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第7話   覚悟、責任

 簡素な板間の部屋には、ひとりの男が寝台に寝かされていた。

 一刀だ。

 身体の至る箇所には、薬草を塗布した布を巻きつけられ、時折、苦悶の表情を浮かべながら彼は眠る。

 

「とりあえずは、これでええ。幸い、傷は見た目ほど酷くない。骨にも異常はなさそうじゃし、命に別状はないじゃろう」

「……よかった」


 その脇には今処置を終えたばかりの管輅と椿がそっと椅子に腰を下ろし、神妙な面持ちで痛々しいその姿を見守る。

 可能な処置はすべて行った。とはいえ、医術の心得のない二人には応急手当が精一杯。それが終われば何もない。あとはもう彼が無事に目を覚ますことを祈り、ひたすら待つことしかできない。

 歯がゆい時間の訪れだ。

 管輅は硬い表情を崩さず、苦痛に歪むその寝息を聞き、

 ――ワシの責任じゃな……。

 甘く見ていた、と思う。この男の馬鹿さ加減を。まさかこんな事態にまで発展しようとは。

 誤算だ。ほっとけないだのなんだのと、いくら意気込んだところで、どうせ口だけだと思っていた。

 少しでもその身に危険を感じれば、すぐに逃げ帰ってくるに違いない。このひよっこが、深入りするほどの気概を持ち合わせているはずがない。できるわけがないと、そう高をくくっていた。

 ――ましてや、そこに椿まで……。

 老婆心に駆られて様子を見にいかなければ、今頃どうなっていたことか。不幸な結末ならいくらでも思い浮かぶだけに、今でも背筋が寒い。

 管輅は不快な想像を振り払うため、彼女の横顔を覗いた。


「……椿、おぬしも休んだらどうじゃ?」

「いえ、ご心配には及びません。私は、この通りどこも怪我はありませんし、平気です」

 

 嘘だ。

 笑顔まで見せて、気丈に振舞ってはいても、その顔は未だ青ざめ、強張り、華奢な身体は時より小刻みに震えている。

 当然だろう。一刀の悲惨な姿を目の当たりにしたのみならず、自身も男たちに乱暴されそうになっていたのだから。

 にもかかわらず、その澄んだ瞳は恐怖に沈むどころか、むしろ一刀を慮り、彼を責めないでほしいと慈悲深く訴えかけてくるのだから、もう感心すればいいのか。呆れればいいのか。いっそ休めと強引に連れ出してしまえばいいのかもしれないが、この状況で彼女をひとりきりにするのもまた気がひける。

 管輅も入り混じりの感情を上手く整理できずに、そうか、と短く告げ、ついに二人の会話も消えた。

 残るのは重い沈黙と苦しげなうめき声だけ。流れるのは一刀の容態をひたすら注視するだけの時。やはり、待つことしかできないのだ。

 ――ワシは何度、同じ過ちを繰り返すつもりなんじゃ。

 その一秒は長く、そして苦く。

 それでも傷だらけの馬鹿弟子をじっと眺め、膝の上に作った握りこぶしは微かに震える。

 悔恨の時間は、日が陰り始める頃まで続くことになった。


***


「ぅ…………っ、ぅ…………?」


 一刀が最初に覚えた違和感は、まぶたが開かないことだった。

 重いというよりは、何かがつっぱっていて、全くまぶたが持ち上がらない。鈍い痛みもある。それでもなんとか薄目でわずかな視野を確保すると、次の違和感は焦点が上手く定まらないことだった。

 ただでさえ狭い視界には濃い霧がかかっていて、色を巧く識別できない。しかし、それも次第に白みがかった景色にじわりじわりと色彩を帯びていく。

 ややあって、ここが自分の部屋だと気づいたのは、それが見慣れた木目の天井だと認識できたからだった。

 一刀は己が眠っていたことを理解し、と同時に、次の疑問が浮かんでくる。


「……あれ? 俺どうして……」

「――か、北郷さま!」「目が覚めたようじゃの」


 妙に気だるい身体を少しだけ左右に動かすと、ふたつの顔がこちらを心配そうに見下ろしていた。


「……椿さん? それにじいさんも……?」


 そして、そのまま身体を起こそうとした時、全身に刻まれた痛みも目を覚まし、


「お、起きてはいけません!」

「~~~~~!!」


 おかげで、意識もはっきりと覚醒だ。

 まどろんでいた思考はきっぱりと晴れ、己はなぜ寝ているのか。なぜ二人がいるのか。なぜこんなにも身体のあちこちが痛むのか。それらの問いが一気に解け、ようやく思い出す。我が身に起きたことを。それから、あの絶望の光景も――。


