第2話 予言、相容れず
夢を見た。
とても恐ろしい夢を。人がたくさん死ぬ夢を。それはたったひとりの鬼人が、次々に人を斬り殺していく夢だった。
鬼人は圧倒的に強い。誰も彼女からは逃げられない。すべてを斬るまで止まらない。
しかし、笑う鬼人は誰よりも美しかった――。
***
「このお兄ちゃん、まぁだ寝てるのだ」
まどろむ意識の中で、一刀は声を聞いた気がした。幼い女の子の声だ。
「ダ、ダメだよ鈴々ちゃん、そんなことしちゃ!」
それから別の優しそうな女性の声と、頬を突かれるような感触を覚え、というか、とんでもなく強力な指圧に横顔が押し潰されている気がして、
「にゃはははは、すごいのだ! お兄ちゃんのほっぺ柔らかいのだ!」
「――ちょっと首ぃ! お兄さんの首がすっごく捻じれてるから! ほっぺたの問題じゃないよ鈴々ちゃん! 大丈夫なのそれ!?」
いや。正直、全然大丈夫じゃない気がする。首の骨がミシミシと悲鳴をあげている気がする。というか、もう痛い。完全に痛い。もげる。死ぬ。
急速に覚醒する意識の中で、一刀は思った。こんな悪戯をするのは世界にひとりしかいないと。なおも強まる指圧にやるしかないと心に決め、
「もうダメだよ鈴々ちゃん! めっ! これ以上やったらお兄さんの頭捻りとれちゃうよ」
そして、それは完璧かつ最悪のタイミングだった。
「――朝っぱからいい度胸だ! 覚悟はできてるだろうな! 及川!」
「――ふえっ!?」
一刀はその腕をつかんでベッドの上に引きずり混むと、同時に二人の上下を入れ替え、マウントポジションを確保。
「さぁて、この落とし前、どうやって――」
しかし、組み敷いたその身体はいつもより柔らかな丸みを帯びていて、何故かとってもいい香りがする。ついでに、いつの間にか左手で鷲掴んでいた何かからすごく幸せな感触が伝わって――そこにはどういうわけか、悪友とは似ても似つかない美少女がいた。
「え……?」
目元の優しい鮮やかな青い瞳がこちらを不思議そうに見上げ、長い桃色の髪がはらりと揺れる。
心臓がドキリと跳ね、体温が一気に二度程上がった気がするが、これは決して甘酸っぱいトキメキではない。とりあえず、一刀はたわわに実った果実にがっつり食い込んでいる左手をゆっくり離し、
「あ、あの……これはその、えっと、手違いというか人違いというかですね!」
とんでもなく不味い状況だが、きっとまだなんとかなる。そう信じつつ、ごくりと息を飲んだ。
「…………」
見つめ合う二人。女性は呆然とパチクリパチクリの瞬き運動を繰り返し、一刀は次の言葉が見つからず生唾を飲むばかり。
そんな何とも言えない無言の時がきっかり十秒流れ、
「き……」
「き?」
それは唐突に弾けた。
「きゃあああああああああ~~~~~~ッ!!」
「うわあああああああああ――――――ッ!!」
見事な金切り声に動揺した一刀も一緒になって大叫び。ベッドの上では年頃の男女が重なったまま、わーわー、きゃーきゃーという不思議な構図が出来上がる。
さらにその下では、赤毛の少女が、
「お、お姉ちゃんが襲われたのだ!! おっぱいモミモミなのだ!!」
と、実に的確な表現で便乗し、部屋は上を下への大騒ぎに発展。
――何なんだよこれ!?
