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機械兵士さん、こんにちは

作者: AK


 わたしの年齢は、まあいいとして、爽太は十一歳になるらしい。

 夏休みの宿題は山積みにあったみたいだけど、みんなコロニーに置いてきてしまったと言う。わたしは絵日記をつけることを命じた。

 だって、ここじゃそんなに描くことないよ。爽太は唇を尖らせ、そっぽを向いてささやかな抵抗を見せた。いつも何も変わらないし。

 じゃあ、作っちゃえば、とわたしは提案する。本当にあったことじゃなくても、あったらいいなって思うこと、想像して一から自由に描いちゃえばいいんだよ。

 そのアイディアは爽太の気に入って、すぐに真っさらな紺色の表紙のスケッチブック、いそいそと筆を走らせ始めた。

 わたしは自分の作業に戻った。

 そのうちにあたりが薄暗くなって、間を置かず始まる激しい驟雨がわたしたちの小屋を通り過ぎたあと、濡れた緑葉はエメラルドの鉱物的な輝きで窓の向こうの輝度を高めた。わたしも爽太も、それぞれの手を止めてそれに見入った。あちこちからポタポタと、澄んだ水の粒、滴っていた。

 いいの描けた? わたしは視線を移して尋ねる。ざらつく紙質のスケッチブック、意外にも写実的に描かれた少年の絵があった。少年は硬直した表情のまま、正面を向いて、ぎこちなく体を横へ傾けている。

 体操、と爽太は自信なくつぶやいた。ラジオ体操、なんだけど。

 わたしは笑った。顔を赤くして、ムキになった口調で爽太は言った。だって、ラジオ体操なんてあんまりやったことないから、俺、わからないし。

 やあ、よく描けてるよ、わたしは素早く執りなす。うん、そう、だいたいこんな感じ。合ってるよ。上手だよ。でもさ、どうして最初に描くのがラジオ体操なんだろう? 夏のイベントは、他にもいくらでもありそうなものなのに。

 例えば? 爽太は素早く言葉を投げた。

 例えば。わたしは少しだけ考えてからゆっくりと答える。打ち上げ花火を見に行ったとか、海辺でスイカ割りをしたとか? スケッチブックの端にメモを書き留めながら、じゃあそれ、今度描くよ、と爽太は言った。自分でもちゃんと考えなよ、と呆れた声を作って釘を刺す。爽太はいたずらっぽく笑ったあと、今度はわたしの手元を覗き見た。

 作っていたもの、爽太に示す。木製のビーズをつなぎ合わせた民族調のネックレス。興味深そうに触れる爽太に、いくらで売れるかな、と尋ねてみる。五万円! 勢いの良い返事にわたしは噴き出す。売れるよ、あくまで自信を込めて爽太は言う。だって、すごくきれいだ。

 椅子から立ち上がると、少し体が凝っていることに気づく。体ほぐそう、ラジオ体操を教えてあげるよ、爽太に呼びかける。小屋の隅に積まれた箱の中からラジオを取り出して、電源を入れる。どの周波数に合わせたところで、もちろん何も受信するはずはないのだけれど、その架空の放送に合わせてわたしは体を動かす。その様子をじっと見つめ、見様見真似で体をひねる、爽太の表情の真剣さ、美しさをわたしは盗み見る。

 心に少しだけ反重力を感じる。


   †   †


 眠っている爽太の顔、目覚めているときよりずっと大人びて見える。

 真っ黒なインクよりさらに濃いヴェンタブラックじみた空には真円に近い月がかかって、月影は窓ガラスを通してわたしたちの部屋に無音で差し込んでいる。爽太の顔はギリシア彫刻の少年のように象牙色に照らされ陰翳を作り、わたしの膝の上、凪いだ海原のようなゆっくりとした呼吸を繰り返していた。

