アスファルトの兄妹
「三崎さん~、あたし今日、大事な用事があって。悪いんだけど掃除当番変わってくれない?」
私にそう声をかけたのは派手な容姿をした、クラスメイトと思しき女。彼女の頼みに私は即答した。
「他をあたって」
「……なっ」
そっけない一言とともに席を立った。後ろから彼女とその取り巻きの「ひどい」「頼んでるのに」などの姦しい声が聞こえてきたが、振り返らない。
冷たい?社会性ない?
現に、私は友達ゼロ。言い返せないね。
でも、私だって好きでこんな風にしてるわけじゃない。
「……ごめん」
小声で呟いた言葉は誰にも届かず、ただ孤独感を強めるだけだった。
『アスファルトの兄妹』
三崎 八千代。高校二年生。容姿は十人並み、特技もこれというものもなく。今の私の特徴を一言で言うなら、友達ゼロの根暗だろうか。
自室で勉強しながら我が身の憐れさを自嘲していたが、現実へと引き戻すノックの音が響いた。
私の返事も待たずに当たり前のように自室に入ってくる男。私は身を硬くした。
「やちょ、ただいま」
「……おかえり、壱さん」
八千代を『やちょ』と呼び、にこりと優美に微笑む男。優しげな目とすっと通った鼻筋、よく整った容姿に大抵の人間が彼を好ましく思うようだ。しかし、私はこの男がこの世で一番苦手であった。それも、彼は私の家族であるというのに。
当たり前のように私のベッドに腰掛けてにこにこと何が楽しいのか私を見つめる。私は嫌悪も隠せぬまま彼を一瞥した。
「やちょは今日も不機嫌だなぁ」
困ったように笑う彼をみて、苛立ちが襲うが、私は彼から目を逸らし冷静を装った。
この男、私の3つ年上の兄である。しかしもはや、この男との関係は兄妹と呼べるものではなくなっていた。
「やちょ、こっち来て?」
ぽんぽんと、彼は自分の隣のスペースを叩いてみせたが私は動かず無言を貫いた。
「……しょうがないなぁ。まぁいいよ。じゃあ、今日も話をきかせて?学校はどうだった?」
「何もない。いつも通り誰とも口も聞いてないよ」
目を逸らしたまま口早に告げた。あぁ、早く終われ。
私の言葉にそっかと満面の笑みを浮かべて、彼は立ち上がる。私の傍に立ち、よしよしと私を撫でた。
「やちょ、そう硬くならないでよ」
「壱さんが、私のこと、きらいなの知ってるから、……やめてよ」
「そんなことないよ、きらいだけで毎日やちょを見に来るなんてしないでしょ」
「うそつき」
消え入りそうな私の声だったが傍に立つ彼には届いていただろう。しかし彼は反応せず、再び私の頭を撫ぜてから部屋を出て行った。
毎日繰り返される、この無意味な時間。私は未だ慣れず、兄が出て行ったことを確認すると安堵の息を漏らした。
三崎 壱は私の兄であるが、正確に言うと、半分は血が繋がっていない。どういうことかというと、父親が違うのだ。母は、私の父と結婚する前に壱さんを産んだにもかかわらず、……彼を捨てたという。それを知らず私の父は、母と結婚し私をもうけた。
歯車が目に見えて狂ったのは、私が12歳の時。母が亡くなった、あの時だ。悲しみにくれていた葬式で、壱さんは姿をみせた。
整った容姿に無感情な表情というのは人を圧倒させる威力があり、彼を見た時、涙も止まった。何より母の息子だという彼の言葉に私も父もこれ以上ない程戸惑った。
あろうことか、その後父は、施設にいた壱さんを家族として迎え入れた。本当に母を愛していた故の行動である。幼いながらそれを感じた私は何も言えなかったし、当時は少なからず兄弟ができるという憧れと期待もあった。母の居なくなった大きな隙間が埋まるんじゃないかと能天気な私は思ってしまったのだ。
最初は、目立った確執はなかった。たどたどしいながらも、三人で新しく再構築した家族を始めていたと私は思っていた。壱さんは、父の前でも私の前でも、穏やかだった。勉強もよくできたし、家事も率先して行っていた。だが、手のかからない『良い子』に父が安心しきった頃、私は壱さんに対して不安を抱え始めた。
