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第5話   挑戦

 南皮での暮らしは二ヶ月が過ぎていた。

 到着早々、騒動に巻き込まれた一刀であったが、その後はそのまま中華飯店"来来”店主、(ちん)に頼み込み、旅の路銀が貯まるまでという条件で雇ってもらうことに成功。それも寝泊りは店を使わせてもらい、食事も朝と晩の賄いつきという好条件。店主は怒ると怖いが情も深かった。

 初めての仕事はやはり大変だ。

 朝は食材の仕入れから始まり、水汲みや薪の用意といった仕込みの準備に追われる。昼の開店には大量の客が押し寄せ、嵐のような数時間が過ぎると、あとは疎らの接客をこなしながら後片付け。すべてが終わり店を閉める夕方にはクッタクタとなる。しかし、その後は完全な自由時間となり、これで給料まで発生するのだから、一刀にとっては悪くない環境だ。新たな暮らしにすぐさま溶け込んでいく。

 そして実生活で世界と繋がりを得たことは、その心境を大きく変える要因となりえた。平たく言えば、彼はこの世界を少しずつ好きになっていたのだ。

 近隣の住民たちとのふれ合い。馴染みの常連客との何気ない会話。店主のよく通る声。当たり前が消えた世界に、新たな当たり前が少しずつ増えていき、その繋がりは何も人間関係だけとは限らない。一刀は新たな日常を通して、この世界の実情を、乱世の意味を知っていく。例えば、店主の息子が戦で亡くなっていたことがそう。ここでは理不尽な不幸がそこらじゅうに転がっていた。

 同じ不幸でも事故で両親を失うのとは意味が違う。平和な日本では考えられない出来事が敢然と実在する世界。それが乱世だ。

 少し前の一刀ならその現実から目をそらし、耳を塞ぎ、なんて世界だと嘆くだけだっただろう。だが、今は違う。もう知ってしまったから。不幸の中でも、今と向き合う多くの人々を見てきたから。皆、懸命に生きているんだと気づかされたから。

 こちらの世界は現世よりもずっと人と人の繋がりが濃い。しかし、その一方では平然と殺し合う。皮肉な話だ。日常に死がつきまとうからこそ他者を強く思いやれる。それは平和すぎて他者に興味をなくした世界とまったく対照的だった。

 季節は春から夏へ移ろう。

 多くを学び、多くを感じ、南皮で充実の時を過した男も、ついに平原へと向かう日を迎えた――。


***


 早朝、二人は店の前で向かい合っていた。


「陳さん、長い間お世話になりました。ホントにありがとう」

「改まって挨拶なんかよせよせ。それより……、きーつけて行ってこいよ一刀」


 涙ぐむ店主を見て、一刀はやっぱりかと思う。彼が亡き息子の面影を重ねていたのはなんとなく気づいていた。もし息子さんが生きていたら、一刀と同じ年頃だったそうだ。今にして思えば、そもそも一刀を快く受け入れてくれた理由もそこなのだろう。


「必ず、また来いよ?」

「……いってきます!」


 “はい”とは言えなかった。どうせ二度と会うことはないのだから、適当に言い繕っておけばいいものを。だが、実子同然に可愛がってくれた陳さんに嘘だけはつけないと、一刀は答えをはぐらかした。

 ――早く去った方がいい……。

 歩きだす。

 何度も何度も届く励ましの声に胸を締めつけられながら、しかし、振り返ることはない。その足取りは逃げ出すように速く。されど重く。鈍く。ここは居心地が良すぎた。

 朝の日差しを背に受けながら、一刀は南皮を出る。最後に見上げた城門が以前より少しだけ優しく見えた。

 いよいよ次は目的地である平原。その道のりは事前に同方面へ向かう行商人と同行の約束を取りつけていたおかげで順調そのものだった。

 彼らの商いに合わせて多少の寄り道もあったが、それでも一人旅よりはよほど安全かつ確実。加えてその行商人は管輅の自宅まで知っていたことが有難かった。なんでも何度か屋敷に品物を届けたことがあるそうだ。おかげで道にも食料にも悩むことなく話し相手までいる今回の旅路は、前回と比較にならないほど楽々と走破することができた。

