3
孝明は目の前で起きた出来事を理解できず、茫然と立ち尽くしていた。周囲に人影はなく、そのせいか自分が唾を飲み込む音がやけにはっきりと聞こえる。
目の前に広がるのは、赤。その中心には同じ学校の制服を着た男子生徒の姿。落下の衝撃で手足は不自然に折れ曲がっている。
飛び出た脳漿、潰れた頭。
首が折れて横を向いたその生徒の顔は、辛うじて身元が判る程度に原型を留めている。その、顔は――
「ッ!」
額を伝う汗を拭い孝明は周囲を見渡した。自室のベッドの中。外はまだ暗く、室内には冷気が立ち込めている。
荒い息を整えつつ布団を出る。汗に濡れた体が気持ち悪い。
そのまま眠る気にもなれず、孝明は軽くシャワーを浴びると母を起こさないように家を出た。
高校の開校記念日、予定も入っていなかった一日は最悪の寝覚めだった。
吐く息は白く、足元の水溜まりには氷が張っていた。薄氷といったか。踏むと簡単に割れ、その下からは冷やされた雨水が染み出てくる。冷水に閉じ込められた落ち葉が数枚、水溜まりの底で揺れた。
冷気に閉じ込められたような町はどこまでも静かで、世界に一人だけ取り残された気分になる。陽が昇る前、早朝の澄んだ空気は吸い込むたび肺の中に霜が降りる心地がした。
目的もなく町を歩き、自然と足が向いたのは町外れにある火葬場だった。黒ずんだ壁を持つ禍々しい建物は、町に隣接する山の麓に建っている。その前には処分されずに朽ち果てた工業団地や歩道橋、ひび割れた道路が並ぶいわばゴーストタウンが広がっている。火葬場が近いせいもあり、普段から人が寄り付かない場所だ。
孝明は躊躇いなくゴーストタウンへと足を踏み入れた。住んでいるアパートが郊外に建っていることもあり、孝明がこの場所に来るのは決して珍しいことではなかった。本当に一人きりでいることを実感できる場所は、ここをおいて他にあるとは思えなかった。
火葬場に近づくほどに、はっきりと白い煙が流れているのが確認できた。
――この国で人が死ぬのは、そう珍しいことではない。
微かに俯いて雑草の生えたアスファルトを踏みしめる。緩やかな坂を登り、ふと歩道橋を見上げる。今では使われなくなった巨大な鉄階段の上には煙草を吹かす男の姿があった。火葬場から流れ出る白煙を何をするでもなく眺める姿は、まるでこの町の住人を体現しているようだった。緩やかに死に向かう、何も成し遂げようとはしない人々。
幸せな天の国の住人は平和を貪り何の疑問も抱こうとしない。
目線を足元に戻し、さらに進む。
傍らに火葬場を従える錆び付いた電波塔は、いかにも旧時代の遺物らしく塔の内部に観測デッキへと続く階段を持っていた。その階段を登り、観測デッキの扉を開ける。緩やかな風が塔内部へと吹き込み、空洞の体躯を低く唸らせた。
孝明はデッキへ出ると、そこに腰を下ろした。このゴーストタウンに電波塔よりも高い建物はない。火葬場を上から見下ろすこの場所は、誰にも知られることのない孝明の秘密の場所だった。
ゆっくりとビルの隙間から朝日が顔を覗かせ、透き通った白い光が溢れるように町を満たす。その光に溶けるように、白煙は霞がかって消えた。
まだ陽の昇らない朝方に焼かれる遺体は〈特殊生命保険センター〉で処理された人々のものであると、孝明は直感的に悟っていた。彼らの遺体は弔客もなく、ただ事務的に火葬場に運ばれ、骨と灰になって遺族のもとへ届けられる。その時渡される遺書を見てはじめて、遺族は誰が居なくなったのか知るのだ。それほど迅速に〈特殊生命保険センター〉は対応する。
それを『正常』として受け入れるのは、生まれてからずっと変わらない『異常』を世の常としているからなのだろうか。
