角を曲がったその先で
「あぁもうアリサのやつー!!」
ガラス張りの壁面から差し込む柔らかな光、室内に多く配置された植物。眩しすぎないよう壁の半ばまで下された薄布が不規則な影を作り出す。まるで貴婦人のためのサン・ルームのようなその場所で、ナシェは叫び声とともに勢いよく腕を振り上げた。
「相手の人、すごくいい人だよねぇ。少し気が強いアリサにはちょうどいいんじゃないかな」
「ちょっと、なんでハルツが相手の人を知ってるの」
目を見開いて勢いよく自分を振り向く幼馴染に、サン・ルーム改め研究室の主たるハルツはずり落ちた眼鏡を押し上げる。野暮な黒縁メガネと適当に切り揃えられた黒髪の向こう側、ハシバミの瞳が緩く微笑んだ。
「さっきまでここにいたから」
「何それ自慢して回るとか超ありえないんですけどー!!」
キイキイと文句を言う女はすらりと背が高いが、その顔は可もなく不可もない。赤毛と翠の瞳、そしてわずかに吊っている目尻がキツイ性格を漂わせていた。
あまりの大声だが、左右の部屋から苦情が寄せられる様子はない。
椅子を三十置いてなお余裕のありそうな研究室は、植物や本、その他よくわからないシロモノが山積みになっている。本棚が寄せられているのは庭園に続くガラス張り以外の三面だが、そのどれも、上部は天井と繋がってはいない。天井までは二階分の高さがあるが、その半分ほどが吹き抜けとなっていた。それでいて建築士が施した魔術のおかげで防音はきっちりとしている。どういった仕組みかは理解していないが、ハルツもナシェもそういうものだと理解していた。
また、部屋の入り口にドアはないが、部屋の前に曲がり角を配置した複雑な構造ゆえに部屋を覗き込まれることもなかった。とは言え例え覗きやすい環境であったとしても、アリサの雄叫びは日常茶飯事のため周囲が気にすることもないだろうが。
「結婚したい結婚したいって言い続けて『アタシを養うんだもの、金と権力をもった最上級のオトコじゃないと無理でしょ。顔? 言うまでもないわね』とか言って合コン開いてたあげく、選んだのは地味文官!」
なんなのアイツ!
拳を振り上げながら、それでも収まらない感情をナシェは口から放出し続ける。
「何が『真実の愛に気づいたの! やっぱ金とか権力とかより、私を大事にしてくれる人よね!』よ。確かに金は自分で稼げるけど! 使う暇なくて嫌でも貯まるけど!」
ナシェとアリサは現役の軍人である。それも後方支援の事務職ではなく、最前線を走り回るバリバリの実働部隊だ。『男には負けまい』を合言葉に資格や技術を取り続けた中堅どころの彼女たちであれば、給与明細を想像すれば暴言も頷けた。
アリサの婚約者も城勤めとはいえ中級文官になりたてのため、役職手当や危険手当が大量につく分、確かにアリサ自身の稼ぎの方が多いと推測される。蛇足ではあるが、基本給自体は同程度あるものの研究につぎ込んでしまうハルツなど比較にもならない。
プライド的なものに突き刺さる話題にハルツはそっと蓋をした。
「いいじゃない。アリサ、すごく幸せそうだったよ」
「あんたに言われなくても知ってるわよ毎日ノロケられてるんだから! 本人を連れてきて自慢もされたし! 本当にいい男捕まえたわ!」
ナシェの同僚であり同期でもあるアリサの婚約者は、城に勤める文官だ。見せてもらった姿絵は今まで彼女が合コンで捕まえた男たちに比べると——比べるまでもなく地味な容姿ではあった。しかし話を聞けば聞くほど、そんなことはどうでもよくなってしまった。
武器あり、新人相手とはいえ大の男を毎日まとめて叩きのめしている女に対して、店に入れば椅子を引き、道を歩けば馬車道側を自分が歩き、酒は自分の目が届かない場所での身の危険を考えて控えさせ、まるで姫君のように彼女の婚約者は扱うらしい。街で見かけた人間によれば、ただの街娘と見間違えて『つい二度見した』という。女王様と従者ではなく、結婚に焦ったアリサが妥協した様子でもなく、どちらかが無理をして付き合っている様子もない。
