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 ――この国は、『天国』と称される



 四方を海に囲まれ、外界から断絶された島国。潮の流れが強く、島外への移動は週に一度の航空便のみ。それも天候次第では運休、事実的には鎖国しているのと変わらない。しかし、この島国は温暖な気候と豊かな自然に恵まれ安定した食料自給率を誇る。工業は盛んではないが、国民の生活が他国に劣ることはない。

 国政は安定し、国民の生活水準は他国と比べても高い。教育費や医療機関の無償化に伴う各税の引き上げはあるものの、国民には受け入れられている。医療機関の発達に加え福祉は充実、昨年の調査では男女とも平均寿命が90歳を越えた。


 人口は緩やかに増え、生活必需品が枯渇することもない。鎖国的なこの国は、国民にとって正しく『天国』だった。





 知也(ともや)がいなくなった。高校二年の夏休みが明けた日に、先生は知也が『居なくなった』ことを告げた。知也は自らの意思でそれを決意した。だから悲しむ必要はないのだと。SHRの後、クラスでは一分間の黙祷が捧げられた。少しだけイレギュラーな日。それだけの認識で、物事は流されていく。

 この国で人が『居なくなる』のは珍しいことではない。年間約1600人の人間が自ら死を決意し国が定めた〈特殊生命保険センター〉へ赴く。特殊生命保険センターとは、この国独自の福祉(・ ・)機関だ。自殺補助の働きを持ち、安らかな死をもたらす施設。この国では、『死』すらも己のものとし他者からの干渉を一切受け付けない。もちろん一時的な説得は受けることになるが、決断を下すのは自分以外の何者でもない。『自殺』という言葉でなく『勇気ある決断』として扱われるその死を指して、いつからか『居なくなる』という言葉が使われるようになった。

 「今日、知也が『居なくなった』って」

会話の弾まない夕食中、孝明(たかあき)はそう切り出した。母と二人暮らし、3LDKのさほど広くない室内に孝明の声はやけに大きく響いた。焼き魚をつついていた母はゆっくりと顔を上げて孝明を見ると、小さくぼそぼそとした声で呟くように言う。

祥子(しょうこ)も、お隣の宮間(みやま)さんも『居なくなった』……あんたの父さんもそう。あんたと関わりのある人は、みんな……」

「……」

 母がこうなったのは妹の祥子が亡くなってからだ。もともと肺の悪かった祥子は小学校三年生の夏、その短い生涯に幕を下ろした。葬儀の後祥子の墓前に手を合わせる母は、目に見えて壊れていた。

 父は祥子が生まれてすぐに『居なくなり』、あとには多額の保険金だけが口座に振り込まれていた。職のなかった母は父の保険金を切り崩してしばらく家族三人を養っていたが、その頃には既に精神的に不安定だったのだろう。母が笑わなくなったのは、思い返せば父が『居なくなった』後からだった。

 隣人の宮間さんは、孝明が中学校一年生の時に『居なくなった』。母と仲のよかった宮間さんは28歳の独り暮らしで、会社の同僚に手酷く虐められていたそうだ。それが精神的ストレスとなり『居なくなる』原因に繋がったというのが世間一般の見解だった。

 しかし、孝明の母は違った。自分の周りの人々が『居なくなる』のを、いつしか孝明のせいにし始めた。もちろんそれは母の思い込みで孝明に非はなかったのだが、否定をしても意味はなかった。

「俺のせいじゃ、ない」

 それでもぽつりと呟いた言葉は、母に対するささやかな反抗であったのかもしれない。以降は互いに口を噤み、夕食とともに重い空気を飲み込んだ。





 相原(あいはら)は目の前のカウンターに突っ伏すようにして眠る中年の男を一瞥して大きくため息をついた。

「困りますよ、『ヤマグチ』さん。ほら、起きてください」

 何度目かわからない言葉をかけ、男――ヤマグチの肩を叩く。もうとっくに睡眠導入剤の効果は切れているはずだ。

「うう……どうしても、今殺してもらうことは出来ないんでしょうか」

「当たり前です。死ぬにも手続きがいるんですから、最低でも三日はお時間いただくことになります」

 ヤマグチは薬のせいかどこかぼうっとした虚ろな目をしている。カウンターに置かれた、中身の半分ほど減った錠剤の瓶をさりげなく彼から遠ざけながら相原は二度目の説明を口にする。

「〈特殊生命保険センター〉のご利用には規則があります。まず初めに『取り扱う()は、本人の意思であるか』、次に『死亡(・ ・)動機』、そして『遺族への遺言書の作成』です。先ほどもご説明しました通り、これら三点のうちひとつでも欠けると我々は『死』を提供することはできません」

「ええ。それは、わかっています。けど、」

「また、死亡前に必ずカウンセリングを受けていただくことを原則としています。『国が自殺を容認している』といっても、我々は自殺そのものを肯定する立場にいるわけではありません。もし踏み留まっていただけるのでしたら、それが何よりですから」

