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第4話   人情ときどき理不尽のち雷

 疲労感が隅々までぎっしり詰まった身体を中腰で支え、一刀は巨大な外城門を見上げていた。


「すっげぇ…」


 外敵から街を守るために周囲何キロもの範囲をぐるりと囲う惣構の城壁と、侵入者を拒む分厚い鋼の門。その存在感はあまりに圧倒的で、こちらを悠然と見下ろしているかのようだ。

 天守閣を備えた本丸や、高い石垣に特徴がある日本の城文化とはまるで違う。なぜなら、あくまで単一民族間の争いだった日本とは違い、異民族との戦を何度も経験してきた大陸では領民こそが守るべきもの。たとえ領主が生き残っても領民を皆殺しにされてしまっては何の意味もない。ゆえに都城の文化が発展したのだと歴史の授業で習った気がするなぁ、と一刀は珍しく真面目なことを思いつつ、


「ついたんだよな。やっと」


 劉備一行と別れた後、未練を振り払うように村を発った彼は今、冀州南皮にいる。

 南皮は最終目的地である青州平原との中間地点に位置する大都市で、村からの行程はおよそ百六十キロにもなる。大まかな道筋は関羽から事前に教わっていたとはいえ、東京―静岡間とほぼ同じそれを地図やGPSもなしで踏破したのだから、彼の苦労はいかほどだったか。道ひとつとってみても、現代のようにアスファルトで舗装されているわけもなく、見知らぬ荒れる道を完全徒歩で無一文の旅。これはもう立派な暴挙だろう。

 だが、そんな困難を乗り越えて、確かに彼は南皮の地に立っている。その要因は一刀が卓越した方向感覚を持っていたわけでも奇跡的な直勘力を兼ね備えていたわけでもなく、ただ単純に、多くの人々から助けてもらえたからに他ならない。

 出発の際には、親切な村人たちから携帯食や水を提供してもらい、道中で迷えばそこ行く人に道を教わり、雨に打たれれば民家の軒先を貸り、食料が尽きれば偶然出会った行商人に所持品と交換してもらう。こうしていくつもの優しさを分けてもらいながら、なんとか南皮に到着した今日は、村を出発してから十日目のこと。

 人の温かさに改めて感謝しながら一刀はゆっくりとその城門をくぐった。



***



「今更だけど、これ絶対日本じゃないや」


 城門から一直線に伸びる大通りは人に溢れ、活気あふれる町並みは漫画やテレビで見た後漢時代の光景と同じ。ここがもう現代とは微塵も思えない。まさに異国情緒。古代中国巡りそのものだ。

 しかもそれが模型やCGとして再現されたものではなく、生の息づく現実として広がっているのだから、心が興奮で弾むのも無理はない。一刀は人波に身を任せ、過ぎる景色をタイムトラベラー気分で堪能する。

 通りの両側には多種多様な店が並び、商店の前では婦人たちの声が躍り、鍛冶屋の前では鉄を打つ音が鳴り、酒屋の前で真昼間から酔っ払いの笑い声が歌い、賑やかな音色が思い思いに響きながら街の色を奏でている。

 どこか浅草の下町を思い出させる雑踏に、一刀の頬も自然と緩む。それは懐かしさを感じてというよりは、大勢の人がいるということへの漠然とした安堵感。おそらく現代の生活では知ることのなかった心情だろう。ここのまでの道のりで、街灯ひとつない深い闇の野宿を何度も味わったからこそ理解できる感情だ。テレビや新聞で現代人は他者との繋がりが希薄になったなんて話をよく耳にしたが、案外、こうしたことが理由の根幹なのかもしれない――などとまたも柄にもなく真面目なことを考えながら、一刀がふと足を止めたのはそんな時だった。

 

「へえ。こんな店まであるんだ」


 それは古びた小さな書店。店頭では白髪交じりで強面の店主が本を低い見せ棚に平積みし、薄暗い店内にも多くの書籍や巻物が棚にぎっしり詰め込まれている。この時代にこれだけの書店が存在していることを関心しながら、惹かれるように並べられたばかりのその書物を手に取る。

 一刀は思わず首を傾げた。


「阿蘇阿蘇?」


 その表紙はどこか現代の女性誌を思わせる作りをしており、そのまま中身を捲って見てみると、文章こそ漢文なので読めないが、それは紛れもなく女性誌。それもファッション誌の類いだった。


