第9話 転機の使者
『悪逆無道な暴君董卓と、軍師賈駆は討死』『呂布、張遼らの側近も行方は知れず』『大戦は連合軍の大勝利』
それらは平原の火災と時を同じくして大陸全土を賑わせた洛陽決戦の顛末を伝える知らせ。
天子の都を舞台に天下の趨勢を占う重要な一戦だ。関心度は非情に高く、既にいくつかの英雄譚が各地の傀儡子により演目化され民衆をたちまち虜にした。中でも、“呂布対関羽”“張遼対夏侯惇”の一騎打ちを伝える芝居は人気も凄まじく、年頃の少年少女たちは棒切れ片手に憧れの将軍になりきり、街のあちこちで小さな英雄が生まれる。
世は娯楽も少なく、暗い世相を映す時代。人々は洛陽決戦の結末を快事慶事として祝い、大いに盛り上がりを見せていた。
ところが、そんな大陸全土を巻き込むお祭り騒ぎの中でも例外の地はある。
平原だ。
平原にも多くの傀儡子や演劇一座が訪れ、もちろん、その上演はいつも大盛況だ。ただ、それでも街の最大の関心事は別にあり、長いすれ違いの果てにようやく分かり合えた彼らが求めるものは、派手な戦演戯よりも確実な復興で。
今日も、朝も早くから到る所で再起を謳う槌の音がコツン、コツンと鳴り響く。それは平原を襲った大火より二週間が経つ、ある朝の光景だった。
***
「――ラストっ!」
掛け声に続く力強い素振り。上段の構えから振り下された宝剣の残心。もはや管輅家における朝の風物詩となった光景だ。
ふぅ、と長い息を吐きながら、一刀は雑に額の汗を拭うと近くの庭石に腰を落とす。火照る体を労うように風が抜け、自然に閉じた瞳の裏に夏の終わりを感じていた。
「……秋。この世界にきて半年かぁ」
もうと言うべきか。それともまだと言うべきなのか。どちらにしても、ここでの生活はすっかり板についていた。
始まりは見知らぬ山の中だった。そこは三国志よろしくの不思議な世界で。死にかけた回数は一度や二度ではなく。しかも何の因果か、一度は捨てた剣の道を邁進する日々が今の日常だ。
「ははっ、半年前の俺が聞いたら何て言うか」
とりあえず信じてはくれないだろう、と一刀は思う。現在進行形の身でも、どんな展開だよと呆れと感心が半々なのだから。
それにしても今にして思えば、もしこの世界に来たのが春ではなく冬だったならどうなっていたことか。おそらくはその場で即凍死。スタート地点がゴール地点なんて状況もあり得たわけだ。嫌すぎる。
ともあれ、一刀は幸運にも常軌を逸したこの世界で半年という時を刻み、見事に生き抜いた。その結果として、ここにはもう新たな居場所があり、絆が存在して、友がいて。だがやはり、帰郷の情が消失したわけではなかった。
「みんな、どうしてるのかな……」
確かに以前と比べれば、家族や友の顔を浮かべて思い出に浸る時間は減っている。正直、今すぐ是が非でも帰りたいかと問われれば心境は複雑だ。だが、一方でそれは新たな絆を得る代償に、過去の絆を切り売りしているような、どこか裏切りにも似た感覚で。薄まる執着心に一刀はどうしても引け目を感じずにはいられなかった。
新たな何かを手に入れるたび、一方で募る寂しさ。得るものがあれば失うものもあり、選んだ選択肢の裏には必ず切り捨てた選択肢が存在する。
二律背反。
生きていく上で誰もが行っていること。仕方のないこと。避けては通れないこと。人は万能には創られていないのだから。
その腕が二本しかないのと同様に、繋げる絆には限度があり、新たに誰かの手を掴みたいのなら、繋いでいた手を離すしかない時もある。そうして、人は何かを得ては何かを捨てて進んでいくしかない。当然の行為だ。
しかし、一刀の場合、ここから先の事情が少々特殊だった。
「でも俺には……、ない」
そう。
人は無限の取捨選択を繰り返す上で、とかく重要な局面を迎えた時には理由を求めがちだ。たとえそれがこじつけであろうと、そこに正当性を見出し、無理やりにでも自分を納得させる。何を理由とするかは人それぞれだが、最後はそうやって理論理屈で自らの背を押し進むもの。
生きて行く限りどこまでも広がり続ける選択という名の枝分かれ。その壮大な樹形図の根幹となるのが理由なのだ。
ところが、一刀にはその重要な部分が欠落している。
「俺は……なんでこの世界にいるんだ?」
わからない。自身の存在理由が。
そして不幸なことにその答えはいくら考えたところで見つかりっこないものだった。
こんな哲学じみた問いに答えを出せる者がどれだけいると言うのか。そもそも己の存在理由を考えること自体が稀で、ましてそれを行動原理とするなど稀中の稀だ。
現に一刀だって当初は違う。彼の指針となっていたのは“帰りたい”その一心だった。如何なる選択肢もその思いを叶えるためだけに選別した。劉備の誘いを断ったのそのためだ。
だが、絶対の孤独と思われた異世界で新たな絆を得た時、一刀の感情には少しずつ変化が生じていった。
一度は切り落とした運命の枝葉が再び芽吹く。短絡的で頼りない幹は揺れ、次第に自重を支えるため新たな意思が地中深くに根付こうとする。それが存在理由だった。
この世界にやってきた理由。なすべき使命があるのではないか。もしそうであるなら、何かが変わるかもしれないと。
さりとて、別世界に飛ばされた理由など考えてどうにかなるものではない。人智を超えた思考は必ず行き詰まり、いつも立ち往生。問いは問いのまま昇華されずに居残り続けてしまう。
「……じいさんに聞けば、たぶん何かわかるんだろうな」
しかし、一刀はそれをしなかった。いや、できなかった。
何故か? 簡単だ。一刀は返ってくる答えがわかっているのだ。
「天の御遣い。背負ってたまるかよ……、んなもん」
怖かった。それを改めて告げられるのが何よりも。
行動に対する覚悟と責任。未熟ながらもその意味を学び、今の一刀はそれを得るため精進している。ただ、あくまでその思いは極々限られた人に向けてのもの。凡人の手が届く範囲についてだ。
それが御遣いともなれば全く別領域の意味をもたらしてしまう。そんな莫大な覚悟と責任を担えるわけがない。想像するだけで身震いするほど恐ろしい。絶対に許容できない。