目が覚めてからものの数分でこの有様だ。状況把握などできるわけがない。
ただ、故意ではないにしろ、やってしまった痴漢行為に対する後ろめたさは多分にある。一刀は真摯に平謝りを繰り返し、
「ごめんなさい! ほ、本当に、わざとじゃなくて、あの、こんな事するつもりは全然なくて、その、ごめんなさい!」
「――わかりましたから、早くどいてくださぃ!」
が、そこへ無常にも新たな訪問者が現れた。
「まったく。桃香さままで一緒になって何を騒いでおられ――」
呆れ顔で登場した新たな女性は室内の様子を見た途端、ぴたりと固まる。
無理もない。一見すれば、友人が暴漢に襲われている状況だ。そりゃ固まりもするだろう。しかし、この時、固まったのは彼女だけではなく、
――え……? この人って……。
そう。一刀も同じだった。なぜなら、その顔は夢に見たあの鬼人と瓜二つで、
「――き、ききき、貴様っ! 桃香さまになんと破廉恥な! そこに直れえええ!!」
「ふぇえ!? あ、愛紗ちゃん違うの――!」
間違いない。鬼の形相で飛び掛ってくるその姿はまさに夢で見たそれと一致する。夢の彼女はそのまま舞う様に何人もの人間をばったばったと切り伏せていた。ということはつまり、このままでは一刀は……。
――こっ、殺される!?
しかし、間一髪。寸前のところで桃香と呼ばれた女性が、怯える男を庇うように立ち塞がり、
「落ちついて愛紗ちゃんっ! 違うの! 誤解なの! お兄さんは悪くないの!」
「大丈夫です桃香さま! ええ、わかっていますとも! すべて私にお任せください! 必ずや桃香さまの受けた恥辱を晴らしてみせます!!」
「全然わかってないよそれ!?」
鬼人は聞く耳をまるでもたない。必死に宥めようとする女性の言葉を一切無視して、肩越しの眼光はこちらを射殺す勢いの鋭いさだ。やはりこのままでは――、
「にゃははははは! お兄ちゃん顔真っ青なのだ!!」
「もう! 笑ってないで鈴々ちゃんも愛紗ちゃん止めるの手伝ってよぉっ!」
そして、とうとうその時は訪れた。
「うわああああああ!! 悪霊たいさあああああああああああああん!!」
「「「――!?」」」
突然の大音量に何事かと飛び上がる女性陣を尻目に、一刀はベッドの隅で頭から布団をかぶり、ブルブルと激しく震え、ついには念仏まで唱え始め……。
話せるまでに落ちつくのは、それなりの時間を要した。
***
男は部屋の中央で土下座していた。
少女の悪戯を悪友の仕業と勘違いし、誤って別の女性を押し倒してしまったこと。それから命を助けられたことも全て夢の出来事と寝ぼけた挙句、夢から鬼人が襲来したと錯乱したこと。それらの事情を説明して、一刀は頭を深くさげていた。
「色々すいませんでした……ホントすいませんでした」
「もういいですから。頭を上げてください、お兄さん」
「でも……」
伏せた顔から上目で覗けば、仁王立ちの鬼人は視線が重なる直前でプイとそっぽを向く。命の恩人にあれだけ失礼な態度をとってしまったのだ。その機嫌はそう簡単に戻りそうもない。
一刀が力なく床に額をつくと、見かねた桃色の女性が言った。
「愛紗ちゃん。お兄さんもこれだけ謝ってくれてるんだから、許してあげようよ。ね?」
「……桃香さまがそこまでおっしゃるなら、わかりました。まさか命を救った者に鬼呼ばわりされるとは思いもしませんでしたが、わかりました。悪霊は退散することにしましょう、わかりました」
「もう」
明らかに不服丸出しな口ぶりだが、彼女もこれ以上の説得は無理だと諦めたのだろう。気分を切り替えるようにパチリと手を打ち、
「よし! それじゃ、立って立ってお兄さん。みんなで夕飯にしよう!」
「夕飯……?」
「そうだよ。村の人がね、せめてものお礼にって用意してくれたの。それでお兄さんも一緒にどうかな~って様子を見にきたら……あんなことになっちゃって、えへへ」
「……そうだったんだ」
「そうなのだ! だから早くご飯なのだ!」
満面の笑みを浮かべて喜ぶ赤毛の少女を見つめつつ、一刀は今になって様々なズレを自覚していた。
自分はどれだけの時間気を失なっていたのか。今はいつなのか。ここはどこなのか。己の置かれている状況をようやく冷静に振り返り、
――夢じゃないんだよ。全部……。
目が覚めれば、そこは見慣れぬ山の中だったことも。男が槍で突き殺される瞬間を目撃したことも。自身も命を失う寸前だったことも。そして、窮地から救ってくれた女性は数十人の山賊を切り殺したことも。それらの我が身に起きた一連の出来事はすべて現実だったことを再認識させられる。
「どうしたのお兄さん? ひょっとしてまだ具合が悪い?」