「う、嘘だろ……?」


 活版印刷どころか木版印刷の技術すらない時代にまさかの大衆誌。それもご丁寧に大量のイラストまでつき、かつ、これが店頭に積まれている分だけでも二十冊は超えているのだから何が一体どういうことなのか。まさかすべて手書きで仕上げているとでもいうのか。それとも実はこの時代から高度な印刷技術が存在していたのか。


「いや、そんなことはないはずなんだけど……」

 

 一刀はさらに首を捻り、混乱する頭で静かに本を閉じる。裏表紙に“月刊”の文字を発見した。


「ああ、なんだ。週刊じゃないんだ……なら、――って、なるかーいっ!!」


 ひとりノリツッコミで本をやや乱暴に棚へ戻すと、店主の睨みも何のその。慌てて往来を振り返り、過ぎた町並みをもう一度見回す。

 すると他にもあるある摩訶不思議。先ほどまでただの茶店だと思っていたそれはもうオープンカフェにしか見えず、服屋の一角にはブラジャーらしきものまで売られている。


「おいおいおい、なんだよこれ」


 さらに観察を続けると、どういうわけだか女性に関連するモノが所々で文明の水準から大きく逸脱し、何世代も先行していることに気がつく。

 確かに前々から、口語が日本語な点や英雄の女性化、服装や装飾品などの違和感は感じていた。細かい歴史の齟齬も確認していたし、ここが一刀の知る世界とは何かが根本的に違うということも感じていた。しかし、それがまさかこのような形で顕在化しようとは夢にも思わず、


「男、なんか頑張れよっ!?」


 往来のド真ん中、女尊男卑の進化形態を一刀は大声で嘆く。もっとも、こちらの住人にしてみれば、全身白光沢する珍しい格好の男が唐突に意味不明な大声をあげている状況だ。当然、周囲からは奇異の視線が向けられ、


「お母さん、あのお兄ちゃん何してるのー?」

「こら、見ちゃいけません」


 と慌てて子供の手を引く母親という定番の場面まで登場する始末に。

 南皮到着からわずか十五分。すっかり危ない人認定されてしまった一刀だが、しかし、彼の受難が真に始まるのはここからで。それは突然の出来事だった。

 ざわつく人垣を縫うように脇の路地から物凄い勢いで人が飛び出してくる。それも老人が――。


「邪魔じゃっ!」

「――!!」 


 不意をつかれながらも一刀は反射で避けようと体を捻る。が、運悪く動いた方向とタイミングは老人と同じ。よって二人は正面衝突。両者は弾け、尻餅をつく。ただ、幸いなことにどちらにも怪我はなさそうで、一刀はすぐさま立ち上がり老人へ手を差し伸べた。


「いつつ……だ、大丈夫ですか?」

「なぜ、ぶつかってくるんじゃ馬鹿者……」


 老人はブツブツと文句を漏らしながらもしかっり手を取り立ち上がる。それからお尻についた砂をパンパンとはたき落とすと、そこで何かを思い出したのだろう。急に、いかん! と血相を変え、身を潜めるように建物の陰へと滑り込む。


「……? あの、どうかしたんですか?」


 一刀がその答えを知るのは二秒後だった。

 路地から二度目の襲来が訪れた。

 

「おどきなさい!!」

「――!?」


 前蹴りだ。突如として真後ろから臀部にそれを食らった男は、ぬおっ、と不細工な悲鳴を上げながら受身もろくに取れずに顔面から地面へ飛び込む。

 その飛距離およそ五メートル。見事な吹っ飛ばされ方にいつしか人だかりになっていた周囲も、しーんと静まり返り、アゴをしこたま強打した一刀は足をバタつかせながら右へ左へともがき転がる。

 そこへ、コツコツと襲撃者は歩み寄り、

 

「どういう、つもりですのっ!!」

「――ほげっ!」


 見苦しいとばかりに一刀の背を踏みつけたのは、いかにも気の強そうな年若い女性だった。

 その姿は、上から下まで絢爛にあふれ、腰まで伸びるしなやかなで美しい長髪は鮮やかな金色で、身にまとう鎧もまた金色。腰の剣も金色なら、軍靴までも金色と、身体の随所に金、金、金。それもただ単に派手なだけではなく、各部に施された装飾や刺繍は素人目にも見事なもので、本人自身も鎧に覆われていながらもひと目で豊満だとわかる胸や、セットに相当時間がかかりそうな縦ロールヘアーなどが豪華さを演出するのに一役買う。