彼はいつでもにこやかだったが、妹である私にいつまでも一定の距離を置いていたからだ。そして、リビングでテレビを見ている時、食事をしているとき、お風呂からでて寛いでいた時、そういった何気ない瞬間。ふと、視線を感じ、壱さんを見遣ると彼はひどく冷たい目で私を見ているのだ。目が合うと何も無かったように目を逸らすか、にこりと能面のような笑みを張り付ける彼。私は密かに段々と彼が怖くなっていった。
そして、表面上は問題のなかった兄妹関係が破綻したのは、彼と家族を始めてから一年あまり経った、私が中3、壱さんが高3の、夏の日だ。
「八千代、オレ、お前が好きだ」
生まれて初めての告白。少し意識し始めていた幼なじみだった。
しかし、そんな甘酸っぱい思い出になるはずの出来事は、場所が悪かった。想いを告げられた場所は自宅の真ん前。ちょうど告白のシーンの真っ只中、壱さんが出会した。
壱さんは私たちをみてにこりと笑った。告白現場を家族に見られてなんと気恥ずかしいことか。あわあわする私を気遣って、幼なじみはそれじゃまたと、去って行った。否応なしに壱さんと玄関に上がることになり、私は恥ずかしさを誤魔化すように彼に話しかけた。
「兄さんは彼女とか、好きな子いるの?」
場を濁すため口にした言葉が、彼の何に触れてしまったのだろうか。今になっても分からない。
その言葉に、張り付いていた彼の笑みがすっと消えた。
あっと彼の表情の変化に目を奪われた瞬間、背中に強い痛みが走った。
「いたっ」
背中に衝撃。それとともに、壱さんの体が私の至近距離にあって瞠目し、肩を掴まれ、壁に押し付けられていることに気付く。
「兄さ……」
「お前の能天気さには虫唾が走るよ」
「え?」
「俺はお前が大嫌いだ」
すぐには言葉の意味を飲み込めず、呆然と彼を見た。吐き出された言葉も表情も、今までの彼には見られなかった余裕のない性急さを孕んでいた。
「甘やかされて育って、苦労も何も知らないで。なんで、お前ばっかり笑ってられるんだ」
顰められた形のいい眉とギラギラと光る双眸。憎しみが向けられていることをようやく把握し、おののいた。
「なんで、」
私はひくりと声をあげたが、トドメの一言が私を貫いた。
「母さんはお前のせいで死んだんだろ」
殴られたような衝撃だった。
知っていたのだ彼は。だから。
私は全てを悟った。
「…………ごめ、……ごめんなさ」
「謝るな。謝っても許さない。俺はもう、許さない。お前は幸せになんてしてやらない。やちょ、お前はずっと孤独でいろ」
「――じゃないと、許さない」
流涙していたのは私だったのに。まるで、彼は泣いているかのような声だった。
*
壱さんは私を憎んでいたのだ。それを知った私だが、どうしたらいいか分からず、父にも何も言えず苦しんだ。あの後、壱さんを振り払って自室に逃げ込んだ私は、それからひたすら彼を避けて家を過ごしていた。
加えて、幼なじみの愛の告白は、兄からの憎しみの告白によって頭から追いやられていた。もちろん忘れていたわけではないが、返事を考える余裕も無くなっていたのだ。私は、同じ中学に通う幼なじみも避けてしまっていた。
告白から二週間ほどだろうか、私は家でも学校でも休まることなく焦燥しており、ぼんやりとした面持ちでその日も学校へ登校していた。
「やちょ!ねぇ聞いた?」
同じクラスの友人が、少し焦った様子で私に声をかけてきた。こういった噂話を持ちかけるのはこの友人には珍しいことだ。ぼんやりとしていたため気にも留めなかったが、心なしかクラス全体が朝からざわざわ落ち着きがない。
「なに?何かあったの?」
「うちの野球部が、なんか問題起こしたらしくて。活動停止くらったらしいよ!」
「え……?」
野球部と聞いて一番に連想されたのは、幼なじみのことだった。彼は野球部のエースで、もう時期迎える夏の試合で引退だ。最後の試合のため、毎日練習に明け暮れていたのを知っている。
「な、何?問題って」
「そこまでは分からなかったんだけど……ねぇ、唐沢くん落ち込んでるんじゃない?なんか最近やちょ、唐沢くんとよそよそしかったけどさぁ。元気づけてあげたら?」
ドクドクと心臓が波打っていた。『唐沢くん』――幼なじみの名だ。もしこの話が本当なら、どんなに彼は悲しんでいることだろう。しかし、私は心優しい友人の言葉に頷くこともできず、視線を落とした。