「……いや、大丈夫。ありがとう」
いつまでも立ち上がらなかったせいだろう。桃色の彼女がこちらを心配そうに覗き込む。が、冷静になって考えれば、彼女の存在も違和感の塊だ。
一刀はゆっくり立ち上がりながらその容姿を眺める。
まず彼女が身に纏っている服装はどうみても一般的ではない。一言で表すならコスプレ。某無双ゲームのキャラクターを連想させる格好をしている。とても日常生活でお目にかかるような代物ではない。さらにそれは彼女だけに限った話ではなく、残り二人についても同様だ。
「もう早く行くのだ! お腹ぺこぺこなのだ!」
「そう急かすな鈴々。行儀が悪いぞ。食事は逃げたりしない」
「でもでも、誰かが先に全部食べちゃうかもしれないのだ!」
「安心しろ。私はそんな食い意地のはった者を鈴々以外に知らない」
「鈴々はそんなことしないのだ!」
「はいはい、二人とも。喧嘩してないでいきますよー」
この三人組は一体、何者なのだろうか。山賊から村人を救った行動力と手際を考えれば、通りすがりのただの通行人というわけではないだろう。
疑問は他にもある。というより、全方位でわけがわからない。
彼女たちの案内に従い、部屋を移動する最中に目にした景色ひとつとってみてもそうだ。
窓外の光景には恐ろしいことに街灯どころか信号機や電柱の一本も見当たらない。電柱がないのだから電線もあるわけがなく、この地区が電線地中化政策でも推進していない限り、電話やネット回線が開通しているとは思えない。
ここにはアスファルトの舗装もなければ、コンクリートの建築物すらなく、西日のオレンジが染めるのは木造の古びた民家の群れと、痩せた野畑と、でこぼこの畦道と、広大な山肌だけ。まるで現代科学から置き去りされたかのようなこの土地は一体全体、どこの秘境なのかと頭を抱えそうになるくらいだった。
「さあ、お兄さんも座って座って」
「え、あ、うん」
思案のまま、いつの間にか目的地に到着していた一刀は、言われるがままにぐつぐつと煮える大鍋を囲むと、お椀に取り分けられたそれへ箸をつける前に、まずそのことを尋ねた。
「あのさ……ここってどこなの?」
唐突な質問に、一瞬驚いた黒髪の彼女が憮然と答えてくれる。
「ここは幽州啄群、五台山の麓だが、それがどうかしたか?」
「はい?」
ところが、一刀は耳にした言葉がまったく理解できず、
――れいしゅう? ごだいさん? そんな地名聞いたことないぞ……?
質問を続けた。
「えっと、じゃあ、何県なのかなここ?」
「啄県だよ、お兄さん」
「……たく、県?」
呟きと同時に、一刀の思考は停止した。啄県なんて県は日本の47都道府県の中には存在しない。彼女たちが何を言ってるかが真剣にわからないし、何故こんなくだらない嘘をつくのか心底、理解できない。何より、桃色の彼女が少し嬉しそうなことが不思議でしょうがなくて呆気にとられていると、
「じゃあね、今度はこっちから質問です。お兄さんのお名前は?」
「え? あ、……ああ。俺の名前は、北郷一刀だけど……」
「私は劉玄徳です。よろしくね」「鈴々は張飛なのだ!」「……関雲長と申します」
さすがに一刀の表情が引きつった。
わけのわからない地名を言い出したかと思えば、今度は自己紹介が三国志の武将をきたもんだ。桃色の彼女が劉備で、赤毛の少女が張飛。そして黒髪の恩人が関羽? 馬鹿馬鹿しい。まともに答える気がないにしたって悪ふざけの度を越している。だいたい先程から何度も桃香だ鈴々だ愛紗だと互いを呼び合っているのに、今更、何のつもりなのか。
すると一刀の憤りを他所に、劉備と名乗った彼女が勇んで手を挙げた。
「はいはい、じゃあ次の質問! お兄さんはどこから来たの?」
「――ちょ、ちょっと待って!」
笑えない冗談にいつまでも付き合っていられるほど、暢気な状況ではないのだ。命こそ救われはしたが、誰かと連絡を取るどころか、依然として現在地すら掴めないままで、何ひとつとして進展してない。イラだちこそ飲み込んだが、一刀は少しきつい口調で問い質す。
「あの、ちゃんと答えてくれないかな? ここがどこか、君たちの名前を」
だが――、
「は? だからここは幽州啄群で、我らの名もきちんと名乗ったではないか」
「なっ……」
「あ、わかったのだ! お兄ちゃんはおバカさんなのだ!」
「こらー、鈴々ちゃん。そーゆーこと言っちゃダメでしょー? あとお肉ばっかりじゃなくてちゃんとお野菜も食べてー」
その瞬間。和気藹々と食事を楽しむ彼女たちとは対照的に、一刀は背筋に薄ら寒いものを感じていた。
――まさか、彼女たちは嘘をついてない……?