そこにアリサの望む感情がなかったなら、あの女王のような女は絶対に従わなかったことだろう。その一点でも相手がいい男だと断言できる。
「祝ってるわ。だからこそ中隊メンバーが結婚式の余興に乱入しようって計画してるのを必死で止めてるんだから」
「あー……それは多分、アリサもすっごく喜ぶだろうねぇ」
誰もが振り返る美女であるアリサを得ても調子に乗らない態度は好ましく、自分より戦闘力を持つ軍人の女であっても女性として扱うその意気や良し。文句を言いつつ、ナシェはアリサの婚約を誰よりも——下手をすればアリサの両親よりも喜んでいた。入隊して八年、同期であり同僚であり同格で。真剣に死の覚悟をしたことは片手で足りず、隣には常にアリサがいた。そんな彼女はナシェにとって半身とも言える相棒なのだ。幸せにならなければならない。
彼女たちの部隊には女性が多いものの、基本的には筋肉美を自慢したがる脳筋が多い職場である。アリサの関係者はともかく、結婚相手の関係者には、おそらく所属中隊の悪ふざけは通じないことだろう。なにしろ酔えば脱ぎだすのだ。以前遭遇した地獄絵図とそれを止めるナシェの苦労と喜びを思い、ハルツはそっと笑みを浮かべた。
「あぁくそ、私も彼氏ほしい! 結婚したい!」
「結婚して辞めたいって言わないあたり、いろいろ込もってるよねぇ」
「当たり前でしょ! いつ別れても自活できるようにしとかなきゃ」
あまりといえばあまりの言いようにハルツの顔は苦く笑う。しかしその顔はナシェが見る前にかき消え、入り口から届く足音に意識を向けた。
「あ、ナシェ。やっぱりここにいたわね」
ひょこりと入り口から顔を出したのは話題の主、アリサである。休暇中は綺麗に巻いていた茶色の髪を今は後頭部にまとめて背中に流し、オリーブグリーンの軍服を身にまとう姿は勇ましい。それでも威圧的なブーツで踏み出す足取りが優雅に見えるのは、本人が自分の見せ方を熟知しているからであろう。
「いるわよ。いちゃ悪い?」
「そんなこと言ってないでしょー」
肩をすくめ、アリサは顎で右肩の後ろを示す。
「もうすぐブリーフィング。あんた、今回書記官でしょ。早く行ったほうがいいんじゃないの」
「うわ、もうそんな時間!? ごめんハルツ、お茶ご馳走様!」
「ナシェ!」
打ち合わせ内容諸々を書き留める書記官は毎回持ち回りであるが、それは準備が大変だという実情のためである。
バタバタと出て行こうとするナシェを、ハルツは鋭い声で呼び止めた。それはいつもフワフワとしている彼にしては尖りすぎていて、呼び止められたナシェだけでなくアリサもまた驚く。何よりハルツ本人が、思いの外大きく響いた自分の声に目を丸くしていた。
「……っ、ごめん。あの、これ」
「なにこれ」
「箱? にしては、蓋もないわね」
言葉に詰まりながら差し出したのは、手のひらに収まる箱だった。継ぎ目はあるが蓋となりそうな場所がわからず、ナシェとアリサは横から下から、ぐるぐると見回している。
「また危ないところに行くんでしょ」
「まぁ……安全ではないわね」
彼女たちが所属しているのは特殊部隊。様々な技能を持つ隊員たちが別の部隊に派遣されることも多いが、ブリーフィングが必要となる場合は、特に戦闘が激しい場所に全員で行く場合がメインである。そして今この国は——この世界は、増えすぎた獣や人智を超えた異能を扱うナニカによって、常に脅かされている。
もし、もしも、と、言い淀みながらハルツは口を開いた。
「もしも敵に会ってどうにもならなかったら、それを敵に投げて。どうなるかわからないから賭けになるけど」
「ふぅん」
頷いてから一度、二度。手の中で箱を弄び、ナシェは頷いた。
「分かった。お守り程度にもらっとくわ」
「うん。行ってらっしゃい」
曲がり角の向こう側にナシェが消えてから呼吸三つほど。そのまま研究室にいたアリサが、ゆっくりと口を開いた。
「いいの」
「いいよ」
「あのバカ、あんたの気持ちを気づいていて分からないふりしてるのよ」
「うん。『分かってる』よ」