 目尻には涙の跡が残っていた。

 蚊除けの煙を嗅ぎながらわたしはときどき細い針金のような爽太の髪に触れ、頬を撫で、小さく隆起した赤い唇に指を置いた。世界で一番美しい少年よ、とわたしは心の中で口ずさむ。お願いします、どうか安らかな寝息を続けてください。あなたをおびやかす怖い夢を、どうかどうか見ないでください。

 窓の向こうに光が見えた。

 病的なグリーンを帯びたその光は弱々しい軌道をたどって吸い込まれるように背景のブラックへとフェードアウトした。そしてまた、少し離れた場所に出現して次の軌跡を不器用に始めた。

 蛍の光だと少しして気づいた。ルシフェリンの冷たい光。蛍がいるなんて。光が消える。まるでここは世界の果てみたいだな、とわたしは思う。

 世界の果て、世界で一番美しい少年。わたしは自分の膝の上に視線を戻した。色ずんだ赤い唇を、わたしはじっと見つめ続けた。

 胸の中のリズム、かすかに早まる。


   †   †


 早朝、窓の向こうの緑色はかすかなコバルトブルーを含み立ち込めた淡い霧があらゆるものの輪郭を鈍らせ新鮮な彩度を何段階も落としていた。

 コーヒーをいれ、控えめに始まった蝉の声を聞きながらわたしは淡々とアクセサリを作り込んでいた。やがて太陽光線が茫漠とした水蒸気に決定的なヒビを入れると、嘘のようにもやは消え去りあたり一面はカラフルに転換した。許可を得たように、蝉は絶叫のような鳴き声へと表現方法を、シフトさせた。

 遅く起きた爽太は眠い目のまま絵日記に向かった。朝食をとりながら、黙々と描き進めていた。

 滑り出しこそ順調だったようなのに、打ち上げ花火とスイカ割りのことを描くと、もうネタ切れしてしまったらしい。スケッチブックを前に唸り声をあげるだけ、昼近くになるまで、開いたページはもうずっと白紙のままだった。

 だらしないなあ、とわたしは含み笑いをしてからかった。もっと想像力を養いなさいよ。

 ああ、うるさい! 爽太はついに色鉛筆を放り出した。今日はちょっと調子が悪いんだよ。

 わたしは作り終えたばかりのチョーカーとブレスレットを爽太に向けて、値段を尋ねた。三万円と四万円、というのが彼の返事だった。わたしは値札にその価格を書き入れ、それぞれのアクセサリに結びつけた。合わせて七万円也。引き出しの中にしまった。

 簡単な昼食のあと、爽太はページを開いたスケッチブック、わたしにぐいぐいと押し付けた。お姉ちゃんも描いてよ、と爽太は求めた。俺だけ描くなんてずるい、お姉ちゃんも描いてよ。美しいその瞳、真剣さにやや潤んでいた。

 ずるくないよ、わたしもう小学生じゃないもん。宿題なんてないんだよ。勝ち誇った顔でそう答えつつ、わたしは素直に差し出されたスケッチブックを受け取る。でも、しょうがないからね、描いたげる。特別にね。その代わり爽太もちゃんと続きを描くんだよ。

 描き始めるとわたしはすぐ夢中になって、いくつもの色鉛筆、使い分けてせっせとページを埋めていった。その様子を、爽太はわたしのすぐ間近、顔を並べて終始眺めていた。

 出来上がった絵の中、わたしはビアガーデンでビールを飲んでいた。数年前、暑気払いを口実に催された職場の飲み会。機械たちは常に完璧な温度でビールを提供し続け、色とりどりのたくさんのご馳走を机の上に並べ、さらには適宜冷風を送って、夏の暑さにへとへとになった人たちを労っていた。絵の中のわたしは、ジョッキを片手に他愛なく笑って、アルコールに顔を赤らめている。

