終わる世界で彼女を愛した
気が付けば暗い森の中に居た。誰も居ない、夜の闇のような静けさに包まれた森の中に。
生きているのは自分だけなのでは。そう思わせるほどに森は暗く、寂しかった。
歩く。
歩く。
歩く。
途切れなく続く木々は終わる気配も見せず、空は枝葉に阻まれて指先ほどの隙間も見えない。
誰も居ない。
何もない。
孤独と恐怖はよどんだ泥のように積み重なり、私のなけなしの勇気と意思を削っていく。
もう耐えられない。いっそ狂うか死んでしまえば楽になれるだろうか。
そんなことを考え始めた時に、私は彼女に出会った。
「……人間」
黒い少女が居た。
闇にとけるような黒い肌に、墨を落としたような漆黒の髪。なんの感情も宿さない瞳までも、不自然なほどに黒く澄みわたっていた。
「……食べないの?」
少女が呟く。その内容が理解できたことよりも、その意図が分からず戸惑った。
『……こいつは祝福を受けていない。我には手が出せんな』
低い、しわがれた老人のような声がした。
どこからかと視線を巡らせれば、少女の闇よりも濃い影が笑うように波打った。
「……そう」
光の届かない闇よりも深く黒い影。その矛盾した存在に唖然としているうちに、少女は私への興味を無くしたように背を向けて歩き始める。
「ま、待って!」
恐かった。だけど一人で取り残されることの方がもっと恐かった。
だから私は、少女と影を追いかけた。影が嫌らしく笑うのを知りながら。
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私は少女や影と色々な話をした。
少女の影は悪魔で、近付いた者の魂を食べてしまうらしい。この森に動物が居ないのも、悪魔を恐れて逃げ出し、僅かに残ったものも食べ尽くしてしまったからだとか。
「じゃあ悪魔はお腹が減らないの?」
『我はこの者の魔力だけで存在できる。魂を食らうのは人間で言うところの趣味だ』
何て傍迷惑な趣味だろう。しかしそれなりに理由はあるらしく、悪魔は神の祝福を受けた魂を食べることで力を増すらしい。
異邦人である私にはこの地の神の祝福が無いため、悪魔も食べる気にならないとか。
『だが汝の魔力は好ましい。この者の魔力が尽きることがあれば、汝の魔力を食らうとしよう』
魂を食べられる危険はないが、寄生はされるらしい。お断りだと言ったが、恐らく私に拒否権など無いのだろう。
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「そういえば貴女名前は」
少女と共に過ごしはじめてしばらく、私は今更なことを聞いた。
「……?」
私の問いに、少女は首をかしげた。
どうやら名前という概念がないらしい。この悪魔憑きの少女には家族も居なかったのだろうか。
「じゃあ私が決めていい?」
「……」
私が名前について説明し提案すると、少女は無言で頷いた。
「じゃあ『クロエ』私の居た所の言葉で『烏』って意味なの」
真っ黒黒な少女に、私はそう名付けた。無表情な少女は相変わらず無表情だったが、頷いたから嫌ではないらしい。
『クク……烏とは、随分な名だ』
「何よ? 私の国じゃ烏は神様の御使いなのよ?」
『その神は邪神か?』
「失敬な。太陽を司る女神様よ」
どうやら場所が違えば神様も違うらしい。
そういえば、私にこの地の神様の祝福は無いけれど、元居た場所の神様は私を祝福してくれていたのだろうか。
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クロエや悪魔と過ごしてどれくらいたっただろう。
昼も夜も分からない森の中、私は初めてクロエ以外の人間に出会った。
「……おまえが巫女か?」
上等な生地の服を着て、これまた上等な外套を羽織った、見惚れるほど美しくしかしどこか冷たい金髪の男だった。
「……巫女?」
私が振り向けば、クロエは相変わらず世界に関心がないような無表情。しかし彼女の影が、悪魔が動揺したように蠢いた。
『……来たか』
「……」
何かを悟ったように悪魔が言った。その言葉に応えるように、男は手にした剣を振りかぶる。
「まっ……」
待ってと言い終わる前に剣が降り下ろされる。そしてあっさりと、悪魔は影を散らして闇に溶けていった。
「……ベリュース?」
クロエが悪魔の名を呼ぶ。
「ベリュース?」
返事がないことを不思議に思うように、名を繰り返す。
「ベリュースはその責務を終えた。これからは私がおまえの守護者だ」
いつの間にかクロエのそばに居た男が、小さな体に外套をかけながら言った。
「……共に来るか?」
その言葉はクロエではなく私に向けられていた。
一人ここに残されて生きていけるはずがない。しかし私は自分でも不思議なほど冷静に、男の言葉に頷いていた。
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男に連れられてやってきたのは、本でしか見たことの無いようなお城だった。
男は王様で、神の啓示を受けてクロエを保護しに来たのだという。
その胡散臭い話を、私は何故か当然のことであるかのように受け入れていた。
「おまえは不思議な女だ。あの森の、あの悪魔のそばに居ながら正気を保っていたのだからな」
王様はクロエだけでなく私にも気軽に話しかけてきた。
才を愛する彼は、知識を飼い葉のように咀嚼し続ける私の知恵と知性を愛した。
「いえ、恐らく私は正気ではありません。あの場所を、あの悪魔を恐れるどころか愛しく思っていたのですから」
「なればこそ。あれらは闇だ。光の中で生きるものが居るように、闇の中でしか生きられぬものもいる。私やおまえが偶々そうだっただけの事」
「クロエは闇の巫女だ。ただ存在するだけで闇を呼び寄せる。だがあの子は人間だ。闇の者共に蹂躙されればたやすく死ぬ」
