第6話 痛み
平原での新たな暮らしは早くも一週間が経過した。
一刀はあの日以来、管輅邸を生活の基盤としている。食事、寝床、衣服を提供してもらう代わりに家事全般が今の仕事だ。
季節は夏。コンクリートに覆われた都心のうだるような暑さほどではないにしろ、さすがに大陸の夏も学生服で過ごすにはもう厳しい。そこで普段の生活では薄水色の作務衣のような漢服姿で過ごしている。着丈が膝上くらいの上着を腰帯で締め、下はズボン状のものをはくのがこちらの一般的な男性の格好だ。
ただ外出時には、何故かわざわざ目立つ聖フランチェスカの制服を着用するように強く言われる。確かに南皮でも客寄せにはもってこいだと制服姿を推奨されたが、ここでの暮らしでは不要だろう。理由を聞いても明確な返答は得られないし、一刀はこれを老人の嫌がらせだと思っている。
試練についてはいくつかの決まりが定められた。まず管輅からの攻撃はなし。あくまで受けに徹することが一点。対して一刀はいつ襲っても何を使用しても構わないことが二点。ただし、戦闘区域は管輅邸の敷地内に限定されることの三点だ。その上で、一刀が明確な一撃を胴体か頭部に入れることができれば勝ちとなる。
それで、その試練の状況はと言えば……。結論から言うと前途は多難で、近隣に住人がいないことが幸いだった。
「ほーれっ」
「ぎッ、ひゃああ――!!」
屋敷の庭には、もはや恒例となりつつある情けない悲鳴と、乾いた地面を打つ衝撃の音が、今日も朝から鳴り響く。
受身を取り損ね、仰向けで大の字の一刀に管輅は言った。
「やれやれ。受身すら進歩せんのー」
「うるせっ! くぅ……いってぇ、マジで何なんだよ、この妖怪じじい」
悪態をつきたくなるのも無理ない。なにせ、この一週間、一刀は一撃を入れるどころか、まともに触れることすらできていないのだ。その内容も失敗を繰り返すうちに、老人相手やら正々堂々などという配慮は一切なくなり、不意打ち、騙し打ち、待ち伏せ、罠、夜襲、朝襲等々、ありとあらゆる手段を講じてみたものの、まったく歯が立たないのが現状だ。
試練開始から三日目には、そのあまりの強さに疑問をもった一刀は、武道経験の有無を当人に問う。すると、管輅から“虚空”なる武術の開祖だと答えが返ってきた。
なんとも中二心をくすぐる響きだが、虚空とは相手の力を最大限に利用して自らは最小限の力で相手を制するれっきとした武術らしい。例えるなら合気道に近いもので、現条件下ではうってつけの技能だ。道理で目にも留まらぬ早業でポイポイ投げ捨てられるわけだと納得する男は、しかし、すぐに“そんな後出し卑怯だ!” と喚き散らしたが無駄だった。
「これ一刀。いつまでも庭で寝とらんで、さっさと朝飯の支度をせんか」
「わかってるよ! 今やろうと思ってたとこなのに、……たくっ」
チッと鳴る舌打ちは、久しく味わうことのなかったやるせなさのせい。例えるなら、そろそろ勉強でもと珍しく考えていた所に、宿題やったの! と母親に催促されるあれに近い。誰しもが一度は経験する歯がゆさだろう。
「あれ? でも俺、母さんの記憶ってないよな……。なんで懐かしいって思ったんだろ?」
「ブツクサと何をわけのわからんこと言っとるんじゃ! さっさと飯をつくらんか!」
へいへい、と不満を全面に出しながら、一刀はわざともたもた起き上がった。これが今できる最大限の抵抗だと思うと情けないが、しかし、気が重いのだから仕方がない。それだけこの時代での家事は大変なのだ。
ツマミを押すだけで火がつくガスコンロもなければ、蛇口をひねれば水が流れる水道もない。
文明の利器がまだまだ未発達のこの時代では、火は火種を起こしてからカマドで焚くもので、水は井戸から汲んでくるもの。つまり、どちらも非常に面倒くさい。
加えて、調理実習以外でまともに包丁を握ったことのない男にとって、手料理の敷居は高かすぎた。振舞う相手が毒舌老人となればなおさらのことだ。
「どうせ今日も散々ダメだしされるんだろうな……。まあ、自己採点でも赤点スレスレだとは思う。けどさ、そこは褒めて伸ばしてくれよ……!」
こうして一刀の憂鬱な一日は始まり、昼は掃除に洗濯と、家事はまだまだ続き、そこに加えて夕飯まで要所要所で投げ飛ばされるのが基本的な日課。まさにブラック企業も真っ青な労働環境だ。
日に日に増えるストレスとアザ。実力差は圧倒的で、懸命に現状打破をはかってみても、小手先だけの小細工ではどうにもならず失敗の連続。痛みと焦りだけが募っていき、もがけばもがくほど思いは空回りし、時間だけが無情に過ぎていく。
終わりが見えない。成功の想像がでなきない。そんな生活がさらに一週間も続けば、肉体的にも精神的にもいよいよ限界が近づく。そして、一服盛ってやろうかと割と真剣に考え始めた頃、しかし、転機は訪れた。
それはある日の昼下がり、一刀が庭掃除をしている時のことだった。
“ごめんください”という来訪の知らせに振り向くと、庭先の裏門にはひとりの訪問者が立っていた。
管輅への面会を求める者は、さすがに著名な易者だけあって珍しくない。どこぞの商人やら、豪族の使いやらが何度か訪れている。
ただ、今、目の前にいる訪問者はこれまでの者とは明らかに毛色が違っていた。
「お掃除ご苦労さまです。管輅さまはご在宅ですか?」
清楚という言葉を体現するかのような慎ましい佇まいに、白を基調とした深衣と呼ばれる着丈の長く、裾の広がったゆったりした服装。紅の髪紐を差し色として、腰まで伸びるしなやかな黒の総髪は美しく映える。
優しく微笑むその人は、一刀と同年代と思われる可憐な女性だった。
その姿に一刀はすっかり言葉を失い、
「…………」
彼女をじっと見つめること二十秒。いい加減、気まずくなったのか、女性の方が少し困り顔で繰り返した。
「あの、管輅さまはご在宅でしょうか?」
「…………」
「き、聞こえてます、よね?」
「…………」
「その、どうかされたんですか……?」
「――よろこんでえええええええ!!」