 まさにハリウッドセレブさながらの女性が、しかし、どういうわけか怒り心頭で一刀の背を何度もカカトで抉っていた。


「いいですの! わたくしの前に連なるのは王の道! その高貴なる王道をどこの馬の骨ともしれない下男が遮るだなんて許されるとお思いですの!! この!! この!!」

「ぎゃああああああああ!!」


 遮るも何もぶつかってきたのはそっちだろうと心底思うが、抗議をしている余裕はない。罵声と共に何度も何度も踏みつけられる。ほふく前進で懸命に脱出を試みても、彼女は執拗に同じ場所を狙って踏みつけてくる。かなり痛い。

 しばらくの間、一刀は押し寄せる理不尽な暴力にひたすら悲鳴を上げるのみだったが、

 ――い、いい加減にしろよ……!

 さすがに堪らない。相手が女性だからと遠慮していたがもう我慢できない。少々乱暴でも力づくで脱出しようと、次に足が振り上げられる瞬間をうかがう。

 だが、その機会は訪れず、


「っと、それどころではありませんでしたわ!」


 そう言うと、彼女はおもむろに足をどかし、それからこちらをギラリと睨みつけ、強い口調で言った。


「ちょっと、そこの無様に這いつくばっている下男! 下爺がどこへ逃げたか答えなさい」

「…………」


 聞きなれない単語だが、下爺とはおそらく先程ぶつかった不審な老人を指しているのだろう。

 ――なるほど、な。

 これでようやく一連の騒動が繋がった。怒りの様子から察するに、老人は何かをやらかして彼女に追われていたに違いない。そして逃亡中の彼と一刀はぶつかり、さらに遅れて追いかけてきた彼女に蹴り飛ばされたわけだ。

 ――要するに全部あのクソじじいのせいじゃねえか……!

 一刀は今すぐにでも老人を引き渡してやろうかと思ったが、しかし、散々すき放題してくれた彼女にほいほい協力するのはそれはそれで面白くない。

 ――どうしてくれようか。

 とりあえず一刀は立ち上がろうと両腕に力をこめる。が、その時だ。


「まったく、どこに行ったのですか! 絶対に逃がしませんわ!!」


 金は真紅のマントをひらりとなびかせ宙を舞う。そのままちょうど踏み台の高さになっていた一刀の背に、これ幸いと飛び乗った。


「――ごふうっ!?」


 きっと彼女ひとり分の重さなら大したことはなかっただろう。が、今はしっかり武装していた分の重量と、不意をつかれたことにより、踏み台は一瞬で崩壊。再びアゴを地面に強打した男は悶絶する。

 一方、高さが足りなくなったせいか背中の彼女は、


「あら?」


 と一瞬、不服そうな顔をしてからその場でまたもピョンと跳ねる。その跳躍力は実に大したもので、とても不安定な足場で武具一式をまとう女性のものとは思えない高さ。つまり、下敷きの男には踏み切り時と着地時に大打撃となるわけで。


「――――」


 通りには一刀の断末魔が一定の周期で刻まれることになった。


「いつまで隠れているつもりです、のっ!」

「ぎゃああああああああ」

「どこに逃げようと必ず見つけ出します、わっ!」

「ぎゃああああああああ」

「わたくしから逃げおおせると思いです、のっ!」

「ぎゃああああああああ」

「いい加減観念な、さいっ!」

「ぎゃああああああああ」


 これには周囲の野次馬たちも同情を禁じ得なかったのだろう。どんどん囲いが遠巻きになりながらもその視線には応援めいた何かを感じる。

 ――だ、誰か助けて!!

 ただ、誰も声をあげようとする者はいない。巻き込まれたくはないのだろう。


「ですよね――って、ぎゃああああああああ!!」


 こうして衆人環視の中、無慈悲な跳躍が行われること二十数回。深刻なダメージで一刀の意識が飛びかけるまでそれは続き、彼女が動きを止めたのは通りの向こうから二人の女性が駆け寄ってきたのが契機だった。


麗羽(れいは)さまぁ~」「さまー」

「あら、斗詩(とし)猪々子(いいしぇ)じゃありませんの。どうしましたの? 二人してそんなに息を切らして」


 やってきた二人組みは背中の女性と同じく金の鎧を身に着けている。今のやりとりも加味すると主従の関係にあるのだろう。

 ぼろぼろになりながらも、空ろな一刀が冷静にそんなことを考えていると、先に息が落ち着いた水色髪の女性がこちらに一歩近づく。


「どうしましたの? じゃないっすよー麗羽さま! こんなところで遊んでないでそろそろ出発しないと不味いですって」

「嫌ですわ。出発なんて少しくらい遅らせればいいではありませんか? それよりも猪々子、今はあの下爺を締上げないとわたくしの気がおさまりせんわ! そちらの方が一大事でしょう!」