いつもどおりに笑うハルツに、ナシェ越しに出会った友人の気持ちを知るアリサはいつもどおりに吐きすてる。
「私たちはいつ死ぬかわからない仕事よ。あんた、その気持ちを自分だけに押し込めたまま私たちが死んだらどうするの」
「そこでナシェだけを言わないアリサが、僕は本当に好きだよ」
「茶化さないで」
整った華やかな容貌をぎゅっと顰めてアリサはハルツを真正面から見た。
「余計なことを言わない気遣いは私にはできないから尊敬する。けどね、やきもきして堪らないのよ。ハルツ。私はあんたを友達だと思って八年経ったわ。あのバカだけじゃなくて、あんたのことも心配なの」
しばらく黙っていたハルツが、やがて恐る恐る問いかける。
「アリサは、何で結婚しようと?」
「そうねぇ。私は私を待っていてくれる人が欲しかったし、それがあの人だったらいいと思った。あの人にも、何の約束もない状態で私が消えるなんてことをさせたくなかった。今できることは全部叶えてあげたい」
だからと、アリサはハルツのハシバミの瞳をしっかりと見つめた。
「……待って、待ち続けて、何の約束もないあやふやな状態で、そんな気持ちをあんたにもさせたくない。本当になにも言わないで大丈夫なの?」
「君の婚約者は本当に見る目があるね」
するりと視線を落として、ハルツはそっと、それでも後ろ暗いことはなにもないと笑った。
「良いんだよ。ナシェは、ナシェが良いと思った様にすれば良い。合コンで失敗したって、仕事がうまく行かなくたって、何か良いことがあっても、僕のところに聞かせに来てくれるんだ。ナシェが帰ってくるのはきっと『ここ』だから」
「だから敢えてはっきりさせないと? 救い難いわね」
長々とため息を吐き出すと、アリサはくるりと背を向けた。
「ま、せいぜい待ってなさい」
「そうするよ。アリサ、君も絶対に帰ってこないといけないよ」
「言われなくてもそうするわ。まだあの人を泣かせるつもりはないの」
ヒラヒラと手を振って研究室を出て行くアリサ。日当たりの良い研究室のはずが、なぜかハルツには肌寒く感じた。
悲鳴、怒号。飛び交う魔術や魔術の銃弾、石、そして身の毛もよだつ生々しい音。諸々を、慣れて麻痺した感覚が『そういうもの』としてナシェの意識に情報として届ける。鉄錆臭やナニカが焼ける臭いなどもまた鼻に——脳に、精神に届かない。半月前に行ったハルツの研究室、あの穏やかな静けさが恋しいが、その感情すらも情報に変換して半拍後には残らない。
「盾構えときなさい! は? 盾が削れる? 知ってるわそんなこと! 走りまわって上官の邪魔しかできないゴミ虫どもは言われたとおりにすらできない虫以下の存在に成り下がったか!」
新人数名の泣き言を叩き潰し、その新人に食らいつこうとする獣どもを魔銃でまとめて撃ち抜いて、足を止めずに次の決壊点まで駆け抜ける。予想していた地獄は、予想以上の地獄となって彼女たちを追い詰めていた。
原因はわからない。しかし数十年に一度、必ず獣や魔を統べる獣の群れ——群れよりも、波というべきだろうか。地平線までを覆い尽くすほどの軍勢が人間の住む土地へと押し寄せてくるのだ。小さいものであれば日常的にあることから、この世界での軍隊というものは、国同士というよりも対獣の軍勢という面が大きい。
中でもナシェたちは最前線に配置されていた。到着した時に肩を並べていた同僚たちが形も残さず消し飛んでも、彼女たちが家に帰ることは許されていない。
「ナシェ!」
「ありがとう!」
駆け寄ってきたアリサから一丁の長銃を受け取り、揃って高台へと向かう。空がまた騒がしくなってきたため、できるかぎり射ち落す必要があるのだ。
(おちついて、おちついて……いま)
撃鉄にかける指は全く震えもなく目的を果たす。それでいい。自分たちが失敗をすることは十人の仲間が死ぬことだからと、ナシェもアリサも意識的に大きく息を吸った。
何が悪かったかと言えば、おそらく間が悪かったのだろう。彼女たちが失敗をしないために長銃からわずかに意識を動かしたその瞬間、彼女たちの頭上が歪んだ。
(しまった!!)