「きゃっ!?」
可愛らしい悲鳴を無視するように、両手の掃除道具たちが宙を舞う。一刀はガッと彼女に踏み込み、
「ささ、こちらへどうぞ! 何もない家ですけど、どうかゆっくりしていってください!」
「ええ? あ、あの? え? え?」
荒んだ心へ一時の清涼とはこのことだ。捻くれ老人との二人暮らしの中に、物腰柔らかな美しい女性が現れれば浮かれもするし、一刀も立派に年頃の男の子。名前も用件も聞かないまま、女性をすぐさま居間へと案内する。
そして、居間で鉢合わせした管輅は大いに驚き、
「――つ、椿!」
「ご無沙汰しております。管輅さま」
「おぬし何故……いや、何の用じゃ急に!」
「まあ、ひどい。ようやくお宿のお仕事にも慣れ、短い時間ですが、こうして管輅さまのお世話に戻りましたのに」
「だ、誰もそんなこと頼んでおらん!」
「はい。誰にも頼まれておりません。私が好きでやっていることです。ですから何のご心配にも及びませんよ」
「心配などしておらん!」
「あらあら、フフ」
女性はどこか嬉しそうに笑っている。
そのやりとりから察するに、どうやら二人は顔見知りらしい。それもかなり親しい間柄に見える。あの老人の減らず口をまったく気にしてないどころか、楽しむように受け流しているのだから間違いないだろう。
――つか、じいさんでもこんな困った顔するんだな……。
なんとも不思議な光景を後ろから見守っていると、彼女が不意にこちらへ振り返った。
「それよりも管輅さま。こちらのお方は?」
「ぬ? ああ、そいつはまあ、なんじゃ、その、新しい使用人じゃ」
「誰が使用人だよ! いや、めっちゃ使用されてるけども! って、あ、紹介が遅れました! 俺は北郷一刀って言います! ちょっと込み入った事情でこの屋敷に居候させてもらってます!」
一刀が慌てて会釈すると、彼女はクスリと笑い、
「あらあら、左様なのですか。私は管椿と申します。以後、お見知りおきください」
「はい! こちらこそ! ……って、あの今、管って聞こえたんですけど、もしかして……?」
「あ、はい。管輅さまは私の養父です」
「やだああああああああああ!!」
「やだとは何じゃ! やだとは!」
割り込む老人の顔をよーく見ながら、一刀はもう一度言う。
「やだああああああああああ!!」
「やかましいわ!!」
管輅は、黙っておれ! と雑に一刀を押しのけると向きを変え、
「とにかくじゃ、今は掃除も洗濯も食事の支度もすべて一刀がやることになっておる。椿、おぬしの出る幕はない。他に用がないなら仕事場へ戻るがよい」
「なら今日は私が掃除も選択も食事の支度もやりますので、北郷さまはお休みください」
「やったあああああああああ!!」
「人の話を聞かんか!!」
老人の怒鳴り声を無視して、彼女はさっそく庭へ向かい、一刀は小躍り。どうしても管輅の世話を焼きたい女と、煩わしい家事からなんとしても逃れたい男の思惑は見事に合致する。もっとも、一刀の方はすぐにその考えが甘かったことに気づかされるのだが。
なぜなら、家事をしなくていいということは、家事があるからという免罪符を失うことを意味するわけで。
つまり、
「ほれほれ、どうした一刀? 椿のおかげで時間ならたっぷりあるんじゃ。今日はいくらでも相手してやるわい。遠慮せずにどんどんこんか。おおん?」
「…………」
と、こうして本来なら家事に割かれていた時間は丸々戦闘時間になるわけで。
もちろん、それでも交戦権は一刀にあり、いつ仕掛けるかは自由だ。だが、いち早く庭に降りた管輅は試練にかこつけて憂さ晴らしする気満々で、何より、今は彼女がいるわけで――、
「頑張ってください、北郷さま!」
「くぅぅ……、ちっくしょおおおおおおおお!!」
無邪気な声援を受けながら、その日、一刀はぼろ雑巾になるまで投げられ続けた。
***
椿との出会いから二週間が経とうとしていた。
彼女はあれからも時間の許す限り屋敷へと足しげく通い、若い男女の会話が増えるのに比例して、一刀の受け身と負け惜しみは飛躍的に上達した。ちなみに、椿はこの可愛がりを弟子入り修行の一環だと思っているようだ。
そして、その試練の方はと言えば、もう正直、短期的な攻略は不可能だと一刀は考えていた。
やればやるほど痛感する実力差。一朝一夕での攻略は諦めざるを得ない。
ただ意外なことに、一刀にそれほどの落胆はなく、むしろ、長期戦も辞さない気概を見せていた。まあ、もとより元の世界に戻るためには、諦めるという選択肢が存在しないとも言えるのだが、それとは別に、一泡吹かせてやりたいという単純な男の意地が芽生えていたからだ。
さりとて、意地で埋まるほど浅い実力差ではない。未だに攻略の糸口も見つけられず、今日も元気に投げ飛ばされる男は、朝食後、買い出しの荷物持ちとして、管輅と共に平原の中心街へと向かうことになる。
高温多湿な日本の暑さに比べれば幾分マシだが、それでもジリジリと肌を焼く盛夏の日差しの下、二人は大通りを歩いていた。
「……んで、なんでこんなクソ暑い中、学ラン着なきゃいけないんだよ!」
「買い物のために決まっておるじゃろ? まず塩からじゃな」
「全ッ然、答えになってないから! つか、何が塩だよ、見てみろよこの汗! 塩なら絶賛、精製中だよコンチクショウ!」
「ほうか。なら、おぬしの分は自給自足で節約できそうじゃの」
「あぁ!?」
平原は南皮にも劣らず大きな街だ。これまでも何度か訪れたが、いつ来ても街には活気と人が溢れ、店数も品数も充実している。今日もいつもと変わらず、大通りは賑やかな様子だ。
制服の前ボタンを全開にして、手団扇で風を送る男は、しかし、誰にも聞こえないようにひっそりと呟く。
「だけど、これはどうにも慣れないよな……」
“これ”とは周囲からの視線のことだ。
これまで各地で感じてきた好奇の注目とは違う。肌に覚える刺激はもっと刺々しく、冷ややかで、敵意と受け取れるほど鋭いもの。さらにそれは一刀へ向けられたものではなく、隣の老人に向けられたものだった。