「はいはい。いいから城に戻りますよ」


 そこで猪々子と呼ばれた彼女は何故かチラリとこちらを見つめ、小さく会釈。


「失礼しまーす」


 そのまま迷いなく踏みしめた。一刀の背を――。


「~~~~~~~っ!!」


 まるでよそ様の家にお邪魔するかのように畏まって上がり込んだ彼女だったが、主の腕を掴むと一変し、


「ほら、駄々こねてないで早く帰りますよ麗羽さま!」

「こ、こら! 放しなさい猪々子! 帰らないと言っているでしょう!」

「ダメです! みんな待ってるんっすからね! それにいつまでも麗羽さまがここにいたら下の人も迷惑っしょ!」

「そんなことありませんわ! この下男もきっとわたくしに踏まれて涙を流して喜んでいるはずです!」

「喜んでないっすから。見てくださいよあれ。涙どころか苦痛で顔を歪ませて涎までだらだらって……うわーきったね」

「……たしかに醜いですわね」

「でしょう? だからほら、帰りますよ!」

「嫌ですわ!」


 と、まさかの引っ張り合いが始まった。

 両者は本気だ。どちらも負けじと目一杯踏ん張り、一刀の背中は踏みにじられる。先ほどまでとはまた違う痛みだ。とにかく痛い。ただただ苦しい。本気で泣きたい。

 ――し、死ぬ……! 

 そうしてしばらく一進一退の攻防が背中の上で繰り広げられ、ようやく従者が主を力任せに引きずる頃には、もはやぴくりとも動かない男の残骸が無残に転がっていた。

 遠ざかっていく元凶をにじむ視界で眺めながら残骸は思う。

 ――なんで……、背中の、上で……やったの?

 その疑問に答えるかのように、成り行きを袖で終始見守っていたもうひとりの女性が、一刀の顔の前ですっと膝を畳んだ。


「あのぉ麗羽さまと文ちゃんがご迷惑おかけしました。二人とも悪気があったわけじゃないんです。なんていうか、その、きっとお兄さんの踏み心地がよかったというか、踏みやすかったというか、踏んでも別にいっかっていうか……。えっと、とにかくごめんなさい!」


 群青色のおかっぱ頭が屈んだままぺこり。可愛らしく一礼すると足早に去っていく。

 男は軋む体で必死に腕を伸ばし、最後の力を振り絞って涙ながらに訴えた。


「今のが一番傷ついたんだけど……!」


 伸ばした手がついにぱたりと倒れると、周囲からは、よく頑張った! 泣くなあんちゃん! と不思議な歓声が湧き起こる。

 一刀は余計に悲しくなるだけだった。



***


 

「ふぅ……なんとかなったの」

「なってねえよ! このクソジジイ!!」


 騒動からしばらく。物陰からひょいと姿を現した老人に対する恨みは強い。事情は不明だが、まんまと災厄を肩代わりさせられた一刀の視線は、それはそれは厳しいものだった。

 だが、老人の方はまったく気にも留めない様子で、ようやく立ち上がることの出来た一刀の背についた砂埃をぱっぱと払い落としながら、


「そう目くじらを立てるでない。これでも悪いと思っておるんじゃ」

「だったらまず謝罪なり感謝なりの言葉を聞かせろよ」

「ご苦労じゃった」

「……わかった。喧嘩うってるんだな? そうだな? ああ!?」


 やはり、碌な老人じゃない。そう理解した男が一層凄んで見せると、まあまあ、と老人は気安くその肩を叩き、


「それよりおぬし、随分とおかしな格好をしておるのう」

「……よく言われる」


 化学繊維が登場するのはまだまだ先の時代のことだ。見た目的にも手触り的にも未来素材のポリエステル製の制服はこれまでも多くの関心を集めた。おかげで高貴な身分だと勘違いされることもしばしば。老人も例に漏れず物珍しそうにこちらをしげしげと眺めている。