ふざけた偽名は別にしても、一刀だって薄々は気づいていたのだ。これまでに起きた非日常が日本国内で起きるはずがない。それどころか、もしかしたらここは一刀の知る平和な世界ではないのかもしれない、と。しかし、それでもその馬鹿げた可能性を考えないようにしていたのは、発想自体があまりにも荒唐無稽で、理性が許容を受け付けないからに他ならない。
誰だってそうだろう。寝ている間に別世界に迷い込んでいてなんて話を誰がすんなり受け入れられようか。いくらなんでも飛躍が過ぎる。
――そうだよ。そんことあるわけが……。
一刀は動揺をごまかす様に、すっかり冷めてしまった椀のごった煮をかきこんだ。
「う――」
だが、ほぼ丸一日ぶりの食事にもかかわらず、それは咽そうになるほど不味かった。
――な、なんだよこれっ。
何の肉かは知らないが、硬い上にひどく獣臭い。萎びた葉物も微妙な苦味を感じるだけで、汁も味がやたら薄い。
口にした様々な不快感が、改めて囁く。ここは違う、と――。
「っ」
一刀は残りをがっと一気に喉へ流し込み、覚悟を決めるように言った。
「あの、質問してもいいかな?」
「なになにお兄さん! なんでも聞いて」
本当にどうして自称劉備の彼女はこんなにも楽しそうなのか。ともかく、
「ここは、その、とりあえず東京じゃないんだよね? あ、できれば劉備さんにじゃなくて、関羽さんに答えて欲しいんだけど――」
「「!!」」
しかし途端だ。三人は一斉に顔色を変え、場の空気が一変する。
三つの視線が鋭く刺さり、瞬時に席を立った関羽は偃月刀を手にとり、その警戒心を乗せた切っ先が一刀の喉元に突きつけられていた。
「――ちょっ、え!?」
「貴様、なぜ私と桃香さまの名を知っている?」
「名前って、いや、だって……」
自分で先ほどそう名乗ったはず。一刀にしてみれば、ふざけた設定に敢えて従っただけなのだから、質問の意図がわからない。
何が彼女の機嫌をこうまで損ねたのか。
無意識で助けを求める視線を劉備へ向けると、彼女は偃月刀を下げるように制しながら言った。
「あのね、私は劉玄徳。愛紗ちゃんは関雲長としか名乗ってないよ? なのにどうしてお兄さんは私たちの“名”を知ってるの?」
「あ……」
つまり、“劉”は姓、“玄徳”は字。名乗っていない“備”の名を見ず知らずの男に突然呼ばれ警戒したと、理屈はそういうことらしい。確かに初対面の男にいきなり名前を言い当てられれば、さぞかし気色が悪いだろう。警戒するのも頷ける。ただし、それはあくまで一般人の話であって、あの関雲長と言われれば、少し歴史に興味がある者なら誰だって関羽と認識するはずだ。にもかかわらず、彼女から感じる威圧にはとても冗談が隠されているようには見えず、この肌がひりつく感覚は剣道の試合中に覚えた剣気と同質のものに思え、
「北郷と言ったか? 初めからおかしな格好をした妙な男だとは思っていたが、貴様何者だ? それに、先ほど我らに問うた、とうきょうとはなんだ?」
「――――」
仮にだ。仮にすべてが嘘だったとしよう。彼女たちの名も、地名も丸ごと全部ドッキリ的な何かだと仮定する。
だとすると、その目的はなんなのか。一刀を騙してどうしたいのか。笑い者にする以外何の意味もないはずだ。なら彼女たちは今、内心ほくそ笑んでいると? 詰め寄る彼女の一挙一動、それはこちらを驚かすための演技だと?