「何やったらここまで嫌われるかね……」
その理由はわからないが、
「まあ、理解ならバッチリできるもんなぁ」
「ん? なんじゃボソボソと」
ちらりと覗う管輅の表情もまた、普段と何ら変わりない。本人が気にしていないのなら、わざわざ話題にすることもないだろう。
別に、と一刀は誤魔化し、
「あー、あっちぃ……」
「鍛え方が足らんのじゃ」
「暑いのなんか鍛えてどうにかなるかよ」
「何を言っておる。弛まぬ鍛錬によって気を極めれば、多少の暑さ寒さなど克服できるもの。その証拠にワシは汗などかいておらんぞ?」
「なら、まずこの学ラン着てみろよ! なあ! つか、じじいが汗かかないのは老化で新陳代謝が落ちてるだけだからね、それ!」
「しんちん、たいしゃ? なんじゃそれは? 何かの武術か?」
説明するのも億劫な一刀はまたも、別に、とはぐらかし、
「それよりさ、平原も塩って専売なの? 南皮の塩は高いって陳さんよく怒ってたけど」
「もちろんじゃ。闇での取引もあるにはあるじゃろうが、このご時勢、基本的に塩と鉄はどこにいっても専売じゃ」
専売とは国が特定の物品の販売を独占することだ。
乱世だろうと飢饉だろうと、人間が生きていく上で必要不可欠な塩は必ず売れる。鉄が専売なのも同じ理由だ。国はその利益を独占するためにすべての塩、鉄を買い入れて、それを許可を与えた商人にだけ売る。そして、その商人たちは買取価格に自分たちの利益を上乗せして販売するため、価格は高騰。他の流通は厳しく取り締まられているのだから、市場原理も働かない。その結果、必然的に人々はどんなに高値だろうと言値で買うしかなく、
「じゃあやっぱり、ここでも塩商の人って嫌われてるのか」
「うむ。価格の高騰は彼らだけの責任ではないのじゃが、一部の商人が役人と結託して不当な富を得ているのもまた事実じゃからのう」
「……じいさんと一緒だな」
「なんじゃと?」
なんでもないよ、と一刀はいい加減に誤魔化した。
それからしばらく。特に会話もなく通りを進んでいくと目的の塩商が見えてくる。一秒でも早く日陰へ潜りこみたい一刀は、足を早めて広い十字路に入る。
そして、左右から流れてくる人混みを捌きながら、十字路の中ほどにさしかかった時だ。突然、雑踏の中で聞き慣れた女性の声を耳にした。
「は、離してください。困ります」
「困りますじゃねーよ。ぶつかって来たのはてめぇだろが!」
導かれる視線。ここから十メートルほど離れた右斜め前方、酒屋の前に椿はいた。
赤生地に黒の花刺繍がされた羽織を肩にかけた、いかにもガラの悪そうな細身の中年男に左手首を掴み上げられ、その左右を別の二人の男が囲こんでいる。これはどう好意的に捉えても、たちの悪い連中に絡まれているようにしか見えない。
「ちょ、あれ! 椿さんが、じいさん!」
「……そのようじゃの」
「は? 悠長に何が“そのようじゃの”だよ! 早く助けなきゃ!」
一刀はすぐにでも駆け出そうとするが、その前を管輅の腕が遮った。
「じいさん!」
「落ち着かんか。椿はあれで客商売をしておる。ああいう輩のあしらい方も当然、弁えておるはずじゃ」
「でも……!」
「おぬしが下手に首を突っ込んで騒ぎを大きくすれば、椿だけではなく、椿が働いておる旅籠屋にも迷惑をかけかねん。いいから少し様子を見るんじゃ」
そうまで言われれば、一刀も迂闊には飛び出せない。不本意ながらその場に踏みとどまり、成り行きを見守ることにした。
しかし、二人の予想に反して、異変はすぐに起きた。
「――訂正してくださいっ! 死にぞこないと言ったことをっ!」
普段の椿からはとても想像できない感情的な声が通りを打つ。
何を言われたのかはわからないが、まさか相手を宥めるどころか、自ら食って掛かるとは。これには囲む男たちも意外だったようで呆気にとられている。が、それもわずかの間だけのこと。沈黙はすぐに嘲笑へと変わり、
「はあ? あはははは! 何を言うかと思えば、死にぞこないは死にぞこないだろ? あんな老いぼれに媚び売りやがって、そういう態度がムカつくって言ってんだよ!」
残りの男も続いて面白がり、死にぞこない、死にぞこないと大声で騒ぎ立てる。ここからでは椿の表情を窺い知ることはできないが、おそらく平静ではいられないだろう。
――何があの優しい椿さんをあそこまで……。
ともあれ、これがよろしくない状況だということは間違いない。
「おい、じいさん!」
「待てというておるじゃろ!」
だが、それでも管輅はあくまでも様子見を決め込む気のようだ。
何を躊躇っているのか。普段の彼なら、一も二なく無頼の輩を投げ飛ばしているだろうに。煮え切らないその様子に、一刀はいよいよ痺れを切らし、
「もういいよ! 俺が――」
遅かった。
一刀が動く直前、男たちの笑い声が不意にかき消える。
その理由は頬打つ肌の音。あろうことかあの椿が、男の横っつらに強烈な平手をあびせていた。
「……て、てめぇ!! なにしやがる!!」
思いがけない抵抗に、瞬間沸騰した男は掴む腕を強引に捻り上げ、
「いたっ、は、はなして!」
「優しくてりゃつけ上がりやがって!! 舐めるんじゃねえぞ!!」
「――――」
力任せに振り払った。
男の膂力だ。椿に為す術べはなく、舞い散る枯葉のように飛ばされて地面へ叩きつけられる――その間際、ひとつの影が地面との間に滑りこむ。
「――危ないっ!!」
一刀はスライディングの姿勢で彼女を抱きとめることに成功。ギリギリ間に合ったことにホッと一息し、そのまま彼女の顔を覗き込むと、
「大丈夫、椿さん? 怪我してない?」
「ほ、北郷さま? どうしてここに……?」
「ちょっと買出しでね。それより、立てる?」
「あっ――、す、すみません!」
密着を恥らう椿と一緒に立ち上がると、それを背に庇いながら、一刀は言った。
「あんたら、女の子相手に何してんだよ?」
「ああん!? てめぇこそ、いきなり現れて、なんだその目は!!」
男たちが鼻息荒く、一歩、二歩とにじり寄る。
――び、びびるな……!