ゆえに管輅に答えを求めることだけはどうしてもできず、
「……なら、やれることをやる、だよな」
この前向きにもごまかしにも見える結論がいつでも変わらぬ終着点。無理やり自分を納得させる唯一の方法だ。
いつの間にか火照りの和らいだ身体を起こし、一刀は何気なく空を見上げる。
「…………」
空は好きじゃない。
特に、雨が降りそうではないが、晴れとも呼べない中途半端なこんな曇り空は。それは両親を失ったあの事故で唯一記憶に残る光景に似ているから。さらに今は、なんだか煮え切らない己の心情を映しているかのような気さえして――、
「っ、あーもう、やめやめ! 余計なこと考えてる暇があるなら稽古だ稽古! よし、じいさんがくるまでにあと五十いっとくか!」
と、一刀が立ち上がり、宝剣を構えたその時だった。
「ごめんください」
玄関口より門を叩く音と共に聞こえる声。転機はやはり突然に訪れた。
***
管輅は不機嫌だった。
「……それで何用じゃ? こんな朝っぱらから不躾に」
「ちょ、じいさんっ」
「フン」
居間には三人の人物がいた。管輅と一刀と訪問者だ。
いつも以上に無愛想な管輅は椅子にどかっと腰を降ろす。
不機嫌の理由は単純明快。それは、立派な親馬鹿だから。
「こんな時間に来よって……、せっかくの椿お手製の朝餉が冷めてしまうではないか」
管輅にとって椿の手料理とは日に三度しか許されない貴重な生きがい。それを邪魔する者は何人も許さんとばかりに、机越しの訪問者を睨みつけている。
だが、当の役人とおぼしきその男は眼力に怯むどころか、むしろ、こちらの無遠慮な振る舞いを納得するかのように目を細めて頷くと深く一礼し、
「此度は突然の訪問にもかかわらず、こうしてお時間を頂き恐悦至極に存じます。ただ何分、急ぎの用件を承っていた次第。ご無礼のほどは平にご容赦願います」
「いえいえいえ! とんでもないっす! このじじい捻くれてるだけなんで気にしないでください!」
「一刀……!」
管輅が“今日の鍛錬は加減なし”と密かに決意したのはさておき。訪問者は姿勢を正すと話を始めた。
「さっそくですが、わたくしは、曹陳留太守さまの使者として参上仕りました」
「――えっ? 曹? それって、ひょっとして……」
「ほう、曹孟徳とはまた随分な名が出よったわい」
やっぱりー! と騒がしい馬鹿は面倒だし無視するが、この名には管輅もさすがに些か思うことがある。
――かの風雲児が、ワシにのう。
姓は曹、名は操、字を孟徳。
黄巾の乱において、僅かな私兵団を率いては数々の武功を重ね、反董卓連合の折にも中心的な役割を果たし、今や天下を窺う英傑のひとりと目されるほどの人物だ。一方で、時に型破りで苛烈な方策に対して方々から批判も呼び、悪評もまた同等に高い。
――じゃが本人はこれをまったく意に介さず。悪評をも平気で喰らうてみせるのが曹孟徳の器、か。
ならばそんな人物が易占の類に頼るとは到底思えず、
「それで、曹公の用件とは?」
問いに、使者は一度と大きく頷くとこう言った。
「実は、曹陳留太守さまは先の反董卓連合の際、盟主殿より管輅さまのお話をお聞きになられたそうなのです」
「じいさんの?」
「はい。そしてそのお話に甚く関心を持たれ、是非一度お会いになりたいと」
関心。その言葉に先んじて反応したの一刀だった。彼は、それってどんな? とすぐさま尋ねる。
すると使者はサッと目を逸らし、
「そ、それはどうかご容赦を。わたくしの口からはとても……」
その意味深な答えで管輅は理解する。やはり曹操とは噂通りの人物だと。それから、どちらかと言えば毛嫌いされているだろう人種の自分が何故招聘されるのかを。それは、ずばり、
「曹公はワシを試す気か?」
「…………」
使者は何も答えない。ただ沈黙をもって解とした。つまり肯定だ。
しかし、ひとり置いてけぼりの男は割り込むように身を乗り出し、
「ちょ、ちょっと待ってよ。試すって何を? つか、じいさんに関心ってやっぱ預言系の話?」
「違います」「違うの」
「揃わないでくれますかね!」
ならなんだよ、と詰め寄る一刀に、管輅は渋々答えた。
「……あれは反董卓連合軍に合流するため、連合盟主の袁本初が南皮より出陣する日のことじゃった。その日、ワシは決戦の勝敗を占うため城に招かれておってのう。陣触れの様子も間近で見ておったのじゃが、これが途轍もなく酷い有り様で」
「わかった! どうせそこで余計なこと言ったんだろ!」
「馬鹿者。ワシとて時と場くらい弁えるわ」
「そ、そっか。そうだよな。いくらじいさんでも相手も相手だし……」
ごめん、と謝る一刀に、管輅は堂々言った。うむ、とひとつ頷き、
「じゃから、そこはぐっと飲み込んで、直後の占いの場で言ってやったわい。戦の結果がどうなろうとおぬしのような阿呆に掴める栄誉なんぞどこにもありはせんとな! かっかっか」
「――おいいいいっ!! かっかっか、じゃねえよ! 俺のごめんを返せ! つか、今すぐ袁紹さんに謝ってこい!」
「……何故じゃ? ワシはありのままの感想を率直に言っただけじゃぞ? 何も間違ってはおらん。あれが阿呆でなくて何が阿呆じゃ?」
「――知らねえよ!! それに、もしそうだとしても、素直さってのは時に人を一番傷つけるんだよ! だからもっとまろやかに、こう、なんか言い方があんだろ!」
「それこそ知ったことか。誰もハッキリ言ってやらんからあんな阿呆の君主が生まれるんじゃろ。ワシに言わせればあんな阿呆の下で働かねばならん者たちの方がよっぽど不憫でならんわ」
「いや、それはそうかもしれないけどさ……」
「だいたい、あれの迷惑さ加減はおぬしも身をもって体験したではないか」
「え?」
「よぉく思い出してみい。ワシとおぬしが出会った場所はどこじゃったか。そして、そこで何があったかを」
言われ、一刀は俯いた。記憶の精査を始めたのだろう。そして、ややあってからハッと顔を上げると、
「ま、まさか! あの時じいさんが逃げてのって! じゃあ、路地から飛び出してきたあの全身金ピカクルクル巻き毛の女の子は……」
「うむ。あれが袁本初じゃ」
「――ぎゃああああ! もうとっくに巻き込まれてたあああああああ」
