹んでいた。
害虫、害獣。隣家の悲鳴は鳴り止まなかったが、ハルさんは耳を貸さなかった。
だからだろうか。自治会の動きも早かった。
ハルさんが亡くなったという噂が耳に届いた翌週に、まるで待ち構えていたかのようなタイミングで回覧板が回ってきたのだ。
《清掃ボランティア募集》
ゴミ撤去の機会を狙っていたのかもしれない。
そんなふうに穿ってしまうようなポップで不謹慎なフォントで、まるで楽しいことのように書かれたお知らせには、ハルさんが身寄りのないままに孤独死をしたこと。そして行旅病人及行旅死亡人取扱法という法律に則って、自治体が火葬をしたということ。遺品整理を兼ね、掃除のボランティア(各家庭一人必ず出席、と書かれていて、ほぼ強制参加である)を募っていることが書かれていた。
母と一緒に回覧板を覗き込んだ薫は、ぽつんとつぶやく。
「お通夜も葬式もないんだね」
「自治体って火葬まではやってくれるんだねえ。でも葬式とか遺品整理まではしないってことか。まぁお金かかるしね。うーん、この日は仕事だぁ……薫、掃除はあんた行ってきてくれる?」
両親共働き、三人の兄はそれぞれ進学や就職で実家を出てしまっている。
高校二年生で、そして春休み中である薫がこの役目を任されるのはある意味当然のこと。
「薫がいてくれて助かるわぁ」という言葉に、調子がいいなあと思いつつも背を押されて、薫は頷いたのだった。
古びた七森町自治会館前の桜は満開だった。
道の左右から伸びている枝から、ハラハラと薄紅色の花びらが散ってくる。花びらのアーチをくぐり抜けながら、薫は命の儚さを思ってため息を吐いた。
ハルさんとはほとんど面識はない。たまに道で出会ったら挨拶をするくらいの顔見知りで、実のところあまりいい印象もなかった。
というのも、昔、家の敷地で遊んでいて怒られた印象しかなかったのだ。
細い道の突き当り。町内で一番広い敷地を囲むブロック塀の向こう側には、住宅地では珍しい土が豊富にあった。
しかも公園にあるような黄色い砂ではなく、ミミズがいるような、腐葉土と言っていいようなふっくらとした黒い土だ。
栄養たっぷりな土には木と草が生い茂っていた。
バッタや、セミやクワガタの幼虫など、虫もたくさんいて、こどもの格好の遊び場であった。
虫の鳴き声が響き渡る。濃い緑が陽の光に鮮やかに浮かび上がるそこは、明らかに別世界だった。世界にはこんなにたくさんの色があるのだと驚いた覚えがある。
(それから……)
あの場所をさらなる異世界に思わせていたのは――
庭にあった不思議な建造物を思い出しかけたところで、
「あれ?」
薫は前方に見知った人影を見つけた。
伸び過ぎたせいでボブになりかけているという残念かつ特徴的な髪型。しかも鬱陶しくないのかと問い詰めたくなる長い前髪。眼鏡は小学校のときから掛けている一昔前の野暮ったいセルフレーム。着られればいいといったふうの古びたジャージ。
何よりも、背の高さを打ち消すあの猫背は見間違いようがない。
「瑛太?」
幼馴染の二ノ宮瑛太だった。
なんでここに、と一瞬浮かんだ疑問を薫はすぐに消した。
同級生の彼は、薫と同じ理由でここにいるのだと思ったのだ。
彼は、
「俺は、バイト」
と、薫の心を読んだかのように答えた。
同じ町内に住んでいて、幼稚園から高校までの腐れ縁だ。
弟分の彼とは意思疎通に時間はいらない。そして遠慮も皆無だった。
「え、ボランティアって書いてあったよね? お金なんて出ないよ」
「いや、うちの家族が誰も行きたくないからって、俺に押し付けたから、親に正当な賃金を要求しただけ」
なあんだ。いつものことか。薫は呆れてため息を吐く。
「変だと思ったんだ。守銭奴の瑛太にはボランティア似合わないし」
「人の厚意に付け込んで強制的にタダ働きさせようっていうほうが、守銭奴よりよっぽどひどい。そういう搾取を許す風潮がブラック企業を作るんだよ」
瑛太は薫の説教など聞く耳を持たないといった様子で門――と言うよりはブロックの塊だが――をくぐる。そして、直後立ち止まった。
「っていうかこれ、金貰わないとやってられねーだろ。業者入れろよ……ボランティアの域を超えてる」
瑛太は前髪をかきあげ、うんざりとため息を吐くと、前方を指差した。
薫は、思わず目を見張り、
(あ、わたしもお小遣い貰っておけばよかった……)
と、瑛太に賛同する。
大人たちで作られた垣根の向こう側には、想像以上のゴミの山が積み重なっていたのだった。
「ひっでえな、これ」
玄関の引き戸の向こうには、大量のゴミ袋が積み上げられ、悪臭を放っていた。
コバエも舞っていて、薫はマスクを取り出すと鼻と口を覆う。
ハウスダスト対策で持ってきたのだけれど、まさか悪臭対策に使うとは思わなかった。
顔をしかめた瑛太が「俺のは?」という顔をするが、あいにく一枚しか持ってきていない。
代用品を探し、ポケットのハンカチを差し出す。
「サンキュ」
瑛太は遠慮なくハンカチを手に取ると、三角巾のように折りたたんで顔を覆った。
タータンチェックの赤いハンカチのせいで、瑛太の外見はさらに残念度を増すが、本人は意に介さずだ。
昔からファッションセンスというものが欠如していたのだが、それが壊滅的になったのは小学校高学年から。
瑛太の顔は昔、女の子顔負けの可愛さで、近所のお姉さんたちのアイドルだった。
だけど、野暮ったい眼鏡はどんどん分厚くなり、顔の印象はどんどん変わって、アイドル時代にはあっさり終焉が訪れた。
更に美容院嫌いが悪化して、年に三回くらいしかカットにいかないので(しかもいつも前と同じ感じでとしか注文しない)、一年の半分くらいはもっさりしている。
そのすべての元凶は、二ノ宮家特有の小遣い制にあると薫はにらんでいる。
彼の家では、文房具代から服飾代まですべてをまとめて支給され、使い方は任されるそうだ。
彼に言わせると、外見を磨くためのお金はすべて無駄金。だから、この惨状なのだ。
そんな幼馴染を見ていると、薫は残念だなあと呆れながらも、世話を焼けることにホッとする。
瑛太は3月生まれ。4月生まれの薫と約一歳違う彼は、昔からほしかった弟でしかなかった。
うっかり口にするとマジギレされるので言わないが、言わなくとも伝わっているらしく、たまに彼はとても機嫌が悪くなる。
(けど、それならもうちょっと自分でしゃんとするべきじゃない?)