恐怖はある。相手は三人だ。真昼間から酒の臭いもプンプン漂わせているし、まともな相手ではない。このまま穏便にというわけにはいかないだろう。
それでも一刀は引かず、強気な姿勢を崩さないまま、男たちを強く睨み返す。
「いい年したオッサンが寄ってたかって恥ずかしくないの? こんなことして」
「なんだと!? 女の前だからってガキが調子に乗りやがって……!」
一触即発の睨み合いに、背中からこちらを案じる声が届くが、大丈夫と頷いた。
虚勢ではない。粋がっているわけでもない。一刀には最悪、このまま乱闘騒ぎになってもなんとかなる確信がある。なぜなら、
「荷物持ちがいつまで道草を食っとる気じゃ」
「遅いよ、じいさん」
そう。他力本願で申し訳ないが、この化け物じじいがいる限り、こんなチンピラの三人くらいわけない。
彼がその気になれば、ものの数秒で捻り潰すことだろう。その強さは日々、誰よりも一刀自身が嫌というほど体感しているところであり、疑いの余地はない。
「あんたら謝るなら今のうちだよ? このじいさん見た目と違って、マジでやばいから」
するとどうだ。一刀の脅し文句を真に受けたかのように、男たちの顔色が一変。苦虫を潰したような表情で目配せすると、赤羽織の男はあっさりと引いた。
「チッ……、おい、行くぞ」
先ほどまでの威勢はどこへやら。男たちはすごすごと退散。あまりにも呆気ない幕切れだ。ここまで思惑通りにことが運ぶと逆に少々不安にもなるが、ともあれ、何事もなく済んだのだからよしとしよう。
視界から男たちが消えると、一刀はひとつ大きく息を吐く。
「ふう……」
一時はどうなることか思ったが、本当によかった。これなら椿にも椿の職場にも迷惑をかけることもないだろう――などと、暢気に安堵しているのは、しかし、一刀だけだった。
一刀もすぐに周囲の異様な雰囲気に気づかされた。
「……椿さん?」
「ほ、北郷さま、それに管輅さまも……これは、その……」
椿の様子はいつもより余所余所しく、居合わせた野次馬たちのざわめきもいつまでも消えない。また、管輅もそんな彼女と目すら合わそうともせず、
「……行くぞ、一刀」
「え? は? 何言ってんだよじいさん。椿さんがこんな――」
「いいから来んかっ!」
怒声に追随して、目一杯、一刀は後ろから突き飛ばされた。
「――っ!!」
前方につんのめりながらも、なんとか転倒を堪えた男が視線を戻すと、有無を言わさぬ眼力で老人はこちらを睨みつけている。
ただごとではない。その迫力に周囲も飲まれて、一斉に静まり返り、
「じ、じいさん……?」
管輅は何も答えない。無言で歩き出す。
一刀はそのまま襟首を掴まれ、引きずられるようにその場を後にした。
顔面蒼白の椿をひとり、その場に置き去りにして――。
***
すべての買い物を終えた帰り道。雑踏と競り合うように鳴る蝉の音が耳朶に響く。
日は高く、炎陽は一日の中でもっとも厳しい時間帯だ。一刀は大粒の汗を流しながら大きく膨らんだ風呂敷を背負い、管輅の後を歩く。
二人の間に会話はない。それは買い物中もずっとで、どちらから声をかけることもなく、ただ黙々と必要なものを買い揃えていくだけだった。
しかし、それも人前でだけの話。中心街を離れて人影も疎らになると、一刀はおもむろに口を開く。
「あれ、どういうことだよ? 説明してくれよ」
「……なにがじゃ?」
「椿さんがあんな目に遭ったっていうのに、なんだよあの態度! おかしいだろ!」
「…………」
おかしいかったのだ。管輅の様子も。椿の様子も。まるでわざと他人行儀な振る舞いをしているかのようだった。
血の繋がりはないとはいえ、本当の親子以上に仲の良い二人が、どうしてそんなマネをしなければならないのか。明らかに管輅と椿の間には何かがある。いや、この街との間にというべきか。
おそらく、管輅に向けられる視線のことも関係しているはずだ。そして、これは根の深い問題。部外者が軽々しく口を挟むべきではない。だが、あんな姿を見てしまったら別だ。もう無関心を装ってはいられなかった。
「椿さんに何いったんだよ?」
一刀は去り際の姿が忘れられないのだ。彼女は何かに強く動揺していた。言葉も発することができず、涙を堪える瞳で縋るように管輅を見つめていた。きっと、すれ違いざまに何かを管輅に言われたに違いない。
「黙ってないでなんとか言えよ、じいさん!!」
一刀が足を止めると、管輅も足を止めて振り返る。
ぶつかり合う視線。堪らず目をそらしたのは、やはり、管輅の方だった。
ふっ、と短い息を吐くと、観念したのかポツポツとその理由を語りだした。
「椿はの、ワシのせいで疎まれておるんじゃ」
「……どういう意味だよ?」
「ワシが街の者に嫌われておるのは気づいておるじゃろう?」
「さすがにあれだけ露骨だとね。けど、それと椿さんと何の関係が? まさかじいさんの養女だから椿さんも嫌われてるとか?」
「それだけではない。椿はのう……、ワシが救った者だからじゃ」
「救った者……?」
「あれは八年前のことじゃ」
それはまだ管輅と街の人々の間に隔たりがなかった頃の話。
当時は街の誰もが彼を敬っていた。その卜占は多くの人々の助けとなり、親愛と畏敬をもって彼はいつしかこう呼ばれていた。預言者、と。
しかし、そんな関係性に終焉の日が突如としてやってくる。それが八年前のことだった。
ある冬の深夜。寝静まった街は火の海と化したのだ。
街の西側から出火したと思われる炎は、瞬く間に炎上。寒夜を焦がすその炎の勢いは凄まじく、完全鎮火に至るまでには三日を要し、焼失面積は街のおよそ半分。千以上の家屋が焼き尽くされ、死傷者の延べ数は一万人を超えたとも言われている。
被害はあまりに甚大だった。
「当時、中心街にあったワシの屋敷は幸運にも被害を免れたが、劫火によってすべてを失った人々の喪失感は強烈だったことじゃろう。簡単には現実を受け入れられん。ゆえに、すぐに追及がはじまった」
出火の原因なんだったのか。消火を迅速に行えばもっと被害を抑えられたのではないか。いや、そもそも火災は防げたのではないか、と。