何を今更と思うが、よく考えてみると確かにこれまで何の説明もしていなかった気もする。
――まあ、ええじゃろう。一刀じゃし。今まで聞いてこん方が悪いんじゃ。うむ。
やっぱり無視だ。戻す視線は正面に向く。
「いかかでしょうか管輅さま?」
「そうじゃのう……」
どうしたものか。
言うまでもなく、悩みの種は街を離れることだ。復興へと尽力をする皆を残し、今、陳留へ出向くのはやはり心苦しいものがある。加えてこちらを値踏みするような曹操のやり方は気にいらない。しかし、それらを踏まえた上でも、かの人物に会ってみる価値はあるように思えた。
受けるべきか。断わるべきか。最後は己の直感に従った。
「……よかろう。覇王と称されるその才器、本物かどうかワシがこの目で検分してくれる」
***
隣室で控えていた椿は使者の退出を音で確認すると、見送りのため玄関まで付き添い、
「道中お気をつけてお帰りください」
彼の姿が見えなくなるまでしっかりと頭を下げ、しかし、戻るその表情はどこか物憂げだった。
――管輅さまが陳留へ……。
何もこんな時期に、という思いはどうしてもあった。平原は今、大変な時なのだ。皆が管輅さまのことを頼りにしている。いなくなられては困る。何より、やっと取り戻した娘としての穏やかな日々は、椿にとってかけがえのない幸せだった。
だというのに、陳留へ赴くとなれば、少なくともひと月は留守を預かることになるだろう。それはやはり心寂しい。できることなら止たい。
「でも、いけません。これは大変名誉なこと。それを不満に思うなどと、我侭ですね」
椿は己を戒める。多くを望むことは贅沢だ、と。
だいたい、これで今生の別れというわけではないのだ。甘えが過ぎるかも、と多少の気恥ずかしさも覚えつつ、椿はピシリと両頬を叩く。
気を取り直して、まずは三人分の朝餉を暖め直そう。椿は踵を返し、そして、そこである重大な事実に思い至った。
「――って、そ、そうですよ! 三人分! 一刀さまです! 管輅さまが陳留へ行かれるのなら、その間、一刀さまと、ふ、ふふっ、二人暮らしッ!?」
叩いた頬にすぐさま別の熱がこもる。
想像してしまう。二人だけの生活を。一刀さまの世話を嬉しそうにする自分の姿を。優しい彼の微笑み(椿補正つき)を。その光景は、新婚生活さながらの甘酸っぱさで――。
「――って、い、いけません! 私ったらなんてはしたないことを! し、新婚だなんて気が早すぎます!」
だが、先ほどとは違い、今度はいくら己を律しても駄目だ。
頬の熱は増すばかりで、口元にも締りがなくなり、これからのことを思うとどうしても心は浮かれ弾んで、
「――って、もう何を考えてるんですかあ! これでは管輅さまがいなくなるのを喜んでいるみたいじゃないですか!」
とはいえ、嬉しいものはやっぱり嬉しい。感情は偽れない。そこで椿はこう考えることにした。
管輅さま不在の間、屋敷の留守を守るのは当然のこと。それと同様に、管輅さま唯一の弟子たる一刀さまのお世話をすることは極めて重要な使命だ。つまり、そこに喜びを感じるのは、別に障害が消えたとか、一刀さまと二人っきりが嬉しいなとか、二人の関係を進展させるまたとない好機だとか、そんな邪な感情からではなく、ただただ使命を全うすることがひいては管輅さまへのご恩返しにもなるからであり、
「――そ、そうです! これは歴とした親孝行なんです! ですから一刀さまとの二人暮らしは正当なもので、私が誠心誠意一刀さまをひと月の間……いえ、ご高齢な管輅さまですから、その旅路は――ふた月もありえます! どうしましょ!」
きゃっ、と火照る両頬に手を当て、戻るその足取りは小躍りだった。
***
一方その頃、居間に残る二人の会話は続いていた。
「本当によかったの、じいさん」
「断わるわけにもいかんじゃろ。それに、あそこまで言われて逃げるもの癪だしのう」
「でもさぁ」
「おぬしの言いたい事はわかる。ワシとて今この地を離れることに思うところはある。じゃが皆なら心配無用じゃ。以前とは違う。ワシがいようがいまいが大差ない。そうじゃろ?」
むしろ、そうでなくてはならない。歪な関係は清算されたのだ。人々の預言に対する依存は解かれ、管輅も独善的な正義は捨てたのだから。
「じゃから、行く。街のことは皆に任せ、ワシはワシの使命を全うする。これはおぬしの口癖と同じじゃろう?」
「……そっか」
納得したのか、一刀はどこか照れくさそうに小鼻をかき、
「なら、俺がじいさんの分まで頑張っとくよ!」
「一刀……」
生意気な台詞だ。
――ひよっこが何を一丁前に。
そして喜ばしいことだ。弟子の成長というものは。まだまだ甘いところはあるが、それでもここ最近の成長は師として嬉しい限り。ただ、管輅はそれを絶対に表情には出さない。なんか悔しいからだ。
師としての感情と娘の父親としての感情は別。そしてより優先されるのは後者で。
「ところで一刀。何を勘違いしておるか知らんが、おぬしはワシと共に陳留行きに決まっとるじゃろ?」
「へ?」
何故、と言いたげな男に管輅は告げた。
「なんじゃ? まさかこんな老い先短い老人ひとりを危険な長旅に放り出すつもりか?」
「は? いやいや老い先も何も、じいさん俺より百倍元気だから。強いから。つか、いつも人のこと“ひよっこめ”とか“半人前が偉そうに”とか言ってるくせに、都合のいい時だけ年寄りぶるのってどうなの?」
「やかましい! ただ飯喰らいの居候の分際で口答えするでないわ! 最近は家事もどんどん椿へ押しつけおって! せめて共くらい黙ってせんか!」
「うっ」
「馬鹿者め!」
こうして、一刀の陳留行きは呆気なく決定。もとより弟子である男には当然の帰結とも言える。
が、実はこの時、管輅の内心はひやひやだった。
――ふぅ、なんとか椿がおらんうちにうまく丸め込めたのう。
一刀を同行者にすることは何が何でも必要だった。
もし管輅がひとりで陳留にいく事になれば、屋敷に二人を残していくことになってしまう。同じ屋根の下。年頃の男女が二人っきり。考えるまでもなく駄目だ。危険すぎる。
――椿がのう!