「――ぁ、……あ、ぁぁ……お、俺は……、俺はっ!!」

 

 半ば錯乱状態に陥った一刀は、痛みも忘れて身を起こし、椿の肩を乱暴に掴む。

 確かめなければならないのだ。結末を。気を失っている間に何が起こったのかを。しかし、それを知ることはとても恐ろしいことで。

 最悪を予感すればするほど、冷や汗が噴出し、ガチガチと震える声は、まともな言葉にならず、慌てて二人の間に入ったのは管輅だった。


「落ち着かんか」


 管輅は引き剥がすように一刀の両肩をしっかり握ると、


「椿は大丈夫じゃ。おぬしが気を失った直後にワシが助けだした」

「助けた……? じ、じいさんが……?」


 そうじゃ、と老人は頷くと手を放し、


「だいたい、もし、おぬしが今、懸念しているような事態になっておったら、椿がこうして座っておられるわけなかろう。じゃから――」


 その途端、一刀の全身は一斉に脱力。安堵からというよりは、ほとんど卒倒に近い。瞬時に力を失った身体はぐらりと傾き、慌てて椿が支える。

 一刀は腕の中でずるずると崩れる身を預けたまま、かろうじて呟いた。


「よかった……本当に、よかった」


 それはなんて独りよがりで、身勝手な独白だったことか。

 この時、一刀は救われたと感じてしまったのだ。椿ではない。己が、だ。

 彼女の身を案じながらも、猛烈な罪悪感と、押し潰されそうな責任感から脱したことへの喜びと安堵の方が遥かに強かったのだ。

 なんとも自分本位な考えに思えるが、ある意味、これは人として当たり前の反応なのだろう。誰だって我が身が可愛い。不謹慎であろうと、ホッと心が緩むのもまた事実。

 もっとも、それは本来、心に秘するもので、吐露するには時と場所があまりに悪すぎた。

 

「……よかった、じゃと? この――、大馬鹿者めがっ!!」


 椅子が蹴り倒されるのとほぼ同時、一刀は胸倉を締め上げられていた。

 感じるのは強い怒り。これが単なる威嚇ではないことを瞬時に理解する。

 間違いなく殴られる。管輅がそうするのは当然で、それだけのことをした自覚もあるのだから。

 一刀は目を閉じる。罰を甘んじて受け入れるために。

 

「管輅さま!」

「――――」


 ところが、次の瞬間。一刀が感じたのは殴打の衝撃ではなく、柔らかな温もりと女性特有の優しい香り。

 腫れた目を見開けば、視界は淡い亜麻色に覆われ、それが椿の胸に抱かれているのだと気づいた。

 管輅の拳もピタリとまっていた。ただし、宙ぶらりんの握り拳は、指がうっ血するほどさらに強く握り込まれ、怒りを押し流すように深く深く息を吐かれるとようやく降ろされた。