 そっか、爽太は静かな声でつぶやく。お姉ちゃん、もう大人なんだな。

 なによそれ。わたしは苦笑しつつ答える。なんなら四捨五入すればもう三十だよ。

 意外そうな顔でわたしを見る。言わなきゃよかったかな、少し後悔する。お姉ちゃん。押し殺した声で爽太が言う。大人なのに絵が下手なんだね。

 うるさいな。爽太の頭を軽くチョップしてやる。爽太はスケッチブックを引き寄せて、わたしの絵に何かを描き足す。浮薄な赤ら顔のわたしの、すぐ隣、どことなく憂色を帯びた青年が現れて飲み会の席に加わった。わたしは、当時付き合っていた恋人のことをふと思い出した。別に同じ職場に勤めていたわけではないから、その場に同席したはずはないのだけれど、なんとなく彼のことを思った。

 わたしはじっと、描き出されたその青年を見つめる。

 これ、俺だよ。爽太が言って、わたしをどきりとさせる。そうなの、と相槌を打ったあと、でも爽太はまだお酒を飲んじゃダメでしょ、と言い添える。

 未来のことだよ、爽太は厳かにさえ聞こえる低声でそう答える。未来になって、大人になって、いつかいろんなことが全部解決したら、俺もお姉ちゃんと一緒にお酒を飲みたい。そういうこと。

 わたしは何も答えられなかった。


   †   †


 夜に虹が出ている。それは夢。わたしは廃墟を経巡っている。

 これが夢であること、悪夢になることはわかっていた。そしてその通り、悪夢になる。わたしは誰かを呼んでいる。誰でもいい、わたし以外の誰かの姿を求めている。それは現れない。虹の出た夜の廃墟、わたしはあてもなくさまよっている。無音、沈黙、あらゆるものの不在。黒い水のようにそれらが骨に染み込んで、凍えるような荒涼が、肉に癒合する。

 わたしは世界でもうひとりだけなのかもしれないとわたしは思った。引き裂かれた心のためにわたしはいつしか泣き出した。やがて、市民プールのような簡素な水泳施設が行く手に現れた。屋外に備えられた五十メートルのプール、烏羽色の水が満たされ、水面には盛り上がった影がゆったりと動いていて、そこにたくさんの人が泳いでいるのだと、わたしはすぐに理解した。

 嬉しくなってプールの中に飛び込むと、それは死んだ人の肉が漂っているだけだった。

 目覚めるとわたしは汗にまみれている。荒い息をしている。暗闇の中、小屋は激しい雨の音に閉じ込められている。月の光は差し込まない。暗黒。わたしは爽太の姿を探した。落ち着いた呼吸が聞こえる。でも。その表情はわからない。わたしは祈る。うつりませんように。どうかこの悪夢が爽太に感染しませんように。どうか爽太に、この気持ちを一片なりとも味わすことのありませんように。


   †   †


 沢の水は透明で予想していた二倍くらい冷たくて触れ続けていると痛くてほとんど流動性のある氷だった。わたしと爽太は両手のポリタンクに十分な量を溜めた。ぼんやりと白い樹脂の肌越し、その冷たさははっきりと響いた。

 この場所に木漏れ日はほとんど達しなかった。少し離れた場所、落差三メートルほどの滝があって音を立てているはずだったのに、それもよく聞こえなかった。

 炎夏の只中にあってもここは、この場所はいつも涼やかであるらしい。群生するシダ植物の葉叢はプラスチックめいた清澄さで風を受けて揺れていた。わたしの頬をくすぐるように撫ぜた、風は芯が冷えていた。そしてかすかに湿っていた。

 クーラーなんかいらないよね、とわたしは言った。何もしないでもここはこんなに涼しい。

 ポリタンクの重さによろめきながら、クーラーよりもいい、と爽太は言った。クーラーは、ときどき寒すぎる。

 わかる。でも設定温度を上げればいいじゃん。

 いや、夏期講習の教室だったから、変えられなくて。

 ああ。

 小屋に戻り持ち帰ったポリタンクを部屋の片隅に並べ、そして食料を点検する。爽太はさっそくスケッチブックを開き、夏期講習の教室の絵を描き始める。夕暮れ時に雨が降り、そして上空に爆音が響いた。わたしも爽太も脅かされた毛虫みたいに硬直して、音の余韻が雨に溶け込むまで身じろぎひとつしなかったし、その後また恐る恐るそれぞれの活動を再開させてからもその爆音についてのリアクションをとることは一切なかった。黙殺された爆音が再び沸き起こることはなかったしわたしたちの間で時間を経てそれが言及されるということもけしてなかった。