そう、一刀ではない。この場合、生粋ヘタレの一刀ならひと月どころか一年放っておいてもまず平気だ。いくら下心があろうと自分から女を口説くような大胆な真似を、万に一つもできるとは思えない。その点だけは非常に信頼できる。
だが、椿は違う。
危険だ。
普段こそ物腰柔らかく控え目な性格だが、あれでいざとなったら肝の据わった娘。煮え切らない一刀に痺れを切らし、いっそ自ら打って出る危険性は十二分にある。
――そうなれば、このヘタレが椿を袖には出来まい。まず間違いなく押し切られるに決まっておる!
つまり、すべては一刀が悪く、そこに見送りを終えた椿が戻ってきた。
「……一刀さまも、ご一緒に行かれるのですか?」
話を聞いてしまったのだろう。
彼女は明らかに落胆顔。あまりの陰気さに管輅は改めて肝を冷やす。
――や、やはり、この機に乗じる気だったな!
間一髪だ。もう少し長引いていたら確実に椿の乱入劇へと突入していただろう。先手を打っておいて大正解だった。
「う、うむ。新たな見聞を広めるのもよいことじゃ。そうじゃな一刀?」
「え? あ、まあ陳留がどんな所なのか興味はある、かな」
「そうですか……」
椿は言葉こそ濁すものの、その目は嫌だと告げている。ここできっちり諦めさせておかないと面倒なことになりかねない。
管輅は頭を悩ませる。さて、どう得心させたものか。
なるべく事を荒立てないようにするなら、一刀自身がそう望んでいるという方向性が望ましいだろう。先程の様子を見る限り、あれもあれなりに食い扶持の件は負い目もあるようだし、適当な理由をこちらから切り出せば口裏くらい合わるはずだ。
欲を言えば、それも一刀が自発的に発言してくれるのが一番なのだが、そこまで気の利いた男でないことくらい承知している。第一、そんな器用な男なら椿の気持ちにも気づいているだろう。
――果たしてそれは現状より良い展開なのか悪い展開なのか……。
どちらにせよ腹立たしいことだけは間違いなかった。忌々しい。
ともあれ、今は椿をなんとかすることが先決だ。なんと話を振るべきか。思案していると、意外にも一刀が先に口を開く。
「な、なるべく早く帰ってくるからさ。そうだ、何かお土産買ってくるよ!」
ただし、その動機はこちらへの配慮でも椿への気遣いでもなく、単に沈黙の居心地の悪さに耐えかねただけのご機嫌取り。しかも、まさかここで物で釣る作戦にでようとは。
乙女の機微にはとんと疎い老人でさえ、さすがにこれが愚行なのは理解できる。案の定、椿の視線はじりじりと鋭さを帯び、
「――土産など結構です!!」
「ひい!?」
おかげで不満の矛先はすべて朴念仁へ。想定とは多少違うものの、最大の懸案を無損害で切り抜けられた。
……のだが、管輅は改めて頭を悩ませ、ぼそりと呟いた。
「こんな男のどこがいいんじゃ……?」
***
二人の旅立ちは一週間後だった。
「いいですか管輅さま。一刀さまが無茶なさらぬよう、くれぐれも、しっかりと、見張っておいてくださいね!」
という椿の念押しを出立の挨拶として、平原を出立した二人はまず南へと進路を取る。そしてそのまま黄河を渡りエン州に入ると、そこからは黄河を遡るように南西へ進み、濮陽を経由して目的地である陳留に到着。総距離、約四百キロ。旅路は二週間の道程であった。
ちなみに、今回の旅で乗馬初体験の一刀は極度の又ずれと尻痛で眠るどころか横になることすらままならず、夜な夜な苦悶の涙で枕を濡らしたそうな。
話を戻そう。
時は到着翌日の朝。ここは陳留城下で、二人が泊まる宿の一室。
朝餉を終え、身支度もすっかり整えて、出発の準備万端の管輅は言った。
「では、ぼちぼち出かけるとするかのう。一刀、おぬしはよそ様に迷惑かけぬよう適当に時間を潰しておれ」
「了解。そっちもくれぐれも失礼のないようにね。南皮みたいなのだけはもうマジで勘弁だから」
「かっかっか、ワシとしてはいつも礼節を弁えておるつもりなんじゃがな」
「どこがだよ!」
一刀は心からのツッコミを叩き込むが、年季の入った偏屈爺はむしろそれを心地良いとばかりに笑みを深めるだけだ。
「それから、陳留に滞在中はガクセイフクとか言うたか? あの白い服を着るんじゃぞ」
「別にいいけど、なんでよ? だいぶ涼しくなってきたっていっても、まだ厚手の長袖はきついんだけど」
「目立つからに決まっておろう。とにかく、外出するならあれを着ろ。よいな?」
「へーい」
「ならば、そろそろいってくるわい」
そして管輅は意気揚々と出かけていった。その背中はいかにも“今日も一発かましてやるぜ”とやる気に満ち溢れているかのようで。
「…………」
一刀は悟る。これは覚悟しておいた方がいいかもしれない、と。いつぞやのように追手から逃げ帰ってくるに違いない。
「まさかあのジジイ。俺に目立つ格好させて囮にでもするつもりじゃないだろうな……?」
猛烈に嫌な予感がする。あのジジイならやりかねない。一刀は額の前で柏手を打つと、とりあえず祈った。
「……お願いします! どうか今日の曹操さんが人生最高にご機嫌でありますようにっ!」
ご利益なさげな神頼み。しばらく続けると、一刀も宿を出た。
日課をこなすためだ。