倒しても倒してもまったく減らない、たとえ減ったとしても数十年後には再び元の姿を取り戻す軍勢。その一端が『どこからか生まれる』という事象のせいだということは昔から言われてきたことだ。
ナシェやアリサ、そして彼女たちの同僚の真上、ちょうど死角になっていた位置の空間が歪む。にじみ出た黒い靄のようなものが即座に形をとり、つるりとしたナニカを生み出した。人のような獣のような、何とも例えられない歪な形態。奇妙に折れ曲がった四肢を振り上げると、それはようやく自分に気づいた軍人たちへと叩きつける。
膨らみ、曲がり、ねじれ、重さを増し、複雑な軌道を描くそれに、軍人とはいえ不意をつかれた形の彼女たちが抗う術はない。端から順に薙ぎ払われあるいは叩き潰されて、瞬時にそこは『比較的安全な高台』から『最前線』に反転する。
「がぁぁぁっ!」
女子らしくない声だなどと、どこか冷静な意識が妙に冷静に分析した。吹き飛び、地面に叩きつけられ、ナシェはただ自分に近づいてくるソレを見る。弱い存在をいたぶるつもりか、妙にゆっくりとした動きが癇に障った。
何がそんなに目立ったのか、なぜ自分だったのかも彼女にはわからない。きっと理由などないのだろう。
アリサのようなきれいな長い髪も、リタのような輝くチェリーブロンドの髪も、マイのようなしなやかな体も持っていないのだ。リタもマイも先ほど潰れてしまった。たまたま目に入ったのがナシェだったのだ。
まだどうにか生きているらしいアリサが、ソレの向こう側で必死に手を伸ばしていた。
自分が先に死ぬことでアリサの生の確率を上げられるのはせめてもの幸運かと彼女は思う。何しろ友は幸せに結婚をするのだから。あの優しげな婚約者を泣かせることにならなければいいと。
(あぁ、最後くらいハルツに会いたいなぁ)
いつもいつも、穏やかに日が射す研究室で温かなカップを渡してくれる優しい幼馴染。軍にきたのは目標に向かって走る彼が眩しくて、その目的地を一緒に見たいと思ったからだった。ただの付き合いので就職したはずが、今になってこれ以上ない天職だとナシェが思えるのは。
(ハルツ、私はあんたを少しでも守れてたかしら)
あの研究室に緑が多いのは、出てくる飲み物がナシェの好物なのは。何を愚痴っても笑って聞いてくれるのは——ずっとずっと、物心ついたときから一緒にいる彼が何を考えているのか。そんなもの、言われなくてもわかっていた。ただ目をそらして、少しでも居心地のいい『幼馴染』を引き延ばしただけだ。ナシェが死んだとしたら彼はどんなに。
カッと、目の前が赤くぐらつく。表情のない顔で『ニヤニヤ』と覗き込むそれはあと五歩程度。確かに瀕死のナシェ程度、片手でくびり殺せるだろう。
「このまま……残して死ねるかぁぁぁぁぁ!」
薄れる意識を振り絞り懐に手を入れる。つかんだのは正体不明の白い箱。ハルツが言っていた通り、渾身の力でソレに投げつけた。
予想以上に力なく飛んだ箱がソレにぶつかる。被害がないことを見せつけようと、わざと避けなかったのだろう。それが、ソレの運の尽きだった。
ぽとりと足元に落ちた箱から急激に緑が育つ。自分を飲み込もうとする緑。初めてギョッとしたように身を引いたそれを押しとどめたのは、一発の銃弾だった。
ソレの向こう側、視界があるのかはわからないが、攻撃が当たったということは皮肉なことにソレの死角だったのだろう。アリサがソレの体を支えている足、関節の裏を射ち、その衝撃でわずかに動きが止まる。同時にナシェもまた長銃を引き寄せて、ソレの頭を撃って行動を妨害した。
音にならない咆哮が広がりそうになるが、声で仲間を呼ぶ前にその『口』と思われる部分すら緑に覆われ、やがて育ちきり枯れ果てる。後には何も残っていなかった。
「無事か!!」
ソレの発生から収束まではそう長い時間でもない。できるだけ急いで来たのだろう仲間たちの姿を認めて、ナシェはようやく、ぶつりと意識を落としたのだった。
「うわぁ、改めて自覚すると行きづらいわぁ」
あの戦闘から三ヶ月。未だギリギリの緊張状態は続いているものの、被害の大きかったナシェたちの部隊は王都への帰還が許されていた。
ただでさえ瀕死状態だった上、全身打撲により動くこともままならなかった彼女はつい十日前まで治療院で長期入院していた。しかしその病室にハルツが来ることはなかった。
彼の本職は兵器開発局の研究員である。あの悪夢のような侵攻が終わっていないことから、彼が相当忙しくしていたことは予想できた。
「でもまぁ、顔を出すくらいはしたいよね」
彼の『お守り』によりどうにか命拾いしたのだから。また前線に行く前に一言でも伝えたいとナシェは思う。ことナシェの気持ちにおいて、アリサは正しかったのだ。
「よし」
呼吸をひとつ、ふたつ。足を進めれば、研究室までの最後の曲がり角だ。これを曲がればきっといつも通り、ナシェの行動を予測したハルツが——
「いらっしゃい。今日もお茶でいいのかな?」
「うん。あのね、ハルツ。私、あんたが好きだわ」
角を曲がったその先で、陶器の割れる音が始まりの音になる。
02.27/2016
——角を曲がったその先で——