「…………」


 頬のこけた皺だらけの顔に、白髪と白髭。背丈は一刀の目元くらいまで。人相こそまったく似ていないが、現世にひとり残してきてしまった肉親の面影を自然と重ねてしまう。

 ――じいちゃんどうしてるんだろう……。

 幼くして両親を亡くした一刀にとって、育ての親とは祖父だった。その祖父に何も告げることなく、彼は今、異世界にいる。

 ――向こうではやっぱ行方不明扱いになってるのかな俺。

 あるいは存在そのものがなかったことになっているのかもしれない。いずれにしろ、祖父に余計な心配をかけていなければいいな、と一刀は先ほどまでの苛立ちもすっかり忘れて思いを馳せる。

 目の前の老人も急にそのふてぶてしい表情を変えた。

 


「……そ、それは!!」


 その視線は腰に挿す白銀の剣へと向いている。

 老人は少し震える手つきでゆっくり腕を伸ばしながら、


「……その剣、手にとって見せてもらえんかの?」

「? まあ、いいけど……」


 鞘も抜けぬ拾い物の剣だ。一応護身用にと捨てずにいたが、もし盗まれたとしてもさほど問題ない。

 一刀は何も警戒することなく剣を手渡し、受け取った老人はやはり震える手で表面に施された装飾のひとつひとつに指をなぞらせ、両面隈なく丁寧に探る。その目は念願の宝物を見るかのように熱く、ひとしきり観察し終えるとその熱視線はこちらへ向いた。


「おぬし、名はなんと言う?」

「北郷一刀だけど」

「北郷……、一刀……」


 意味深長な呟きに、一刀はこの剣について何か知っているのかと尋ねるが、老人は首を横に振りながら剣を返した。


「いや、以前に似たものを見たことがあってのう。それは大層な値で取引されておったからまさかと思ったんじゃが、これは別物じゃな」

「そりゃそうでしょ。山の中に転がってたんだよこれ? しかも……ほら。どんだけ引っ張っても鞘から抜けもしないし」

「山じゃと……?」


 うん、と一刀は頷き、


「なんだっけ、五台山だったかな? そこに落ちてたいうか、いつの間にかあったっていうか、一緒にいたっていうか」

「……ということは、おぬしはここに住んでおるわけではないのだな?」

「違う違う。俺は人を訪ねて平原に向かう途中なんだ。管輅っていう占い師なんだけど、じいさん知らない?」

「っ……、さてな」

「?」


 一瞬、おかしな間があった。

 しかし、一刀がそれを咎める前に、老人は先出しするかのように言う。


「その何某という人探しの力にはなってやれんが――、それより、平原まではまだまだ長旅じゃ。おぬし路銀の方は大丈夫なのか?」

「あはは……。いや、それが南皮にくるだけですっからかんでさー。だからとりあえずバイト――じゃなくて、働かせてもらえることないかなって」

「なるほどのう」


 妙に落ち着いてそう言うと、老人は深く一度頷き、


「なら、ワシについてこい」

「え?」

「言ったじゃろう? これでも悪いと思っておると。おぬし、今の話じゃまともに飯も食っておらんのじゃろう? 先ほどの礼代わりと言ってはなんじゃが、いい店につれていってやるわい」

「――ま、まじでか!!!!」

「ああ、まじじゃ。ほれ、ワシも腹が減ってきた。早くいくぞ」

「はい! おじいさまどこまでも!!」


 ここ数日、水と携帯食しか口にしていなかった男は一気に色めき立ち、喜んで老人の後を追った。



***



 大通りをしばらく北へ進み、路地を二回曲がった先。老人が案内してくれたのはこじんまりとした飯店だった。

 第一印象を率直に言うのなら、ひとりなら怖くて絶対に入れない小汚い店。しかし、それでも味は確かなのだろう。店内を覗いてみれば全部で十五席ほどの客席はほぼ埋まっていて、小太りの中年店主がひとり忙しく切り盛りしている。言うなれば、隠れた名店といったところか。

 唯一空いていた二人掛けの席に二人は座ると、老人がさっそく注文をはじめ、待つことしばらく。卓上には十品以上の中華料理が所狭しとずらりと並んだ。


「さあ、遠慮は無用じゃ。好きなだけ食べるがよい」

「あ、あなたが神か!」


 漂う香りにごくりと生唾を飲み、いただきます! と一刀はすぐさま料理にがっつく。行儀が悪いとわかっていながらも一番近くにあった鶏肉と野菜の餡かけを大皿ごと手元へ引き寄せ、そのまま一心不乱に頬張り、胃袋へ流し込む。