「……椿、悪いが少し席を外してくれんか? 一刀はもう大丈夫じゃ。心配せんでも、()()()()()遠からず完治する。よいな?」

「……っ」


 彼女は咄嗟に何かを言いかけたものの声にはならず、小さく頷くと、一刀から離れて、一礼の後に部屋を去る。

 一刀は項垂れながら、その後姿をじっと見送り、


「さて」


 部屋から完全に彼女の気配が遠ざかると、先ほどまでとは一転、管輅は静かな口調で問いかけてくる。


「一刀よ。ワシは首を突っ込むなと忠告したはずじゃぞ? おぬしにできることはないと」

「…………」


 俯く一刀は何も答えない。いや、答えられない。

 反論の余地は微塵もなく、また、すべきではない。今回の騒動を招いた一因は紛れもなく己の軽率さに他ならないのだから。


「可哀そうじゃからと同情でもしたか? それとも、自分がなんとかしてやるとでも思い上がったか? ワシは前に言うたはずじゃ。おぬしには力も覚悟も足らんと」


 わかっていたことだ。

 自分にできることなんて、ほんのちっぽけなことだけだと。だからこそ、少しでもいいから彼女の力になりたかった。ひとりにはしておけなかった。

 大切なものを失い、殻に閉じこもりそうなった時にそれではダメだ。そのことは誰よりもよくわかっている。だから、せめて傍にいてあげたかった。それだけだったはずが――、


「結果はどうじゃ? 余計なことに首をつっこんで何が待っておった? 椿に苦痛を与えただけではないか」

「…………」


 その通りだった。

 一刀が何を思い、どうしたかったなど関係ない。自分勝手に突っ走った挙句、彼女を辛い目に遭わせてしまった。

 現実はそれ以上でも、それ以下でもなく、それがすべて。

 誰がもっとも愚かで無力だったか。それは結果が雄弁に物語っている。


「……わかってるよ。俺が馬鹿だったって。もう少し冷静な判断をしてれば、こんなことにはならなかったって。俺は椿さんにいっぱい謝らなきゃいけないって! けど……、ほっとけなかった。あのまま椿さんをひとりにすることだけはダメだって、だから――」

「甘えるでないわあああああああああ――――ッ!!」


 続く言葉を遮ったのは耳鳴りがするほどの強烈な怒声。現世の祖父さながらの大喝に、脱力の背筋が反射でビクリ。その反動で全身には激痛が走る。

 思わず悲鳴を上げそうになるが、それも必死で飲み込んだ一刀はゆっくり前を見据える。

 すると管輅も前かがみの姿勢と声色を正し、


「確かに、他者を思いやる心とは尊いものじゃ。その点において、おぬしの意見はまったく正論。人として真っ当な感情じゃ。じゃが、その思いをいざ行動に移すとあらば話は別よ。誰かを救うとは、何の覚悟も責任も持てぬ者が行うことではないと知れ」

「覚悟……、責任?」

「そうじゃ。行動に対する覚悟と責任じゃ」

「…………」

「得心がいかんっという顔じゃのう。なら、逆に問おう。おぬし、なぜ生きておる? なぜ椿が現れた時に自害せんかった?」

「は、はあ? なっ、なんだよそれ? 自害って、そんな……」

「何がおかしい?」


 管輅は、呆れ顔でなお言い捨ててる。


「あの時、おぬしはもう逃げることもできん状況だったのじゃろ? ならば、おぬしがさっさと死ねば椿は心置きなく逃げられたかもしれんではないか」

「な――」


 絶句だ。

 言われて見れば、理屈は単純。椿は一刀を庇い男たちに捕まったのだから、一刀がいなくなってしまえばそもそも庇う必要もなく、襲われることもなかったと言いたいのだろう。

 それだけ聞くと確かにと思わなくもない。が、それは明らかな暴論で筋違いだ。なぜなら、


「そんなことしたって、椿さんは喜ばない。自分のせいだと悲しむだけだ。それに俺が死んでたとしても椿さんが逃げきれる保証はどこにもないだろ」


 犬死の果て、椿は嬲り者にされるという結末は存在し得る。ならば、それこそ目も当てられない悲劇の上塗りだろう。

 管輅もそれには否定せず、むしろ当然だと言わんばかりに、然り、と頷き、


「では質問を変えるとしよう。一刀、どうしてその剣を手にして相手を殺そうとせなんだ?」

「……え?」

「結果がどうなるかは別にして、なぜ武を示さなんだ? 威を発しなんだ? その機会はいくらでもあったはずじゃ。なのに、おぬしはそうしなかった。何故じゃ?」

「な、なぜって、そんなの……」


 できるわけがない。

 確かに、怒りに囚われ殺してやろうと思う瞬間はあった。だが、それも殺したいほどの強い憤りを抱いたというだけで、完全な殺意とは違う。

 そもそもからして、問題の解決に力づくでという思考が一刀には薄い。あれも土壇場も土壇場での衝動的な感情だった。

 基本的に暴力は悪。であれば、いくら正当防衛であったとしても、殺人を念頭にした行動が優先されるべきではない。それが平和な近代日本で生まれ、育った一刀の倫理観だ。

 