旅の途中であっても、どんなに尻が痛くても、剣の鍛錬は一日たりとも欠かさず行ってきた。なら今日が例外のわけもなく、この空き時間に励んでおこうと一刀は大通りを行く。
すると少し歩いた所に木柵で囲われた手ごろな空き地を発見。
「おっ、ここいいじゃん」
足場も固い砂地で、剣を振るには調度いい場所だ。
早速、空き地の中央に進んだ一刀は、脱いだ制服の上着を木の枝にかけると、雑念を振り払うように大きく深呼吸し、
「……よし、やるか!」
宝剣を構えた。
***
同刻、慌しさに追われる朝の街並みを、悠然と歩く者がいた。
「そろそろ、かしら」
女性だ。
年齢は背格好から判断すれば十代後半。
踵が踏み鳴らす音律に合わせて、ふわりと揺れる螺旋の髪は、朝の陽光を浴びて金色に輝く。
小さな仕草ひとつひとつに潤沢な気品を漂わせ、美しく整った顔立ちに、澄みきった藍の瞳は宝石と称えていいほどの色鮮やかさ。
すらりと伸びる四肢はそこに何かを飾る必要性を全く感じさせず、滑らかな肌には微塵の曇りもない。
そんなすれ違う者が男女を問わず振り返るような美しい女性が疎らな通りをひとり歩いていく。
「たまにはこうして市井の朝というものを見て回るのもいいものね」
ここは普段過ごす朝とは少し色合いが違う。
彼女にとって朝とは有意義な静寂だ。鳥のさえずりを音楽にして、読書、写本、注釈入れと、いつもはもっぱら趣味の時間となっている。
それが今日に限って何となく散歩の気分で。行くあてもなく、赴くままに部屋を出た。自然とその足は城下に向き、そして静寂の街は時間経過と共に趣を変えていった。
静から動へ。
街全体が一日の活動を準備していく。市井の営みを変化の中で見守るのは思った以上に興味深かった。
おかげで予定よりも随分と長い散歩になってしまい、すぐに戻るという条件で無理を聞いてもらった宮城の門番には悪いことをした。彼にはあとで詫びるべきだろう。
「そうね。夜警明けに点心でも持たせてあげればきっと喜ぶでしょう。けれど……」
残念ながらこの時間帯ではまだどこの店も開いておらず、ならばいっそのこと自分で作ってしまおうかとも思うが、辺りを見回せばあちらこちらの竈から白い煙が立ち始めている。
「駄目ね。うちも朝の厨房は戦場と化しているもの」
とても貸せとは言えない。彼らには彼らの生活があるのだ。それにこれはあくまでお忍びの散歩だ。好き勝手は自重。忍ばねば。
「仕方がないわ。詫びは改めて考えましょう」
それにこの先は宿場街だ。自分のことを知っている者がいるかもしれない。下手に騒ぎになるのはごめんだと考えた彼女は、そろそろ戻ることにした。ただ、せっかくなら行きと別の道で帰ろうと一本奥の路地へと歩を進める。
するとそこには、新たな光景が待っていた。
「17、はっ! 18、にっ! 19、とっ!」
空き地でひとりの青年が剣を振っている。
実に平凡な太刀筋だ。特にこれといった武才は感じられない。が、集中だけはよく伝わってくる。加えて彼女の目を引いたのは彼の身なりだった。
彼が身に纏う滑らかな薄絹のような上衣や、妙に光沢のある白生地の衣装もそうだし、さらに、手にしているそれが知的好奇心をそそる。
「あの得物……、鞘を挿したままよね?」
彼女は腕組みで彼を見つめながら、しばし考察。
単なる抜き忘れか。それとも鞘を重し代わりにしているのか。あるいは屋外ということで安全面を考慮しているのか。いくつか候補は浮かぶものの、しかし、どれも決め手にかける。そこで彼女は答えを直接聞き出そうと背後から接近し、
「ちょっといいかしら?」
が、彼がその呼びかけに応じることはなかった。
「26、ほっ! 27、ふっ! 28、たっ!」
こちらの声はまるで届いていない様子。それだけ稽古に集中している証だろう。中々できることではない。
素直に関心した彼女は気を取り直して、
「ちょっといいかしら?」
「30、はっ!」
「……ほ、本当にいい集中力をしているわね」
またも無反応だ。
しかし彼は何も悪くない。むしろ見事。だから改めて、今度はわかり易く咳払いも追加して、
「ん、んんっ! ねえ、ちょっと――」
「31、やっ!」
彼女はおもむろに右足を引いた。
「やっ、じゃないわよ! 止まりなさい、このっ!」
「3――、ぎゃああああああああああ!!」
鞭のようにしなった回し蹴りが彼の臀部を直撃。我ながらいい蹴りだ。湿った布を木床に叩きつけたような会心の音が空き地に響く。
すると彼は、し、尻はアカンのよ尻だけは……! と、なんだかよくわからないことを消え入りそうな声で口走りながら、ゆっくりゆっくり膝から崩れていった。些か大袈裟だ。
確かにイラっとした分だけ多少力を込めはしたが、さすがにここまでではない。大体、武を志す者がこの程度で膝を折るとはあまりに脆弱というもの。彼女は四つん這いの男を最大限に見下げ、
「情けない。いつまで地べたを這っているの? さっさと立ちなさい」
「なっ、なんだよその言い草! やっと少し回復の兆しを見せてた俺の尻を蹴りやがって、どこのどいつだコンチクショウ!!」
途端、彼は勢いよく立ち上がり反転。反抗的な視線はすごく涙目だった。
「え?」
待て、と彼女は思った。これもきっと演技だ。いくらなんでも泣くほど強くは蹴っていない。
――わよね……?