――違う。これは何もかも、本当のことなんだ。
ゆえに、ここは少なくとも日本にあらず。導き出された結論に気が遠くなるが、しかし、放心よりも先に新たな疑問が浮んできた。
――じゃ、じゃあ、俺はどうやってここに来たんだよ?
一夜にして国外へ。羽田からこっそり飛行機に乗せられ、さらに山奥まで運ばれたとでも言うのだろうか? それこそ何の目的で? 誰が? だいたい彼女たちは日本語をしゃべっている。なら日本語が通じながらも東京を知らない国外とはどこなのか。さらに言うなら、
――もし、彼女たちが偽名でも単なる同姓同名でもなくて、本当にあの劉備、関羽、張飛と関係があるとするなら……。
再びもたげた恐ろしい可能性。一刀は後頭部を乱暴に掻き毟った。
しかし、そんな葛藤も、関羽には不審な男が言い逃れの言葉を考え込んでいるようにしか見えないのだろう。
「ええい、何を黙っている! こちらの質問に答えないか!」
痺れを切らした偃月刀が再び喉元に突きつけられると、思考の淵から引き戻された一刀が短い悲鳴と共に諸手を挙げ、そして、またも間に立つのは劉備だった。
「待って愛紗ちゃん」
彼女は皆に一度席に着くように促すと、優しい口調でこう続ける。
「ねえ、お兄さんはどこから来たの?」
鬼人の怒気とは打って変わって、場は長閑で優しい雰囲気に包まれる。ふり幅の大きさには戸惑いもあるが、どちらが好ましいかと問われれば断然こちらだ。これまでも再三再四に渡って、彼女の大らかさには救われている。ただ、今回に限ってはその質問にもどう答えればいいがかわからなかった。
なにせ、素直に本籍地を言ったところで通じるはずがないのだ。それどころかきっと、なんだそれは! と偃月刀を突きつけられるのがオチだろう。
――どうすりゃいいんだよ……。
窮した一刀は、とりあえず苦し紛れの想いを口にしてみる。
「……わかりません」
が――、
「――なんだそれは!」
「ヒィイイイ!?」
結局は偃月刀を豪快に突きつけられ、劉備が慌てて関羽を押しのけ遠ざけた。さながら躾のなっていない犬を、無理やりにでも引き剥がすように、ぐいぐいと。
「と、桃香さま? あのこれは」
「い、い、か、ら! ここは私に任せて。ね?」
ここまで言われれば、さすがに彼女も引き下がるしかなかったらしい。それでも警戒心だけは解くつもりがないぞと言わんばかりに、後方からガルルとこちらを睨む姿は、主人思いというか、諦めが悪いというか、執念深いというか。
ともあれ、そんな健気な抵抗を知ってか知らでか、劉備は後ろ手に、迷子の子供を相手にするような柔らかな微笑みを浮かべ、
「もう一度聞くね? 大丈夫だから。正直に答えて。お兄さんはどこから来たの?」
「…………」
なるほど。おそらく、これが忠犬の守りたいモノなのだろう。心を瞬時に包み込む暖かさ。母性にも似た安らぎ。彼女の人の好さをありありと映す柔和な瞳。これは尊かろう。
――正直に答えて、か。
ふっ、と短い息を吐くと、一刀はもうぐだぐだと思い悩むのを止めて、ありのままを伝えることにした。
「俺は……、日本という国の東京都台東区浅草ってところから来たんだ」
「……??」
予想通りの反応は苦笑を誘う。わかってはいたことだが、これで完全に望みは断たれた。ここは日本ではない。確定だ。
――ははは……マジかよ。つか、こっからどう説明すればいいんだよ。
不審者ポジションは返上できていないまま。我が身に起こった事とはいえ、とっくに理解の範疇を超えている現象をどう話せば彼女たちに納得してもらえるのか。半ば自暴自棄で、もう面倒くさいとすら思い始めた頃、しかし、一刀はとても不思議な光景を目にした。
しばらくポカンとこちらを眺めていた劉備がハッと正気を取り戻し、
「うわあ、うわああああ~♪ やっぱりそうなんだ~♪」
「……え?」
何故かその瞳をランランと輝かせ、明らかに何らかの期待感を膨らませている。それも、あたかもこうなることを予期していたかのように。
「ならなら! お兄さんはどうやってここに来たの?」
「どうやってって、それはこっちが聞きたいくらいで……。えっと、本当にわからないんだ。何でか知らないけど目が覚めたら山の中にいてさ、それで――」
「山ー! きゃ~♪」
今の会話のどこにテンションを上げる要素があったのだろうか。
――それも食い気味で、山って……。
彼女の言動には不可解さしかない。しかも、他の二人にしてもそうだ。張飛はすっかり話半分で鍋の残りをさらい始めているし、あれだけ警戒心を露にしていた関羽も既に緊張を解いている。
――なんで……?
