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 「はぁ」

今ではほとんど使われることのない歩道橋の上で、相原(あいはら)は吸い込んだ煙を吐き出した。冬の澄んだ空気に吐いた紫煙が溶けていく様を見ながら下がりかけた瞼を右手の親指で擦る。

 時刻は朝六時を過ぎたところか。決して遠くも近くもない場所から白い煙が流れ出ている。

 人の命を具現化したらあんな具合なのだろうかと考えながら、自分の死に様を想像してみる。きっとそれは真っ黒でタールに塗れたベタつく煙なのだろう。

 白み始めた空を背に、相原はジャケットの前を合わせ直して風化した階段を下っていった。


 朝日に涙の滲む目を何度も瞬いて、相原は大きく欠伸をする。もうすぐ遺体の焼き上がりだ。

 火葬場の待合室で一人、ソファーに腰かける。暖房の効いた室内は暑いほどで、相原はジャケットを脱いで傍らに丸めた。堅苦しい喪服の前をだらしなく開けつつ、天井を仰ぎ見る。まるで低温のオーブンに入れられているようなこの心地は、場所のせいもあるのだろう。

 しばらく待つと担当者が相原に小さく声をかけてきた。いかにも陰鬱で張りのない声からは、この仕事に辟易(へきえき)しきった担当者の心境が容易に想像できた。彼も好きで死体を焼いているわけではない。それでも葬儀の際にははっきりとした声量で、それでいて喪に服した態度で遺族と接しなければならない。

 拾骨室には担架にも似た黒い骨上げ台があり、その上には既に故人の遺灰が置かれていた。その傍らには先に通されていたらしい佐野山(さのやま)が立っている。担当者に手渡された骨箸を持って佐野山の隣に立つと、相原は遺灰に向かい一度手を合わせた。

 慣れた手つきで箸渡しを行い、遺骨を骨壺に納め終わると担当者に骨箸を渡して拾骨室を後にする。白い桐箱に入れられた遺骨は、相原が持つ。

 「何ていうか、あっさりしてますよねぇ。これ」

「そりゃ、仏さんもむさい男よりカミさんに骨拾われたかったろうよ」

 助手席で遺骨を抱える相原を横目に、佐野山はハンドルを切った。

 国道沿いに車を走らせ、目的の団地に入る。質素なコンクリート作りはお世辞にも綺麗とは言えない貧困さを滲ませている。

 「すいませーん、どなたかいらっしゃいませんか」

抵抗の少ないチャイムを二回鳴らし、相原は声をかける。隣では佐野山が書類を手に窓から家の様子を窺っている。

「どちら様でしょうか……」

ドアの隙間から顔を出したのは気の弱そうな中年女性だった。朝食の準備をしていたのだろうか、卵を焼く匂いが鼻先を掠める。

「ご主人の、遺骨をお持ちしました」

佐野山の言葉に、女性は小さく息を呑み口元を両手で覆った。大きく見開かれた瞳には涙が滲んでいる。しばらく言葉を紡ごうとする息遣いが聞こえ、相原は静かに遺骨を差し出す。

 ずいぶんと小さくなった夫を受け取り、彼女は押さえきれなくなったように両目から大粒の涙をこぼした。

「この度は、お悔やみ申し上げます」

短く言葉を紡ぎ、佐野山は遺書と書類を差し出す。

「受取書の方にサインをお願いします」

 何度聞いても、個人を悔やみに来た客の態度ではない。仕事といえど、傷心の人間に状況を整理する暇も与えない無慈悲さは勤務歴の違いを感じさせる。

 震える手で書類にサインをすると、女性は俯いて小さな会釈をしながらドアを閉めた。壁の向こうから、どこかに電話を掛ける声が聞こえてくる。


 「帰るか。相原、朝飯食ってくか」

「佐野山さんの奢りならご一緒しますよ」

朝の七時過ぎ。贔屓にしているカフェへと向かう。通勤ラッシュに巻き込まれながら、ようやくカフェの駐車場に車を止めた。広くない駐車場内には佐野山の黒いセダン以外駐まっていない。

 こぢんまりとした、どこか家庭的なカフェに大の男が連れだって――それも朝の通勤時刻に――入る光景は、端から見ると異様だろうか。ドアを押し開けると、ドアベルが小さく鳴った。

 窓側の明るい席に腰かけてメニューを開く。欠伸を噛み殺して向かいの佐野山を見ると、すでに店員を呼んでブラックコーヒーを二つ注文していた。

「あと、オリジナルサンドと……」

「……カツサンドを」

横目で注文の催促をする顔を不服そうに見つめ、相原は営業スマイルを浮かべて店員に告げる。注文を取っているのはアルバイトだろうか、見たことのない顔だ。愛想のいいさっぱりとした美人で、笑うと笑窪ができる。いつも注文を取る女店主は、今は厨房にいるらしい。