「やれやれ。あんな輩にまで情けをかけるとは、お優しいことじゃのう。じゃがの……」


 ここでその理屈は通用しない。ここでの常識はそうじゃない。ここはあの世界とは違うのだから。


「一刀よ、それはおぬしだけじゃ。おぬしが特別なんじゃ。相手は違う。実際、おぬしは殺されたかけたんじゃよ。少なくとも、気を失う程の打撃を受けた。その剣でのう」

「え、俺が……?」


 管輅は少しだけ物憂げに続ける。


「そうじゃ。椿は言っておったぞ。男のひとりがその剣を拾い上げ、背後からおぬしの後頭部を殴り飛ばしたと。そして、その瞬間に死を予感したと。事実、助け出した際の椿の第一声は、我が身を憂うでも、ワシへの感謝でもなく、“北郷さまが死んでしまう”じゃった」

「…………」

「おぬしが武に頼りたくないと言うのなら、それはそれで別にかまわん。人の力とは何も武に限った話ではないしのう。いや、あの局面でも我が身より徳を優先させるとは、ある意味で大したもんじゃ。常人には難しい境地。ワシなんぞよりよっぽどの人格者じゃわい。……じゃがの、どんなに優れた聖人であっても、殺されてしまえばそれまでのこと。終わってしまうんじゃ。何もかも。そこで終いじゃ。ゆえに問うておる。おぬしにそこまでの思いがあったのか? それだけの覚悟があったのか? と」

「そ、それは……」

 

 無論、あるわけがない。

 あの時、一刀の体を突き動かした感情は、そんな重い覚悟でも責任感でもない。ただ単に、放っておくのが嫌だという短絡的で偽善的な衝動に従ったにすぎない。

 自分が死ぬことも、まして、他者を殺めるなんてこと微塵も想定されていない。


「じゃから甘いと言ったんじゃ。おぬしの思いは」


 ゆえに、一握りの覚悟も責任も持てなかった。


「中途半端に首を突っ込み、何が待っておった?」


 ゆえに、彼女をいたずらに傷つけた。


「おぬしに何が出来る? 再三、ワシはそう諌めたはずじゃ」


 ゆえに、無力さと無能さに涙を流すことしかできなくて――、


「っ、でも、あのままじゃ椿さんが……。そうだ、それにあいつら、じいさんのことを殺したいって、だから――!」

「いいや」


 管輅はゆるりと首を横に振る。


「何を吹き込まれたかは知らんがのう、残念ながらあやつらにそんな度胸はない。考えてもみよ。火災から何年経っておると思っておるんじゃ? もし、本当にその気があるならとっくに行動に移しておるはずじゃろうて」

「け、けどっ、俺にじいさんを殺すのを手伝えって! どうやってやるかまで具体的に指示されて、それに、椿さんだって何度も嫌がらせされてるんだろう!」

「じゃから、あやつらに出来るのはその程度のことじゃったんじゃよ。無論、殺したいほどワシが憎いということは確かじゃろう。が、そこまでじゃ。あやつらもまたそれを実行するだけの力も覚悟もありゃせん。精々、いつかワシを殺すと(うそぶ)くか、憂さ晴らしにワシの関係者へ嫌がらせするのが関の山じゃった。誰かさんが不用意に藪をつついて、憎しみを炊きつけさえしなければのう」

「――そ、そんな!」

「信じられんか? じゃが、おぬしが生きておることが何よりの証拠じゃ。おぬしは気こそ失ったが死んではおらん。頭には出血もなければコブすらできておらん。まあ、それはたまたま当たり所がよかったのか、おぬしの頭が異常に丈夫じゃったからとしても、もし、これが本当に強い覚悟を持った者が相手ならば、そうはいかん。一度で駄目なら二度、三度。そのまま確実に死に至るまで何度も剣を振り下ろしたじゃろうな。頭蓋が完全に砕けるまで何度も何度ものう。しかし、現実はそうならなんだ。おぬしがその剣で打たれたのは一度きり。椿も押し倒され、無理やり服を脱がされそうになってはおったが、破られたり、暴力を振るわれるところにまでは至っておらん。要するに、あやつらはあの状況でもまだ二の足を踏んでおったんじゃよ」