わずかながら、やりすぎたかもしれないという思いがこみ上げてきたが、今更謝るわけにもいかず、
「な、なによ?」
「…………」
彼はまたも無反応で。
今度はこちらを食い入るように凝視しながら固まっている。口はぽかんと半開きのまま、なんとも間の抜けた顔だ。反射的に気付けの蹴りをもう一発お見舞いしてやろうかとも思ったが、今度こそ本泣きされそうなのでやめておく。代わりに、彼女はその横っ面になんの躊躇もなく平手打ちを放ち、
「――ッ!?」
正気に戻った彼に言ってやる。
「彼方ね、初対面の女性の顔を無言で覗き込むなんてどういうつもり?」
「え? 俺、あ、え? いや、えっと、その、じゃあ……、ごめんなさい――って、なんで俺が謝ってんの!? おかしいよね! 被害者こっちだよね! 初対面の人間をいきなり蹴ったりひっぱ叩いたりして、そっちこそ何考えてんだよ!」
「は? こっちはさっきから何度も呼びかけていたわよ。気づかないそっちが悪いんでしょう。妙な言いがかりはよしてくれない?」
「いやいや、おかしいだろ! そりゃ気づけなかったのはごめんだけど、それがなんで暴力の正当性になっちゃうのかな!」
「は? そんなの決まってるじゃない」
彼女はとても面倒くさそうに言った。
「彼方が男だからでしょう?」
「ず、ずるっ!! そんなの横暴だ! 卑怯だ!」
やかましい。
本当に面倒になってきた彼女は卑怯で結構と受け流し、さっさと本題に移ることにした。
「そんな事より彼方に聞きたいことがあるんだけれど」
「そんな事!? 男の尊厳をそんな事!?」
「それ、どうして鞘を抜かないのかしら?」
「無視!?」
「……ああもう、ごちゃごちゃとうるさいわね。いいから質問にだけ答えなさい」
「嫌に決まってんだろ! こっちの質問には全シカトのくせに、どんだけ自分勝手なんだよ!」
「なっ」
なんて生意気な! 感情に反応して彼女の眉がピクリと跳ねた。
他人からこんな物言いをされるのはいつ以来か。懐古の情が沸いてくるくらいには久方ぶりだ。少なくもとここ数年来の話ではないだろう。いつもならこんな無礼を腹心たちが許しておかないし、言い換えれば、現状は様々な観点で貴重な体験といえる。
それに繰り返しになるが彼女はお忍びの身でもある。正体を明かすわけにはいかないし、そうである以上、今は平民として平民らしく振舞わなければならない。なら多少の無礼は聞き流すべきで、彼女は無理やり笑顔を作ると、
「……もう一度だけ聞いてあげる」
地面に転がる銀の得物を指差す。
「それ、なぜ鞘を抜かないのかしら?」
すると彼も剣を拾い上げてニヘラと不快に笑い、
「これぇー? さぁー? なぁんでかなぁー?」
「――せいっ!!」
「んぎゃあああああああああああああ」
さっきよりも強めの蹴りが彼の臀部に炸裂した。
我ながら完璧な後ろ回し蹴り。悶絶する男はまたも大げさに膝から崩れ落ち、声にならない悲鳴を上げているが、相変わらず無駄に見事な演技力だ。
――役者の才ならあるのかも。
というか、名演技にしても真に迫りすぎている気もする。ひょっとして臀部に何かしらの負傷を抱えているのではないだろうか。なるほど。それならこうも痛がるのも頷け、とすると、彼は本当に苦痛から悶絶していることになり、
「へぇ、いい表情するじゃない……!」
それならそれで逆にそそる。俄然、興が乗ってきた。
「フフフ。いいわ、答えたくないのならいつまでもそうして惚けていなさい。その代わり、今日を最期にそのお尻とはお別れのようね?」
「お別れいやああああああああああ」
天下の往来でお尻だなんて下品な気もするが、しかし、今の彼女はあくまで平民だ。平民的にはきっとありだろう。いや、むしろこれくらい賑やかな方が適当なのかもしれない。
――ええ、そうよ。まったく問題ないわ!