「っ――」


 それは至福の時だった。

 甘酸っぱい餡も、鶏肉の肉汁も、口の中が大やけどするほど熱かったがまったく気にならない。美味しいものを食べて食欲を満たすという行動が涙がでるほど嬉しかった。もう箸が止められない。

 卵スープも、ジャガイモの炒めものも、蒸した白身魚も、全部がうまい。一刀は息つく暇なく次々と口の中へとかき込んだ。


「くぅーっ、これすっごいうまいよ、じいさん!」

「ほうかほうか。気に入ってもらえてなによりじゃ」

 

 その食べっぷりに老人も満足したのだろう。一刀の食べ方を諌めることもなく、他の皿へと手を伸ばす。あれだけあった料理が次々に消えていく。箸や食器がたてる音は断続的で、二人の表情は明るい。

 食事は特にこれといった会話もないながらも賑やかに続き、ようやくその手が止まり始め、粗方の料理を食べつくした頃だ。

 老人は静かに椅子を引く。もう満腹だと腹を撫でながら席を立つと、


「さてワシはまだ少し用事があるでのう。先にお暇させてもらおうか」

「あっ、なら俺も――」

 

 一刀も慌てて続こうとするが、老人はそれをすかさず手で制し、


「よいよい。おぬしはもう少しゆっくりとしていくがいい」

「い、いいの?」


 うむ、と微笑む好々爺の顔を、一刀は一生忘れないだろう。色んな意味で。

 席を離れる老人が入り口付近で店主と短いやり取りするのを見守り、いよいよ店から去る際には立ち上がって改めて一礼。


「じいさん、ありがとう!」

「かっかっか、気にするでない。それじゃあのう」


 それから十五分後。

 全ての料理を綺麗に平らげた男がいただきましたと手を合わせて席を立つ。満腹感に浸り、満面の笑みで店を後にする。

 それが悲劇の始まりだった。

 

「ちょっとお客さん、お代お代!」

「えっ? は、はい?」


 半歩だけ店外に踏み出したところで、背後から急な呼び止め。驚きはしたものの、この時の一刀は何かの勘違いだろうくらいにしかまだ思っていなかった。まさか老人に騙されていただなんて考えもしないし、その認識もまったくない。

 ゆえに楽天的にこう答える。


「いや、えっと、お代ならさっき先に帰った老人が払ってくれたと思うんですが? ほら、さっき話してた白髪のじいさんの」


 だが、現実は無情。店主の表情が一瞬だけ怪訝な顔つきに変わり、


「あはは、冗談はよしてくださいな。その爺さんなら、お代はおたくが払うからと言って帰りましたよ」

「――あっの、クソジジィイイイッッ!!」


 嵌められたと気づいた時には何もかもが遅かった。

 なにせ既にクソジジイはおらず、一刀にはびた一文もないのだ。脳裏をよぎるのは無銭飲食の四文字だけ――。


「…………」


 みるみるうちに顔面を大量の汗が伝うが、今頃になってピリ辛の香辛料が効いてきたのだろうか。

 ――いいえ。ただの冷や汗でしたああああ!!

 その様子でこちらに代金の支払い能力がないことを店主は察したのだろう。一刀はむんずと乱暴に襟首を掴まれ、


「おい兄ちゃん。ちょっと奥で話そうか?」

「――ち、違うんです! これにはその事情がっ! とりあえず話を聞いてください!!」

「わかった。わかった。いくらでも聞いてやる。だから大人しく奥、いこうな?」


 嘘だ。間違いなく店主に聞く耳はない。どうしてくれようかと目を血走らせながら、力ずくで店の奥へとズリズリ引きずっていく。

 非常にまずい状況だ。このまま連れていかれたらどんな目に遭うかわかったものじゃない。しかし、そうとわかっていても一刀はなす術なく奥へ奥へと引きずられ、そしてついに二人の姿が厨房へと消えると、


「……え? あ、あの包丁はまずいんじゃ? いや包丁はだって、包丁――ぎゃぁアアアアアアアアアアアアアア!!」


 響く悲鳴。何があったかは敢えて語るまい。

 しばらくすると店の厨房には黙々と洗い物をこなす男がいた。


「……あのじじい次見たら、殺す。絶対殺す。あ、くそ、名前聞いとけばよかった」

「――なぁにブツクサ言ってやがる! 口動かす暇があったら少しでも手動かしやがれっ!!」

「はい! 喜んで!」


 こうして一刀は人生は初の無銭飲食とアルバイトを経験することになったのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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