「な……なんだよそれ。じゃあ、俺のしたことって、なんだったんだよ? なんだったんだよ、なあ、じいさん!」

「それは……、少し己で考えてみるがよい」


 一刀の悲痛な問いにそう言い残すと、管輅はそのまま部屋を出ていく。

 一瞥もない。ただただ無感情に戸が開かれ、そして閉められる。

 訪れたのは痛々しいほどの静寂。

 深い自責が染み入る空間はその心境を色濃く映し出し、時間経過と共に刻々と、どこまでも静まり返る。

 不意に板壁を拳の打つ鈍い音が鳴った。

 

「――くそッ! 何もかもが足らない? そんなこと、この世界に迷い込んだ時に嫌というほど味わったはずだったろ……!!」


 己の馬鹿さ加減にとことん嫌気がさす。柄にもなくご大層なヒロイズムに浸って。助けるどころか、むしろ傷つけ、こちらが助けられるというお粗末さ。

 しかもそれらがすべて無駄以外の何者でもなかったとすれば、もう自分の愚かさに呆れを通り越して笑いがこみ上げてくる。


「ほっとけなかった? ……はは! 馬鹿かよ、俺はッ!!」


 自暴自棄の男は再び豪快に拳を振り上げるが、ダメージの残る体がついていかずバランスを失い、無様に床へ腰から転げ落ちた。


「っ……」


 その姿はあまりにも滑稽で、また、今の自分にはぴったりの格好だった。

 所詮、無様こそがお似合いなのだと、自虐の感情が心を占める。

 蹲る男から床板を打つ不快な音が、改めてゴッと鳴った。


「なにやってんだよ……」


 その音はその後もしばらく、冷ややかな部屋の中に何度か響いた。


***


 茜色の空に蝉しぐれはよく似合う。その情景はどこか物寂しく、黄昏時とは言いえて妙だ。

 人はなぜ夕暮れに哀愁を感じるのだろうか。

 友との別れを寂しく思うからだろうか。それとも、楽しかった一日を惜しむ気持ちからだろうか。どちらにせよ、それは幼き日の追憶に起因するのかもしれない。 

 ならば、その記憶が存在しない彼女にとってこの空はどう映るのか。

 綺麗な夕焼け? 時節を告げる不思議な現象? それとも、特に何も感じない?

 答えはどれでもない。だから彼女は今、その部屋の前に立っている。ただでさえ憂いがちなこの時に、彼をひとりにはしておけないと思って。


「北郷さま。お体の具合はどうですか?」


 椿は部屋に向かって話しかけるが、中からの返事はない。ならばとすぐに彼女は戸に手をかける。

 か細い指を開いた隙間に通し、それは音もなく引かれる。

 普段となんら変わりのない、美しい所作。


「失礼します」


 入室すると慎ましい足音が床板の上をすべるように奏で、椿は寝台の縁に腰掛ける男の隣に、並んで腰を下ろす。

 ギシリと小さな軋みの音が鳴る。

 彼は項垂れ、無反応のまま。椿は痛々しく腫れ上がったその横顔を見つめた。


「痛み、ますか……?」


 ひどい腫れ方だ。いったいどれだけ殴られればこんな風になるのか。

 椿は枕元の台に置かれた水桶で手ぬぐい絞り、それからゆっくりとその顔へ手を伸ばす。が、ここまでまったくの無反応だった彼が、まるで接触を拒絶するように憔悴の肩をピクリと揺らして遠ざかり、震える声でこう言った。


「……っ、俺……、ごめんなさい」

「やめてください。そんな――」


 椿は慌てて首を横に振るが、彼は聴く耳を持たず、寝台から逃げるようにすべり降りると、床に伏して謝罪の言葉を繰り返す。ごめんなさい。ごめんなさい、と。額を床に打ちつけながら何度も、何度も。