闇に愛されながら、いつか闇に殺される。そんな矛盾した存在がクロエなのだという。
ならば王様のように私もクロエを守ろう。
私の知恵と魔力は全て彼女のために捧げよう。
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王様と私と彼の騎士たちは、悪魔たちを打ち倒し、時に屈服させ服従させながらクロエを守り続けた。
クロエを守るためには、忌み嫌われる魔獣や敵である悪魔すらも利用した。だからそれは必然だったのだろう。
いつしか王様は魔王と呼ばれるようになり、彼の傍らにある私は魔女であると罵られた。
「クク……魔王に魔女か。何とも私たちに似合いの名だ」
「笑っている場合ですか」
外交は領分で無かったとはいえ、国政に関わるようになっていた私は大臣たちと並んで頭を抱えた。
「……最悪の場合は私に全てを押し付けて処刑してください」
「何を仰るのですか!?」
私の言葉に、大臣たちや騎士たちが怒りながら反対した。
まったく。どこの馬の骨とも知れぬ私を、どうしてここまで愛してくれるのだろう。
「貴女は無欲過ぎる」
「貴女は報われていない」
「貴女は幸せにならなければならない」
どうやら身を粉にして働きすぎたらしい。
見返りを求めないのは美徳だと思っていたが、彼らに言わせれば言語道断だとか。
労働は美徳という考えも理解されなかった。つくづく私は異邦人でしかないと思い知らされる。
「誰がおまえを処刑などするものか。クロエとおまえを守るためならば、私は世界を敵に回しても勝利してみせよう」
二股発言からの世界征服宣言。王様は魔王として生きる覚悟を決めてしまったらしい。
ああ、まったく。思慮深いようでいて、こうと決めたら一直線だから困る。
ならば私は魔女として、魔王様を補佐して見せようじゃないか。
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世界というのは上手くできているらしい。
四方を敵に囲まれながらも私たちは連戦連勝を続け、そしていつしか連敗を重ねていた。
世界の敵たる魔王様と私を討たんと、女神の巫女と彼女の騎士たちが立ち上がった。
そしていつだって勝利するのは正義だ。
悪たる私たちは敗走を重ね、ついに最後の守りである城へと追い詰められた。
「……すまんな」
大地を埋め尽くす軍勢。それを見て魔王様は静かに私に謝った。
「何を謝るのですか?」
「クロエを生かすためにおまえを利用した」
クロエ。闇の巫女の存在は、ついに世に知られることは無かった。
私たちはクロエの存在を徹底的に秘匿し、付き従う悪魔たちは魔女である私の力だという噂を流した。
例えこの戦いに負けても、私という贄をもってクロエは生き延びる。
「いつからだろうな。おまえが感情を見せなくなったのは」
いつからだっただろうか。
「すまない……私がおまえを魔女にしてしまった」
懺悔するように漏らす魔王様。
ああまったく。まったくもって彼らしくない。
「私は感謝しています。貴方は私に役目をくれた。ただ無為に日々を過ごすしかなかった私に意味をくれた」
だから――。
「貴方を愛しています。貴方の魔女になれて良かった」
――私は王様の唇に自分の唇を重ねた。
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戦いは熾烈を極め、そして終わった。
これまでの戦いで私たちは多くの仲間を失っていた。
女神の巫女の騎士が十名を越えるのに対し、彼らに対抗できる戦力は私を含めて三人だけ。
あらゆる種族に恐れられる竜や巨人も、彼らにはこけおどしにしかならない。
私たちは負けるべくして負けたのだ。
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「……生きてる?」
崩れ落ちた城の中で、私は瓦礫に埋もれながら目覚めた。
規格外な魔力と自動で発動する術式が、戦いに敗れ意識を失った私の命を繋いだらしい。
「……駄目」
私は死ななくてはならない。
悪魔たちをこの世に呼び寄せた魔女として死ななければならない。
そうしなければ、クロエを守れない。
「……魔女!?」
瓦礫の中から這い出した私に、男の声が向けられた。
赤い髪の騎士。ああ、彼は確か女神の巫女の騎士だ。
誰よりも先を駆け、女神の巫女の敵を打ち倒す先駆けの騎士。
彼ならば、私を打ち倒す英雄に相応しい。
「――闇に……生き……」
潰れたように満足に動かない喉を叱咤して、最後の魔術を――完成することのない呪を唱える。
英雄たる騎士は、私の詠唱に反応し、躊躇いなく間合いをつめ剣を抜く。
それでいい。これで世界は平和になり、クロエは生き延びる。
だというのに――。
「……エリィ?」
――何故この子がここにいるの?
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「……エリィ?」
血溜まりの中に沈んだ私に、クロエが呼びかける。
「……エリィ?」
いつだって無表情だった顔を歪ませて、目に涙をためながら、辛そうに私の名を呼ぶ。
「……ク……」
名を呼ぼうとしたけれど無理だった。もう私の体には瞬きをするほどの力も残っていない。
「エリィ!!」
血に塗れるのにも構わずに、クロエは私にすがり付き泣いた。
それがとても嬉しくて、悲しかった。
私の存在が、最後に彼女を傷付けてしまった。
「いや……いやぁ!」
泣きじゃくる彼女の嘆きに惹かれるように、闇が集い形をなしていく。
闇の巫女の慟哭が、世界の破壊するものを呼び寄せる。
私にそれを止める術はない。
世界の崩壊を見届ける時間すらない。
――クロエ。
闇に沈む意識の最後に、私はただ愛する少女の幸福を祈った。