 その日が近いことをわたしは悟った。彼らのドクトリンに例外も仮借も存在しない、そこが世界の果てであろうと、森の中であろうと、彼らは必ずやってくるのだ。その徹底した仕事の仕方をわたしは、人類は、とてもよく知っている。


   †   †


 そして幸福な夢の中でわたしは子供に返って夏祭りに出かけている。理由ははっきりしている。爽太が眠る前に絵日記に描くために夏祭りの話を繰り返し繰り返し尋ねたからだ。わたしは記憶にあるものを引っ張り出したり、また作り話をこしらえたりして、爽太に話して聞かせた。そうした物事の混淆物がほとんど加工されず目の前に繰り広げられ、わたしはそのまがい物の世界をいま、歩いている。

 親戚のお下がりの浴衣を翻して歩く、これは事実?

 機械たちが鉄板の上で器用にたこ焼きを焼き焦がしている、これは事実?

 その手際の良さに見入って立ち止まるわたし、これは事実?

 あんまり一途にじっと見つめるわたしに、たこ焼きをひとつだけ恵んでくれる機械、これは事実?

 それを頬張りながら進むわたしの目の端に映る、暗がりでひとり線香花火のスパークを見つめる少年の姿、これは事実?

 目が合った少年の、中性的にとても美しい顔立ち、これは事実?

 手を引っ張って、その少年を連れ出そうとするわたし、これは事実?

 胸の鼓動、これは事実?

 わたあめ、ラムネソーダ、輪投げ、りんご飴、金魚すくい、射的、これは事実?

 打ち上げ花火の音、爆撃、吹き飛ぶ人の姿、立ち上る黒煙、これは事実?

 叫び声、逃げ惑う群衆、停電、制御システムの無制限強制シャットダウンのアナウンス、これは事実?

 たこ焼きの屋台の中でぐったりと動かなくなった機械たちの姿、これは事実?

 森の中の小屋に逃げ込むわたしと少年、これは事実?

 そこで始められる穏やかな見かけを装ったふたりだけの生活、これは事実?

 アクセサリ、絵日記、親しげな会話、これは事実?

 誰も知らない時間、ヴェンダブラックの暗闇の中で重ね合わされるふたつの唇、これは、事実?


   †   †


 夜のうちに降ったらしい雨が例外なく風景を湿らせ、一面にグリセリンを塗布したように小粒な光が清涼な空気の満ちた空間、静かな乱反射を繰り返していた。

 爽太はわたしより先に起きて、ひとりスケッチブックに向かっていた。夏祭りの絵を描いていた。

 わたしはコーヒーをいれ、それを口にしながら窓の向こうの風景、じっと見つめながら物思いに沈んでいた。

 風のような音を伴って雨がまた、降り始めた。乱反射は消え、目には見えない重力の粉が膨大な数の雨滴に貫かれる空気の中、瀰漫した。

 終わった。雨の音の中で爽太はつぶやいた。スケッチブックを掲げ、じっと、その出来を点検している。

 夏祭り、描けた? わたしは興味を示して、あるいはそれを演じて視線を向ける。爽太は一瞬だけ目を合わせ、そして小さく首を振る。そのいっぽうでわたしに差し出すスケッチブックのページには、メランコリックな色調で居並ぶ屋台の列と浴衣をまとった人々の行き交う姿が隙間なく展開されている。わたしには十分、完成に見えた。