その日の下校前のホームルーム。担任の教諭が渋い顔で噂の真相を述べた。
「すでに有る事無い事噂になってるようだから、はっきりみんなに伝えておく。うちの野球部の数名が校外で飲酒したと内々に通報があった。それを受けて確認もその生徒からとって、すでに指導済みだ。あまり騒ぎたててやるな、誰にでも間違いはある」
「じゃあ、野球部が活動停止ってのはウソなの先生?」
クラスのムードメーカーの男子生徒が待ちきれずに尋ねた。
担任教諭は一瞬の沈黙の後、はっきりと言った。
「一生懸命励んでいた者には辛いことだが、仕方がない、けじめというやつだ。部の活動はしばらく停止してもらうことになっている」
放課後、幼なじみがいる隣のクラスの前で一瞬足を止めたが、ドアの開く音に私はすぐさま駆け出した。
兄のことも、幼なじみのことも、頭でぐるぐるしていて。今の私には慰めることもできないと思った。
そのまま一心不乱に走っていると、気がつけば私は、家の玄関で息を切らしていた。
体力ないくせに学校から休まず全力疾走していたらしい。なかなか息は整わず咳き込み、玄関にうずくまった。涙目になりながらふと廊下に目を向けると、一組の脚。
さぁーっと血の気がひく。発汗までしていた体が一瞬にして冷えた。
「おかえり、やちょ」
そう言って目の前で微笑んだのは、私の兄。その笑みは優美で、あの日のことなんてなかったように穏やかな声色だった。
「どうしたの、そんなに息を切らして。走って帰ってきたの?」
「あ……」
どういうことだろう。あの日のこと、無かったことにしようとしてくれる気なのだろうか?私は彼の接触の意図を計りかねた。しかし次の彼の言葉に私は目を見開いた。
「唐沢くん、かわいそうにね。最後の試合出れないんだって?」
……何で兄がそれを知っている?なぜ、今、その話題を私に?
驚きと嫌な胸騒ぎに、恐れも構わず兄を凝視した。
「やちょ、君のせいだよ」
その言葉に察しを付けた私は、視界が歪んだ。
立ち上がると体がぐらぐらしたが、そんなことは気にも留めなかった。
「どういうこと?……兄さんが?ねぇ、兄さんが何かしたの……?」
たどたどしく兄へと駆け寄り、彼に掴みかかろうとしたが、容易く腕を捉えられてしまった。
僅かな距離で顔を合わせられると、彼の張り付いた笑みには、冷たさがあらわになっていることがよく分かる。私は一瞬の怒りも忘れて恐怖に再び飲み込まれてしまった。
「やちょに関わったばかりにかわいそうだね。……ねぇ、やちょ、約束して」
何を、と尋ねたかったが声も出なかった。
「もう誰とも親しくなるなんて、許さない。言っただろう?ずっとお前は孤独でいなきゃダメだって。友人も何も、作っちゃいけない」
私はただただ息を飲む。
「やちょも、相手も、許さないよ。部活停止なんてその程度ではもう済まさない」
そう言いながら小さく笑う彼は、どこか空虚だった。何をしでかすかわからないような、心ここに在らずな目をしていたのである。
その表情をみた瞬間、私は、もう彼に反抗する気力が一切失せてしまった。
「――った、から」
掠れる声。私は声が通るよう声量をあげた。
「わかったから……。兄さんが、気の済むようにするよ……っ」
母が死んだ理由は、私にあった。
唯一の混じり気ない繋がりある家族を奪ってしまった私。彼が、こうも混乱しているのには私にも原因があるのだ。
きっと、兄もすぐに気が済むに違いない。どうあっても、私たちは半分血の繋がった切っても切れない兄妹なのだから。関係がいつか修復できるまで、めちゃくちゃな望みだろうがなんだろうが聞き入れた方が安全だ。その時の浅はかな私はそう思った。
それでいいでしょう?と彼を見つめると、一瞬、彼の表情に戸惑いが見えたのは、気のせいか記憶違いだったか。しかしすぐに彼の表情も視界から失せてしまっていた。驚いたことにきつく、彼に抱きしめられていた。
「分かってくれて、いい子だね、やちょ。大丈夫、お前が孤独な分、優しくしてあげるから」
それは感情の読み取れない声。一体どんな表情をしていたのだろう。
この時、完全に私たちの関係は壊れてしまった。