「それって……」
「ワシが悪いんじゃ」
彼らは口々に管輅を責めたのだ。
なぜ火災を予言してくれなかった? なぜ自分たちを助けてくれなかった? なぜ見捨てたのか、と。
だが、管輅の予言とは見たい未来を自由に見通せるものではない。彼の力はあくまで起るであろう未来の断片を、偶発的に覗き見るような不完全なもの。つまり、彼は予言をしなかったのではなく、できなかったのだ。
「じゃが、家を、友を、家族を失った者にとって、“しなかった”も“できなかった”も同じことじゃ。ワシはただ己の無力さを嘆き、悔いることしかできなんだ」
そして、椿もまた管輅が救えなかった者のひとり。
大火災の中、背中に火傷を負い、意識を失って倒れていたところを奇跡的に救助されたのが彼女で、一命こそ取り留めたものの、しかし、それ以外のすべてを失うことになった。
家も、家族も、記憶までも。数日後、ようやく意識の戻った少女は自分の名前はおろか、真名すらわからなくなっていたのだ。
十歳にも満たない少女が天涯孤独の上に記憶も喪失となれば、この乱世を生きていくにはあまりにも厳しい。それこそ生き延びるためには犯罪に手を染めるか、女を売るくらいしか方法はない。どちらにせよ、待っているのはどん底の未来だ。
「そこで、ワシが身寄りのない椿を引き取ることにした。無論、己が贖罪の意味もあった」
さらに管輅の贖罪はそれだけに留まらず、屋敷を土地ごとすべて売り払うと、復興のためにと全額を寄付。もともと蓄財に興味はない方だったが、管輅は惜しみなく私財を投じた。
「でも、だったらなんで街の人は今もあんなに……?」
「逆じゃったんじゃよ」
「え……?」
「施しなど逆効果。むしろ、これが決裂の決定打になってしもうたんじゃ」
人の感情とはやっかいなものだ。どれだけ素晴らしい行動も、受けて側の感情次第で、その意味合いはいかようにもなる。とりわけ、好き嫌いで印象はまったく変わってしまう。
「金で解決するつもりかと、散々、罵倒されたわい」
「そんな……」
結局、管輅の行動はより激しい怨嗟の引き金にしかならず、暴走する大衆感情は増大の一途。ついにはその矛先を同じ被災者であり、なんの罪もないはずの椿にまで向けられてしまう。
管輅が特別に接する者。救われた者。それだけの理由で、だ。
「今の屋敷に移ったのはそのためじゃ。あの時はともかく双方が冷静になれるだけの距離と時間が必要じゃった」
「けど、……状況は八年経った今も変わってない。じいさんも椿さんも悪者にされたままだ」
「そうじゃな。おぬしの言うとおりじゃ。ワシの見込みが甘かった。本来ならもっと徹底すべきじゃった。もっと早く、こうすべきじゃったんじゃ」
「こうすべき? 何をだよ……?」
答えるのを躊躇うように硬い息を飲み込むと、管輅は消え入りそうな声で言った。
「椿には……、縁を切ると言っておいた。これでもうワシのせいで理不尽な目に遭うこともないじゃろう」
「――なっ!?」
ふざけんな!! と反射で出掛かった言葉は、しかし、管輅の顔を見た瞬間に止る。
その悲痛な表情が物語っているのだ。これが彼にとってどれだけ苦渋の決断であったかを。どれだけ椿を大切に思っているかを。
力なく肩を落とすその姿は、ただのちっぽけな老人そのもの。彼は苦しんでいる。苦しんできたのだ。きっと、他の誰よりも――。
なら、言えるはずもない。そして、じっとしてもいられなかった。
「……俺、ちょっといってくるよ」
「行くじゃと……? 待て一刀。おぬし何をするつもりじゃ?」
わからない。わかるわけがない。けれど二人の気持ちを思えば、これを解決だなんて思いたくない。
唯一の家族から絶縁を言い渡される悲しみは、どれほど痛烈だっただろう。
謂れのない大罪を背負い、それでも育て上げた愛娘を突き放さなければならない心痛は、どれほど激烈だっただろう。
一刀も幼くして両親を亡くした身だ。共感するなという方が難しく、心は大きく揺さぶられる。
背中の荷をそっと地面に降ろす。とにかく椿と会う。理由はそれだけで十分だった。
「いってくる」
「待てというておろうが! おぬしに何ができる! これ以上この問題に首を突っ込むでない!」
一刀は駆け出していた。馬鹿者め、という老人のしゃがれた声を聞きながら。
***
片っ端から旅籠屋を訪ねること五軒目。
すっかり汗だくの男は、ようやく椿の勤め先にたどり着く。ただし、折り悪く彼女は出払っており、
「戻るまで待つかい? 簡単な使いだからそんなに遅くはならないと思いやすよ?」
「いえ、大丈夫です。また後できます。ありがとうございました」
そう番頭に答えると、一刀はすぐに店を後にした。
どのみち話ができるのは仕事が終わってからだ。それに、何をどう伝えたらいいかが、まとまっていない。だったら街を見て回りながら考えてみようと、一刀は思った。
「平原にきて、もうそれなりの時間を過ごしてるけど、知らないことだらけだよな」
たとえば、この街並みひとつとってもそうだ。試練と家事の日々で、一刀が通った道はごく一部。大通りから足の向くまま少し裏道に入るだけで、その印象ががらりと変わることも今、知った。
賑やかな表通りとは違い、そこはどこか寂しげで空き地もいくつか見られた。
「八年前の大火災、か……」
大切な物を、掛け替えのない者を、理不尽に焼失する。それはどれだけの心痛なのだろうか。きっと陳腐な想像など遥かに超える苦しみに違いない。
「俺は事故の後遺症で父さんの記憶も母さんの記憶もなかったから、まだマシだったのかな」
それでもあの喪失感だけは拭い難いものだった。
体の中からありとあらゆる力が蒸発して、すべての行動が鬱陶しかった。
何もしたくない。別に生きていたくもないし、それでいて死にたいとも思わない。生の喜びもなければ、死への執着もない。単純に呼吸するのが煩わしかっただけ。凍結した感情は喜びも悲しみも怒りも覚えることはない。残されていたのは、ひとつの問いだけだった。