 南皮出発から二週間後の夕暮れ。平原に無事到着した一刀は街外れにあるという管輅邸をさっそく訪れていた。


「ごめんくださーい。管輅さんいらっしゃいますか~?」


 一刀の背丈の二倍はゆうにあろう木造門へ向かって大声で呼びかけるが、中から人の出てくる様子はない。

 小高い丘に建てられたその屋敷は中々に立派なもので、門と塀に囲われた敷地は道中で見かけたうちではもっとも広く、ひょっとしたら声が奥まで届いていない可能性もあるくらいだ。一刀は念のために二度、三度と間を空けて呼びかけを繰り返すが、しかし、結果は変わらなかった。


「こりゃ空振りか……」


 横から塀越しに中の様子を覗き込んでも、やはり人の気配は感じられない。残念ながら留守のようだ。

 さて、どうしたものか。このまま管輅を待つという選択もあるが、彼が今日中に帰宅する保証はどこにもない。

 一刀は直立のまま数秒考え、


「出直そう」


 こればかりは仕方がない。事前に約束をしていたわけではないのだ。もとより、すぐに見つからない可能性は考慮していたし、そのための滞在費も多少、用意してある。


「とりあえず泊まるとこ探しますか」


 時刻は日暮れ。夜の帳はもう間もなく降りる。前回より比較的に楽だったとはいえ、旅の疲労もあることだし、本格的な行動は明日からにして、今日のところは早く休むのが無難だろう。

 一刀は無人の屋敷に一礼すると街の中心部へ踵を返す。来たばかりの道を遡る帰路。その道すがら目にする景色は、やはり、少しだけ妙だった。

 

「それにしても街の外れとは聞いてたけど、ほんとにここらだけなんにもないな」

 

 平原は南皮と比べても何ら遜色ない大きな街だ。人も家も活気も溢れている。

 だというのに、管輅の屋敷周辺は民家どころか空家や廃屋すらもなく、まさに空き地。目ぼしいものは人の手が入らずに鬱蒼と茂る竹薮だけ。この一帯だけがこうも閑散としていることにはある種の違和感を覚え、いくら外れとはいえ空白地に一軒だけ存在する立派な屋敷というのは邪推を誘うには恰好だ。


「……よっぽど嫌われてるか、変人なのかもしれないな」


 人里離れた場所に住む老人といえば偏屈が相場。易者という肩書きもなんとも怪しさを匂わせる。そこに多少の嫌味でも合わされば人から煙たがられる要素としては十分だろう。例えば、管輅があの憎たらしい老人のような性格ならば、誰も近隣に住みたがらないのも頷ける。


「隔離も当然、か」


 と、ひとりごちたその時だ。不意に向かいから足元へぬっと影法師が伸びる。

 誰か人がいる。そう思った一刀の視線は自然と出所を追い、そして、その正体を捉えた直後、我が目を疑った。


「え……」

「おお。こんな場所で誰かと思えば、やっと来よったか」


 忘れようはずがない。その声も。その顔も。

 間違いない。夕焼けを背景に浮かび上がった人物は紛れもなく、あの日、あの時、食い逃げをかましてくれた因縁のクソじじい――。


「でりゃあああああああああ!!」


 前置きは一切なし。一刀は反射で腰の剣を鞘ごと抜き、上段に構えて素早く踏み込む。無論、本気で打つ気はないが、寸止めで怯えたところを取り押さえるくらいのことはしても許されるはず。自重はしない。

 だが、予想に反して、この老人は怯むどころか、むしろ、振り下ろされる剣下へ自らその身を晒し、


「やれやれ」

「な――」


 手首を掴まれると感じた刹那、視界はぐるりと一回転。一刀は受身をとることもままならずに腰から地面へと打ちつけられていた。


「――ッッッ!?」


 その表情は痛みより先に驚きで染まる。

 今、何が起きたのか。

 投げられたことはかろうじて理解できるが、どうして、どうやってそうなったのかがわからない。

 何の抵抗もできなかった。それほどの早業。洗練された技巧。とても老体の体捌きとは思えない。驚くなという方が無理だ。


「いきなり殴りかかるとは何事じゃ。年寄りは労わらんか、馬鹿者が」

「…………」


 一刀は何も言い返せずにただ呆然と見上げ、対照的に、かっかと笑う老人は、ついてこい、と一言残すとすたすたと歩みを再開する。

 その後ろ姿に重なるのは、やはり、祖父の姿。あっちの老人も呆れるくらい常人離れしているのだ。なにせ、一刀は祖父から未だかつて剣道で一本も取ったことがなく、というか、地稽古で息を切らしている姿すら見たことがない。ことあるごとにこんな化け物みたいなじじいが他にいてたまるかと常々思っていたものだが……、