にっこりと作り笑顔を顔面に張り付け、相原は先を続ける。

「カウンセリングは書類を提出した次の日に行われます。それが終わりましたらご家族への遺書を作成して終了です。よろしいですね?では、書類についてお話しさせていただきます」

 相原はヤマグチの前に一枚の書類を提示する。履歴書によく似た印刷の成されたそれは、しかし紛れもなく政府発行の『自殺志願書』だった。

「ご自分の氏名、生年月日、年齢、住所、ご家庭の電話番号、職場の連絡先、死亡(・ ・)動機をご記入の上、拇印と捺印をこの二ヵ所にそれぞれ押して必ずご自分でこのカウンターに提出してください」

簡単でしょ。と再度笑いかけて書類を手渡す。ヤマグチは催眠にでもかかったようにこっくりと頷くとそれを鞄にしまった。

「では、明日以降に書類を提出してください」

 笑顔で男の背中を見送ると、相原は椅子の背に凭れて大きく息を吐き出した。ヤマグチの持ってきた薬の瓶をつまみ上げる。

 ――こんな市販品を数粒飲んだくらいで死ねるわけねぇだろ、バァカ

 センターに入ってきたヤマグチは相原の説明もろくに聞かず目の前で睡眠導入剤を貪った。時折奇行に走る客に遭遇することはあるが、ヤマグチがカウンターに突っ伏して倒れた時には流石の相原もひどく驚いた。ヤマグチの呼吸を確認すると、薬の効果が切れるタイミングを見計らって再度声をかけた。

「やってらんねぇよ、まったく」

無意識に煙草を探す右手をカウンターの上に乗せ、天井を仰ぎ見る。退社時間まではあと一時間もない。

 このセンターに足を運ぶ人間は老若男女関係なく、皆一様に濁りきった目をしている。『死後処理をしてくれる』と勘違いしている国民もいるようで、敷地内に生えていた木は首吊り防止のために伐採された。それでもヤマグチのような強行に及ぶ者もいる。センターに勤めて5年目、死んでいく人間の相手をするのは慣れたが奇行にはしる客のあしらいには未だに慣れない。

 この仕事を始めてから相原は笑うことが少なくなった。負の感情を抱く人間ばかり相手にしているせいか、この職に就く新入社員は半年経たずに辞めていく。相原の同期はもう一人もいない。人の回りが早い職種だが、最も長くいる職員でさえ8年間勤めている佐野山(さのやま)ひとり、次に長くいるのは相原だ。

「相原、もう上がっていいぞ」

「はい」

 先に上がっていった佐野山を見送り、相原は椅子から立ち上がる。スーツから私服に着替え、正面口の鍵を閉めてから窓の鍵を確かめて裏口から出る。しっかりと南京錠までかけて、相原は壁に立て掛けてある愛用のマウンテンバイクに跨がった。


 夜の繁華街は騒々しいネオンを携えて客を店へと誘う。毒々しい光の下で客引きをする瑞々しい女たちは派手な衣装に身を包み高い声で男を呼ぶ。ある種の品を感じさせる猥雑な通りは、まだ時間の早いせいか人通りは少ない。

 雑然とした通りを過ぎたところにあるアパートに、相原は愛車を立て掛けた。

 二階建てアパートの壁は(ひび)割れこそ入っていないが表面が風化して剥がれかけている。薄い鉄製の階段は錆で黒く変色し踏む度にキィキィと音を立てた。

 二階の右端、201号室。薄い壁越しにインターホンの音が聞こえる。

 三回目のコールで漸く家主が姿を現した。気だるそうに扉を開けた女は、相原の顔を見るとさして興味がなさそうな素振りで室内に招き入れた。染め上げた明るい茶髪が寝癖でうねっている。

「何の用?あたし、今から仕事なんだけど」

長い髪を無造作に掻き上げ、眠そうに不機嫌な声が飛ぶ。

「悪い。俺は今仕事終わったんだ」

 狭い室内は繁華街と同じように雑然と散らかっていた。ぐしゃぐしゃになった掛け布団が丸めてある万年床、脱ぎ散らかした派手な衣服、流しに無造作に置かれた汚れた食器類――。

 それらに目を配りながら、相原は僅かに空いたスペースに腰を下ろした。丸テーブルの上に置かれた灰皿は中身が一杯になっている。

「姉貴、少しは掃除しろって言ってんだろ。いい加減虫が湧くぜ」

「うるさいわね。いいでしょ、あたしの家なんだからあんたには関係ないわよ。で、何の用」

 視線を合わせることもなく身支度を始める姉の背を見ながら相原は煙草に火を付ける。吸い込んだ紫煙を吐き出しながら、所在無さげに空中を見つめる。

「別に、何もないけど。ほら、たまに俺が来ないと本当に虫が湧きそうだから」

「馬ァ鹿。頼んでないっつの」

 苛立ち混じりに舌を打ち、姉は近くにあった服に手を伸ばす。青いラメの入ったドレスはスカートの部分に大きな染みができ、とても着られる状態ではなかった。姉はもう一度舌を打ち、赤い布地のドレスに袖を通した。スカートが随分と短い。