それを『異常』だと意見するその人こそが、『正常』たりうると思うのは自らが『国賊』であるからか。
自分が生まれるよりも前に生まれた『死の自由』は、ゆっくりと確実にこの国を殺す装置に思える。
――この制度を『正常』たらしめた人物、すなわち、元首相・畑市 昭彦こそが『国賊』ではないか。
不意に浮いた考えを掻き消すように頭を振って、孝明は息を吐いた。それは煙のように白くなり、やがて空気に溶けていった。
電波塔からアパートへと帰る途中、孝明の耳にその知らせが入った。
『畑市 昭彦首相が亡くなられていることが今朝未明、判明しました。秘書官は「首相とは今月12日から連絡がつかなくなっていた」と話しており......』
決して繁盛しているとはいえない寂れた電気量販店のショーウインドに置かれた幾つかのテレビ画面に、同じ局のニュース番組が映されている。亡くなった畑市首相への悲しみの言葉やその功績を称える言葉、政府の杜撰さを批判する政治家の言葉がガラス越しに聞こえてきていた。
――約50年ぶりに選挙が行われる
そのフレーズが嫌に耳に残った。一体いつ、どんな形で行われるのか。自分で誰か一人の人間を選ぶことに不安感が募る。
家に帰りつきそっと母の寝室を覗くが、母はまだ寝ているようだった。安堵を覚えつつ自室に戻る。
室内はほんのりと薄暗く、窓の外はほの明るい朝日の色を映していた。電気を点ける気が起きず、孝明はそのままベッドの端に腰かける。枕元に置いた端末のライトが青と赤に点滅している。
気だるげに端末の電源を入れると、画面一杯にいくつものメッセージが表示された。重なりあったそれらの、赤い枠に囲まれた文章は首相の訃報を知らせるもの。白枠のものは友人からのメッセージだ。
まきやん
『畑市死んだって、ヤバくねぇ!?国政紙ずっと鳴りっぱなしだし随時更新されてってる』
まきやん
『世界の終わりかよ』
まきやん
『おいこら、既読つけろよ』
まきやん
『おいって!』
連打されたのであろう、怒りマークを浮かべた少年のスタンプが更新され続けている。
孝明
『今見たよ』
孝明
『ちょっと出かけてた』
まきやん
『は?こんな朝からどこ行ってたんだよ』
孝明
『まあ、ちょっと』
まきやん
『?』
まきやん
『つーかさ、畑市の次、誰がなるんだろうな。総理大臣』
孝明
『さあ』
孝明
『まだ何も分からないだろうし』
まきやん
『だよな。授業とか理解不能』
孝明
『あんまり内容なかったもんね』
まきやん
『せっかく今日遊び行こうと思ってたのによー。多分どこも臨時休業だよな』
孝明
『前に首相が死んだときって、確か交通機関止まったんだっけ』
まきやん
『おー、お前よく覚えてるな』
孝明
『よく覚えてるな、じゃないよ』
孝明
『次のテストで出る範囲だろ『P・ショック』』
まきやん
『そうだっけ』
舌を出してウインクをする女の子のスタンプが表示される。
――P・ショック。正式名称prime minister shockと呼ばれる事件で、10代目内閣総理大臣の菊本 祷が心臓発作により死去したことから『菊本・ショック』とも呼ばれる。予期されない総理大臣の急死は、公共交通機関に始まり全国の市場に影響を及ぼした。この事件は、教科書でも大々的に取り上げられている。
感覚的には似ている、のかもしれない。今回の畑市首相の死はあまりにも唐突で、さらに発見が遅れていた。もしくは、政府はこうなることを恐れて事実を先延ばしにしていたのか。
(何が正しいのかなんて、)
――結局、誰にもわからないんじゃないのか