暗い部屋の隅っこで膝を抱えた少年は、ひとつの思考を延々と繰り返す。自分はどうして空っぽなのか、と。ただそれだけの物体だった。
「じいちゃんに引きずりだされてなかったら、俺もずっとあのままだったのかな。……この街みたいに」
八年という歳月は、表面的に傷を覆い隠すことはできても、治癒することまではできなかった。
一見、塞がったように見える傷跡の奥で、化膿した患部はいつまでも血を流し続ける。じくじくと穢れた血を吐き出し続ける。そして、それは池底の汚泥のように堆積し、そこに住まう者たちの心を腐らせてきた。
誰かを恨み、怒りをぶつけることで痛みを誤魔化し続けてきたのだ。
「間違ってる、そんなの」
間違っている。たとえ、それ以外に悲しみを紛らわす方法がなかったとしてもだ。そんなものを椿が請け負わなければならない理由がどこにあるのか。
ぶつけ先のない憤りで止めた足に、一刀は問う。
「救われた者? どこがだよ。椿さんはちっとも救われてなんかない。それどころか、今も被害者のままじゃないか……!」
ならば、それをどう解消すればいいのか、と。
ここまで拗れた両者の感情を、ちょっとやそっとのことで修復することはまず不可能。そもそも街の人たちが管輅の言葉を今更、素直に聞き入れるとは思えない。
いっそのこと平原から離れてしまえば、話は早いのかもしれない。だが、それも難しいと一刀は考えた。
管輅にその気があるならとっくにそうしているはずだ。彼にはそれができた。にもかかわらず、今でもこの地に住み続けているというのは、何らかの考えや覚悟の表れと言えよう。椿はともかく、あの偏屈の意思を変えるのは容易じゃない。
「それに、それじゃ解決にはならないよな……」
ならば、両者に歩み寄る未来があるとすれば、それはやはり根気強く話し合い、地道に誤解を解いていく先にしかないのではないか。
その結論に至った時、一刀は思考を止め、俯く顔を戻し、
「……なら、これも逃げたらダメってことだよな」
人通りの少ない路地の向こう。上げた視線の先には、できることなら二度と会いたくなかった三人組みが、道幅一杯に広がって歩いていた。
相手方も既にこちらを認識しているようで、ニヤケ面がゆっくりと近づき、
「よお、にいちゃん。奇遇だな。こんな場所で会うなんてよ」
「……さっきはどうも」
「おいおい、そう警戒しなさんな。別にあの続きをしようってわけじゃねぇんだ。まあ、にいちゃんがどうしても続きがしたいってんなら、こっちもやぶさかじゃねえが……、それよりも、ちょっと話がしたくてよぉ。なあ、お前ら?」
「へい」
あからさまに含みのある悪人顔で男たちが頷き、
「ここで立ち話もなんだ。場所を変えようぜ?」
露骨に怪しい提案だ。本来なら今すぐ一目散に逃げるべきだろう。だが、一刀はそうしなかった。それで終わりにしてしまえば、何の進展もない。それでは何も変わらないのだ。
沈黙をいいことに、羽織の男が馴れ馴れしく一刀の肩に腕をかけると、アゴをしゃくり移動を促す。一刀はされるがまま歩き出した。
「だからそんなに睨むなっての。こわいこわい」
「…………」
冷静を装ってはいるものの、一刀の心中は穏やかではなかった。
どこに連れて行かれるのかわかったものじゃない。見知らぬ道を進む足取りが、ひと気のない方へと向かっていけば、なおのこと。
そのままいくつかの路地を曲がり、やがて人ひとりが通れる程度の細い通路抜ける。案内された場所は、塀に囲まれるだけの開けた空き地だった。
日当たりこそ良好なものの、近くに人通りはなく、路地からもよほど注意しない限り気づかないような場所。
判断を誤ったかもしれない、と一刀の脳裏に早くも後悔の念が過ぎるが、もう遅い。背後の通路は二人の男によって塞がれている。逃走は不可能だ。
正面。羽織の男が、空き地の中央にどっかと腰を下ろした。
「にいちゃんも座んな。遠慮はいらねえよ。これでも自慢の我が家なんだ」
「我が家って、じゃあ、ここは……」
その一言で、一刀は何故ここに連れてこられたかを察した。
やはり始まりは八年前。ここには確かに存在したのだろう。焼失した彼の家が。
敷地内に雑草の一本も生えていないところを見ると、今も欠かさず手入れをされていることが窺える。
この地は言わば、彼の傷口そのものだ。
「なんだよ人が折角、誘ってるのによぅ。まあいいか。無理にとは言わねえよ。それより、さっそく本題に――と、そうだそうだ。その前にひとつ確認しておきたいことがあるんだが、にいちゃんは余所者だろ? なら知ってるか? 昔、この街にちょっとした騒動があったことを」
「……八年前の大火災のことか?」
「なんだ知ってるのか。だったら、あいつが何しでかしてくれたかも知ってるよな? なら話は早い」
男の表情が消えた。
「協力してくれねえか? あの死にぞこないをヤるのをよ」
「――――」
男は続ける。
「ご覧の通り、俺は八年前、この場所ですべてを失った。家も、嫁も、産まれたばかりの娘もな。しかもここは延焼を防ぐためだなんだって、家を建て直すことも禁じられちまってよぉ。唯一、残った土地すら失い、俺は本当に何もかも奪われちまったんだよ。後ろの二人も似たようなもんだ」
だから、
「だから、どうしても許せねえんだよ。……あの死にぞこないが。俺たちを見捨てたあのクソ野郎が! ノウノウと生きていることがッ! 今まで何度、殺してやろうと思ったことかッ――!!」
男は立ち上がり、
「けど、ダメなんだよ。あいつは易者のくせにやたら腕が立つ。俺たち三人だけじゃ歯が立ちゃしねぇ。他を誘おうにも、街の奴らもどいつもこいつも、びびって協力しやがらねぇ。普段はガキの嫌がらせみたいなことしといて、いざとなったら、もし本当に管輅をやっちまったら二度と予言の力を借りられなくなっちまうー、ってな。馬鹿馬鹿しい。俺らはとう昔に見捨てられてるってのによ」
笑っているようにも、怒っているようにも見える男の形相。過去に囚われたその瞳は鈍く淀んでいる。
この時、一刀ははっきりと理解した。