 その姿に椿は胸を痛めた。

 違うのに。そうではないのに。彼女は懺悔を聞きにきたのではない。

 確かに恐ろしい体験だった。思い出すだけでも身も心も震える。二度とあんな目には遭いたくない。

 しかし、彼女が今ここにるのはそれを責めるためではなく、それ以外の、伝えたい思いがあるからで――、


「嬉しかった!」

「……は? ……え?」


 何を言ってるのか心底わからないという顔だが、ようやく彼がこちらを見てくれた。

 椿は優しく微笑む。


「北郷さまは私のために宿までいらしてくださったんですよね? 番頭さんから伺いました。私のような者を気遣い、心配してくださるなんて、本当に感謝しています」

「……感謝って、俺は君を――」

「いいえ! 私は嬉しかった。救われました。北郷さまのお優しさに」


 嘘偽りはない。これは率直な気持ちだ。

 椿も寝台を降り、一刀の前に膝をつく。 


「管輅さまに絶縁を言い渡された時、正直、どうしていいかわからなくなりました。頭は真っ白で本当に何も考えられず、せめてお勤めだけはと気持ちを切り替えようとしてもまったくダメで。ですが、そんな時、北郷さまがいらしてくださっと聞き、どれだけ沈んだ心が軽くなったことか。なのに北郷さまは、こんなにもご自分をお責めになられて……」


 薄っすら血の滲む手の甲の上に、椿は今度こそ、そっと労わるように自分の手を重ねる。


「お願いです。どうかこれ以上ご自分をお責めにならないでください。私は感謝こそあれ、恨む気持ちは欠片もありません。いえ、それ以前に、北郷さまは貴いお方なのですから」

「貴い……? 俺が? 何の冗談だよ。俺なんか考えもなしに暴走した、ただの大馬鹿じゃないか」

「あ、はい。それはその通りです」

「……え?」


 俯く顔がまたこちらを見てくれた。椿は少しだけ意地悪く笑い、

 

「北郷さまが反省しなければならないことがあるとすれば、それはご自身の危険を顧みず、無茶をされたことだけです。北郷さまのお心遣いには本当に感謝しています。ですが、もし、あのまま私なんかを庇って取り返しのつかないことになっていたらどうするんですか? 北郷さまは管輅さまのお弟子さんなんですよ? それこそ私は管輅さまに合わせる顔がありません」

「いや、それをいうなら椿さんこそじいさんの家族じゃないか。それに弟子っていえば聞こえはいいかもしれないけど、実際は色々わけがあって、なんていうか、成り行き? みたいな感じで……。とにかく、そうじゃなきゃ俺なんて――」

「そうですか。ですが、やはり、それでも凄いことなんですよ?」

「え……?」


 すぐに俯いてしまう顔が今度もこちらを見てくれた。扱いのコツを掴んできたと、そんなことを思いつつ、


「管輅さまと北郷さまの間に、どのようなご事情があるのかは私にはわかりません。ですが、これまでどなたにどれだけ頼まれても、管輅さまがお弟子さんを取られたことは一度もないんですよ? それどころか、弟子は無理でも、せめてお傍に仕えさせて欲しいとおっしゃる方々も、すべてお断りになられていました。ですから、たとえどんな理由があるとしても、管輅さまがこれだけお心を開き、弟子――いえ、家族のように接する北郷さまは、それだけでもう特別なことなんです」

「…………」


 まただ。また彼は何かに怯えるように視線を逸らした。


「北郷さま……」


 きっと彼は何かに悩み苦しんでいるのだろう。

 その態度や表情からは、もはや謙虚さを越えて卑屈さを感じるほど。そして、それはこれまでもそうだった。

 出会った当初はその傾向が特に顕著で、何故彼のような者が弟子なのか椿はまったく理解できなかった。物腰こそ柔らかいが、特別な才気は感じられず、どこか頼りなく、凡庸な青年。それが第一印象だ。

 しかし、彼との交流が増す中で、次第にその印象には変化が生まれた。どう表現していいのか難しいが、とにかく彼は違うんだと思い始めたのだ。

 まるで、遥か遠くの世界からやってきたかのような。とても同じ時を生きているようには思えないような。人としての根底に流れる思想や心情が大きく異なっているような。そして、そんな春光のように穏やかな彼の人柄をとても好ましいと思えた。