 

「……いたよ。ここにも」


 つぶやきながら、一刀はその小さな背中をぼんやりと目で追う。

 複雑な心境だ。怒りはあるが、多少の哀愁や郷愁も混じりあう。許したわけではないが、どうも憎みきれない。

 少しだけ冷静になった男は時刻のせいもあってか、しばし黄昏に浸る。そして、老人の背中が茜へと沈む前に、ハッとあることに気がついた。


「――って、おいおい、ちょっと待てよ。そっちにあるのは……」


 そう。老人が歩いて行く方角にあるのは管輅の屋敷と竹薮だけ。しかも屋敷は無人。つまり、そこへ向かうということは高確率で……。


「このクソじじいが、管輅だったのかよっ!!」


 その瞬間、再び思い返すは理不尽の数々。平原での時間がすべて無駄だったと言うつもりはないが、それでも大いなる二度手間になったことは事実。何より、騙されていたこと自体に腹が立つ。


「……上等だよ」


 一刀は立ち上がり、ついた砂を払おうともせず管輅を追った。


***


 そこは必要最低限が整然と並ぶ部屋だった。

 室内にあるのは、古びた机に三脚の椅子と大きな書棚が一架。板間には飾り気などさっぱりで、家主は簡素な生活を好んでいるのがよくわかる。


「い、意外だ……」


 あれだけの捻くれ者なのだから、さぞかし悪趣味な骨董品やら工芸品やらが嫌味ったらしく飾られているかと思いきや、実際は正反対。屋敷の内部は拍子抜けするほど地味な間取りをしていた。


「いつまでボケっと立っとる気じゃ? さっさと座らんか」


 しかし、この憎たらしい性根だけはどこまでも期待を裏切らない。どっかと腰を下ろすその様子に悪びれた様子は微塵もなく、というより、ふてぶてしさが増してる感もある。


「…………」


 一刀はなんとか平静を装って対面の席に着くが、その心中は怒りの炎で燃え盛り、なんとかこの憎たらしい顔を歪めてやりたいと、そればかりを考え、

 ――絶対泣かす。このクソじじい……!

 言った。


「あの時はやってくれたね。じいさん」

「あの時? はて、なんのことかのう?」

「――食い逃げだよ! 忘れたとは言わせないからな!」


 あくまでとぼける老人に声色は激しく、一刀は拳を握りながら、ぐっと半身を迫り出す。が、睨みつけた相手の顔は涼しいままで、こちらがどれだけ凄んでみても、この老人にとっては鼻たれ小僧と大差ないのだろう。

 管輅は薄っすらと笑みまで浮かべ、一拍置いてから、ああ、と取ってつけたように頷いた。


「あの働き場を紹介してやった時のことか。そのことなら、なぁに、礼には及ばん。気にするでない」

「なっ――ふざけんな! なんで俺が礼を言わなきゃいけないんだよ! つか、あれのどこが紹介だよ! 人のこと騙して食い逃げしただけだろ!」

「ほう? ワシがおぬしを騙す?」

 

 騙しただろ! と一刀は机を強打。老人はわざとらしく驚いて見せてから、


「騙すとは、これはこれは酷い言いがかりじゃのう」

「どこがだよ!」

「どこがも何も、ほれ、よーく思い出してみぃ。あの時、確かにワシは礼がしたいから店を案内するとは言うた。が、飯を奢るなどとはひと事も言っておらんはずじゃが?」

「はああああ!?」

「それをおぬしが勝手に勘違いした挙句に、ワシが騙したなどと被害妄想もいいところじゃ」

「……じじい!」


 いやはや。すまんのひと言でも出てこれば、まだ穏便に済ます道もあっただろうに。いや、そもそもこの捻くれ者から謝罪の言葉を引き出そうとしたことが間違いだったのかもしれない。