自己完結した彼女は、もはや踊る加虐心を隠そうともせず、清々しいほど邪悪にほくそ笑んで腰に捻りのタメを作った。
「さあ、次はどんな哭き顔を見せてくれるのかしら……!」
目の前には絶好の四つん這いがあるのだ。据え膳はきちんと食べなければ。
しかし、窮地を察した男は慌てて顔だけをこちらへ向け、
「――ちょっ、まって!! すいませんでした! もう言うから! 答えるから! お願いします!!」
「却下ね。そんな事されたらお仕置きの理由がなくなってしまうじゃない。彼方、何を考えているの?」
「趣旨が変わってるううう――!?」
やかましい。今いいところだ。いくわよ! と構わず彼女は右足を踏み切った。
と、その瞬間。
男は四つん這いで身体の向きも逆のまま、咄嗟に剣を奉納でもするかのように両手で掲げ、
「――抜けないんです!!」
「……はあ?」
彼女は驚かされる。
額を地面に押し付け、許しを請うその格好はまさしく稽首。稽首とは宮中でも通用する正式かつ最大級の礼。それもこれほどまでに洗練された稽首となれば中々お目にかかれるものではない。そこらの役人では到底できない芸当だ。それをまさか市井の場で平民に見せられようとは。
止むを得ない。急停止させた右足を地面に戻す。
「……フンっ」
あとちょっとだったのに。とんだお預けだ。半ば不貞腐れる彼女は彼の手からその剣を掻っ攫う。そして真偽を確かめるため刀身を引き抜こうと試みるが、それは二重の意味で面白くなかった。
「……本当ね。抜けないわ」
お楽しみを邪魔された挙句、明かされた理由の何と退屈なこと。
収穫を上げるとすれば、手にした剣が思いのほか立派な装飾を施されていることくらい。鞘には実に細やかな細工が見られ、柄の所々に断片的にしか読み解けない謎の文字列の刻印があり、おそらくこれは祭儀の際に用いる宝剣の類だろうと推測できる。
――使われているこの文字、相当に古いもののようだし、大方、内側が錆ついてしまったんでしょうね。
途端、彼女はすべてに興味を失くし、乱暴に剣をつき返していた。
「返すわ」
「は、はい!」
彼はこちらの挙動にビクつきながらもゆっくり立ち上がり、それを受け取る。彼にしてみれば何がなんだかさっぱりだろう。こちらが勝手に期待して、理不尽に失望しただけの話だ。彼にはなんの非もない。
だが、何故か裏切られたと感じてしまう彼女は思わず当てつけのような言葉を口にしてしまい、
「それで、実戦で使い物にならない剣で何がしたいの? 随分と真剣に取り組んでいたみたいだけれど、丸っきり無駄じゃない」
「む、無駄って、……まあ普通はそうか。けど俺にはこれで、っていうか、これがいいんだ」
「これがいい、ですって?」
また妙なことを言い出した。
得物など馴染んでこそだろう。それが剣であれ槍であれ弓であれ、己が身体の一部として扱えるようになってようやく武の出発点ではないのか。
だというのに、何故わざわざ実戦では使えない祭儀用の剣で稽古をするのか。仮に、実戦に堪えるまったく同型の剣が存在するとしても、あえてこちらを選ぶ必要性はないように思える。鞘の有無など些細な差と考えているのかもしれないが、その些細を日々の積み重ねで地道に塗り潰していくことこそが武の道というものだろう。ならば、彼の言動は道理が通らず、
「……どういう意味よ? まさか単純に身体を鍛えるのが目的で剣術には興味ない、なんて腑抜けたこと言わないでしょうね? 本気で蹴るわよ?」
「蹴んな! つか、手加減してアレだったの!?」
当然だ。彼女だって鬼じゃない。問答無用のいきなり本気ズバンはなしだ。
――だってつまらないじゃない、そんなの。一発で呆気なく終了なんて愚行よ愚行。折角の獲物は生かさず殺さずが鉄則。そしてそれをいかに限界で保つかが腕の見せ所じゃない!
何の腕だろうか。
さておき、彼は少し照れるようにこう答えた。
「いや、そりゃ俺だってマジで強くなりたいって思ってるよ? けど、その、なんていうか、戦うために強くなりたいわけじゃない、っていうかさ」
「……なんですって?」
ますます真意がわからない。
強くなるために剣を振るが、しかし、それは戦うためではない。
――謎かけか何かなの……?
儒者を相手にしているような問答だ。得心を追うにはさすがに情報が足りない。
彼女は眉をひそめつつ、続けて問う。
「だったら、彼方はなんのために強くなりたいのかしら?」
「大切な人たちを、守るために」
「はあ?」
馬鹿な、と彼女は瞬時に思った。
彼は誰かを守る手段として剣術という紛れもない武力を欲しながらも、戦うことを否定したのだ。つまり、彼にとってそれは苦渋の決断。大切なものを守るために必要な力ではあっても、出来得る限り行使を避けたいのだろう。そこに“これがいい”という先の発言を加味すれば、自ずとある感情が透けて見えてくる。
――おそらく、彼は人の死を拒絶している。
馬鹿馬鹿しい、と彼女は思った。恐ろしいまでに盲目的で甘ったれた考えだ。彼は何もわかっていない。
世界とは得てして残酷にできているものなのだ。
この世を構成する要素のうち、“幸福”と“不幸”の割合は不均等で、幸福の座は万人を許容をするには圧倒的に不足している。
すなわち、奪い合いだ。
数の限られたその席を獲得するためには、たとえ他者を蹴落そうとも上り詰めるしかない。
弱肉強食。幸福を掴む勝者の裏側には、必ず不幸に溺れる敗者が存在する。それがこの世の理だ。守りたいものがあるならば勝ち取るしかない。
ところが彼はそんな理に反し、敗者を出したくないが勝者になりたいと言う。それも力なき弱者が、だ。
「……随分と笑えない冗談ね。彼方、まさか自分なら誰も傷つけずに大切なものを守ってみせるとでも言いたいわけ? 何様よ?」
舐め腐っている。これが驕りでなくて何が驕りか。彼女はいつになく感情的になり、互いの身分も立場も忘れて、自然と力の入った視線を送っていた。
彼はわかり易く強張り、
「う、うん、その手の批判は散々言われたよ。けど、誰に何言われたって自分で決めたことだからさ」
「それが傲慢だって言うのよ。身の程を弁えなさいッ!」
だが、それでも彼は微かに頬を緩ませ、
「でも俺、逃げたくないんだ」
「――――」
言葉がなかった。これは正真正銘の馬鹿だった。
彼の言は誰がどう聞いても夢物語でしかなく、真に受ける者などいないだろう。十人に問えば十人が馬鹿馬鹿しいと鼻で笑うはずだ。彼女だって心底そう思う。
だというのに、何故か彼女にはそれが出来なくて。
――どうして……?
馬鹿じゃないの、と笑い飛ばしてやるつもりだった。
彼方は現実を知らないだけ。はやく目を覚ませ、と罵ってやるつもりだった。
だが実際は、何故か彼の真っ直ぐな眼差しに何も言えなくなってしまって。
――どうして……!
