第二章――懐かしいヒトと言葉――その三
翌日。
行った先が行った先だけに黒龍は疲れていた。ゆえに聖の店に再度到着した時点で色んなものがすっかりと抜けていた。最たる例が、これだ。
「……あの後すぐ出てって正解だったな」
勝手知ったるもので、シャワーを借りようと思ったのだ。
「今、マスタが……」
聖のどじっ子使い魔が何か言ってるな、そう思っただけだった。
同刻、夏姫もうんざりとする魔術の授業が終わり、バスルームにいた。
聖や黒龍には「風呂の時間が長い」というクレームをつけられたが、それは仕方ない事だと思っている。
風呂の時間はさして長いほうではない。そのあとが問題なのだ。若干弱い肌は保湿剤やら塗り薬やらを塗らなくてはいけないので時間がかかる。大雑把な性格でありながら、使うものには色々と気をつけなくてはいけないのが難点だ。
多少長くても、間違いがないようにと鍵をつけろと夏姫が交渉したが無理だったため、表にはプレートがついてある。そしてそのプレートは現在「使用中」だ。
「……ボディソープきれたか……前借するしかないかなぁ……保湿剤と塗り薬はもう少しあるか……早く紹介状……無理か」
さて、塗り終わったし服を着ようかと思ったその瞬間だった。前触れもなくドアがガチャリと開いた。
「きゃぁぁぁぁぁぁ!!」
とりあえず手当たりしだいにドアを開けた人物に投げる。
「嬢ちゃんストップ!!」
相手が必死に取り繕いながら、投げられたボディソープの空き容器などが飛んでくるのを必死に防御していた。
「ドアのプレート見てから入ってきなさいよ!変態!!」
とりあえず相手を殴って追い出し、ドアを閉めた。
同刻、聖は自室にこもり、作業をしていた。
「あれは覚える気がないね……何だ、あの守り……」
やたら引っかかる。そして、紫苑に対しての警戒心が強すぎる。報告からも仕方ないとは思うが、あの「守り」が発端のような気もしてくる。そこを考えれば紫苑の血に反応している可能性もあるが、そうなれば夏姫はヒトでないという可能性が出てくる。だが、夏姫のまとう気配は間違いなくヒトの気配である。
「半妖?いや、違う」
半妖に何人か会った事はある。あんな気配ではないし、半妖は気配を消せない。
「魔術に対して高い素質は一体どこから来る?」
何者か、そこから考えざるを得ないというのか。
黒龍が戻ってきたという報告も聖はスルーしていた。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
どう贔屓目に聞いても女性の悲鳴だ。何があったと思って出ようとした瞬間、黒龍の取り繕うような声、そして何かを投げつけた音と勢いよく閉まるドアの音。考えを中断して廊下に出た。
「……何があったかは聞くまでもないね」
バスルーム前の惨状がしっかりと何があったか物語っている。
「誤解だ」
左の頬を腫らした黒龍が膨れっ面で言う。
「黒龍さんがね、マスタが入っているのにドア開けたの」
「入ってると思わなかったんだよ」
「ドアをよく見ろ。入っている時はこうなっている」
ドアも確かめずに開けたのだろうが。
ちょうど再度ドアを開けた夏姫がこちらを一度睨んで部屋に引きこもった。
「怒ってんなぁ」
「怒らない方が不思議だと思いますが」
サファイが呆れて言う。
「サファイ、魔青、すまないが夏姫を食堂まで来るよう説得してくれないか。黒龍はまずその顔の腫れを冷やせ」
面倒ごとを増やすのはこの馬鹿も一緒か。
聖は思わずため息をついた。
夏姫が出てきたのはそれから約一時間後。黒龍と絶対に顔を合わせたがらないあたりで、まだ怒っているのは確実である。
「災難だったね」
「今からでも鍵つきにできない?」
「もう一回間違いがあると悪いからね、譲歩するよ、さすがに」
「……嬢ちゃん、悪かった」
黒龍が謝るが、夏姫は絶対にそちらを見ない。それどころか今からでも蹴り上げたいといわんばかりの空気である。
「謝ったのだからそこまでにしなさい」
「まだ何もしてないでしょうよ」
「表情が変わらなくても、空気がそう物語っているからね」
その言葉に夏姫は聖からも視線をそらした。
「せっかちなのは相変わらずだな」
「面倒ごと引き受けなきゃいけなくなったし、さっさと汗流したかったんだよ」
「ほう?これを面倒ごとと?」
「こっちじゃねぇ。こっちよりも厄介なやつだ」
心底面倒そうに黒龍が言う。これ以上の面倒ごとなど黒龍にとってあるわけがないと思うのだが。
「のちほど必要ならば話を聞く。夏姫、投げたものは拾って戻りなさい」
「おい!」
夏姫への忠告に物申したい黒龍がつっこんだ。
「分かった、そうする。余計な体力使いたくないし」
この答えに黒龍は切り返す気力がなくなっていた。
「あと用件は?」
「ないよ。詳しい事は黒龍から聞くからね。君に落ち度は全くない。プレートもしっかり約束どおりに変えていたからね」
「えぇ。黒龍様も了承なさっていましたし」
「魔青も黒龍さん止めようとしたんだけど、その前に開けちゃんったんだもん」
「だから悪かったって言っただろうが!!皆で言うな、皆で!!」
「だったら二度と起こすな」
全員に止めを刺され黒龍はかなりむくれてしまった。
「それから、君も黒龍への苦情はこれで終わりにして欲しい」
「……苦情じゃなくて、前借できる?」
言いにくそうにしていたと思ったら、そちらか。頼んでくるとはよほどの事だろう。
「何か必要なものでもでたかい?」
そんなとこ、それだけしか言わない。
「そうか、じゃあそれを買うついでに、土曜日に君に一つ使いを頼みたい。桑乃木総合病院に書類を持っていってもらいたいんだ。私の名前を言えば分かるようになっているから、頼んだよ」
紹介状なのは黙っていようか。
「私も仕事があるからね、黒龍と二人で行ってもらえるかな?」
拒否権はないよ?にっこり笑ってそれだけ付け足す。
「気まずいところ申し訳ないけどね。頼んだよ。それから辛いかもしれないが、電車で移動してもらうよ。四駅程度だ」
「歩く」
四駅歩くとほざくか?また靴擦れができるだろうに。
「歩いていくかい?構わないよ。その分危険も伴うし、あの可愛い姿をたくさんの人に見てもらいたいならね」
その言葉に夏姫が折れていた。