 頼りなくてもいい。強くなくてもいい。情けなくてもいい。それよりも、時よりどういうわけか平穏を感じさせてくれる。ただそれだけで、彼は貴い存在なのだと椿は思う。

 だから――、


「北郷さま! いえ、一刀さま! そのような顔をなさらないでください。大丈夫です。もし、また今回のようなことがあれば、私がちゃんと一刀さまをお守りしますから!」

「……え?」


 これでいい。こう言えば彼がこちらを向いてくれると思った。完全にコツは掴んでいる。それに、心の優しい彼にはきっとこれで通じるはずだから。


「ですから、無茶はこれっきりですよ?」

「俺は…………、っ、……………………善処します」


 その答えに椿は口を尖らせながらも、やはり笑う。

 それは困り顔の彼がおかしかったわけでも、無理やり場を和まそうとしたわけでもない。

 ただ、伝えたい感情に従って。

 彼には笑顔でいて欲しい。少々大げさだが、その願いを叶えるために。

 するとどうだ。彼もようやく笑う。

 部屋を覆う空気もつられるように変わる。

 射し込む茜色は哀愁ではなく、安らぎで場を淡く彩る。日に一度しか訪れない景色の中、二人は笑いあう。

 そして彼は少し照れながら……というより、少しだけ気まずそうに視線をチラチラと下に向むけていた。

 おや? っと思う椿だが、その理由にすぐ気がつく。

 彼の視線を辿り、すっかりお留守だった手元に意識を戻せば、そっと重ねただけだった手が、いつの間にか大胆にもがっちりねっちり。それはそれは熱っぽく握りっぱなしで。

 見る見るうちに、椿は耳まで真っ赤に塗り替わり――、


「わ、わわわわわ、私ったら!!」


 慌てて彼の手を振り払ってしまうが、その反動で、うぐっ、とくぐもった悲鳴が鳴り、

 

「あっ――、も、申し訳ありません! 大丈夫ですか一刀さま!」

「ア、アハハハ。大丈夫。平気平気これくらい」


 ぎこちないその動きは、どう見ても平気そうではない。全身ガックガクで涙目だ。

 ただそれでも、その目には確かに力が戻っていた。


「それより、ちょっとお願いがあるんだけどいいかな?」


***


「ここでいいよ。ありがとう、椿さん」

「はい、それでは」


 彼女の肩を借り、一刀がやってきたのは管輅の部屋の前だった。

 情けない話だ。本来なら一番つらいはずの人物から励まされ、力を借りてここにいるのだから。それに加えて、自分のせいでこんな面倒を起こしておきながら、感傷に浸り、被害者面でもしてるようなあの態度は思い出すと恥ずかしぎて首元がキュッとなる。

 その彼女は一礼のあとすぐに自室に戻り、姿はない。優しく、気の利いた女性だ。おそらく今後、彼女には一生、頭があがらないだろう。

 それでも、こうして向き合う覚悟は決められたのだから、色んな意味でギリギリセーフとしよう。いつまでも済んだことでウジウジするなと彼女に励まされたばかり。多少自分に甘くても前向きさが大事だ。

 いくか、と心の中で気合を入れなおすと、一刀は部屋の主へ語りかける。


「ちょっといいかな、じいさん? 入るよ」


 返事は待たない。一刀は構わず戸を開く。


「……何のようじゃ?」

「話があるんだ、どうしても今」

「話じゃと? ……ふん」


 そのまま重い身体を引きずるようにゆっくり進み、台座の管輅の前までくると、板間の上に膝を折る。

 伝えるべきはまず、最大級の感謝だ。手をつき、額を床に擦る。


「助けてくれてありがとう」


 もし管輅がいなかったら――想像するだけで胸の奥が堪らなく締め付けられる。

 そんな未来は絶対に受け入れられない。だからいくら感謝しても足りない。管輅からの反応はまったくないが、そのまま一刀は頭を下げ続け、十分な間を置く。

 それから顔上げ、背筋を伸ばす。

 本題だ。


「……じいさんは、俺には力も覚悟も足りないって言ったよな。ああ、そうだな。俺には何もかも足りなかった。完全に馬鹿だよ馬鹿。でも、それでもやっぱり――、椿さんを放っておくのは間違いだと思う」