 「何とも言えない優越感ってのがあるよなぁ」

しばらく通勤する人々の波を眺めていた佐野山がため息のようにそう吐き出す。

「え?」

「いや。大半の社会人がこうして出勤していく中、俺たちはこれから飯食って寝るんだ。ちょっと違うことしてる感っつーのは、いくつになってもわくわくするもんだぜ」

「そうすか」

 無精髭の生え始めた佐野山の顔をちらりと見て、相原は手元の端末を弄る。表示されているのは国内で最も信頼されている『国政紙』の配信版、いわゆるデジタルニュースだ。各新聞社が提携して運営するこのアプリケーションは正確な情報をより迅速に国民の元へ届ける。

「あ、ちょっとこれ見て、佐野山さん」

速報欄に赤文字で示された記事を認識した瞬間、相原はほとんど反射的に端末の画面を佐野山に向けた。

 『政界の帝王、死亡を隠蔽か。……畑市(はたいち) 昭彦(あきひこ)首相が12日、亡くなっていたことが今朝判明した。87歳、新政策発足直後のことである。首相は以前より胸の痛みを訴えていたこともあり、専門家は……』

 『業界偉人ら、畑市 昭彦首相の死に涙。……政治ジャーナリストの猪尾(いのお) (つかさ)氏(53)は畑市首相について、こう語る。「畑市首相ほど国に貢献した人物はいまだかつていなかった……」』

 次々と更新されていく記事は、すべて首相の訃報を見出しとしている。

 ――21代内閣総理大臣、畑市 昭彦。36歳の若さで総理大臣に就任、直後から様々な改革を行い国の基盤をより強固なものにした。17代首相、今野(こんの) 永利(ながとし)の時世より始まった<特殊生命保険センター>という制度も彼によって国に根付いた文化といえるものになった。まさしく偉人といえる人物。

 「これは、……大変なことになったな」

ごりごりと顎を擦りながら、佐野山は吟味するように記事を眺める。彼にしては珍しく、驚いたように目を見開いている。

「選挙って、始まるんでしょう。学校じゃあ習いましたけど、実際どうなんすかね。自分達で国のトップを決めるなんて下手したらその後この国は大惨事になりかねませんよ」

 ふたたび端末を操作し、ため息とともに吐き出す。畑市が国民選挙で選ばれた人物であることは知識として知っているが、選挙が行われたのは51年前。半世紀も昔の話だ。

「佐野山さんは前の選挙のこと覚えてたりするんですか」

「まだ6歳だぞ、覚えてるわけないだろ」

「そんなもんですか」

「子供にとっちゃ意味のない話だからな」

「意味のない話って訳でもないでしょうに」

 端末の電源を切りジャケットのポケットに入れると、相原はカウンターの方を見やる。丁度いいタイミングで女店主が商品を運んできた。

 「お仕事お疲れ様です。カツサンドと、オリジナルサンド。本日のオリジナルサンドはアボカドとエビのマヨネーズ和えですよ」

テーブルの上に置かれたコーヒーとサンドイッチに思わず唾を飲み込んで両手を合わせる。

「そういえばさぁ、これ、もう見ました?」

ふと思いつき、相原は端末を開いて画面を女店主に見せる。

「あら、あらあら、知らないわ。本当?」

 女店主は端末を受け取りしばらく呆けたように文章を読んでいたが、顔を上げると誰にともなく呟くように息を吐いた。

「大変なことに、なったわねぇ」


 カフェを後にして<特殊生命保険センター>へ向かう。

 車を駐車場に入れる前に下ろされた相原は堂々と正面ドアからセンターへ足を踏み入れる。受け付けにいるのは新任の職員だ。

「あ、お疲れ様です。相原さん」

「おう。ご苦労」

 ひらひらと片手を振ってロッカールームへ向かう。

 裏口から入ってきた佐野山はすでに着替え始めていた。相原もそれに続き喪服を脱ぐ。普段着のパーカーに着替えロッカーに鍵を掛けると、仕事着でもある紺のスーツに着替えた佐野山が呆れたような目でこちらを見ていることに気づいた。

「何スか?」

「家からスーツで来た方が楽だろうよ」

「動きづらいから嫌なんですよ、スーツ」

 佐野山に別れを告げ、マウンテンバイクに跨がると大きく欠伸をしながらのんびりと自宅へ向かう。広くも狭くもない1LDKで待っているベッドが恋しい。


 『……に、首相が死亡していたことが』


 信号に引っ掛かりブレーキをかけると、大通りに建つ電気会社のビルに設置された大型テレビからニュースキャスターの声が聞こえてきた。むこう一週間は報道され続けるであろうそのニュースに思わずといった様子で立ち止まる人々も少なからずおり、彼らは呆けたように特大画面を見ている。

 信号が青に代わり、相原は何事もないようにペダルを踏み出した。

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