何が彼女たちの判断材料となっているのか。何より、
「じゃあじゃあ、どうして私と愛紗ちゃんの名を知っていたの?」
「それは……」
何故、彼女は終始こんなにも嬉々としているのだろうか。というより、どうしてこんなデタラメな会話が歪ながらも成立しているのだろうか。
普通、わけのわからない事ばかりを口にする不審な男の言葉を真に受ける者はいないだろう。それも初対面で名乗ってもいない名を知られていればストーカーを疑うくらいが女性としての一般的な対応だろう。だというのに、彼女の反応ときたらその真逆。むしろ、そのわけのわからない部分に強く惹かれている傾向すらある。
――だったら……。
一刀はほとんど答えが出つつある最大の疑問に確証を得るためにも、思い切ってその期待に応えてみることにした。
「……俺が知っているのは劉備さんと関羽さんの名だけじゃないよ。あの子は張飛、翼徳ちゃんだよね?」
「にゃにゃ! どうして鈴々の字を知ってるのだ!?」
「それから、君たちが桃園の誓いで義兄……いや、義姉妹の契りを結んでいることも知ってる」
「「――!!!」」
三者三様に驚くその姿を見て、ついに一刀は確信せざるを得なかった。
「どうして!?」「なんでなのだ!?」「なぜだ!?」
一斉に詰め寄る彼女たちに、一刀は話をした。それは同姓同名の英雄が活躍する三国志の歴史で、自分はおよそ千八百年後の未来からやってきた人間だというSF全開の与太話。信じてもらえないことは百も承知だった。口にする言葉の突拍子のなさに、一刀自身がもっとも驚いているのだから、どこにこんな荒唐無稽なバカ話をすんなり信じてくれる者がいるのかと呆れているくらいで……。
「きゃーやっぱりそうだったんだ~♪」
「すいません、ここにいました」
劉備は胸の前で平手をパチリ。やったーとひとしきり喜び跳ねると張飛の手を取り、戸惑い気味の関羽の周りをぐるぐると回り始めた。
「と、桃香さま」
「うわああ、やっぱりお兄さんが天の御遣いさまだったんだぁ♪」
悉く予想を上回っていく彼女の行動に、すっかり置いてけぼりの一刀だが、しかし、意識はその新たな単語に向いていた。
「……天の御遣い?」
「えっへへ、実は――」
ご機嫌の劉備は揚々と語る。
「大陸にはね、管輅さんっていう、と~っても有名な易者さんがいるの」
易者とは簡単に言えば、易経の原理に従って人物や事象の未来を予測する生業のことだ。
「管輅さんは本当にすごいんだよ? だって、大きな嵐や干害なんかもバシバシ言い当てちゃうし、時には人の死まで当てちゃうんだから!」
そのあまりの的中率の高さに、彼は易者の域を超え、人々から予言者と呼ばれているらしい。
「それでね、その管輅さんが新しい予言をしたの。それが、えっとね、天下泰平乱れしとき……、あれ、なんだったっけ愛沙ちゃん?」
「“天下泰平乱れし時 救世の星流れ舞い降りる天の御遣い人 その者こそ大陸に安寧をもたらす救世主なり”です」
そして何の因果か、その予言の話を聞いた晩、三人は夜空を滑る流星を見かけたそうだ。
「すっごく大きな流れ星でびっくりしたんだから! ね、鈴々ちゃん」
「そうなのだ! あんなに近くでお星さまが落っこちるとこなんて初めて見たのだ!」
翌朝、あれこそ予言の救世の星に違いないと主張する二人は呆れ気味の関羽を押し切って、流星の落ちた場所を目指すことになり、そこで出会ったのが賊に殺されかけていた一刀だったというわけで、
「――つまり、お兄さんこそ、天の御遣いさまなんです♪」
劉備は陽気にひらひらと手のひらを一刀へかざす。満面の笑みだった。しかし、