 今更、偽善を否定する気はない。認めた上で、偽善でも何でも彼女を黙って見過ごすよりは上等だ、と思う。

 椿の言葉をそのまま鵜呑みにするわけではないが、そこに意味があったと確信できたからだ。

 だが、やはりやり方には問題があった。身の丈に合わぬ行動のせいで余計な騒動に巻き込んでしまった。

 だったら――、


「だから、俺はそれを証明できるだけの力が欲しい。お願いだ! 俺に剣を教えてくれ――じゃなくて、教えてください!」


 手に入れればいい。足りなかった覚悟と責任を果たせるだけの力を。

 どれだけ強くなれるかはわからないが、そんなことは関係ない。もうそういう考え方はやめるんだ。ないことを愚痴り、すねているよりはよっぽどマシなはずだから。

 何より、彼女はこんな自分を特別なんだと言ってくれた。

 天の御遣い――なんてものは今でも御免だし、今更、格好をつけても遅すぎる気もする。それでも、彼女の言葉に見合うだけの男に少しでも近づきたい。そう思ったのだ。

 一刀は頭を下げたままの姿勢で、管輅の返答を待つ。

 ダメだと言われたらなんて言って食い下がろうか。ゴマ擦りも賄賂も通用しない相手、というか金はない。とにかく泣きつくしかないだろう。最悪の場合、椿さんに頼ることも……などと思案していると、


「……力か。一刀よ。おぬしは武を得て、何を為すつもりじゃ?」

「俺は、ただ守りたい。救いたい人を、大切な人をこの手で。無力さに嘆くのも、誰かの助けに頼るのも、もうたくさんだから」


 平伏のまま即答。ならばと、もうひとつ。


「では、それを脅かす者があれば得た力によって打ち倒し、時には討ち果たすことも辞さぬというわけじゃな?」

「殺さない。俺は誰も殺さないし、なるべく傷つけたくない」


 甘ったれの即答だ。予想通り、管輅は声を荒げた。


「なっ、まだそんな甘いことを! それでは誰も――」

「守るんだッ! 甘いのはわかってる。けど、それが俺の覚悟だよ」


 人はそれを夢想と鼻で笑い、世迷言と蔑むだろう。理想と呼ぶにもあまりに甘すぎる。

 馬鹿馬鹿しい。気は確かかと誰もが思うに違いない。

 だが、一刀は顔上げ、胸を張り、真剣な眼差しで吼えてみせた。これが目指す道だと。伊達や酔狂でもなく、大真面目に。

 馬鹿は馬鹿でも、一刀は一流の大馬鹿者だったのだ。

 管輅は笑う。腹を抱えて。


「かっかっか! それがおぬしの覚悟か! くっくく、かっかっかっか」

「なっ、わ、笑うことないだろ! これでも俺は本気で――!」

「すまんすまん。悪気はない。だからそうムキになるでない。そういうところがひよっこなんじゃ。少しは忍耐を学ばんか。じゃが、ひよっこはひよっこなりに少しはよい眼になったかの。今の、その覚悟を宿したおぬしなら、(もののふ)と呼んでも、まぁよかろう」

「も、士……?」


 然りと管輅は頷き、


「そして、士の抱く心こそ志じゃ。その志、しかと聞かせてもろうた。内容はとんでもなく甘ったれじゃが、ええじゃろう一刀よ。おぬしに力を、武を授けてやるわい」

「――ほんとに!?」

「うむ。じゃが修練は厳しいぞ? 動けるようになるまでに、しかと覚悟しておけ。今以上の大怪我をおうことになるかもしれんからのう」

「――え゛?」


 眼前で、少年のように目を凛々と輝かせ、既にやる気に満ちる七十才を越える老人。年甲斐もなく嬉々とするその姿はもう、完全にヤバイ。

 聞き間違いであってほしいという願望は脆くも打ち砕かれ、


「あ、あのぅ、できればなるべく痛くない方向でお願いできたりなんか……?」

「かっかっかっかっかっか。中々愉快な冗談じゃな?」

「笑顔が死ぬほど怖いんですけど!?」


 そして、始まったのだ。

 嘘から生まれた師弟関係が、今、ここで真となりて――。

7話いかがでしたか? 読んで頂きありがとうございます。


私の覚悟もここでひとつ。

何があってもこの物語を完結させる!


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