 一刀は今にも怒鳴りつけたい感情をなんとか抑え込んで問いを続ける。


「……なら、俺が管輅を探していると言った時はなんで名乗り出なかった?」

「そりゃワシはこれでもそれなりに有名人じゃからの。どこの馬の骨ともわからぬ若造に、ホイホイ名乗るような軽い名なぞ持ち合わせておらんわ」

「いやいや、俺は仕事の世話をするほどの恩人なんだろ? だったら馬の骨はないんじゃない? それとも、始めから騙す気だったから名乗れなかったとか?」

「妙な勘繰りはよさんか。それとこれとは話が別じゃ。ちと確かめたいこともあったしのう」

「……確かめたいこと? なんだよそれ」


 一刀が怪訝な顔を見せると、管輅は何のこともないと言いたげに首を振る。だが、そこに一刀は僅かな引っ掛かりを覚えた。

 ――あれ? 今、一瞬だけど妙な間があったような……。

 そういえばあの時も、管輅はなんの脈絡もなく剣を見せて欲しいと突然言い出し、熱心に調べていた。直後にした質問にもはぐらかされた気がするし、今にして思えば、あの行動は十分に怪しい。

 ――何か関係があるのか?

 この老人はまだ何かを隠しているかもしれない。そんな疑いを新たに持ち始めた矢先、管輅はくつくつと笑い始めた。


「何がおもしろいんだよ……!」

「いやなに、ワシは正しかったと思ってのう。色々と面白そうな気がしたんじゃよ。正体を明かさぬ方が」

「――っ、このクソじじいッ!!」


 堪え切れずに一刀が席を立つ。ガタンッと椅子が床を打ち、大きな音を上げる――が、そこまでだった。跳ね伸びるはずだった身体は、椅子から僅かに浮いただけで、途端に勢いを失う。

 たったの指二本。それを額に押し当てられただけで、一刀の動きはものの見事に止められていた。


「嘘だろ……!」

「かっかっか、立てんじゃろ?」

「っ――、くそっ!」


 二度目の襲撃も失敗。今度はその体すら成さぬままに。

 どれだけ踏ん張ろうと彼の言葉通り、一刀は立ち上がることもできない。もちろん、それは管輅が無類の怪力というわけではなく、


「なぁに。理屈は簡単じゃ。人は椅子から立ち上がる際にはまず重心をずらす必要がある。じゃから必ず頭を動きたい方向へ傾けるわけじゃが、それをこうして指で軽く頭を押さえてやると、あら不思議。どんな大男でも立ち上がることができなくなる」


 確かに原理は単純だ。知っていれば誰にでも再現できることかもしれない。だが、それでも一刀はこの老人に対して強い驚きを抱いていた。


「……化け物かよっ!」


 問題はそこではないのだ。本当に彼がすごいのは後の先を取ったこと。後から動いたにもかかわらず、最短最小の動作でこちらの機先を制したこと。やはり只者じゃない。ただの占い師であろうはずがないと思い知らされる。

 一刀が無駄な力比べをやめると、管輅は額から指を離し、言った。


「それよりおぬし、わざわざ平原まで訪ねてきたのは文句を言うためではあるまい? 管輅であるワシに用があったのではないのか?」

「……あっ」


 そうだ。思いがけない遭遇で、すっかり本来の目的を忘れていた。我に返った一刀は、一端、恨みを棚上げして、これまでの経緯を洗いざらい話す。

 目が覚めたら見知らぬ山中にいたこと。そこで劉備たちに命を救われ、自分が予言にある天の御遣いだと言われたこと。その予言は管輅という易者によるものだと聞いたこと。そして、最後にどうやったら元の世界に帰れるのかと問う。

 その間、老人は珍しく神妙な面持ちで話に耳を傾け、そのまま、しばらく沈黙の時に入る。

 一刀は返事をじっと待ちながら、高まる期待感を抑えていた。己のいるべき場所へと戻るため、それだけを願いここまで来たのだ。その手がかりをようやく手にすることができるかもしれないのだから、気が急くのは仕方がないだろう。