「ごめん劉備さん……少しひとりで考えたい」
「――え、あ、お兄さん?」
呼びかけの声を無視して、一刀は部屋を飛び出していた。
***
どこに向かうわけでもなく、部屋を出た一刀は足の赴くまま暗がりを進む。街灯やイルミネーションなどない真の夜道。照らすのは満天の星空と月白の明かりだけ。スモッグに霞む東京の空では絶対に見られない絶景を、しかし、今の彼が見上げることはない。ただ力なく俯き、砂を踏みしめる音だけを聞いていた。
「……ここは過去の世界、というより、それによく似た別世界なんだろうな」
無造作にポケットから携帯電話を取り出し、電波と時間を確認してみる。
「圏外と19:47」
その時刻に、おそらく一刀の日常は終了したのだろう。ゆえに、この携帯には、もう二度と着信もメールも届かない。誰とも繋がることはない。ここはまさしく日常からの圏外なのだから。
「っ」
過ぎる思いを揉み消すように、乱雑に携帯をポケットへ押し込んだ。
「……違う。そんな馬鹿げたことあってたまるかよ!」
必死に否定の言葉を口にしてみても、一度認めた結論を覆すことは容易ではなく、むしろ、浮かぶのは否定の反証ばかり。鮮烈すぎる実体験の数々は安直な現実逃避を許してはくれない。一歩踏み出すごとに実感が感情を追い越していく。ここは本当に別世界なのだと。
足はすぐに動かなくなった。
「…………」
そして、そこは奇しくも日常との決別をもっと際立たせる象徴的な場所だった。
「ここは……」
美しき鬼人と出会った、弩級の非日常が待っていたあの場所。
「……人が死んだんだ。何人も」
脳裏に浮かぶのは人斬りと言う名の舞。
「あっという間にここで――うッ!?」
記憶は胃の内容物を逆流させる。咄嗟に胸へ手を当て嘔吐感を抑えるも、今度は死の映像が止まらない。
「……やめろ」
停止はきかない。いつまでも再生を続ける。壊れたレコーダーのように延々と。もっとも生々しい瞬間だけを切り取って。
「もうやめてくれ、頼むから……!」
悲嘆の中、一刀は崩れるように両膝をついた。近くなった暗がりの地面をよく見れば、乾いた血痕が周囲には無数残されている。それは、彼から希望への執着心を奪うには十分すぎるほどの現実だった。
「…………」
痛いほどの静寂に、去来するものは絶望だ。今後の見通しはまったく立たない。帰る場所もない。帰りを待つ人すらもういない。彼に手を差し伸べてくれる者は誰もいない。いるはずがない――逆なのだから。
「俺が天の御遣い? 安寧をもたらす? くっ、あは、あはははははははは! ……何の冗談だよッ!!」
徐々に明らかになった状況は、端からすべて粗悪な喜劇そのもの。あまりの酷さに涙がでそうだ。誰の書いた脚本かは知らないが、配役からシナリオに至るまで、ありとあらゆる設定が悪趣味にすぎる。
「俺に……何をしろってんだよ!」
この時、一刀は劉備の無責任な発言に怒りすら覚えていた。もともと予言をしたのは彼女ではなく、また、悪気がないこともわかっていながら、しかし、もうそこにしか感情の捌け口がないのだ。
目まぐるしい環境の変化について行くのがやっとで、とにかくどんな形でもいいから感情を吐きださなければ、溜まり続ける負の思考に気が狂いそうだった。
「助けて欲しいのはこっちだっての……」
どうしてこんなことになってしまったのか。我が身に降りかかった理不尽を嘆かずにはいられない。どうしたらもとの生活に戻れるのだろうか。どうしたらここから逃げられるのだろうか。世界の安寧など知ったことか。彼は自分のことだけで精一杯だった。
あの日常に帰りたい――切なる思いが胸を強く、強く締め付ける。