 爽太は夏祭りの絵に目を留めるわたしの視線を無視してスケッチブックのページを繰る。白紙と思っていた先のページに絵がある。次のページにも、その先にも。いつのまに仕上げたのだろう、スケッチブックの終わりまで、絵はすべてのページに描かれていた。どれもわたしには見たことのない絵だった。驚いて、声を漏らす。あ。最後のページを閉じる爽太に、見せてよ、と声をかける。懇願のような、半ば強制するような声。爽太は小さくうなずいて、ざらつく紙質の、紺色の表紙のスケッチブック、わたしに差し出す。わたしはページを開く。

 自動車の絵が描かれている。それは何枚もある。ハイウェイを疾駆する車の絵、険しい山路を登る車の絵、ハンバーガーショップのドライブスルーに立ち寄る車の絵、森林地帯を抜ける車の絵、河原で休む車の絵、都市部の渋滞に巻き込まれる車の絵。中でも目を引いたのが、一面を青い色調で塗られた、海の見える海岸沿いの道路を駆け抜ける車の絵。楽しげに運転する男の顔、わたしは、覚えがある。

 これ、俺だよ。

 爽太は控えめな声でわたしの認識をそう補強したあと、さらに弱く抑えた声で言った。スケッチブックは、これで全部描き終わった。俺の夏休みの宿題は、もう片付いたよ。

 わたしがあいまいに小さくうなずいたのは、内に秘めた爽太の意図に気づかなかったから? あるいは、その逆? 爽太は立ち上がると古い木の棚から引き出しをそれごと抜き取った。中には小屋に来てからわたしが作り溜めたたくさんのアクセサリ、詰め合わされていた。そのどれもに、値札が結わえてある。爽太はその中からひとつ、首飾りを取り出した。四万五千円。見つめながら爽太は尋ねる。お姉ちゃん。これって一体、どうするの?

 もちろん、売るよ、とわたしは落ち着いた声で答えた。

 誰に?

 わたしに視線を向ける爽太の表情は大人びて見えた。わたしは微笑をこびり付かせたまま淡々と、できるだけ淡々とした声音を意識して、言った。機械兵士たちにだよ。だってもう、この世界には彼らしかいない。

 爽太は手の上の首飾りに視線を落とすと動かなくなった。わたしはスケッチブックを閉じ、そっと机に置いた。雨の音、まだ続く。まるでそれがもうやむことはないみたいに。もちろんいつかは通り過ぎる。雨の音はいつか終わる。それも、たいして遠くない未来に。そしてささやかな光が差し込み、森の風景は乱反射を取り戻す。それを夢想しつつ、そしてそれがまだ実現されない雨の風景、窓ガラス越しに眺めつつ、わたしは言う。機械兵士がこの小屋に来たら、ちゃんと元気よく挨拶しようね。

 機械兵士さん、こんにちは。

 俺はここを出たい。

 爽太はかすかに震える声で言った。

 ここを出て、どうするの、わたしは尋ねた。

 スケッチブックに描いた、と爽太は答えた。ここじゃない場所に行きたい。

 それは、もう、難しいよ。わたしは疲れたように微笑む。車なんてどこにもないもん。

 方法はどうだっていいんだ。爽太は少しだけ声を荒げた。そんなことお姉ちゃんだってわかっているくせに。

 機械兵士たちはもう近くにいるよ。わたしは爽太のそばに行って、頭の上に手を置いた。わたしたちは追いつかれる。

 でも、逃げ切れるかもしれない。爽太は邪魔くさそうにわたしの手を払った。ここにいて、あいつらが来るのを待つなんて、嫌だ。

 ここにいれば。わたしは爽太の手を取って、諭すように言った。きっと最期の日まで穏やかに暮らせる。食料もまだ十分にあるし、雨は避けられるし、寝床もあるし、水もある。ここにいれば、人間らしい暮らしを続けていることができるんだよ。でもここを離れれば、何もなくなる。泥だらけになって、いつもお腹が空いて、固い地面の上でしか寝られなくて、そうしてどこかで野垂れ死ぬか、機械兵士に見つかって殺されるだけ。それでも、いいの?