世話を焼かれているくせに偉そうにするなと、自称姉としては思ってしまう。
そういうわけで喧嘩は絶えないのだけれど、なんだかんだ気が置けない彼とはいつも一緒にいる。腐れ縁というのはこういうものだろうと思っている。
「ちょっとそこの若い人~」
奥にいた自治会長さんが声を上げた。頬かむりをしてマスクをしている、阿波踊りでもはじめそうな風貌だ。
室内なのに既に土足で上がり込んでいるが、正直、スリッパ持ってくればよかったという惨状だったので非難はできない。
(だって、畳が黴びてるしー!)
ひえええと、内心では悲鳴を上げたいくらいだった。
罪悪感を感じつつも土足で一歩家の中に入ると、カサカサと何かすごく嫌な音がした。
反射的に浮かび上がる鳥肌。青ざめて飛び出したくなった薫に、自治会長さんは言う。
「そこのタンスの中、整理してくれる?」
「えっ」
思わずおののく。
(絶対何か出てくる。間違いなく出てくる! Gだけじゃなくて、クモとかムカデとか、カメムシとかそういうのも‼)
だけど、やらないという選択肢はない。手伝いにきたのだから役に立たずに帰るというのは無理だと思った。
だが、
「いえ。俺はゴキブリ無理なんで。めちゃくちゃいますよね、ここ」
瑛太があっさり任務を放り出した。
「え? そうなの? 今の子はひ弱だなあ……じゃあ庭の方お願いしようか。瑛太くんがだめなら薫ちゃんも無理かな。でも庭広いし、草もすごいよ~。草刈りのほうが体力的に大変だけど、いい?」
「大丈夫です」
助かった。ホッとしつつ瑛太を見やると、申し訳なさそうな素振りも悔しそうな素振りもせずに、さっさと外へ出ていく。
特性をわかっているのは、いいことなのか悪いことなのか。
(あれ、でも瑛太もゴキブリだめなんだ?)
幼いころ、虫かごいっぱいにカブトムシやクワガタやセミを捕まえていたような覚えがあるのだが。やはりゴキブリは別だというのか。
首を傾げつつ瑛太に続いて外に出た。
空を見ると、西から分厚い雲がやってきていた。
庭ではむうっとした生暖かい空気が薫たちを取り囲んだ。
昔忍び込んだ庭は、相変わらず荒れ放題だった。
少し前までは枯れていたはずの雑草は、春の光を浴びて伸び放題で、剪定されていない樹木は葉こそ茂っていないものの、あちこちに枝を伸ばして独特のアートとなっていた。
「さっさとやるか。日が暮れる」
瑛太が腕まくりをしている。
けれどやはり道具は持参していないらしく、やる気はあるのかと叱りたくなった。
「軍手を貸してあげるから、地道にむしって」
「鎌を貸せよ。薫がやると怪我しそう」
「それはこっちのセリフだよ。わたし、こっち側やるから、瑛太は向こうね」
瑛太との間に腕で線を引くと、入り口側の狭い方をやってと指差す。右手で鎌を握りしめ、左手で軍手を放り投げる。
庭の奥に向かって雑草の森は深くなる。
近くにあった木蓮の木の下には、朽ちた花びらがいくつも落ちている。椿の花はまだちらほらと残っているけれど、やはり大半が花の形を保ったまま土に還ろうとしていた。
今はもうほとんど見かけなくなった、ポンプ式の井戸もあった。その周りを、アリとダンゴムシがうろついている。驚くほどのサイズに怯むが、先程室内で聞いた音の主に比べればまだ可愛いほうだ。
外にいる虫は平気なのに、家の中にいるアレはどうしてあんなに気持ち悪いのだろうかと不思議に思いながら、薫はせっせと鎌を動かした。