「どうしたらいいんだよ……」
力なく呟いた一刀はゆっくりと立ち上がり、部屋に戻ることにした。
もう何も考えたくなかった。
***
「――お帰りなのだ!」
部屋に戻った途端、早速響く爛漫な少女の声に、正直、一刀はうんざりだった。それだけ心は憔悴しきっている。ゆえに、そこに続く劉備の願いに声を荒げなかったのは、理性が働いたからではなく、単に怒る気力さえ残されていなかったからだ。
「お願いします天の御遣いさま! どうか私たちに力を貸してください!」
「……ごめん、無理だよ。だって俺は御遣いなんて、そんな大層なものじゃないから」
にべもなく告げられた拒否。一刀にしてみれば、これ以上の非日常の介入を許容できるはずがない。
「でもでも、お兄さんはこの国の人じゃなくて、色んな事たくさん知ってて、予言にも……」
「ごめんね劉備さん。本当に俺は、俺には何の力もないんだ」
ただ、そう言われても劉備としても簡単に諦めきれないのだろう。その後もなんとか説得を続けようとする。が、一刀の意志もまた頑なだ。そのすべてを普段の彼からは想像出来ないほど冷たくあしらい続け、
「け、けど、お兄さんは……!」
そんな一刀の気持ちを察したのか関羽が割って入る。
「桃香さま。もう、そこまでです。北郷殿には北郷殿の道があるようです。それを我々が無理やり引き込んだところで、なんの意味もないことくらいおわかりでしょう?」
「ううぅ……」
そして、それは実に便宜的な謝罪だった。
「ごめん。力になれなくて」
その場しのぎのため。とりあえず頭を下げただけの行為。本音では謝罪の意思は露もなく、それどころか今は会話を続けることすら煩わしいと思っている。
だからだろう。もういいですかと一刀が顔を上げた時、初めて彼女がどんな表情をしているのかに気がついたのは。
「……私の方こそごめんなさい。お兄さんみたいな人が天の御遣いさまだったらいいなって……お兄さんの都合も考えないで勝手に喜んで、押しつけちゃった」
「――――」
その通りだ。勝手な言い分で勝手に期待されただけ。こちらは何も悪くない。なのに罪悪感が胸を打つ。
いや、本当はわかっている。彼女たちは命の恩人なのだ。それを今ある不幸を理由に、無下に扱うのは間違っている。いくら苦しい境遇にあろうとも関係ない。結局、一刀の行動は最低な腹いせに他ならないのだ。しかし――、それでもなお、一刀は拒絶した。
「……ごめんなさい」
それの何が悪いと居直り、視線を逸らした。彼女が求めるのは北郷一刀ではなく御遣いなのだと都合のいい屁理屈をこね、恩人から逃げることを選んだ。そして本日の話はここで終わった。
まだ昼間の心労も完全に癒えてはいないだろうから、今夜はそろそろお開きに、と関羽が告げたからである。それをきっかけにそれぞれ村人に宛がわれた部屋へ戻り、一刀はようやく望んだ静寂を迎えことができた。
ただ、そこに安らぎはなかった。
「…………」
そこは何の音もしない。テレビの音も。自動車のエンジン音も。16年間慣れ親しんだ生活音が何も聞こえない。
「…………」
そこは誰もいない。家族も。友人も。今まであって当然だったものが何ひとつとして存在しない。
「…………」
代わりに、深い夜陰の沈黙と、隔絶の孤独だけが部屋には満ちていた。
その夜、一刀が眠りにつけたのは、東の空が明るむ頃だった。
第2話、読んで頂きありがとうございます。
突然救世主と言われる気持ちはどんなものなのか。想像を精一杯働かせて書いてはいますが難しいですよね。
皆さんならどう感じますか?
感想、ご意見お待ちしています。