これは傷口なんて生易しいものではない。呪縛だ。彼は過去を呪い、過去に呪われている――。
「つうわけでよ、にいちゃん。あいつに毒盛ってくれねえか?」
「……はあ!?」
「なあに、その毒で殺してくれってわけじゃねぇ。数刻の間、体が痺れてくれりゃ十分だ。痺れ薬もこっちで用意する。にいちゃんはこっそりそれを食い物か飲み物に混ぜてくれるだけでいい。あとはこっちで勝手にヤるさ。もちろん、礼はする。やつが貯め込んだ金銀財宝は全部、にいちゃんの物だ。どうだ悪い話じゃないだろ?」
「ど、どうだって……」
そんな恐ろしい話を受けられるわけがない。しかし、おいそれと断ることもまたできない。彼らは本気だ。断ったからといって、はいそうですかと、このまま無事に帰してもらえるとはとても思えない。ゆえに一刀は、そのどちらも選ばず会話を続けた。
ひとついい? と前置きし、
「あんたらがじいさんを憎んでるのは、火災の予言をできなかったからなんだよな?」
「できなかった? 違うな。やつはわざと俺たちに火災が起きることを教えなかったんだよ!」
「それは違う。じいさんは予言できなかったって言ってた」
この場を丸く治めるには、今ここで彼らを説得するしかない。
一刀は言う。
「誤解なんだよ。じいさんは本当に火災の予言はできなかったんだよ。だから、今でもそのことに責任を感じているし、誰よりも悔しいって思ってるんだよ!」
「……おいおい、にいちゃん。言葉には気をつけろよ? 誤解? 責任? 悔しいだあ? ふざけたことぬかすんじゃねえよ!!」
「ふざけてなんかない。じいさんも椿さんも同じ被災者だろ? どうして二人に全部押し付けるんだよ」
「なんだと……? 奴が俺らと同じ被害者だと……?」
「そうだ」
頷いた瞬間、男の拳が一刀の顔面を捉えていた。
「――っ」
「殺されてえのか、てめえはッ!!」
尻餅をつく一刀は、痛む口元を手の甲で拭う。
赤い。口中には鉄の味が広がる。一刀はすぐに立ち上がった。
「……結局、おっさんたちはそうやって逃げているだけだろ?」
「なに?」
「とぼけるなよ。本当はわかってるんだろ? 火災が起きたのはじいさんのせいか? そうじゃないだろ!」
そうだ。管輅が放火したわけではない。すでにここから間違っている。
「確かにあんたらは多くを失った。それはすごい不幸なことで、死ぬより辛いことなのかもしれない。心底、同情するよ。けどそれはじいさんのせいか? 違うだろ!」
不幸な事故を誰かのせいにしたい気持ちはわかる。残されてしまった者の辛さもわかる。一刀も経験した道だ。だから、真摯に訴えかける。
「どうして救ってくれなかったと嘆くだけならまだいいよ。でも全部じいさんのせいにして恨んでどうすんだ! 椿さんに当たるなよ!!」
こんなことをしても何も報われないと。もう誰かのせいにするのは終わりにしようと。正しきを正しく論じる。いい加減、過去に囚われるのはやめて、前を向こう、と。
だが、
「……ハッ、言いたいことはそれだけか?」
正論は彼らに届かない。いや、正論だからこそ響かなかった。
彼らにしてみれば、そんな葛藤は何周も前に済ませたこと。結果、どうにもならない現実から逃げ、正しさを拒み続けたのが、今なのだから。
言われるまでもない。全部わかった上で卑屈に生きる彼らにとって、一刀の正論は眩しすぎた。
「他所者のお前に何がわかる! 散々、知ったような口をききやがって、覚悟はできてるんだろうな? ……おい、やっちまえ」
「――――」
抵抗はできなかった。反撃を躊躇う一瞬のうちに後ろから羽交い絞めにされ、腹に強烈な前蹴りをもらった一刀は崩れ落ちる。
痛みと呼吸困難の二重苦の中、しかし、彼らの追撃の手は緩まない。顔を、腹を、背を、腕を、足を。いたる所を殴られ、蹴られ、踏みつけられ。彼らは暴力と暴言を浴びせ続けた。
「あいつはな……俺たちを見捨てたんだよ!」
男たちは一言吐き捨てるたびに、感情ごと痛みを一刀へぶつける。
「管輅が予言してくれてればな! うちの女房は死なずに済んだんだよ!」
「ごッ――」
「お前なんぞに俺たちの気持ちがわかってたまるか!」
「ぶふッ――」
血反吐を吐き、激痛に視界が歪む。だが、一刀は男たちから決して目を逸らさなかった。
無様に地面を這い蹲ろうとも、沸き起こる感情がそれを拒否する。お前らとは違うと誇示するように。だから男たちも手を緩めない。気に入らないのだ、引けないのだ。
骨を打つ鈍い音が鳴り続ける。一体どれだけの暴力が注がれるのか。いつ終わりが来るのかもわからない狂乱。
しかし、遠ざかる意識を意地だけで繋ぎとめ、一刀はひたすらに耐え抜いてみせた。もうやめてくれという心の叫びを何度も何度も押し殺した。
無性に腹が立った。何故だかわからないが、絶対に負けたくなかった。
するとどうだ。先に心が折れたのは彼らの方で。
「…………」
ついに暴力が止む。息を切らし、不意に我に返った男たちは、何かに怯えるように一歩二歩と後ずさっていた。
一刀は揺れる体をなんとか支え、膝に手を掛けゆっくりゆっくりと立ち上がる。
両のまぶたを大きく腫らし、右目は完全に閉じている。残る左目もほんの僅かに開いているだけ。鼻血も涙も涎も混ざり合い、見るも無残な顔だ。白光の制服は血と土で汚れ、左右にブレる体はいつ崩れてもおかしくない。しかし、それでも目を逸らさず、一刀は言う。
「だから……、おっさん、たち……は、大、事な…………失った、悲しみを……ぐっ、じいさんや、椿さんに、押し…………て、現実、から目を……、逸らして、る、だけだ!」
「っ、ま、まだほざくか……!」
男たちはそんなボロボロの一刀に、明らかに気圧されていた。僅に覗く瞳の力に怖気づいていた。真っ直ぐな執念に尻込みしていた。
そんな彼らが縋るものは、やはり暴力だった。
「うるせえんだよ! 黙ってくたばってろッ!!」
「くっ……」
再開する狂乱。襲い掛かる男たちに対して、身体はろくにもう動いてくれない。
一刀は歯を食いしばる。いくらでも耐えてやると、閉じかけた目で睨みつける。しかし、その刹那――、