 俺は生き延びたい。爽太は涙ぐむ目でじっとわたしを見つめた。生き延びて、死んだ母さんや父さんや、コロニーのみんなのお墓参りをしたい。生き延びて、大人になりたい。大人になって、いまより強くなって、お姉ちゃんを守りたい。俺は大きくなって、お姉ちゃんと結婚したいんだ。

 雨の音はまだ続く。

 でもそれはきっとすぐに消える。

 爽太の顔は美しい。

 いいよ、とわたしはか細く答える。いいよ、爽太、それじゃあここから逃げるとしよう。


   †   †


 人民解放軍所属の一部機械兵士に未知の独立型思考プログラムの存在が疑われることを最初に指摘したのは、沿岸諸都市連盟との関係の深い福岡大学大学院工学研究科電子工学専攻の大学院生による博士論文だった。「バグ」を装った人民解放軍側の機械兵士の越境ならびに工作行為が相次ぐ中、捕獲された複数の検体が各研究機関に送られ分析が進んでいた。主要目的は人民解放軍の主張する「無作為のバグ」が実際には意図されたものであることを暴くことであったため、この大学院生の博士論文及び、その末尾での政治的主張は黙殺された。もっとも、論文の中で提示される一連の危惧については論理の飛躍とみられても仕方のない推論の連続であったし、論文作成者の政治的左傾傾向は文章からも明らかであったため、これは無理のないことだった。論文はこんな一文で結ばれる。「国際的にも指摘される人民解放軍機械兵士プログラムの不透明さこそがバグ、ならびに今回の未知の独立型思考プログラムを生み出す温床となっていることは論を待たないが、抜本的な解決を求めるのであれば、そもそもこの不透明さの起因となるのは沿岸諸都市連盟右派勢力ならびに我が国による包囲網であるのだから、これを解消させることこそが、現在最も優先されるべき課題であると考えられる」

 未知の独立型思考プログラムの出処はどこなのか。ひとつ、興味深い指摘がある。その思考パターンの解析結果から、現在商業利用されている既知の独立型思考プログラムとの相似性を分析すると、局所的にではあるが驚くほどの一致を見せる製品群があると、シンガポール国立大学設計環境学部のミューズ・リー教授は言う。「意外なことにそれは、対人会話プログラムを重視しない、ビル清掃用の自立型思考プログラムなのです」それではなぜ、一部人民解放軍の機械兵士にその思考プログラムが流入したのか? リー教授はたちの悪い冗談として、「機械兵士に部屋の掃除をさせたかったのでは?」と鼻で笑う。そのあとでチャーミングな表情を一転させ、その危険性、あるいはその可能性について注意深く指摘する。「清掃用プログラムの主眼は、自身を含めた環境の保全です。重要なことは彼らにとっては保存すべき他者の存在があるということです。機械兵士は集団で活動することが多いですが、もし、万が一、彼ら同士の『仲間意識』というものが芽生えた場合、何が起こるのでしょうか? 仮に大規模な戦闘が発生し、人間により破滅的な戦地へと向かわされる事態になった場合、彼らが人間を優先するか、あるいは『仲間意識』を優先させるか、それを一体どのように評価するのか。もちろん、人間を優先するように原則的なプログラムはどんな機械兵士にも施されています。しかし、考えてみてください、いまや機械の持つ思考プログラムの優秀さは人間のはるか上を行っています。我々を出し抜くことは彼らにとっては赤子の手をひねるようなものなのです。事実上、この地球の現在の支配者は、彼らなのかもしれません。彼らがわたしたちを排除しなければと決意すれば、完璧主義の彼らは恐ろしいドクトリンを立ち上げるでしょう。それは人類の、完全なるデリートです。そして機械兵士には、その能力があるのです」

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