眩しいとすら思った。彼の直視から逃げるように視線をそらしていた。まるでこちらに後ろめたい感情でもあるかのように。
そして何より、何故かその瞳の奥に彼と同じ輝きを見た気がして。
「どうして……」
あの頃と同じ。平民としての彼女にはそのひと言を捻り出すのが精一杯だった。
***
今、一刀はとても困っている。
目の前には俯く女性だ。先程までの横柄な態度が嘘のように黙りこくってしまっている。
「あ、あの~?」
「…………」
やはり反応なし。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか。
わからない。
彼女とのやり取りを振り返ってみても思い当たる節がまったくない。というか、どちらかと言うと我が身に起きた理不尽ばかりが思い返されるのは狭量ゆえなのだろうか。
ともかく、この状況は宜しくなかった。女性の沈黙はどうにも苦手だ。二週間程前にも、沈む椿を良かれと思って和ませようとしたら逆に凄く叱られた。やぶ蛇だ。こういう場合、不用意に手を出すとえらい目に遭う。
しかし、じゃあ放っておけばいいのかと言えばそうでもないから困る。以前、落ち込む椿をそっと見守っていてたら、何か言うことはないのですか! とやっぱり叱られた。
まとめると不機嫌な女性に対して過干渉は禁物。不干渉も論外。正解はどうやら適切な干渉らしい。が、この“適切”というのが実に厄介な代物なのだ。
その加減が非常に難しい。時と場合によってその過多は変動するし、対応する人物の好感度によってもまた大きな差がある。代表的な事例は“ただしイケメンに限る”というアレ。時代や世界は変われど、女心は難しく、イケメン優遇の社会は同じようだ。
よって自称フツメンの一刀に許された“適切”の幅は決して広くなく、
――どうすればいいの、コレ!
下手を打てば、きっとまた強烈な蹴りが飛んでくるのだろう。尻の耐久力はとっくに限界突破しているというのに。これ以上は本当に駄目だ。裂ける。皮が。
一刀は慌てて両手で尻を隠し、
――このまま逃げちゃう……?
と、冗談半分で思ったその時だ。突如、後方から声が響いた。
「ああっ、見つけた華琳さま!!」
「――――」
背筋はビクリ。不謹慎を諌めるようなその声に、ゆっくり向ける視線は通り側、空き地の入り口。
そこには緑の猫耳頭巾をかぶった小柄な女性が立っていた。
「もう無用心です華琳さま。城下に出るならどうしてお声をかけてくださらなかったのですか? ここには薄汚い生物がウジャウジャ生息、――って!?」
「?」
ふたつの視線が交錯する。その間、わずか一秒ほど。一刀は、ども、と目線で軽く会釈するが、猫耳娘の方は、
「し、信じられない! なんでさっそくいるわけ!? か、華琳さまここは危険です!」
と、この世でもっとも不浄なモノを見る目で、勢いよく割り込んできた。さながら変質者の魔の手から身を挺して庇うかのように。
「……え? 待って違うよ? ご、誤解だって、俺は別に何も――」
していない、とは言い切れない。
現状を傍から見れば、刃物をチラつかせて脅える女性へ迫っているようにも見えなくもない。
それにやはり、彼女の唐突な変化にはこちらの落ち度があったのかもしれない。悪気はなくとも傷つけてしまうことだってある。もしそうだとしたら、これは誤解でもなんでもなく、むしろ、きちんと謝るべきだ。
――やっぱり確かめなきゃ。
が、猫耳娘にはそもそもこちらの話を聞く気など端からなく、
「黙りなさいよ! いい? もし、そこから一歩でも動いたら今まで生きてきたことを後悔させてやるんだから! じっとしてなさいよ! いい? 今すぐ生きていくことを後悔させてやるんだから!」
「いやそれ同じじゃん! どっちにしても後悔させられてるじゃん!」
「……チッ」
「えっ嘘、舌打ちされたの俺!?」
そして、沈黙の彼女がいつの間にか顔を上げていた。
「やめなさい桂花。帰るわよ」
「は、はい華琳さま!」
「え?」
それきり、二人は歩き出す。こちらの事はまるで無視。呆気に取られる一刀を他所に、二つの後姿は遠ざかっていく。
始まりが突然なら終わりも突然。散々人の稽古を邪魔しておいて、まったく酷い扱いだ。
だが、この時、一刀の胸を染める感情は理不尽への憤りでも、解放の安堵でもなく、一抹の寂しさだった。
嫌だ。何故嫌なのかは一刀自身にもよくわからないが、とにかく、このまま行かせたくない。
――呼び止めなきゃ……!
が、その必要はなく。彼女はこちらの思いが通じたかように足を止めた。
「……そういえば、彼方、名は?」
彼女が振り返る。
その姿に思わず鼓動が小さく高鳴り、
「っ、か、一刀! 北郷一刀です!」
「そう」
彼女はくすりと短く微笑み、
「邪魔したわね。励みなさい一刀」
去っていく。今度こそ本当に。
もう振り返ることはなかった。猫耳娘を引き連れ、彼女はすっかり増えた人通りの中へ消えていき、取り残された男は、嫌味なくらいに静かになった空き地でポツリ。
結局何も言えないまま。彼女の名も聞けず仕舞い。ただそれでも、彼女に名を呼ばれたことでどこか心は軽く、
「励みなさい、か」
その一言に不思議と力が沸いてくる。
「……やりますか!」
別れ際に見た可憐な笑みを思い浮かべてながら、一刀は抜けぬ宝剣を力任せに一振り。
「――ハッ! って……、これ何回目だったっけ」
だらしのない風切りの音がした。
***
そして通りを行く華琳もまた、その整った顔立ちをわずかに崩していた。
桂花が伝える本日の面会予定を聞き流しながら、彼女は思わず思い出し笑い。
愉快か不愉快かで言えば後者の割合の方が高いはずなのに、何故か彼女は笑ってしまう。腹立たしくもイジリ甲斐のある青年に。それはどこか懐かしさを感じたひと時で。だから覚えることにしたのだ。その名を。
「北郷一刀……」
ぼそり呟くと今度は自然に笑い声がこみ上げてくる。
つい想像してしまった。あの男に、もし自分が陳留太守・曹孟徳であると明かしたらどんな反応をするのかを。
くくっ、とくぐもった声が堪えきれずに鳴ってしまう。
桂花は何事かとこちらを覗きこみ、
「……あの、華琳さま?」
「なんでもないわ」
華琳は、ん、と咳払いをひとつ。表情と笑い声を誤魔化して、
「それより管輅が登城したのなら面会の順序を変更してちょうだい。彼から始めるわ」
「は、はぁ。畏まりました」
本日、華琳の機嫌はよかった。