「やめてっ!」
霞む視界の中に映ってはならないものが飛び込んできてしまう。
両手を広げ、こちらを庇うように立つその背中。それは紛れもなく椿の姿だった。
「椿、さん……? ダ、ダメだ、早く――つぅッ」
「北郷さま!!」
椿は崩れ落ちそうになった一刀を抱き支え、震える指で労わるようにその頬をそっと撫でた。
「もうやめてください! こんな酷いことっ!」
悲痛な訴えも彼らには何の意味も持たない。いや、むしろ彼女の登場は彼らにとっては好都合だった。
どれだけ殴りつけても屈しなかった男が、今、初めてこうして動揺を見せたのだ。これを利用しない手はないだろう。そう予感させるには十分なほど、男たちの表情に不敵さが戻っていた。
「おいおい、いいところで邪魔するなよ姉ちゃん。俺たちはまだそいつに大事な用があるんだ」
「いやです!」
だが、引き下がるつもりがないのは椿も同じだ。
支える腕に力を込め、首を横に振る。そして、彼らもそう答えることはわかっていたし、期待していたのだろう。
にやけ面で一刀を挑発するようにねっとりと覗き込むと、
「……そうか。邪魔するってんならしょうがねえなぁ。姉ちゃんは管輅の関係者とはいえ、俺らと同じ痛みを持つ者。だからこれまでは大目に見てきたんだが、おい!」
「――――」
やめろ! と叫ぶこともできずに、一刀はあっさり蹴り飛ばされ、
「ぐっ……」
「北郷さまっ!? は、離して! いや!」
地面に蹲り、椿の今にも泣きそうな声を仰ぎ聞く。椿は男たちに捕らえられていた。
「く、ぉ……」
暢気に転がっているわけにはいかない。一刀は近くの塀まで這いずり、笑う膝でもそれ頼りになんとか這い上がり、
「椿、さんを……はな、せ……! 関、係……ない、だろ」
「関係ないだ? おいおいおい、こいつも管輅の立派な関係者だろうが! それに忠告を聞かなかったのはこの姉ちゃんだろ? あぁ!!」
「違、う。俺、だ……。……俺を、好きなだけ……、殴れ、ば、いい、だろ……?」
もはや我が身がどうなろうと知ったことじゃない。
どうでもいい。二の次、三の次だった。そんなこと。ともかく、
「……彼女を、離して、くれ。お願い……、だから」
椿さえ無事ならそれだけでいい。それさえ叶えば何でもいい。一刀の思いはそれだけだった。
だが、だからこそ――、
「――ダメだな」
「なっ……!」
「気に入らないんだよ! 管輅の関係者は全員な! それにこの姉ちゃん……顔は俺の好みだからなぁ!!」
男の手が、椿の無垢な肢体を弄った。
「きゃああ! いや、やめっ、いやああ!!」
「――やめろォオオオオオオオオオオオ!!!」
理性は一瞬で焼き飛ぶ。胸を突き破る衝動が、邪魔な痛みを忘却の彼方へ押しやる。ガクガク揺れる脚を駆り、力一杯手を伸ばす。
殺してやる。彼女が何をした? なぜこんなことになっている? その薄汚い手を放せ。必ず助けてみせる! と。 ――が、
「おめえはそこで大人しくしてればいいんだよ!」
「――ガッッ!?」
視界が真っ白に弾けた。
後頭部に強烈な鈍痛を感じたと同時、一刀はバッタリと地面に崩れ落ち、
――まず……、い、……意、識……、が……………………っ、ダメだッ!
無意識で伸ばしていた手だけが反応して乾いた砂をグッと掴む。その僅かな動作の反動で生じた激痛が、辛うじて意識を繋ぐ。しかし、そこまでだ。最後の力を振り絞った身体は、以降の指令を完全に脳から遮断した。もう指の一本も動かない。電池の切れたガラクタは全く動こうとしなかった。
――ちくしょう! ふざけんな、動けよ! 動けって! 彼女を助けなきゃいけないんだよ!
管輅の言葉が脳裏に響く。
“首を突っ込むでない”“おぬしに何ができる”
何もできなかった。目の前で彼女が襲われているというのに、助けを呼ぶことすらできない。
関わるべきではなかった。柄にもなく熱くなって。なんとかしたいだなんて思って。そんな人間じゃないだろう。面倒ごとは大嫌いで、日和見主義で、事なかれ主義の人生だったろう。多少、己の過去と重なるからといって、いつからこんなお節介な人間になったというのか。
――俺は天の御遣いなんだろ? 救世主なんだろ? だったら動けよ! 動いてくれよ、くそったれッ!!
目を、耳を覆いたくなる現実から逃避して、一刀は我武者羅に力を求めた。管輅にはあれだけ否定しておきながら、心のどこかで天の御遣いという言葉に影響されていた。だから無力な己を否定して、天の御遣いたる何かに縋る。なんでもいいから彼女を救ってくれ、と。
そして気づく。
――っ、何考えてんだ! 何が救世主だよ。救ってくれだよ! 俺がやるんだ。俺が助けるんだ。それしかないんだよ!!
それでは一緒だと。
都合のいい虚構を作り上げ、直面する現実を否定する彼らと何も変わらない。どんなに苦しくても、辛くても、その現実を受け入れた上で足掻くしかない。気に入らないというなら自力で塗り替えるしかない。
しかし、
「ふざ、けんな……よ……頼む……から……ぅ……動いて……くれ……よ」
体はピクリとも動かなかった。どれだけ強く願っても、力を込めても、首から下は応えてはくれない。
代わりに、涙だけが溢れた。
一刀は泣いていた。己の不甲斐無さに。
「ち……く……しょう……ぉ……」
涙が止まらなかった。己の無力さに。
そして、いよいよ我慢も限界だった。
気力だけで繋ぎとめていた意識が今、途切れようとしている。
「ぁ……、ぅ……」
霞む耳は、もう彼女の悲鳴も聞き取れない。
薄れる視界は、もう彼女の姿を映さない。
もう、何が起きているのかわからない――。
「――うぎゃアアァァア!!」
誰かの悲鳴が聞こえた気がする。
「北郷さま! しっかりしてください!」
誰かの呼ぶ声が聞こえた気がする。
「じゃから首を突っ込むなと言うたんじゃ……馬鹿者め」
意識が潰えるその瞬間、一刀は管輅の声が聞こえた気がした。
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