「なぁ、いい加減まともな職に就けよ。仕事が軌道に乗るまでは俺が面倒見るから」

「はぁ?何様のつもりなのよあんた。公務員で安定した給料貰えてるから、惨めなあたしに施しでも与えるつもり?ハッ、笑わせないで。それともあたしをからかってるワケ?」

「姉貴、ちが」

「大嫌い。あたしより頭も要領もよくて、そのくせ見下したような態度。何なのよ。父さんも母さんも、いつもあんたのことばかりだった」

「……姉貴が顔見せなくなってから、母さんも親父も心配してる。正月ぐらいは顔見せに行けよ」

「……」

 化粧をし始めた姉は言葉を返さない。表情も、見えない。

 暫くの間無言の時間が続き、相原は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。室内を照らす電灯のチリチリいう音と化粧品の入れ物がぶつかる音だけが響く。二本目の煙草に火を付けて、手持ち無沙汰にライターを弄っていると姉が不意に振り向いて仏頂面をする。

「鍵はポストから入れてくれればいいから」

 それだけ言うとさっさと靴を履いて出ていってしまった。

 残された相原は深く息を吐き出すと煙草を咥えて年中閉めっぱなしのカーテンに近づいた。一息にカーテンを開くと、枠の歪んだ硬い窓を全開にして室内に新鮮な空気を入れる。窓の外で光るネオンを見つめて相原は瞬きした。あの光の中に、姉は出掛けていくのだ。

 相原はまず散らかった服を拾い集めてネットに入れると小さな洗濯機に詰め込み、洗剤を垂らしてから洗濯機のスイッチを入れた。布団のカバーを新しいものに付け替えてたたみ、部屋の隅にやる。外したカバーは洗濯機の上に積んで、掃除機を押し入れから引っ張り出す。轟音を立てる掃除機で狭い室内の床を掃除するのに、そう時間は掛からない。

 テーブルの上の灰皿に詰められた吸い殻を捨て、布巾らしい布でテーブルの上を拭いた。

 食器を洗おうと流しに立つ。冷たい水の感触にも、随分慣れてしまっていた。

 相原が姉の家に足を運ぶようになったのは二年前。仕事の付き合いで入った風俗店で長らく所在のわからなくなっていた姉を見つけた。なぜこんなところで働いているのか、急に実家を出ていってしまったのか……問い詰めたいことは沢山あったが、アパートの部屋に通された相原はまず始めに部屋の掃除を申し入れた。

 ――だって、いつまでも親に迷惑かけてられないでしょ。

 冷たい水に手を濡らす相原の背に、姉は煙混じりにそう答えた。今と変わらず気だるげに、どこか苛立ったような声音で。

 一個人の幸福論に口出しできる権利を相原は持ち合わせていないが、姉には幸せになってほしい。

 格差的な物の見方をする両親に育てられた姉弟の間には大きな溝があった。そしてそれは今も埋まることなく、ぎこちない雰囲気を作り出している。

 相原は決してそれを望んでいるわけではない。

 ただ、姉は。

 姉はどうしようもなく相原や両親を恨んで反抗している。あるいは自分の不甲斐なさに対してか。

 すっかり掃除の終わった部屋を見渡し、玄関にごみ袋を置く。袋にはそれぞれごみの種類と捨てるべき曜日の書かれたメモが貼ってある。

 洗濯し終えた衣服や布団カバーをシワを伸ばしながら風呂場に備え付けられた物干し竿に掛ける。

 冷蔵庫を覗くが、予想通りに食べられそうな食材は入っていない。一体いつ買ったのかもわからない卵が二つと、開封済みの味噌、賞味期限の切れたソーセージ、ティーバッグの麦茶の他には缶ビールが二本。冷凍庫には氷と大量の冷凍食品。

 相原は一度家を出てスーパーへ向かい、必要な食品を買い揃えて帰った。比較的調理のしやすい定番の食品を手際よく調理していく。できるだけ保存の効くものを考え、今回は煮物を作ることにした。調理を始めるのと同時に炊飯器で米も炊き始める。

 これほどまでに生活力のない姉が、どうして出ていってしまったのか。きっと相原にも責任はあるのだろう。だから、相原は姉のもとへたびたび通っている。繋がりの薄い姉との唯一の接点を失いたくはなかった。

 炊き上がった米と料理をタッパーに詰め、冷蔵庫に入れる。小さな冷蔵庫はすぐ一杯になった。マグネットで冷蔵庫にメモを貼り付け、相原は開けていた窓を閉めた。カーテンを引くと室内がより狭く感じられる。

 靴を履いてから室内を一度振り返り、相原は姉の家を後にした。

 ポストから投函した鍵が、床の上で小さく音を立てた。

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