 もっとも、相手はあの管輅。そう上手く事が運ぶわけがなかった。


「……ふむ。事情はわかった。じゃが、生憎とおぬしに伝えることは何もありはせん」

「はあ!? な、なんだよそれ! 天の御遣いの予言をしたのはじいさんなんだろう? だったら何か知ってることくらいあるだろ!」

「まあ、あるにはあるんじゃが……」

「だったら、ふざけてないで教えてくれよッ!!」


 ここにきて、なおも人をおちょくるような発言に、一刀は怒りを露に慌てて詰め寄る。

 だが、その言葉を聞いて顔色を変えたのは老人も同じ。いや、より強い怒りの色だった。


「……ふざける、じゃと? 大真面目じゃわい! これはこの国の未来に関わることなんじゃぞ!」

「――――」


 その剣幕に飲まれ、たじろぐ一刀だったが、すぐに“だったら何故それを教えてくれないのか”と問い返す。

 すると老人は再び不適な表情へころりと戻り、


「これはこれは異なことを」

「な、何がだよ……? 俺が御遣いなら知ってることを全部話すべきだろ」

「然り。じゃが、おぬしは命の恩人に、自分は御遣いではないと答えたのじゃろ?」

「そ、それは……」

「だからおぬしに話すことはもうないと言うておるんじゃ」

「…………」


 確かに、一刀は自分を救世主とは思っていない。もっと言えば、予言そのものを信じてはない。管輅の主張は正論だ。

 だが、それで引き下がるわけにもいかない。他に頼るものがない現状だ。愚かな行動だとわかっていても、乱世を救う天の御遣いなどという馬鹿馬鹿しい予言に縋るしか方法がない。

 それに、状況だけなら予言と一致する部分があるのもまた事実であり、それは管輅にも否定できないはず。ならば、


「なら……、俺が天の御遣いだと今この場で改めて宣言したらどうする?」

「ほほう、そうきたか。じゃが、答えは否じゃ」

「っ、なんでだよ! 天の御遣いには話すことがあるんだろ!!」

「かっかっか、あまり笑わせるでないヒヨっこが。口だけなら誰でも言えるわい」

「くっ」

「そもそも、おぬしのような、なんの力も覚悟もない軟弱者が救世主のはずなかろう? もし仮にそんなことがあれば、予言したワシの恥じゃ」


 一刀は苛立ちから大声で、くそ! と叫んだ。

 手詰まりだ。いくら泣いて拝み倒そうともおそらくは無駄だろう。まして力づくでなんとかなる相手ではない。途絶えてしまう。これが唯一の希望だったのに。

 というより、はじめから詰んでいたのかもしれない。

 少し考えればわかることだ。もし仮に、現世へ戻る方法があったとして、管輅はそれを素直に教えてくれるのだろうか? ありえないだろう。なぜなら、一刀は救世主なのだから。彼がそう信じる以上、少なくとも乱世が治まるまで帰らしてもらえるはずがない。

 かといって、己が御遣いであることを否定すれば、やはり、手がかりは何も掴めない。どちらに転んだとしても道は閉ざされていたのだ。

 ――何やってたんだよ俺は……!!

 無為無策に空回る感情だけが胸の奥で毒づき、半ば自暴自棄になりかけたその時。老人は思わぬ言葉を一刀へ投げかけた。


「――じゃが、おぬしがそれでも自分が天の御遣いであると言うのであれば、その証を見せてみよ」

「……証って?」


 簡単な話じゃ、と管輅は笑い、


「ワシを殴りたいのじゃろ? なら一撃いれてみせよ」


 力を示せ。天の御遣いさまならば、老人相手に一撃も入れられないはずがない。それは管輅からの、実に野蛮な挑戦状だった。


「いいよ。上等だよクソじじい。やってやる!」


 一刀は即答。悩む必要なし。もとより手詰まりだったのだ。それが復讐の機会までもとくれば、一石二鳥。人差し指をズビシと突き出し、ここに堂々と宣言する。

 こうして、この時から御遣いを否定する男が、御遣いと認めさせるという、なんとも奇妙な挑戦が始まった。話の内容と経緯を考えると、他人には青年と老人の戯言、孫と祖父の他愛のない喧嘩にも見えるようなくだらない争いだ。

 されど、この時から間違いなく始まったのだ。長く、暗く、重たい道に一刀は足を踏み入れたのだ。もっとも、本人が認識するのはまだまだ先のことである。今はまだ自覚症状はなく、いずれ気づくことになるだろう。己に絡みつく『天の御遣い人』その言葉が持つ真の意味を――。

読んでいただきありがとうございます。


今回は、注釈がてら当時の服装、「深衣」について。

これは後漢時代、女性が普段着用する民族衣装のようなものです。

形状は着物に近いのですが、上下がいっしょになっているワンピース型で、衽の先を腰にぐるっと巻いて着ます。

何でも、元々は男性も着たらしいですのが、後漢の頃には女性用として定着していたみたいです。


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