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 「あたし、結婚するんだ」

「は」

 姉からの突然の告白に、相原は言葉を失った。

「い、いやいやいや。いつ、誰とすんの。つか急すぎ……え、マジ?」

「マジよ。当たり前でしょ何言ってんのあんた」

 姉は相原の正面に座り直し、煙草に火を付ける。ほんのりと、甘いバニラの香りが鼻先を掠める。

「お店でね、あたしのこと気に入ってくれてる人がいるんだけど。その人×××社のエライ人らしくて、あたしより4つ年上なんだけど優しくてすごくいい人なの。若いのにすごいわよね。でね、だいぶ前に付き合いで遊んだの。その後くらいからかな、体調おかしいな~とは思ったんだけど、この間病院行って検査してみたら『できちゃってた』のよ。一昨日くらいにその事彼に話したのね、そしたら『産んでもいいよ』って言ってくれて。堕ろせって言われると思ってたから嬉しくて」

「ちょっ、と、冗談キツくない?まって、姉貴子供産むの?」

「そう」

「店で会った男との子供で、その男と結婚すんの?」

「だからそうだって」

姉は気だるそうに煙草の灰を落とし、幸福げに深く煙を吸い込む。

 相原は唖然としたまま姉の顔を見つめる。いきなり突きつけられた事実を理解しきれない。

「あたし今幸せなの。あの人のこと本当に愛してる。仕事もできるし、イケメンだし。ほんとステキ」

「や、考え直した方がいいだろ。店の付き合いしかないなら騙されてんのかも……」

「はぁ?子供もできてんだから結婚以外の選択肢ないでしょ。あたしは子供産んで育てたいし、そしたらお金が必要でしょ。あたし一人でそんな大金用意できないわよ」

「うちの両親に話せば支援してくれるだろ」

「あたしは、なるべくあの人たちと関わりたくないの」

「けどさ」

「あたしの幸せよ。あんたにどうこう言われる筋合いないわ」

「……」

軽く眉をひそめる姉に、返す言葉がない。相原は煙草に伸ばしかけた手を机の上に置く。

 「……どんな人」

道口(みちぐち) 陽介(ようすけ)っていうの。タレ目で、笑うとこう、ちょっと幼くなるっていうか、可愛いの。結婚したら仕事の付き合いでも何でも風俗店は行かないって約束してくれて。あたしも今いる店やめてしばらくは子育てに専念できるようにしていいよって」

「あ。あとね、来週から陽介と同棲するの。だからあんたに会うのもこれが最後になるかな」

「え……」

 とろんとした顔で白煙を吐き出す姉は、愛しいものでも見るような目をして相原を見つめている。

 どう反応すればいいのかも分からず、相原は視線をさ迷わせた。今まで姉がそんな視線を相原に向けたことは一度もなかったように思う。

 「姉貴、料理とか、できねーじゃん。どうすんの」

「うっさいわよばーか。ちゃんと本買って、練習するわよ」

けらけらと笑う顔は幸せそうで、相原は安心した。姉の笑顔を見たのはいつぶりだろうか。


 「あー、」

煙草の本数が増えそうだ。と相原は新しい箱を開ける。煙草を吸い始めたのは姉の影響が大きい。

 苦い煙草を噛み潰して端末に目を走らせる。開いているページは×××社のホームページの中にある、姉が言っていた道口という男について書かれたものだ。確かに、女ウケの良さそうな顔で会社での立場もいい。

(姉貴が幸せなら、それでいい。そう思う。けど、)

 何か胸の内がもやもやする。話したこともない人物が自分の兄になるかもしれないからだろうか。

「不安、なんだよなぁ」

 両親には話すべきだろうか。まともに考えれば話すべきなのだろう。しかし、姉の心情を考えると伝えづらい。

 「辛気くせぇ面してんな、相原」

「佐野山さん」

白い煙草のパッケージを眺めていると、横から声がかかった。

 喫煙室に入ってきた佐野山はスーツの内ポケットから形の崩れた赤マルの箱を取り出す。煙草を一本取り出すと口に咥え、上着をまさぐる。

「火ぃくれや」

「またっすか」

相原が差し出したライターを受け取り、佐野山は火を付ける。

「ただでさえ辛気くさい仕事してんのに職員まで辛気くさい面してたら救いようがねぇな、おい。何かあったか」

「佐野山さん。俺もう駄目かもしれません」

「何だ急に。話くらい、聞いてやるぞ」

「姉貴……姉が、いるんです。一人。その姉が急に結婚するって言うんですよ」

「うん」

「仕事の付き合いで知り合った男が相手らしくて。俺はその人のこと知らないんすけど、姉はすごく幸せそうなんですよね。『かっこいいし、優しい人だ』って。もう子供もできてて、来週から同棲するなんて言ってて、」

「佐野山さん、俺、姉貴には幸せになってほしいって、ずっと思ってたんです。なのに、何でだろう。その話聞いたとき、嫌な気持ちになったんすよ。心配、っていうのもあるけど、何か違うような感情もあって。俺、どうしたらいいんでしょう」

「知るか。んなこと俺に聞いてもお前の欲しい答えなんてくれてやれねーぞ。結局行動するのはてめぇだろ。単純に考えて、お前は、どうしたい?どう思うかじゃなく、どうしたいか考えてみろや。祝福したいのか、止めたいのか。相手がどう思おうが、今お前にできることをやっといて損はねぇだろ。あとから後悔したって遅いんだ。先走っててもいい。納得のいく答えを出せばいい。人生に明確な正解のある問題なんて無いだろ?」

「屁理屈」

「おっさんの話なんてそんなもんだぞ。徳の高い言葉が欲しいなら宗堂にでも行ってこい」

 器用に煙の輪を吐き出す佐野山を見て、相原は真似をするように上を向き煙を吐き出した。

「……ヘタクソだなぁ」

「コツがあんだよ、コツが」



 部屋は狭苦しく、息苦しさを感じた。

 相原 世通香(せつか)は気だるげに煙草を咥え、腹を撫でた。バニラに似た煙草の匂いが室内に白く漂っている。

 窓を開ける気にもなれない。

 長年愛煙しているこの香りも、自分の中の命には毒だという。医者にも禁煙を勧められたが、自他ともに認めるヘビースモーカーが急に禁煙などできる気がしなかった。

 味わうように煙を吸い込むが、蜂蜜の味などせず掴み所のない甘さが舌先を舐める。これは、キャスターよりも煙臭い。

 幼い頃から甘いものが好きだった。甘い煙を吸い込むように、好き勝手に生きてきた。

 考えそのものが、甘かったんだろうか。結局、今はタール値ばかり高く難しい煙草を吸っている。

 心残りは、なかった。煌びやかな風俗店で働いて、煙のように不安定な生活。自分がいつ消えても、きっと誰も、何とも思わないと思っていた。

 心残りはない、はずだったのだ。

 一人、弟がいた。出来がよくて要領のいい、誰からも可愛がられる弟。自慢の、可愛い弟だった。弟とは対照的に出来の悪い姉によく懐いてくれた。

 いつから嫌いになったのか、思い出せない。

 思えば、弟だけはいつも私の心配をしてくれた。両親は、私にとって『家族』ではなかった。弟だけが、私の『家族』だった。

 目の前の『自殺志願書』と、まっさらな『遺書』。死亡動機を書くことができず一週間以上放置していたそれを机の上に出す。

 短くなった煙草を揉み消し、最後の一本を咥える。

 「いい加減、書かないと……」

 言い聞かせるようにそう呟き、世通香はペンを取った。

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